夕礼拝

柔和な者よ

「柔和な者よ」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第37編1-24節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章5節  
・ 讃美歌:353、521

イエス様がここに集っているわたしたちに向かって「柔和な人々は幸いである。その人たちは、地を受け継ぐ」と今、宣言されておられます。 イエス様が山の上で語られた最初の事は、「9つの幸い」についてでありました。前回も、ここで語られている「9つの幸いの教え」は、巷で語られている「幸せになるための、9つのポイント」のような、「このようにすれば、幸せになれる」という、ハウトゥーを教える教えではないと申し上げました。3節では、「心の貧しいものは幸いである」ということでしたが、これは「心を謙遜すれば幸いになれる」という教えではなく、真に心に何も頼りにするものもなく、物乞いをしなければならないほどに心になにもない、自分の自信になる実績や功績、誇りがない、むしろその自信や誇りを手にするために、隣人を下に押しやって、時には傷つけてでも「それらの自信や誇り」を手に入れようとするほどに、心の狭いものであるものが、幸いなのであること。そのような心の貧しいものたちに、イエス様が近づいてきて下さること。そして、自分を頼りにできないその者たちは、目の前にいるイエス様を頼りにする。そのように、イエス様の支えを頼りにして、イエス様に信じて歩むことができる故に、幸いである。ということでした。 そして前回4節「悲しむ人々は幸いである」というのは、わたしたちは、この地を歩む時に、小さな悲しみも大きな悲しみも背負って歩まなければならないもので、そこには、必ず避けては通れない、死による喪失という大きな悲しみも含まれおり、しかし、イエス様は、その小さな悲しみも大きな悲しみも、共に背負ってくださって、この地を共に歩んでくださっている。やがてその悲しみは消え、死から命へと変わるという希望を、失われた関係が再び結ばれる時が必ず来るという希望を、イエス様はわたしたちを与えてくださっている。そのようにしてわたしたちは慰められる。だから、その慰めを与えてくださる人の元に行き、その方を頼ることができる、そして悲しみを受け止め歩むことができる、そのようにして励まし慰めていただける故にわたしたちは幸いであるということでありました。この3節と4節の二つの教えは、ただ聖書に書かれていることを読んだだけでは、首をかしげるといいますか、納得しにくい教えでした。それは、「心の貧しい」とか「悲しむ」とか、ネガティブなことが書かれているのに、幸せであると書かれていたからです。しかし、先ほど説明しましたように、イエス様との関係の中でこの教えを聞くと、わたしたちは意味を知ることができました。  今日共に聞きました、5節の「柔和な人々は、幸いである」というイエス様の言葉は、先の二つと違って、「柔和」と書かれているその言葉も、ネガティブなものでないし、「柔和」というのを「やさしい」と解釈すれば、素直に受け止めることとできる教えのように思うことができます。「やさしい人は、幸いである」と、わたしたちが聞くと、「あぁ、誰にでもやさしい人になれば、幸せになれるのかな、みんなにやさしくしていればまわりの人と争いが起きなくて、みんな平和に暮らすことができて、幸せなのかなぁ」と想像できると思います。そうして、やさしい人になろうと、頑張ろうと思う人もでてくるでしょう。ですが、ここで言われている「柔和」という言葉は、単に「やさしさ」を表わすだけの言葉ではありません。柔和の「柔」「やわら」という文字から、わかるように、柔らかさを持った、「やさしさ」です。柔和の逆は「頑固」でしょう。意固地になって、他者や他者の意見や他者の思いを受け止めるができない、そのような心の硬さをもっているのが頑固でしょう。ですから、柔和というのは、逆に心の柔らかさがあり、他者を受け入れることができる、他者の思いや意見を受け止めるがことができるものであるといえるでしょう。さらに柔和な人とは、他者だけでなく、自分自身を柔らかく受け止めている人です。良い自分だけでなく、ダメな自分、弱い自分、貧しい自分を受け止められる柔らかさを持っている人です。他者は受け止められるという人であっても、良い自分じゃないと絶対にダメだと思っている人は、ある意味、柔和な人でなく、心が頑なな頑固な人と言えるでしょう。 柔和な人というのは、そのように、他者を受け止めることができ、自分自身も柔らかく受け止める事の出来る人です。このように「柔和な人とは自分も他人も受け入れることの出来る人だ」ということを踏まえて、「柔和な人々は、幸いである」という言葉を考えると、わたしたちは、「やたらハードルが高い教えだなぁ」と思ったり「がんばって、他者も自分も受け入れられるような人にならなくちゃ」と考えたりしてしまうと思います。  そこで、ここで共に考えたいことがあります。それは、「わたしたちは、自力で柔和なものになることできるのか」ということです。もし、自分の力で、柔和になることができるのならば、この教えはハウトゥーの教えとなります。「柔和になれば、幸せになれる」=「自分の力で幸せになれる」ということになります。自分の力で、自分の思いや性格をコントロールすることを覚えれば、わたしたちは柔和になることができるのでしょうか。無理矢理、自分の感情を抑えこんで、他者や他者の意見を受け入れることが、柔和であるということでしょうか。そのように自分の感情を抑えこんだ時、自分の心や感情はどうなっているでしょうか。それは、自分の感情を受け止めることになっているでしょうか。自分の力で柔和になろうとするとき、わたしたちは、自分の理性を用いて、感情や思いを押さえつけていることに気が付きます。それは、柔らかな心ではないでしょう。そのような人は、柔らかな心にしようと思っているが、自分の手で、力づくで、心の形を整えようとしているのです。従って、わたしたちは、自分の力では、柔和になることできないでしょう。「じゃあ、このイエス様の教えは、なんの意味があるのか」とわたしたちは思ってしまいます。「わたしたちは、柔和になることができないのに、こんなこと言われても、無意味じゃないか」とも思ってしまいます。わたしたちは、自分の力では、柔和なものになることはできません。しかし、わたしたちはイエス様によって、イエス様の力によって柔和なものになることができます。 まずわたしたちは、他者を受け止める前に、自分を受け止めねばなりません。自分の嫌な所、貧しさ、弱さ、自分の持っている悲しみを、自分の力で抑えこんだり、矯正したり、忘れたりすることをやめねばなりません。しかし、自分の嫌な所や、嫌な記憶、弱さや悲しみを、そのまま受け止めるということは、わたしたちにはキツすぎます。嫌な記憶、悲しみを考えてみても、わたしたちは自分の力だけで受け止めようとしても、その悲しみが身近な者の死や愛する人の死のようなに、とてつもなく大きなものであるのならば、わたしたちは一人でその悲しみを受け止めることはできません。そのような悲しみの前で、わたしたちが、できることは、その悲しみの事実などなかったと、力づくで思い込み、忘れようとすることです。それは、心を硬くしている状態です。その悲しみが重すぎるので、心を硬くして、受け止めることをしない。それが、わたしたちにできることです。しかし、そのように心を硬くしても、解決にはなっていないのです。このように、わたしたちは他者ではなくて自分ですら、柔らかく受け止めることはできません。前回と前々回でそのような悲しみや貧しさにある人は、イエス様に頼ることができ、イエス様はわたしたちの罪を受け止め、死んで下さり、また罪のために生まれるその悲しみや貧しさを主が共に背負ってくださっているということを聞きました。わたしたちは、このイエス様の罪も悲しみも受け止めてくださるその「柔和さ」によって、救われています。イエス様は、真にわたしたちのすべてを受け止めてくださいました。わたしたちの罪、弱さ、貧しさ、悲しみをイエス様は、すべてを引き受けてくださいました。イエス様が、その罪を持つ自分を引き受けてくださり、背負ってくださり、ゆるしてくださるので、わたしたちは、今の自分を受け止めることできます。弱くて罪を犯す、(信仰もグラつく)自分であっても、その自分をイエス様がゆるしてくださっているから、自分も自分をゆるすのです。イエス様がゆるしているのに、自分が自分をゆるさないのであれば、イエス様のゆるしに難癖をつけているようなものです。イエス様がそのような自分を受け止めてくださっているから、イエス様を信じて、自分も弱い自分自身を受け止めることができるのです。しかし、弱くて罪を犯す自分を受け止めるなさいというのは、今の自分がずぅーと同じ状態あるのを我慢しろということではありません。わたしたちを、新たなものに変えられていくという、神様の約束をも与えられています。今は、貧しく、弱く、悲しむものであっても、その自分をイエス様がゆるし、受け止めくださるから、自分も共に受け止める、そしてイエス様に信頼して弱い自分をイエス様に明け渡すことで、イエス様は受け止めてくださった自分を、新たなものに変えていってくださいます。イエス様を信じて、自分を明け渡し、イエス様とつながることで、イエス様に注がれた油と聖霊にわたしたちが与ることで、わたしたちは、新たなものに変えられていきます。もっと、具体的に言えば、イエス様を信じて、洗礼を受けることです。わたしたちは洗礼を受け、イエス様と一つになります。一つとなるとき、わたしたちはイエス様の十字架の死に与りそこで共に死に、イエス様の復活に共に与り新しい命を与えられます。そして、そのように新たになったものに、聖霊なる神様が与えられ、日々新たに変えられて行きます。どのように、変えられていくのか、それは、誰も受け入れることのできなかった硬い心、自分すらも受け止めることのできなかった硬い心が、血の通った自分も隣の人も受け止めることができる柔らかい心に変えられていくのです。 イエス様にゆるされた自分をゆるし受け止める時、また神様によって柔らかな心を持つ自分に変えられていくことを信じた時、わたしたちは柔和な者となっているのです。ですから、柔和である人は、自分自身の力で自分に満足している人や自分の成果、自分の功績によって喜びに満たされている人ではなくて、逆に心が貧しく、悲しみを背負って、主に頼っている人が、本当の柔和な人です。柔和な人が、柔和でいられるのは、真に柔和な方に頼って、真に柔和な方と共に生きているからです。わたしたちはわたしたちの力で、柔和になることはできません。イエス様が、心の貧しいわたしを受け止めてくださっているから、イエス様が自分の悲しみや重荷を受け止めて下さっているから、それに従って、わたしたちは自分自身に柔和になることができるのです。 わたしたちは、自分の心を柔らかくされ、自分の貧しさも悲しみも受け止められるようになった時、今度は、隣の人の貧しさ、悲しみに目が行きます。この世界のこの地には、わたしたちも含め、自分だけを頼りにして生きている人々、自分を頼りにできないことに悩む人々、自分も隣の人もゆるすことのできない人、自分も隣の人も受け入れることができない人々が多くいます。この世界のこの地には、わたしたちも含め、大きな喪失という悲しみを、受け止めることができず、感情を殺し、思考停止し、茫然自失となっている人が、多くいます。その世界をみて神様は、わたしたちに、「このような地を支配しなさい」と言われます。この地の支配は、今日の5節の「地を受け継ぐ」ということと関係しています。地を支配することというのは、創世記の1章26節以下に書かれている、人間に与えられた本来の使命です。神様の支配がこの地に起こるために、神様はわたしたちを用いてくださっています。ではその支配というのは、どのようなことなのでしょうか。それは人間が好き勝手できるような、人間に都合の良いようにこの世界この地を力づくで支配するということではありません。神様の支配というのは、まさに、心の貧しいものを受け止めてくださりその人に救いを見出させたように。悲しんでいるものを受け止め、背負い、慰めを与え、その悲しみを希望に変えて下さったように。自分も他者も受け入れられない人を受け止めてくださり、その人を柔和な者に変えてくださったように。人を苦しめる強引な力による支配ではなく、神様の支配は、人を救うため、人を慰めるため、人に希望を与えるためにすべてを受け止められる、そのような柔和な愛による支配です。ですから、わたしたちは、力によって、この地を支配することを神様に求められているのではありません。イエス様が、力を捨て、名誉を捨て、命も捨てて、わたしたちを受け止めてくださったように、その愛とその柔和さによって、あなたがたはこの地に生きる人々を受け止め、支配しなさいと言われています。しかし、わたしたちの柔和さでは、この地のすべてを受け止めることはできないでしょう。わたしたちは、生きている間にすべての人間と出会うこともできませんし、すべての人の貧しさや悲しさを受け止めれば、その重さで潰れてしまいます。わたしたちは、受け止めることはできませんが、真に柔和で神の子であるイエス様は、すべての人を受け止めことができます。わたしたちは、世界すべてを受け止めることはできません。そして隣りにいる一人の悲しみでも自分の力で受け止めようとするならば、わたしたちは受け止めることはできないでしょう。なぜならば、わたしたちは、自分の貧しさや悲しみを、自分の力で背負うことのできなかったものだったからです。わたしたちが、自分の悲しみを、自分で背負うことができるようになったのは、イエス様が共に背負ってくださっていて、その悲しみの原因となるあらゆることを取り除くために十字架にかかって死んで下さり、失われたものを再び新たなものとして与えてくださると約束してくださったからでした。そのように、イエス様を信じて、頼っている故に、自分の悲しみや貧しさと向き合い、それを受け入れ、担うことが出来るようになったのです。イエス様抜きでは、このようにはできませんでした。わたしたちは、隣の人の弱さや悲しみを背負うことはできません。わたしたちにできることは、その隣の人を拒絶しないことです。そして、わたしたちは、「あなたと同じように自分も弱さも悲しみも持っています。しかしわたしはそれらをイエス様に共に担って頂いています」と、その人に伝えることができます。そして「あなたも本当に柔和な方、イエス様にその苦しみや悲しみ、自分の弱さを担ってもらえるはずです」と、その隣人に勧めることがわたしたちにはできます。そのようにして、この地に生きる人が、イエス様と出会い、イエス様の愛と柔和さによって救われ支配される時に、この地は神様によって支配されていきます。 「この地を救おう」という、この神様の救いの大きな事業、大仕事に、このようにしてわたしたちが用いられるときに、わたしたちは「地を受け継ぐ」のです。この大仕事は、この世界が造られて時から今もまだ継続されています。そのために、神様を信じる信仰者は、代々この地を受け継いでいます。神様の愛による支配の完成のために、小さいけれども、神様を信じ、頼る、わたしたちが用いられているのです。わたしたちだけでなく、どの時代の信仰者もこのようにして、用いられています。神様は、なぜわたしたちを、用いてくださるのでしょうか。神様はわたしたちを、救って下さり、支配されますが、わたしたちを、人形のように佇んで、ただそこにいるだけの動かないものとしようとはされません。神様はわたしたちに、使命と仕事を与えて、この世で生きる意味を与え、働く者としてくださっています。信仰者は、終末の時の復活と永遠の命を望み、はやく終末が訪れてほしいと祈り願います。しかし、もし終末の希望だけならば、わたしたちは、「もうこの世で生きるよりも、早く死んで、復活の時まで眠りについていたほうがいい。この世で生きている意味が見出させないから、死んでこの世とさよならしたほうが良い」と思ってしまうと思います。そうしたら、信仰者は、この世で生きているときは、無気力な人間になり、なにか終わりのことばかり妄想していて早く死にたいと思う、生ける屍のようになってしまうでしょう。神様は、終わりの時に、わたしたちに新しい命与え、新しい天と新しい地というすべてが刷新された世界をわたしたちに与えてくださるという約束と希望を与えてくださっていますが、ただそれだけを待ち望んで死に急ぐようなものにならぬように、またこの世で「無意味に生きる生ける屍」とならぬように、この世で生きる意味と使命をあたえてくださっているのです。その使命とは、なにか。その使命とは、この地とこの地に生きる人に、「神様の愛の支配」が及ぶようにすることです。わたしたちがイエス様に受け止められ、自分の貧しさや悲しみを受け止められる柔和なものとなり、柔和なものとなったわたしたちが隣人と出会い、その人を拒絶せずに受け止める時に、受け止めて真に柔和な方を指し示す時、その隣人が真に柔和な方イエス様と出会い、イエス様に受け止められる。そのようにして柔和な愛の支配がこの地に広がっていきます。そのように、イエス様に基づくわたしたちの柔和さが、今度は、この地を完成させるための事業に用いられるのです。わたしたちは、救われ、柔和なものへと新しくされ、この世のために、この地の救いのために、用いられるものになっていく。ここに幸いがあります。しかし、「地を受け継ぐ」という幸いの根拠は、さらなる幸いを示しています。その幸いとは、将来訪れる終わりの時に、完成された「新しい地」、すなわち、神様の愛によって完全に支配され、強情で争いあう者、頑なな者はいなくなっていて、柔和なものたちのみが生きる「新しい地」に、わたしたちを住むことができると約束されているということです。そのように、「新しい地」を将来、わたしたちは受け継ぐことができる。そのような希望を持ってこの世を生きることができる。それ故に、柔和で地を受け継ぐ者は幸いなのです。 イエス様によって柔和になることできた、貧しく、弱い、小さなわたしたちが、「地を受け継ぎ」この世のために、神様のために仕えることができる。そして、その神様の大きな救いの計画の完成、「新しい地を受け継ぐ」ことを待ち望むことができる。そのために、わたしたちは、今、幸いなのです。

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