主日礼拝

わたしも赦します

「わたしも赦します」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第32編1-5節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第2章5-11節  
・ 讃美歌:205、459、390

 今日共に読みました所は、一見簡単なようで、わかりにくいところが複数あります。その原因となっているのは、ある特定の人物についてパウロが、はっきりと語っていないからです。
 たとえば、5節です。「悲しみの原因となった人がいれば、その人はわたしを悲しませたのではなく、大げさな表現は控えますが、あなたがたすべてをある程度悲しませたのです。」と書いてあります。ここには、「悲しみの原因となった人」と書いてありますが、それがだれであるか、その人がだれになにをしたのかなどは、はっきりしておりません。ここには、どのようにして、その人が、悲しみの原因になったのかとも語られていません。さらに「なった人がいれば」といっているので、これは仮定、仮の話としてパウロは語っています。「そのような人がいた」と「仮定して」いるわりには、6節で、パウロは、はっきりと「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。」といっております。「あの罰で十分である」といっているので、ここでは起きた事実のことを語っています。ですから、パウロは、仮の話をしているようで、ある特定の人を想像しながら書いていることは明らかでしょう。しかし、なぜ、パウロは、そのような特定の人がいるのに、「もし悲しみの原因となった人がいるのならば」と、お茶を濁すといいますか、事実をオブラートに包んで、曖昧にして語ろうとしたのでしょうか。
 それは、おそらくパウロの、その悲しみを作ってしまった人に対しての思いが関係しているしょう。この手紙を受け取った「コリント教会の人々は」、「悲しみの原因となる人」を知っていますので、名前を伏せていても、それは「あの人である」と、断定できたでしょう。しかし、この手紙は、コリントの信徒だけに読まれる手紙ではありません。この時代では、使徒の手紙やパウロの手紙は、いろいろな教会で回覧されて読まれていましたから、はっきりと「誰が」問題を起こしたものであると書いたのならば、その人は、他の教会にも、問題を起こしたものであるということが、明らかになってしまいます。だからパウロは、その問題の人をかばう形で、名前を伏せ、問題をこの手紙でははっきりと書いていないのでしょう。ではパウロは、なぜ、そのような問題を起こした人を、隠すようなことをしたのでしょうか。おそらく、パウロは、「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。」といっているので、これ以上に、名前を晒されて、他の教会からも疎まれることのないようにという配慮があったのでしょう。

 7節でパウロは「むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。」と語っています。パウロは、この悲しみを生み出してしまった人が、悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけ励ましなさいと言っています。それは、ともに生きるためです。このことから、この悲しみの原因となった人というのは、コリント教会のメンバーであっただろうと推測することができます。
 そして、5節でパウロが「その人はわたしを悲しませたのではなく」と言っていますが、実際は、この悲しみの原因となったといわれている人は、パウロを悲しませ、困らせた張本人です。この当時パウロを悲しませ困らせることとなった事件というのは、前回のコリントの信徒への手紙二の説教の時に申し上げましたが、あるコリント教会の人が、パウロのことを中傷し、パウロとコリント教会との関係を切ろうしていたという事件でした。
 事件の経緯はこうです。パウロがコリントに教会を立て、そこを去ってから、コリントの教会に、ある来訪者が訪れました。。その来訪者たちは、コリント教会に来て、パウロが今まで教えてきたことと全く違うことを話しました。そして、その来訪者たちは、コリント教会を乗っ取ろうとして、まずコリントの人々をパウロから離そうと画策しました。その来訪者たちは、自分たちのことを「使徒」であると名乗り、パウロは使徒ではないと強調し始めました。そして、あるコリントの人々はパウロのことを疑い始めてしまった。そして、パウロに対する誹謗中傷を言うものまで現れ、その「使徒」と自分のことを名乗る来訪者側につき始めたものが現れました。そして、私は「使徒派である」と言って、一つであったコリントの教会の中で、徒党を組み、教会を分裂させてしまうものまで現れた。これが事件の概要です。
 この分裂を促そうとしていた者、パウロに対して誹謗中傷を言うものが、ここで言われている悲しみの原因となった人であろうと思います。パウロは誹謗中傷受けていたのに、自分は悲しまされてはいないと、5節で言います。むしろ、コリント教会のあなたがたをある程度悲しませたであろうと言います。あなたがたすべてというのは教会全体という意味です。教会全体が悲しんだのは、その人の行いによって、来訪者派とパウロ派という二つの形成することになり、教会が分裂の危機に陥り、教会全体が混乱してしまったからでしょう。パウロは教会で派閥を作ることを、コリントの信徒への手紙一で厳しく勧告していますから、その勧告を無視してそのようなことをされれば、パウロも、この派閥を造ろうとしていた、「その人」に怒りや悲しみを覚えることは当たり前であると思います。そして、その者たちを教会から追放しなさいと手紙で指示することもできたと思います。しかし、パウロはそれをしません。6節で、教会で「多数の者から受けたあの罰で十分である」と言っています。「あの罰」と言われているものが、どのようなものかは、わかりませんが、その誤ったことをしていた人は、多数の者になにかしらの罰を受けたようです。 ここで、わたしたちの目線にもどって考えたいことがあります。それは、教会において人を罰するということが必要かということです。結論から申し上げますと、それは、必要です。教会は、キリストの体として守られるために、そのようなことが必要になります。教会には、戒規というものがあります。教会の働きを阻害したり、信仰的に逸脱した行為を教会内で行ったりすれば、戎規の対象になります。しかしそれは、簡単に用いることのできるものではありません。

 パウロは、この問題を起こした人に対する、戎規は、多くの人から受けた罰で十分であると意見を言います。このパウロの発言はなんだかとても、歯切れの悪いように聞こえます。しかし、これは、人を罰するということがいかに、難しいことで、単純に割り切れないことを知っているから、このように言っているのでしょう。 では、教会の戎規というのは、曖昧で、人道的に、あの人が可哀想だからなしにしようと言ってよいのかといえば、そうではないでしょう。戎規によって、その人の罪を明らかにして、悔い改めを促すことが大切です。しかし、裁くことはとてもむずかしいという現実が一方であります。では教会の秩序は、どのように守っていけばいいのでしょうか。教会の規則に書いてあることや、聖書から読み取ることのできる戒めを厳重に行っていけばいいのでしょうか。教会の規則といっても、こういう場合にはこうであるというような、細かい規定はあるわけではなく、処罰の種類が、これこれあるといいうことがあるだけです。従って、まずわたしたちにとって、大切なのは、どういう思いで、失敗した人を扱うかということであるでしょう。教会に置いて、深い悲しみの原因を作ってしまった人、その時に、信仰によってどういうふうにその人を受けとめたらいいかということです。
 それをパウロは今日の聖書箇所で、書いているのです。7節でパウロは、自身の、そのことに関する考えを述べています。それは、「赦す」、「力づける」ということです。この問題を起こした人、罪を犯した人をどう扱ったらいいのか、それには、神様が、どんなに、わたしに対して、恵み深くいて下さったか、どんなにわたしを赦し、力づけて下さったかを思ってみることです。愛する独り子イエス様を与えてくださるほどの恵みをわたしたちは与えられています。そして、その恵みである御子の死のゆえに、わたしの罪をゆるしてくださったのです。パウロにも、その経験があります。イエス様の身体である、キリスト教徒の人を、自分で迫害していたのに、イエス様とパウロは出会い、パウロは自分の罪に気付き、その迫害していた御子によって、自分が赦されたことを彼は知っていました。そして、伝道の使命が与えられ、その伝道の人生の歩みの中で、どんな窮地に立たされても、死を目の前にしても、主が共にいて慰めてくださり、聖霊なる神様が常に導いてくださり力づけて下さることを知っていました。
 そうだから、彼はこの悲しみの原因となった人に対しても、かれは、赦し、むしろ力づけたいと思っているのです。彼は、迫害をしていた自分のことを赦してくださった神様が、この人をお赦しならないはずはないとも思っています。であるから、神様がお赦しになる人を、わたしが赦さないということは、パウロは考えられなかったのでしょう。

 わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは時に、隣人がなにか問題を起こした時、そして自分がその問題の被害者になるような時には、自分が赦されたものであるということなど忘れて、その人と向かい合うことが多いのではないでしょうか。もし、わたしたちが、そのことを忘れて、その人に向かい合う時には、パウロは、7節でその人は「悲しみに打ちのめされてしまう」と言っています。わたしたちが絶対にゆるさない、あなたは反省すべきだというような、自分がイエス様から赦されたことを忘れているそのような態度は、「罪を犯して、わたしはゆるされないのではないかと不安に陥っている人」を、さらに不安にさせ、絶望という深い崖に向かって背中を押しているようなものです。罪を犯しているという自覚のあるものは、怯えています。普通に人と交わっているようでも、誰かが自分の罪を指摘するのではないかと、ビクビクしています。隣の人に近寄ることだって、難しいです。そのような状態なのに、その人と向き合った時に、その人の罪しか指摘しないのであれば、その人は、その場では、罪悪感しか感じることができず、苦しみだけが生まれ、その場から、いなくなりたいと思うでしょう。そのように、怒りや恨み、また赦しのない正しさをもって隣人と向き合うのではく、パウロは8節で、「そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」と勧めています。口語訳ではここは、その人に対して「愛を示すように」となっています。この「示す」と言う言葉は、大事な条約を作るときなどに何度も再確認することという意味が意識されています。ですから、愛を示すというのは、愛を何度も確認させるように、示すということです。それは、その問題を起こした人が、自分が愛されていると確信が持てるように示しなさいということです。罪を犯したもの、問題を起こしてしまったもの、誰かを傷つけてしまったものは、自分のようなものは、愛されるはずがないと思い込んでしまうものです。自分は捨てられるに違いない、と信じてしまうのです。ですから、その人に、そうではなくて、あなたは愛されている、あなたは今も愛されている、ということを確信できるようにするために、あなたが「その人を愛しなさい」とパウロは勧めるのです。しかし、そのように、愛されているということを確信してもらうということは、難しいことですし、さらに自分がその人を愛するということも、簡単にできることではないでしょう。しかし、そのことをわたしたちは、この教会において、試されているのです。9節で、パウロはコリントの人々に、前に手紙を書いたことは、「万事について従順であるかをどうかを試すため」と言っています。この従順であるというは、パウロに従順であるかどうかということではなくて、イエス様に従順であるかどうかということです。自分の生命までさしだし、わたしたちに赦しを与えて下さったイエス様が、互いに愛し合いなさい、兄弟姉妹を赦しなさいと言っておられる。そのイエス様のお言葉にわたしたちが従順であるかどうかが、試されているのです。試されるというと、試験をされているようで、厳しく聞こえますが、試すとういのは、信仰の確かさを確かめるということです。わたしたちは、問題を起こしてしまった隣人が与えられている時こそ、自分の信仰が明らかにされる時です。これは、ある意味、恵みの時ではないでしょうか。イエス様に対する自分の状態というのは、自分自身ではわからなくなっている時が多いと思います。わたしたちは、自分の信仰がどうなっているかわからなくなっている時の方が多いです。その時に、このような隣人が与えられることによって、わたしたちは、わたしたち自身が、イエス様に対して、ちゃんと向いていなかった、従順ではなかったということが気付かされるのです。そこからわたしたちも、イエス様に対する信仰をもう一度新たにすることができるでしょう。

 10節11節「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。」「わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。」
 この10節と11節は続いている文章です。11節で唐突にサタンが出てまいります。サタンに漬け込まれないように。そしてパウロはサタンのやり口を心得ていると言っています。  
 聖書において、サタンの働きとは、「分離を引き起こす力」として書かれています。サタンの意図とは、私たちが互いに敵対し合い、分裂してしまうことです。私たちが誰かに対して怒りを覚えるほど、サタンは「いいぞ、もっと怒れ」とけしかけます。たとえば、パウロが自分を傷つけた教会員に対して怒りを覚えるほど、サタンは(いいぞ、パウロよ、もっと怒れ。教会のつながりなど破壊してしまえ)とけしかけたでしょう。そして、サタンは、このコリントの教会の人々に、怒りとゆるしのない正しさを蔓延させようと試みています。怒りとゆるしのない正しさで、互いにゆるしあうこと、愛し合うことを阻害させようとしています。愛し合っていた兄弟を、兄弟同士で破壊させようとする。これがサタンのやり口です。
 自分が最も大切にしようとしていたもの、自分が最も愛していたものを、自ら壊そうとしてしまう。パウロはそれこそが、サタンの働きかけであることに気が付いていました。
 ?11節のパウロの言葉は、このような自らの経験を踏まえて記された言葉であるということができます。11節「わたしたちがそうするのは、サタンにつけ込まれないためです。サタンのやり口は心得ているからです。」サタンは、キリスト者同士が互いに赦しあわずに「分裂する」ことこそ、目論んでいます。それが、サタンの意図です。「あの人をゆるせない」と私たちが互いに敵対すればするほど、サタンの思うつぼとなります。

 改めて10節の後半をお読みしますと、「キリストの前であなたがたのために赦した」という言葉があります。ここで私たちにとって大切であるのは、「キリストの前で」という言葉です。サタンの働きが「分離を引き起こす力」であるとすると、キリストの働きというのは、「分離したものを、再び結び合わす力」です。イエス・キリストは、私たちの目から見ると修復不可能に思える、あらゆる分裂を結び合わしてくださいました。イエス様は、わたしたちが神様から自分の罪よって、切ってしまった絆をもう一度結び合わせてくださいました。
 そして、イエス様は、今を生きる私たちの間にある敵意という隔ての壁を取り除き、和解を実現させてくださることも、約束してくださっています。

 ですから、私たちが破壊的な力に同化するのではなくて、和解をつくりだすこのイエス様の力に結ばれることが、大切です。そして現実にいま、私たちはこのキリストの力に結ばれています。このキリストの力こそ、私たちの心の中の最も深みに宿っている力です。パウロもこのキリストに結ばれている自分を確認することによって、再び心に平安を得たのではないでしょうか。

 「すべてを結び合わせてくださる」このイエス様の前に立ち、その光に照らされることによってこそ、私たちは互いに赦しあう道へとその一歩を踏み出すことができます。もちろん、和解が起こるには時間がかかることでしょう。しかしキリストの前に立つことによって、少なくとも私たちは、大切な関係を衝動的に壊してしまう状態から、一歩外へ抜け出ることができるでしょう。そして、冷静さと思いやりをもって、忍耐強く自分自身と他者を見つめることができるようになってゆきます。その他者を見つめるまなざしは、愛あるまなざしです。その愛ある眼差しが、隣人に「愛を示す」第一歩となるでしょう。

 どうか、わたしたちが、共に、ゆるしあい、愛し合うことできる、群と導かれていきますように。聖霊なる神様のお働きを切にお祈りいたします。

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