夕礼拝

私たちの味方

「私たちの味方」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第133編1-3節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第9章38-41節
・ 讃美歌 ; 342、529

 
敵と味方
「わたしたちの味方」という説教題をつけました。私たちは時に、敵と味方を区別します。自分に攻撃を仕掛けて来る者を敵とし、自分と同じ立場に立って行動する者を味方とします。それらは、たいてい人間的な好悪の感情や、思いこみといった私たちの主観によって決定されます。私たちは、自分の思いに従って、自分に対する敵と味方を判断します。自分の立場と相手の立場を比較し、果たして、この人は、自分と一緒に歩めるだろうかということを判断しているのです。そのような中で、味方を造って安心し、敵を造っては恐れるということを繰り返しているのです。主イエスの弟子たちも、同じような関心を持っていました。弟子の一人ヨハネが主イエスに問いかけます。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」。ここには、主イエスの名前を使って悪霊を追い出している者に対する、ヨハネの反応が記されています。ヨハネは、その人たちが自分たちの敵であると判断したのです。私たちの敵、味方の区別は、主イエスに従う者たちの中でも問題となることなのです。

悪霊を追放する業
ここに出てくる、主イエスの名前を使って悪霊を追い出している者とはどういう人々なのでしょうか。主イエスはこれまで、繰り返し、悪霊を追い出し、病を癒して来ました。主イエスの御業によって救われた人々も、その現場に居合わせて、主イエスの力強い御業を見ていた人々もたくさんいたでしょう。ですから、主イエスと弟子たちの一行以外にも、主イエスの名前を語って悪霊を追い出していた人々がいてもおかしくはありません。ここで、「名前を使う」とは、その方の権威を用いることを意味しています。ですから、この人々は、主イエス・キリストの権威よって悪霊を追い出していたのです。悪霊を追い出すと聞くと、なじみがないかもしれません。しかし、悪霊を追い出すということを広く理解して、宣教して人々を救いに与らせることと捉えても良いと思います。主イエスが宣教するところでは悪霊を追い出すということが行われます。悪霊というのは、人々を神様から引き離そうとする力のことです。ですから、悪霊を追放するというのは、神様から引き離そうとする力から人々を解放し神様の下に立ち返らせるということなのです。教会の伝道の業も、この悪霊を追い出す主イエスの御業に仕えていると言っても良いのです。ですから、ここで、主イエスの弟子とはならずに、悪霊を追放していた人々というのは、主イエスの名前だけを用いて、人々に働きかけて、教えを伝えていた人々だと言うことが出来るでしょう。もしかしたら、キリストというだけを使い、実際は人々を惑わせて、誤った教えを広めていたのかもしれません。ただ自分たちの利益のために、主イエスの名前を用いて業を行っていたのかもしれません。いずれにしても、ここでは、主イエスの弟子たちのようには、主イエスに従わないけれども、主イエスの権威によって悪霊を追い出している人々が見つめられているのです。

ヨハネの思い
この人々の行動を、主イエスの弟子の一人であるヨハネがやめさせようとしたのです。この人々が、勝手に主イエスの名前を使って悪霊をおいだしていることが我慢出来なかったのです。ヨハネは、シモンやアンデレに次いで声をかけられた主イエスの一番弟子と言っても良いような人です。更に主イエスから「ボアネルゲス」というあだ名を付けられていました。これは、「雷の子」という意味です。激しい気性の持ち主で、どんなことにも情熱的に打ち込む人だったのでしょう。おそらく、弟子たちの中でも中心的な人物として働いていたに違いありません。自分たちこそ主イエスの弟子であるという誇りを持っていたことでしょう。しかし、そのような誇りは、ここでは敵意を生むことになります。ヨハネは、勝手に主イエスの名前を使っている人々を許すことができなかったのです。ヨハネの、敵意の背後には、自分たちこそ、主イエスの弟子として正統な者たちで、キリストの御業を行う資格がある者たちだという思いがあったと言えます。ここで、名前を使っている人々に対して、やめさせようとした理由に注目したいと思います。それは、その人々が、「わたしたちに従わない」ということです。名前を使っていた人々が、自分の利益のために主イエスの名前を用いていて、それによって具体的に害が出ているというようなことが理由なのではありません。間違った教えが語られているとか、それによって迷惑している人がいるというのではありません。弟子たちは、自分たちに従わなかったという理由で、やめさせようとしたのです。ヨハネをはじめ主イエスの弟子たちは、「キリストの名を使うのであれば、わたしたちに従ってもらわなくては困る」、「自分たちと同じ歩みをしないのであれば、キリストの名前を使うな」という思いになっていたのです。自分たちこそ本当のキリストの弟子であるという思いから、自分たちだけが主イエスの権威を自由に用いることが出来るものであるかのように思い、従わずに名前を使っている者を敵視しているのです。

逆らわない者は味方
そのようなヨハネに対して、主イエスは、「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」と答えます。主イエスは御自身の名前を使って悪霊を追い出すことをやめさせようとすることを咎めるのです。その上で、40節では、更に、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と語られます。弟子たちは、自分たちこそ、正統な弟子だという思いから、主イエスの名前を使っていた人々を敵視するようになります。しかし、人間が自分を正統だと主張する思いから敵視する人々というのは、主イエスから見て、敵であるとは限りません。ここで、主イエスこそ、自分の名前を使われて心外だと主張しても良いようにも思います。しかし、主イエスは、そのような人々を味方とするのです。主イエスは、むしろ、弟子たちが抱いていた、自分たちこそ悪霊を追放する資格があるという思いから生まれる敵意を咎めておられるのです。そのような思いは、敵とする必要がない人々まで敵としてしまうのです。これは、私たちも、少なからず抱く思いかもしれません。私たちも、自分の周囲の人々を露骨に敵視することはないにしても、しかし、あの人々は、仲間ではないというような思いになることがあるのではないかと思います。そして、主イエスに従って信仰の道を歩むことにおいても、この時の弟子たちのように、自分たちにこそ、主イエスのことを良く知っていて、キリストの後を歩んでいると思う時に、このような思いに捕らわれることがあるのです。このような、自分に従わない人々を敵視してしまう思いの背後には、結局、自分のしていることを誇り、自分の業によって、栄誉を受けようとする思いがあります。ヨハネをはじめとして弟子たちは、自分は人よりも主イエスに仕えて来たという思いから、自分を誇り、自分の栄光を求め始めていたのです。主イエスに仕えていることがしっかりと評価されることを求めるのです。そのような思いから、自分のしている業こそ、キリストに仕える業であるかのように思いこみ、それ以外の業をする人々に対して敵意を抱いてしまうのです。

主の権威によって
実際、この時、弟子たちは、主に仕えていながら、自分たちのことしか考えていませんでした。ここで、主イエスの弟子たちは、いつでも、悪霊を追い出すことが出来たわけではないことに注目したいと思います。少し前の箇所、第9章の14-29節には、主イエスが弟子たちの下を離れている間に、悪霊に取りつかれた息子を持つ父親が、弟子たちの所に来て、悪霊を追い出すように頼んだことが記されています。その時、弟子たちは悪霊を追い出すことが出来ませんでした。悪霊を追い出すことが出来なかった理由を尋ねた弟子たちに対して、主イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことは出来ないのだ」と言われました。「祈りによる」とは、自分の力によってではなく、主なる神の権威に委ねることを意味しています。弟子たちは、主イエスに従う中で、主の権威により頼み、祈りつつ御業を行うことを忘れてしまっていたのです。まるで、主の業に仕えて悪霊を追い出すことが自分の業であるかのように勘違いしてしまったのです。主イエスの弟子とは、「主イエスの召しに答え、主イエスに仕えて伝道の業に励む者」です。しかし、彼らは、主イエスに仕えて行く歩みの中で、いつしか、「主イエスの弟子である」ということを特権であるかのように思いこみ、そこにあぐらをかいてしまったのです。自分たちこそ「主イエスの弟子である」という思いが先にあって、自分たちは、当然、悪霊を追放出来るのだと考えたのです。そこでは、たとえ、主イエスの後を歩んでいるように見えたとしても、そこで求めていることは、自らの栄光でしかありません。そこでは、「主イエスの弟子である」ことが形だけのものになってしまいます。そのような弟子たちの姿が、直前の13節以下にも記されていました。主イエスがご自身の十字架と復活について語られているのにもかかわらず、弟子たちは、主イエスの弟子の中で果たして誰が一番偉いのかを議論していたのです。このような弟子たちの態度と、本日お読みした、自分たちに従わないで、主イエスの名前を用いる人々を敵視する思いは密接に結びついているのです。

一杯の水を飲ませてくれる者
 主イエスは、弟子たちに向かって、「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と言われます。キリストの弟子として歩んでいることを理由に、水一杯を飲ませてくれる人は、敵ではなく味方だと言うのです。たとえ、自分と同じような歩みをしていなくても、親しい関係がなくても、又、その人がキリストの後に従って歩んでいなくても、もし一杯の水を飲ませてくれるのであれば、そのような人々は味方であるというのです。私たちが置かれている日本には、キリスト者は少数です。キリストの後に従って歩む人は決して多くはありません。しかし、キリストに従っているということで、敵意を持つ人々ばかりではありません。キリスト者として歩んでいなくても、キリストの教えに好意を持って歩む人々もいるでしょう。そのような人々は、皆、ここで言う一杯の水を飲ませてくれる人であると言っても良いでしょう。それらすべての人々は、敵ではなく、むしろ味方であると主イエスは言っておられるのです。しばしば、私たちは、自分たちと同じ歩みをしない人々に敵意を抱いてしまうことがあります。自分と同じ業をしているかどうかということで敵、味方を判断する。そこでは、自分のしている業こそ正しいのだと思いや、自分の業を誇りその業が評価されたいという思いがあります。そして、主イエスに仕える信仰の歩みにおいて、この思いに捕らわれる時、外見上は主イエスに仕えているように見えても、キリストの業に仕えるのではなく、自分の業を行い、仕えることにおいて、自分を誇ってしまうのです。そこで、弟子たちのように、神様から見れば味方である人に対して敵意を抱いてしまうのです。そのような者に向かって、主イエスは「一杯の水を飲ませてくれる人はその報いを受ける」と語られているのです。

主イエスに倣って
 私たちは、常に、主イエスご自身の歩みを思い起こしたいと思います。なぜなら、主イエスこそ、敵対する者の味方となって下さった方だからです。罪に縛られて歩む私たちは、神様に敵対して歩んでいます。しかし、主イエスは、私たちを救うために、御自分に敵対する人間の下に来て下さり、十字架に架かって下さいました。そのことによって、私たちの罪が贖われ、救いが成し遂げられているのです。私たちがどれだけ神に敵意をもとうとも、神の独り子である主イエスが、私たちを愛し、味方となって下さるということが示されているのが主イエスの十字架なのです。ローマの信徒への手紙8:31~32節には次のようにあります。「もし、神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。独り子主イエスを死に渡されて、私たちの罪を贖って下さった父なる神は、そのことによって、私たちにすべてを与えて下っていることが見つめられています。神は、敵対して来る者たちに、ご自身の全てを差し出し、十字架の死を死なれることによって、私たちの味方となって下さっているのです。主イエスが世に来られて十字架で死んで下さったということに、神が、私たちの味方であることが示されているのです。この主イエスの救いに与った者は、主イエスの御業に倣い、主イエスが味方と言われる人々を受け入れる者となります。主イエスの愛を知らされる中で、私たち自身の人々に対する敵意も取り払われて行きます。十字架の主イエスに倣うことによって、自分を誇りたいがために、本来味方である人と敵対することがなくなります。自分に従わない人々の働きによるものであっても、主イエスがその人々を味方としていることを知らされ、主イエス・キリストの御業が進められていることを喜び、共に神にのみ栄光を帰するものとされて行くのです。

ペンテコステの出来事から。
今日はペンテコステの礼拝です。弟子たちに聖霊が降り、教会が建てられ、教会の伝道が始まった日です。聖霊が降った時のことを、使徒言行録は次のように記します。「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。キリストが様々な言葉で証しされたのです。旧約聖書のバベルの塔の物語は人間の言葉の混乱がどのようにして起こったかを記しています。同じ言葉を話していた人々が、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして全地に散らされることのないようにしよう」と言って塔を建てるのです。それに対して、主なる神が、人々の言葉を混乱させ、全地に散らされたのです。ここで、人々が神に到達しようとする思いと、言葉の混乱が結びつけられていることに注目したいと思います。言葉というのはコミュニケーションの手段であるだけではありません。私たちは言葉によって考え、言葉によって他者との関係を造り、自らの人格を形成します。語っている言葉は、その人自身と密接に結びついているのです。ですから、言葉の混乱とは、私たちが罪による敵意の中で、一致することが出来ない状態が見つめられていると言ってもよいでしょう。自分が神のように偉くなりたいという思いがある所には、必ず人々との間に差別や敵意が生まれます。しかし聖霊が降った時に、キリストが様々な言葉で証しされることによって、人々がキリストの下に一つとされて行ったのです。私たちが、今、この世で主イエスの後に従って歩む時、何より大切なのは、この聖霊の働きに自らを委ねることです。祈りによって、聖霊の働きを求め、神様の御業に自らを委ねるのです。そのことによって、私たちは、自分に栄光を帰そうとする歩みを止め、敵意から解放されて、主イエスに従って歩んで行くものとされるのです。

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