夕礼拝

命の言葉をくださる神

「命の言葉をくださる神」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:歴代誌下 第36章11-16節
・ 新約聖書:使徒言行録 第7章17-53節
・ 讃美歌:227、481

 本日お読みしたのは、ステファノという人の、長い説教の後半部分です。ステファノは、使徒たちが証しした「主イエスは復活した、主イエスこそ、神が遣わされた救い主だ」ということを信じ、初代のキリスト教会のメンバーになりました。ステファノは聖霊に満たされて、教会で奉仕を担い、また力強く、主イエスのことを証しし、多くの人々に伝道していました。

 すると、そのことを妬み、またステファノが教えていたことに反発を覚えた人たちがいました。この人たちは民衆を扇動し、長老や律法学者たちも巻き込み、偽証人を立てることまでして、ステファノを最高法院という裁判の法廷に連れ出したのです。
 そこでステファノは最後の説教をしました。最後、というのは、彼は、この後殉教することになるからです。先週はその説教の前半を共に聞きました。そして本日はその後半部分です。ステファノが自分が受けた恵みを命がけで語った、そのメッセージを共に聞いていきたいと思います。

 少し先週お読みしたところを振り返りますと、彼らがステファノを訴えた理由は、ステファノが「モーセと神を冒涜している」、「神殿と律法をけなしている」ということでした。
 ユダヤ人たちは、神がモーセを通して与えて下さった律法と、神を礼拝する場所である神殿を、自分たちが神に選ばれた神の民イスラエルであることの大切な証拠として、とても重んじていました。
 しかし、ステファノが語っていたこと、教会が教えていたことは、神が遣わして下さったナザレの人イエスを救い主であると信じることで、神の国に入れられる。イエス・キリストを信じる信仰によって、新しい神の民となり、救われるのだ、ということです。
 つまり、神の国を受け継ぐ神の民となるのは、神殿での祭儀や、律法を守ることによってではない、ということなのです。

 ステファノは、神殿や律法をけなしていたのではありませんが、ユダヤ人たちにとっては、自分たちが神の民であることの拠り所となっている律法や神殿を、けなされ、冒涜されたように感じられたのです

 ステファノはこの法廷の場で、大祭司から「訴えのとおりか」と聞かれ、そこで自分たちイスラエルの民の歴史を語り始めました。
 説教の前半の中心は、アブラハムのことでした。イスラエルの先祖であるアブラハムは、神の約束を受け、目に見える確かなものが何もない中で、ただ神の言葉だけを信じて従った、信仰の父と呼ばれている人です。
 このアブラハムの物語でステファノが伝えたかったことは、神が選ばれる神の民とは、このアブラハムの信仰を受け継ぐ民だということです。律法を守ることや神殿の祭儀を行っていることが神の民のアイデンティティなのではない。目に見えるものがなくても、ただ神の言葉、神の約束を信じて従うのが、神の民たる所以なのです。

 ステファノの話はアブラハムからヨセフの話になり、飢饉の時にイスラエルの民がエジプトに移住したことが書かれています。

 その後からが、説教の後半です。ステファノはモーセについてのことを語り始めます。モーセは、ヨセフの時代から時が過ぎて、エジプトでイスラエルの民が虐待され、奴隷として扱われていた時代に生まれました。モーセは、その奴隷となっているイスラエルの民をエジプトから救い出すために、神が立てて下さった指導者、また解放者でした。

 モーセは120年の生涯だったと申命記に書かれていて、ステファノは40年ずつに区切ってモーセの生涯を語ります。
 まずは18~22節までの生まれてからの40年です。エジプトのファラオはイスラエルの人々を虐待して、乳飲み子を捨てさせていた、とあります。しかしモーセは神の不思議な導きでファラオの王女に拾われて、エジプト人としての教育を受けて育ちました。

 そして23~29節までの次の40年。モーセはエジプト人が同胞のイスラエル人を虐待しているのを見て、助けようとし、相手のエジプト人を殺しました。しかし次の日、モーセがイスラエル人同士が争いをしていたところの仲裁に入ると、仲間を痛めつけていた男がモーセを突き飛ばして、「だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか」と言ったのです。
 25節には「モーセは、自分の手を通して神が兄弟を救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。」と書かれています。
 モーセは、仲間を救おうとしたのに、その仲間である同胞のイスラエル人たちに受け入れてもらえなかったのです。それで、モーセは逃亡し、エジプトを離れてミディアン地方で過ごしました。

 そして30節以下の、最後の40年です。神は、エジプトでのイスラエルの民の嘆きを聞かれたので、救い出すためにモーセを召し出し、エジプトに遣わします。こうして、イスラエルの人々が拒んだモーセを、神は選び、指導者、解放者として立て、イスラエルを救うためにお遣わしになったのです。モーセは神に遣わされ、エジプト脱出のリーダーとして、紅海という海を二つに割る奇跡や、様々な不思議な業を行って、40年にわたって荒れ野の中、イスラエルの人々を導きました。

 しかし、モーセはこの最後の40年の間でも、イスラエルの人々に拒否され、苦しめられました。39節に、「けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造って下さい。エジプトの地から導き出してくれたモーセの身の上に何が起こったか分からないからです』」と書かれています。
 イスラエルの先祖たちは、神が選んだモーセを信用しようとしません。すぐに目に見え、手で触れて、確かさを確認できる、目に見えるものを求めました。その象徴が若い雄牛の像です。
 しかし、それが果たして確かなものかと言えば、それは人の手によって造られた、力のない虚しいものです。それでも人は、自分の感じることが出来る確かさを、この手に持っていたいと願うのです。神を信頼しきれずに、見えない神の約束を信じ切れずに、自分たちの造ったもの、虚しいものに寄り頼んでしまうのです。それは「エジプトをなつかしく思」うほど、つまり、神に自由にされた今より、エジプトで虐待されていた奴隷状態の方が良かったと思うほどなのです。それは何と悲しい思いでしょうか。
 42~43節に書かれているのは、旧約聖書のアモス書の預言ですが、そこには荒れ野の40年の間に、イスラエルの先祖たちが、様々な偶像や星を拝み、神に逆らい続けたことが示されています。

 これらのモーセの生涯と先祖たちの反逆を語ることで強調されていることは、神ご自身が救いの御業を行い、神の民の歴史を導いて下さっていることと、それにも関わらず、イスラエルの先祖たちが神を拒否し続けていることです。神ご自身が、モーセを指導者、解放者として立て、ご自分の民に遣わして下さったのです。しかし民は、モーセを拒否し、自分たちをエジプトから救い出し、導いて下さっている神に信頼せず、他のものを拝み、逆らい続けたのです。
 そしてステファノは、最高法院にいる人々も、そのイスラエルの先祖たちと全く同じ罪、神が救いのために遣わして下さった主イエスを受け入れず、神に逆らう罪を犯しているということ、そして、神ご自身ではなく、律法を守ることや神殿の祭儀などの目に見えることに寄り頼んでいる、と言いたいのです。
 51節でステファノは「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。」と、ずばり指摘しています。

 そして、ステファノはモーセの生涯の歩みを、主イエスの生涯のひな型、つまり主イエスのご生涯を予告するものとして見ていることが伺えます。
 主イエスは、神がすべての人の救いのために遣わして下さった神の独り子、救い主です。しかしまず、主イエスも生まれた時に、ユダヤを治めていたヘロデ王によって幼子を殺す命令が出て、エジプトに逃れなければなりませんでした。また、主イエスが宣教を始められた時、多くの不思議な業やしるしを行われ、人々に神の国の福音を伝えられました。しかし、一方で、律法学者をはじめ、ユダヤ人の中で受け入れない者たちがいました。そして、最終的にはみなが一緒になって「十字架につけろ」と叫んで、神の御子主イエスを十字架につけました。イスラエルの先祖たちがモーセを受け入れず、神に逆らい続けたように、今ここにいる人々も、神の救いの御業を成し遂げるために来られた主イエスを受け入れず、神に逆らい続けているのです。

 37節で、モーセは預言しました。
 「このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる』。」
 このモーセのような預言者、いや、モーセ以上の預言者こそ、主イエス・キリストなのです。

 ステファノはモーセが果たした役割について、38節で「この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。」と語りました。モーセは天使と先祖たち、つまり神とイスラエルの民の間に立って、神が与えた「命の言葉」を受け、イスラエルの先祖たちに伝えたのです。これは、モーセが、神と人との間を取り持つ仲介者であったということです。
 「命の言葉」とは、「十戒」を中心とする律法のことです。「十戒」はただの規則集ではありません。十戒は、エジプトから救い出して下さった神が、その恵みから離れないで民が生きることが出来るように与えて下さった神の言葉です。
 「命の言葉」は、生きておられる神が、ご自分の民に語りかけておられる言葉なのです。その神の言葉に聞き従い、応答することで、人々は神の民として、神に従い、神の恵みの中で、神と共に生きていくことが出来ます。そこに神との交わりが生まれます。そこにこそ、世の支配、罪の支配ではなく、神のご支配の中で神の民として生きる、まことに幸いな人間の本来の生き方があります。
 律法を守るということは、単に十戒の板に書かれた規則を守ることではなくて、神の語りかけを聞き、応えていくことです。

 ステファノは、「荒れ野の集会において」モーセがこのことを伝えてくれた、と言っています。この「集会」は、「エクレーシア」という言葉で、「教会」と訳されている言葉です。つまり、生ける神が語りかけて下さる言葉を聞き、その言葉に応答する、そのような礼拝が行われている集まりが、教会なのです。わたしたちの教会も、そのようなところです。決して建物自体が教会なのではありません。そして、そこで語られる神の「命の言葉」がわたしたちを生かすのです。

 そして、主イエス・キリストこそ、ご自身が「命の言葉」として来られた方です。神の御子であり、命の言葉そのものである方が、罪にある人の真っただ中に来て下いました。そして、喘ぎ、苦しみ、もがいている者たちのところに来て、語りかけて下さいます。罪を赦し、神のもとに立ち帰らせて下さるために、ご自分の命を、差し出して下さいます。
 主イエスは、罪によって神から離れてしまい、神との関係を断絶してしまった人のために、神と人との間に立って、仲保者となって下さいました。まことの神であり、またまことの人となられた方でなければ、出来ないことです。この方こそ、モーセがイスラエルの人々をエジプトの奴隷状態から解放したように、すべての人を罪の奴隷から解放する、まことの解放者、救い主なのです。その解放は、主イエスの十字架の死によって成し遂げられました。そして、神はこの方を復活させられました。信じた者も、終わりの日に復活させて下さるためです。
 この主イエスの救いを信じる信仰によって、人は新しい神の民とされるのであり、この神の言葉に聞き従い、応答する礼拝こそ、神に救われた神の民が成すべきことなのです。

 しかしユダヤ人たちは、モーセが伝えた律法を厳格に守り行うことが、神に従うことであり、神殿という場所に参拝して儀式を行うことこそ、イスラエルの神の民が成すべきこととしています。
 このステファノの目の前にいる、最高法院のユダヤ人たちも、神に逆らい、神が遣わされた主イエスを受け入れませんでした。そして、まことの神の民が成すべきことを見失い、イスラエルの先祖たちの罪の歩みを繰り返していたのです。

 また神殿に関連して、44節以下では、証しの幕屋のことが語られます。モーセたちが荒れ野で旅をしていた時、彼らは持ち運び可能なテントのような幕屋を用意し、神を礼拝する時にはその幕屋をつくり、礼拝の場所としました。
 また幕屋は、生きておられる神が礼拝を通してイスラエルの民と会見して下さったので、「会見の幕屋」、また「臨在の幕屋」と言ったりしました。

 この幕屋は、神ご自身が会見される場所なので、人が勝手に思いどおりの幕屋を造って、神に「ここにいて下さい」と言って用意することは出来ません。44節に「見たままの形に造るようにとモーセに言われた方のお命じになったとおりのものでした」とあるように、神ご自身がお命じになり、指示された通りに造られた幕屋でした。そして幕屋には十戒を記した石板、つまり「命の言葉」を収めた箱が置かれました。荒れ野の旅では、幕屋を移動しつつ、その神の言葉を中心に礼拝がささげられていたのです。
 そして神は、そのように移動が可能な簡素な幕屋でも、神の言葉のもとで礼拝がささげられるところで、民に出会い、命の言葉を語りかけて下さったのです。この神と人との交わりこそが、まことの礼拝です。

 この幕屋の礼拝は、ダビデの時代まで受け継がれましたが、ダビデは、神の住まいが欲しい、と願いました。そして実際に神のために家を建てたのは、その息子のソロモンでした。これがエルサレム神殿です。ステファノの時代の神殿はこの当時のものではなくて、一度破壊された後に再建された、第二エルサレム神殿でした。
 ソロモンが神殿を建てた時、まだ「幕屋」の礼拝の精神は受け継がれていました。列王記上8:27には、神殿が出来たときに、ソロモンがこのように祈ったと書かれています。
 「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。」
 ソロモンも、48節にあるように、「いと高き方は人の手で作ったようなものにはお住みになりません」ということを承知していました。神は、天も地も、すべてを造られた方だからです。神は天におられるのであり、一つの人間が決めた場所に住まわれたりしません。
 モーセやダビデ、ソロモンたちも、そしてステファノも、そのことを知っています。
 神はまことの礼拝がささげられるところに、目を注ぎ、民と出会って下さるのであって、神殿に人が神の居場所を定めて、そこに行けばお会いして礼拝できる、というのは間違っているのです。神殿と言う場所だから、神がおられるのではない。まことの礼拝を捧げられているところ、神の言葉が聞かれ、また人々がその神の語りかけに応答するところに、神はおられるのです。

 ですから、ステファノたち、キリスト者たちが、神殿をけなし、神を冒涜しているというのは筋違いの訴えです。ステファノたちは、まことの礼拝をささげているのです。それは、主イエス・キリストの「命の言葉」、十字架と復活の福音を聞くことによって、また神に祈り、賛美し、神をほめたたえることによって、神との交わりを経験する礼拝です。生ける神が語りかけて下さり、罪を赦して下さり、キリストの命に結ばれ、活き活きと養われる、そのような礼拝です。
 ですから、ステファノたちは神殿という場所に捕らわれる必要はなかったのです。また、神が与えて下さった律法の完成者、つまり、神の恵みの約束を成し遂げて下さった主イエスの「命の言葉」も、十分に重んじていたのです。

 ステファノは、最高法院の人々こそ、あなたたちこそ、神殿に依存し、律法の「命の言葉」を聞かず、神に逆らい、罪を犯しているではないか、と告発します。
 51節で「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています」と言います。聖霊は、主イエスは救い主であると、信仰を告白させて下さる方です。信仰を導いて下さり、天におられる主イエスと信じた者を結んで下さる方です。聖霊は、そのように人が救いの恵みにあずかるために働きかけて下さっているのに、かたくなな心がそれを拒否しているのです。わたしたちが命の言葉を受け入れるためには、聖霊なる神様の働きを願い求めなければなりません。
 このように言ったステファノは、ただ人々を断罪するのではなくて、彼らに悔い改めを促したかったのでしょう。なぜなら、ステファノ自身も、主イエスの十字架と復活によって、自分の罪を知り、悔い改め、罪を赦された者だからです。そして聖霊に満たされ、主イエスに結ばれて生きる喜びを知っていたからです。
 このステファノの説教は、今のわたしたちにも悔い改めを激しく迫るものです。

 わたしたちは、いつでも不安です。見えないものを信じることができず、確かそうに見えるものに飛びつくか、または自分で作り出します。そうやって、確かそうに見えるものに心を奪われて、固執して、自分を縛ったり、また人を裁いたりして苦しんでいます。そうして神に逆らい続けている。神の語りかけを聞かず、命の言葉を受け取ろうとしない。イスラエルの先祖たちの罪、そして最高法院の人々の罪を、わたしたちも繰り返しているのです。目に見えるもの、この世のものはやがて失われます。そこに、やがて来る死をも越えて、終末の時まで耐えられる希望や平安はありません。
 しかし、命の言葉は、わたしたちに語りかけ続けています。それは、目に見えない救いであり、約束ですが、ご自分の独り子を十字架の死に渡されてでも、わたしたちを罪から救い出そうとして下さる、神の愛と憐みの言葉です。主イエスの十字架の苦しみと、流された血において、父なる神は、「あなたがたを救う」「あなたがたを愛している」と、語り続けて下さっているのです。
 わたしたちはこの神の「命の言葉」を、心と耳を開いて受け入れ、神に逆らっていたことを悔い改め、神のもとに立ち帰りましょう。主イエスにだけ、死すら乗り越えて、終わりの日まで続く希望があります。神の恵みの言葉に聞き従い、聖霊なる神様の働きによってキリストと結ばれて、また神に賛美と感謝をもって応答する、まことの礼拝を共にささげましょう。

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