夕礼拝

墓場から出て

「墓場から出て」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編第16編1~11節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書第8章28-34節
・ 讃美歌 : 13、443 聖餐 73

はじめに
 本日は共に、マタイによる福音書第8章28節から34節の御言葉にお聞きしたいと思います。主イエスは向こう岸のガダラ人の地方に着かれました。向こう岸とは、ガリラヤ湖の向こう岸、その南東に広がる、当時はデカポリスと呼ばれていた地方に主イエスは向かわれました。このデカポリスと呼ばれていた地方はユダヤ人の住む場所ではなく異邦人の住む外国でした。主イエスは弟子たちと共に舟に乗り、その異邦人の地方へと赴かれました。そして、28節「悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。」墓場から悪霊に取りつかれた2人の者が主イエスの所に来ました。「墓場から」とありますので、墓場を住まいとしていた、悪霊に取りつかれた者でした。そして、この2人は「非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。」とあります。悪霊に取りつかれた2人の者が、主イエスと弟子たちの歩いていこうとする道に立ちはだかっていたというのです。誰もその道が通れず、その道をふさがれていたというのです。悪霊に取つかれた者とはひどい病があったかもしれません。「非常に狂暴で」とあります。色々な訳し方があると思いますが、「抑えつけておくことができない」「縛りつけておくことが出来ない人」であったということです。抑えつけておくことが出来ない力、暴力を持っていたということです。この箇所と同じ物語が、マルコによる福音書第5章1節から20節においても記されております。狂暴な2人のことがもう少し詳しく書かれておりますが、5章の3節から5節にこうあります。「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでに度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。」マルコによる福音書では「彼は」と一人であったと記しておりますが、1人であったのか2人であったのかということよりも、大変恐ろしい姿が描かれているということです。「悪霊に取りつかれる」と言うのは、このように大変厳しい症状であったというのです。他にも色々な症状があったのでしょうけれども、この様子と言うのはとても一緒には生活などが出来ない様子であります。このような人が墓場に住み、非常に狂暴でだれもその辺りの道を通れないほどであったのです。

悪霊の力
 このような、抑えておくことの出来ない力、縛りつけておくことの出来ない力と言うのは私たちとは関係がない話しとは言えないのではないでしょうか。狂暴で、抑えておくことの出来ない力、縛りつけておくことの出来ない力と言うのが私たちの現実の中にあるのではないでしょうか。そのような力を持つ人が社会の共同体の中にいるということです。家庭生活に当てはめてみると、家庭内における暴力と言えます。おとなしいと思っていた、子どもが手のつけられない暴力をふるうようになって、一家が悲劇に陥ったというのは決して少ない話ではありません。夫や父親が妻や子どもに暴力をふる。また、現代は色々な形での虐待によって多くの幼い命が奪われている現実があります。最も身近な共同体である家族の中に、そのような手のつけられない暴力、抑え付けられない、縛り付けられない力があるということです。また、この人たちの姿というのは、人と関わることが出来ない、交わりを持つことが出来ないという姿です。それは暴力だけではないでしょう。人と人との正常な関係を持つことが出来ない、それが暴力をふるうという仕方で他者へ向かっていくのです。またある人はその力が自分自身にその力が向いてしまい、自分自身を傷つけてしまうということがあります。人との関わりが出来ない、交わりを持つことが出来ないということで、自分の内にこもってしまい、人に心が開けないということがあります。程度の差はありますが、私たちは誰もがそのようなことはあるのではないでしょうか。この人とのうまくいくが、この人とはどうも息が合わない、という経験は誰もがするものです。しかし、この「悪霊に取りつかれた者」は「非常に狂暴」であったのです。「だれもその辺りの道を通れないほどであった。」とありますように、誰もがこの2人とは、きちんと関わりがもてなかったのです。交わりが持てず、コミュニケーションが取れなかったのです。ガダラの人々も、この2人ときちんと関わり、交わりが持てなかったのです。関わり、交わりが持てないというのは、思いが通じない、言葉が通じないと言うことです。ガダラの人もまた、この2人と言葉が通じず、関わりが持てなかったのです。私たちも言葉が通じない相手を恐れます。言葉が通じない、交わりが持てない、関わりが持てない相手に恐れを抱きます。互いに得体の知れない相手と思い、恐れます。この当時の人は悪霊の存在を信じておりました。現代は科学が発達したから、悪霊に取りつかれているというのはない、とは言えないのです。私たちは、単純に自分は霊の存在など信じない、悪霊など信じないと言えるでしょうか。悪霊を信じないということは、どんな霊によっても束縛されない、と言うことになるでしょうか。この悪霊は今もなお働いているのです。私たちの生きる時代もまた、悪霊の支配を受けているということです。私たちが生きる時代だけではありません。それは、悪霊の支配など受けていないと思い込んでいる私たち自身こそ、悪霊の支配を受けているのです。私たちが人を傷つけ、自分を傷つけ、互いに傷付け合い、人との関わり、交わりが出来なくなり、自分自身の思いを抑え付けられず、縛りつけておくことが出来ないその姿こそ、悪霊の支配を受けているということなのです。

墓場から
 そのような悪霊に取りつかれた二人の者が、墓場から出て来ました。主イエスのところにやって来たのです。とあります。この2人の者は「墓場から」出て来ました。「墓場」とは生きた人間の場所ではありません。死んだ者を葬る場所です。また、「やって来た」というのは「会いに来た」という言葉です。2人は生きた人間の場所ではないない場所から、主イエスのところに「会いに来た」のです。そして、彼らは突然叫びました。29節です。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」この叫びは悪霊に取りつかれた人の叫びでしょうか。むしろ、悪霊そのものの叫びです。悪霊が人の口を通して語っているのです。悪霊に取りつかれた人は、悪霊の言葉を語ってしまうのです。自分の言葉を、自分の意志を語ることが出来なくなってしまうのです。そのことによって、関わり、交わりが失われてしまいます。本当は、「悪霊を追い出して、救って下さい」と言う思いがあるのです。しかし、口から出る言葉は「自分たちにかまわないでくれ、苦しめないで欲しい」という反対の言葉です。主イエスは、口から出る彼らの思いとは違うことではなく、この人たちの心の底にある声にならない、救いを求める叫びを聞き取られました。主イエスは、彼らを支配している悪霊と向き合われるのです。彼らを支配し、その言葉を支配する悪霊と戦われるのです。

神の子イエス
 この悪霊に取りつかれた人の言葉の29節の言葉をもう一度お読みしたいと思います。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」主イエスを「神の子」と呼んでいます。このマタイによる福音書でも、他の福音書でもそうですが、イエス「神の子」とまず呼んだのは、信仰を持った人間ではなく、また悪霊に取りつかれた人間でもなかったのです。悪霊そのものが主イエスを「神の子」と叫んだのです。悪霊の方が主イエスの正体をよく知っていたということです。主イエスの正体とは、つまり主イエスが単なる一人の人間ではなく、神の子、神の独り子、つまりまことの神であられるということです。彼らはそのことを知っていたのです。「かまわないでくれ」と言うのは、その神の子の力にとても太刀打ち出来ないということなのです。主イエスと関わり、交わりを持ちたくないということです。「まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」と言います。「その時」とはいつのことか、それは、この世の終わりに、主イエスが最終的に勝利をされ、父なる神様のご支配が完成する時のことです。その時には、神様に敵対する力である悪霊は滅ぼされるのです。悪霊はそのことを知っております。悪霊は終わりの日が来ると、自分たちが支配出来なくなることを知っているのです。悪霊が人々を支配して、思い通りに操ることが出来るのは、その終わりの日までなのです。しかし、まだその「終わりの日」は来ていないのに、主イエスが来て、悪霊を滅ぼそうとしているのです。ここでは、主イエスはまだ一言も語ってはおられません。けれども、悪霊たちには分かるのです。自分たちは主イエスには太刀打ちできない、かなわないということを知っていたのです。悪霊は「この時」すなわち「世の終わり」を誰よりも恐れていたのです。自分の命は世の終わりまでしかないということを、この悪霊は知っていたのです。「その時」に神の子が登場して、自分たちを滅ぼすと言うことを知っておりました。悪霊は神に負けるのです。30節、31節にはこのようにあります。「はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、『我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ』と願った。」とあります。主イエスはまだ、何も語られてはおりません。けれども悪霊はもう、自分たちがこの2人から追い出されてしまうことを知っているのです。そして、「『我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ』と願った」のです。自分たちを追い出すのであれば、あの豚の群れに乗り移らせてくれと言っているのです。豚というのは、ユダヤ人たちの間では汚れた動物とされていました。その汚れた動物であれば、乗り移らせてくれるだろう、そこに、人間の中にいるように快適なわけにはいかないけれども、何とか住処を得られるだろうと、ということでした。このことは、主イエスの圧倒的な勝利を表しております。主イエスの神の子としての圧倒的な力、権威の前に、悪霊はただ恐れております。これが主イエスと悪霊の関係なのです。悪霊は、私たちを支配し、この時代を支配し、私たちから言葉を奪い、関わりや交わりを失わせる存在です。私たち、人間はその力の前に無力です。滅びの力の強さと言うのを私たちは色々なところで経験をします。今は私たちの国全体がその力の前に言葉を失っているものであります。地震、津波、そして原発という力の前に私たちはただ恐れを覚えます。大きな滅びの力の前に、翻弄され、どうして良いのか分からなくなります。しかし、そのような悪霊の力も主イエスの前では無力です。神の独り子、主イエス・キリストの前では恐れます。主イエス・キリストは悪霊に対して圧倒的に勝利をするお方なのです。

新しくなる
 悪霊は願いました。「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」(31節)しかし、主イエスは「行け」と言われました。本日の箇所で主イエスが語られたのはこの一言「行け」です。主イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入りました。「すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。」(32節)とあります。主イエスの一言によって、悪霊は2人から出て、豚の中に入ったのです。そして、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死にました。悪霊たちは豚の群れの中に自分の住処を得ようとしました。けれども、豚の群れは悪霊が入った途端に崖を下った湖になだれ込み、水の中で死んでしまいました。つまり、豚の群れと一緒に悪霊たちも死んでしまった、滅ぼされたということです。悪霊たちは豚の群れの中に自分の住処を得ることが出来ず、主イエスの一言によって打ち滅ぼされました。この世の終わりに起こるはずの、悪霊の滅びが主イエスによって、主イエスの語られる御言葉によって起こったのです。主イエスの勝利によって、この2人に救いが訪れたのです。それまで、非常に狂暴で、誰もその辺りを通れず、人々と関わりが持てず、交わりが絶ち切られ、墓場に住むしかなかったこの2人に救いがもたらされたのです。この2人は正気を取り戻しました。人と言葉が通じ、関わりを持つ、人と交わりが出来るようになったのです。墓場にいて、死んだも同然であった人が、もう一度新しく生きることが出来るようになったのです。墓場から出て来たのです。

主イエスの十字架
 主イエス・キリストは私たちを支配し、墓場に閉じ込める力、滅びの力、即ち死の力を滅ぼされました。この姿は、この悪霊に取りつかれた2人の姿ではありません。私たちの姿です。主イエス・キリストによって神様に敵対する力である悪霊に支配されている私たちを解放し、生かしてくださったのです。主イエス・キリストは私たちに対する滅びの力である罪を引き受けて、十字架にかかられました。私たちが受けるべき悪霊の力を、私たちの代わりに受け止めて下さり、私たちを罪から解放し、赦しを与えて下さいました。主イエスの悪霊の力に対する勝利にあずかり、神の恵みのもとで生きる恵みを与えて下さったのです。主イエス・キリストの十字架の出来事はそのことです。
 しかし、私たちが生きるこの世には、また私たちの歩みには依然として悪霊の力が働いています。その力が私たち一人ひとりを支配し、この時代をもしています。それはこの物語においても描かれております。33節では「豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。」とあります。事の次第を知った豚の飼い主は出来事を町中の人々に伝えました。そして町の人々は主イエスのところにやって来て「この地方から出て行ってもらいたい」と言いました。何故、人々は何故そのようなことを言ったのでしょうか。それは一つには、自分たちの豚の群れが全滅してしまった、どうしてくれるのだ、ということでしょう。自分たちの大事な収入源である豚を滅ぼすようなことは困ると、目先の損失に目がくらんだのでしょうか。そのようなことも多少はあるかもしれません。しかし、もっと大事なことは、この主イエスの「行け」と言われた御声の中に「悪霊は滅びる」という約束を聞き取ることが出来なかったのです。
町の人々は、悪霊に取りつかれた2人に脅かされていました。自分達の仲間が悪霊によって言葉を奪われ、交わりを奪われて、墓場を住処としていた。その力が消えたのですから、2人は別人のように穏やかなになりました。救われ、自分たちの所に帰って来たのです。交わりを取り戻したのです。主イエスにもっと感謝するはずです。しかし、主イエスに「出て行ってもらいたい」と言ったのです。悪霊に取りつかれていた2人に起きた、主イエスの救いの出来事、悪霊は滅びるという主の声を聞き取ることが出来なかったのです。

滅びない悪霊
 主イエスの救いの出来事と豚の群れと、どちらが大切なのでしょうか。人々は、主イエスを自分たちに損害をもたらす者、自分たちを苦しめる者として見ていたのです。その思いこそ、悪霊に取りつかれてしまっているということではないでしょうか。悪霊に取りつかれた2人が発した「神の子、かまわないでくれ。まだその時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」という悪霊の言葉は、今度は彼らによって語られているのです。このように悪霊の支配はなお続いているのです。滅ぼされても、滅ぼされても、なお悪霊は私たちを捕え、支配しようとしてきます。私たちの心の中には絶えず、常に新しく悪霊を生み出していくということなのです。主イエス・キリストは、その私たちの罪を全てご自分の上に引き受けて、十字架にかかって死んで下さいました。 それはあの豚の群れが湖になだれ込むことによって悪霊を滅ぼしたのと似ています。主イエスは復活して、私たちの罪の力を打ち破り、勝利して下さったということなのです。
 私たちの歩むこの世は、またそこを生きる私たちの人生は、悪霊の、罪の力の支配を受けています。そのことは、世の終わりまで変わりがありません。私たちは、その現実の中を歩んでいるのです。しかし主イエスが十字架と復活により、その罪の力、悪霊の支配が、最後には滅ぼされました。私たちの最終的な支配者は主イエス・キリストであり、そのご支配、力の前では、悪霊も、罪の力も、そして死の力も、全く無力なのだということを知らされているのです。主イエスの復活は、この世の終わりに、主イエスの勝利と支配が完全なものとなり、神様の恵みのご支配が完成する、その恵みの先取りとして与えられました。主イエスは滅びの力、死の力、罪の力に勝利をされました。私たちは悪霊の力に翻弄され、どうすることもできないこの世の暗い現実の中で、主イエスによる神の恵みの勝利を信じ、悪霊の力、罪の力の敗北を確信して歩むことができるのです。

主イエスの勝利
 悪霊が支配する状況は変わることなく、私たちの現実の中にあります。この悲惨な現実のどこに、神の恵みなどあるか、この現実を支配しているのは悪霊、悪魔、人間の罪であって、神などそこで何の力もない、いや神などもはやいないのだ、と思わずにはおれないような現実があります。悪霊の支配、人間の罪の力、死の支配、それが、最後の支配者ではないことを知っている人のみがなしうることなのです。主イエス・キリストが、私たちの罪を背負って死に、その死に勝利して復活された、そこに、神様の恵みの、悪霊に対する、罪と死の力に対する勝利がある。この主イエスの力の前では、今人々を凶暴な悪魔に変え、人と人とを通じ合わせる言葉を奪い、人間らしい交わりを破壊し、墓場に閉じ込めようとする力がこの世を覆い尽くし、どんなに猛威を振るっていても、それはいつか必ず滅びていく。最後に勝利するのは、主イエス・キリストによる神様の恵みなのだ。たとえ自分の肉体の命はこの悪霊の力によって失われても、死に打ち勝たれた主イエスが、その復活の命にあずからせ、永遠の命を与えて下さる。その信仰こそが、この大いなる自己犠牲の源なのです。主イエス・キリストは、私たちに、神様の恵みへのこのような確信、信頼を与えて下さるのです。

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