主日礼拝

正気になって

「正気になって」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第65章1―5節a
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第5章1―20節  
・ 讃美歌:299、208、529

向こう岸に渡る
 マルコによる福音書の第5章に入りますが、最初の1節に「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。「一行」とは、主イエス・キリストとその弟子たちです。「湖」とはガリラヤの湖、向こう岸とはその東側の岸です。主イエスと弟子たちは舟でガリラヤ湖を渡り、東側のゲラサ人の地に着いたのです。ここはイスラエルの民の地ではなく、異邦人の地です。最後の20節に「デカポリス地方」とありますが、「デカ」とは数の十、「ポリス」は町です。この地方には、ローマ人が建てた十の町があったのです。ゲラサもその一つです。主イエスと弟子たちはガリラヤ湖を渡って異邦人の地へと着いたのです。それは主イエスのご意志によることでした。4章35節に、主イエスご自身が「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったことが語られていました。主イエスがこの向こう岸、異邦人の地に渡られたのは、本日の箇所に語られている一つのみ業のため、つまり一人の人の救いのためでした。次の21節にはもう元のイスラエルの地へと戻っておられます。一人の異邦人を救うために、主イエスは、4章の終わりのところに語られていたあの嵐の湖を渡って来られたのです。

汚れた霊に取りつかれた人
 ここで主イエスに救われた人はどんな人だったのか。2節に「汚れた霊に取りつかれた人」とあります。その姿はさらに3~5節にこのように描かれています。「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」。まことにおどろおどろしい姿です。今日の私たちはこれを読むとすぐに、ああこの人は重い精神的な病気だったのだ、と思います。しかしこの人の様子を精神病理学的に分析することには意味がありません。私たちがしなければならないのは、聖書がこの人の姿を通して語ろうとしていることを聞き取ることです。そこにおいては三つのことがポイントになると思います。第一は、彼が墓場を住まいとしていたことです。ここで日本の墓地を思い浮かべてしまうと、どうやってあんな所に住むのだろうと思いますが、この地方の墓場はほら穴式で、空いている墓には人が住むこともできたのです。しかし勿論そこは普通人が住むような所ではありません。この人は、普通の人と同じ生活をすることができなくなっているのです。人間の社会の中で、人と共に生きることができなくなって、死者の居場所である墓場にしか居ることができないのです。

鎖と足枷
 何故彼は生きている人間と一緒にいることができないのか、それが第二のポイントです。「もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」ということがそれを示しています。人々が彼を鎖でつなぎとめておこうとしたのは、彼が暴れ回り、周りの人々に危害を加えてしまうからです。彼が生きている人間と一緒にいることができないのは、そのように共にいる人を傷つけてしまい、人間関係を破壊してしまうからです。それを自分自身も、家族を初めとする周囲の人々も止めることができないのです。彼が一人で墓場に住まなければならなかったのは、家族にも見放されていたからですが、それは家族が冷たかったというよりも、家族でさえもどうしようもない攻撃的、破壊的な衝動が彼を捕えており、それがひとたび現れると、どんな足枷をも鎖をも砕き、引きちぎって、周りの人々を傷つけてしまうからなのです。それほどに大きな力が彼を捕えていたわけです。それは汚れた霊、悪霊の力でした。彼の中には大勢の悪霊が住んでおり、それは豚二千匹を怒濤の如くに走らせるほどの力だったと後の方にあります。そのようなすさまじい力で彼は鎖や足枷を破壊していたのです。

人と人とを繋ぐもの
 この鎖や足枷は、彼を束縛し縛り付けるものですが、同時にそれは彼を社会の一員とし、人と共に生きることができる者とするためのものであるとも言えます。鎖に繋がれていれば、彼は生きた人間たちと一緒にいることができる、墓場ではなく家で、家族と共に生活できるのです。つまりこの鎖は彼を他の人々と結びつける絆でもあるのです。しかし彼はその鎖を断ち切り、自由になろうとします。そして自由になったとたんに彼は、周囲の人々を攻撃し、傷つけてしまいます。その結果人と共に生きることができなくなり、墓場に住まなければならなくなっているのです。この人の姿はいろいろなことを考えさせられます。社会の一員として、他の人々と共に生きている私たちは皆、何らかの鎖や足枷に繋がれているのではないでしょうか。人間社会にはそれを成り立たせる基本的なルールがあります。お互いがそのルールという鎖に繋がれているという了解の下に、私たちの社会生活は成り立っているのです。一番分かりやすいのは交通ルールです。赤信号では車は止まる、という了解があるから、青信号で安心して渡れるのです。私たちを繋いでいるのはそういう社会の基本的ルールだけではありません。会社員であれば会社という組織の一員としてその鎖、足枷をはめられています。あるいは家族も、ある意味で私たちを縛り付ける鎖です。家庭があるから好き勝手に気ままに生きることはできない、という面があります。私たちは社会において他の人と共に生きている限り、様々な鎖、足枷に繋がれており、そのことを基本的に喜んで受け入れて、他の人との関係を築いているのです。私たちは時としてそういう鎖がうっとうしくなることがあります。自分を縛っている鎖を引きちぎって自由になりたい、という衝動にかられることがあります。しかし通常私たちにはそれを引きちぎる力はないし、そんなことをしたら人と共に生きられなくなり、かえって苦しみに陥ることが分かっているからしないのです。しかしこの人は、悪霊に取りつかれたことによって、鎖を引きちぎる力を得たのです。そして全ての鎖を引きちぎって自由になったのです。その結果、墓場でしか生きることのできない孤独、深い苦しみに陥ったのです。

今この社会で
 そのように私たちも時として、自分を縛っている鎖から抜け出したいと思うことがありますが、現代の社会において起っている悲劇は、その鎖を、自分が望んでいないのにはずされてしまうということです。例えば仕事を解雇されて働き場がなくなってしまう、それは仕事という鎖から外されてしまうことです。そこに繋がれていれば、社会の一員として、人々との繋がり、絆をもって生きることができるわけですが、それが失われてしまう。それに加えて家族や友人との繋がりも希薄となってしまうと、社会の中で居場所を失い、自分を人々と繋ぐものが無くなって孤独に陥っていくのです。そうなった時に、もともとは少しも凶暴ではなかった人が、周囲の人々を無差別に傷付け、殺すような行為に走ってしまうということが今起っているのではないでしょうか。先週グアム島で多くの日本人が巻き込まれる事件が起りました。数年前に秋葉原で起ったこととそっくりです。今回の事件がどういう動機でなされたのかはまだはっきりしませんが、犯人は仕事を解雇され、また付き合っていた女性と別れた若者だったことが報道されています。自分が願ったわけではないのに、社会と、人々と自分を繋ぎとめている鎖が外されてしまうことによって、周囲の人々を傷付け、自分をも破滅させるような絶望的な衝動が人を支配してしまう、それが今この世の中で起っている悲劇なのではないでしょうか。  この人に関して見つめるべき第三のポイントはこのこととつながります。この人は「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」のです。人との繋がりを失い、徹底的な孤独に陥った彼は、苦しみと絶望の叫びをあげながら、我と我が身を傷つける自暴自棄の日々を送っているのです。それは彼が生きながら死に支配されてしまっている、死んだも同然になっているということです。墓場を住まいとしているということにはそういう意味もあるのです。

悪霊の働きは様々
 これが、この悪霊に取りつかれた人の姿です。私たちにとってこれは決して他人事ではないし、別世界の話でもありません。私たちも皆、人を傷つけたり、人に傷つけられたりしながら生きており、その中で人と共に生きることができなくなり、孤独に陥り、自暴自棄の思いに陥っていくことを体験しているのではないでしょうか。ある牧師はこの箇所の説教において、この人は自分のプライドに捕えられてしまっているのだ、と語っていました。この人とプライドとは関係がないようにも思えますが、しかしよく考えてみるとそれも当っているかもしれないと思います。私たちはしばしば、プライド、誇りという悪霊に取りつかれます。プライドという悪霊は大変な力を持っており、始末に悪いものです。これに取りつかれると私たちは、自分のプライドを守るために人を攻撃し傷つけるようになります。そして人間関係を、交わりを破壊し、結局自分も孤独に陥っていくことになるのです。プライドの高い人ほど、人と共に生きることが難しく、孤独に陥りやすいものです。そしてプライドと劣等感とは実はコインの表と裏のようなものですから、同じ悪霊は劣等感や妬み、嫉妬という形で私たちに取りつくこともあります。悪霊は様々な仕方で私たちにも取りつくのです。だからこの人の姿は他人事ではないのです。悪霊は私たちの最も弱いところから入り込み、支配しようとしています。私たちはそのことをしっかりとわきまえて、警戒していかなければならないのです。

悪霊の目的
 そのように悪霊がもたらすものは様々ですが、しかしその目的は一つです。それが6節以下の、この人と主イエスとの出会いにおいて明らかになっています。2節にあったように、主イエスがこの地に上陸されるとすぐに、この悪霊に取りつかれた人がやって来ました。そして6節には、彼が主イエスを遠くから見て、走り寄って来たと語られています。それは主イエスの救いを求めてではありません。7節の言葉を語るためです。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」。これはこの人の言葉と言うよりも、彼に取りついている悪霊の言葉です。悪霊はこの人から自分自身の言葉を奪い、悪霊の言葉を語らせているのです。「いた高き神」という言い方は、異邦人がイスラエルの神、主なる神を呼ぶ時の言い方です。つまりこれは、自分が信じている神に呼びかけている信仰の言葉ではありません。自分とは関係のない、信じていない神に対する言葉です。ですから彼は主イエスの前にひれ伏したとありますが、それは決して主イエスを礼拝したのではありません。彼の、というより悪霊の本当の思いは「かまわないでくれ」ということなのです。ここは口語訳聖書では「あなたはわたしと何の係わりがあるのです」となっていました。こちらの方が原文のニュアンスを生かした訳です。彼が主イエスに言ったのは、「俺とお前は関係ないだろう。俺は俺、お前はお前だ。俺のやっていることに口出ししないでくれ」ということなのです。まさにここに、悪霊の目的が示されています。つまり悪霊は、私たち人間を、主イエスと、そして主イエスをお遣わしになった父なる神様と、無関係にしておこうとしているのです。「私は自分でやっていくのだから、神様あんたは口出しするな、私にかまわないでくれ」と人間に言わせることが、悪霊の根本的な目的なのです。悪霊に取りつかれたことによって、この人は人々と自分を繋ぎ止めているあらゆる鎖を引きちぎり、人間との係わりを失い、社会から遠ざかっていますが、悪霊の中心的な目的は、彼と神との係わりを失わせ、彼を神から遠ざけることなのです。それは創世記第3章で、最初の人間アダムとエバが蛇の誘惑によって神様に背く罪を犯した時に起ったのと同じことです。蛇は、神様が食べてはいけないと言っておられた木の実を食べるように人間を唆しましたが、それは、「あなたは今神の下で生きているが、それは不自由な、窮屈なことだろう。そんな鎖は引きちぎって自由になりなさい。もう神とは係わりなく、自分が主人となって生きたらよいではないか」ということなのです。そういう唆しによって人間は神に背く罪を犯したのです。この最初の時から今日に至るまで、サタン、悪魔、悪霊の業は一貫しています。人間に、神という束縛からの自由を求めさせ、神に対して「私にかまわないでくれ、口出しするな」と言わせることが悪霊の目的なのです。そのように神との係わりを失い、神から自由になることによって人間は、悪霊の奴隷、罪と死の奴隷となるのです。

主イエスの勝利
 神様の独り子である主イエス・キリストは、このような悪霊の支配を打ち破り、悪霊の奴隷、罪と死の奴隷となっている私たちを解放して下さるためにこの世に来られました。8節に「イエスが、『汚れた霊、この人から出て行け』と言われた」とあることがそれを示しています。主イエスはこのことのために嵐の湖を渡ってこの異邦人の地に来られたのです。それは神様の独り子である主イエスが、私たち罪人の救いのために人間となってこの世に来て下さったことを指し示しています。9節には主イエスが彼に「名は何というのか」とお尋ねになり、彼が答えて「名はレギオン。大勢だから」と言ったとあります。相手の名を問い、答えさせることは、相手よりも優位に立ち、支配することを意味しています。ですからこれは、この人に対する、いや悪霊に対する主イエスの優位、支配が確立したことを意味しているのです。「レギオン」というのはこの人の名前ではないでしょう。これもこの人の言葉ではなくて悪霊の言葉です。レギオンとは、ローマ帝国の軍団を意味する言葉であり、一レギオンは四千から六千の兵士から成っていたと言われます。それほどに大勢の悪霊が彼に取りついており、それゆえにあのようなものすごい力を発揮していたのです。しかし、そのレギオンに名を名乗らせたことによって、彼らに対する主イエスの勝利がはっきりしたのです。神の子であられる主イエスは何千もの悪霊がよってたかっても打ち勝つことのできない大きな力と権威とを持っておられ、その主イエスが「汚れた霊、この人から出て行け」と命じたなら、悪霊もそれに従わざるを得ないのです。  主イエスに対しては勝ち目がないことを悟った悪霊たちは、「自分たちをこの地方から追い出さないようにとしきりに願い、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願いました。主イエスがそれをお許しになると、「汚れた霊どもはこの人を出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」と13節にあります。これは、主イエスがこの人から悪霊を追い出しただけでなく、その悪霊を滅ぼして下さったことを示す出来事であると言えるでしょう。

正気になって
 悪霊の支配から解放されたこの人の姿が15節にあります。彼は「服を着、正気になって座っている」のです。「服を着ていた」ということは、悪霊に取りつかれていた時は裸だった彼が服を着るようになったのは、人間としての生活の秩序の中に戻って来たということです。そして彼は「座っていた」のです。どこに座っていたのでしょうか。ルカによる福音書第8章にこれと同じ話が語られています。そこでは彼は、「正気になってイエスの足もとに座っている」と語られています。彼は主イエスの足もとに座って、弟子たちと共に、主イエスのみ言葉を聞いていたのです。主イエスに対して「あなたと私は関係ない。かまわないでくれ」と言っていた者が、主イエスの足下に座ってそのみ言葉に耳を傾け、主イエスに聞き従う者となる、これが、悪霊の支配から解放され、正気になるということです。悪霊は、自分を縛りつけるあらゆる束縛を断ち切り、自由に生きるようにと彼を唆し、その力を与えました。その結果彼は自分の言葉を奪われ、悪霊の言葉を語るようになりました。つまり自由になるどころか、悪霊の奴隷となり、周囲の人々を傷付け、自分も孤独に陥り、墓場でしか生きられない、罪と死に支配された者となってしまったのです。そこからの解放は、悪霊に勝利した神の子イエス・キリストの下に置かれることによってもたらされます。主イエスの足下に座ってみ言葉に聞き従う者となる時にこそ私たちは、悪霊の支配から解放され、正気になって生きることができるのです。

新たな派遣
 彼が主イエスに聞き従う者となったことは、18節で主イエスがその地を立ち去ろうとなさった時、彼が「一緒に行きたいと願った」とあることから分かります。しかし主イエスは彼に「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」とおっしゃいました。主イエスは彼を自分の家へと帰されるのです。悪霊に取りつかれたことによって飛び出してきた家へとです。束縛を嫌い、自由に生きようとして、共にいることができなくなったその人間関係の中へとです。主イエスは彼がその人間関係をもう一度回復することを願って、彼をそこへと新たに派遣なさるのです。私たちはここに、主イエスによる救いの一つの大事な側面を見ることができます。信仰に生きるとは一方では、弟子たちのように、また彼が主イエスに願ったように、日常の生活を捨て、それまでの人間関係を断ち切って主イエスに従っていくということです。しかしまた同時に信仰者は、主イエスによって、自分の家族の中へと、与えられている人間関係の中へと新たに派遣されるのです。自由を求める思いやプライドを守ろうとする思いに捕われて人との交わりを破壊してしまう私たちが、主イエスによって正気になって、その人と共に生きる者へと変えられ、交わりを回復されていくのです。

レント(受難節)の歩み
 この解放には犠牲が伴います。この人の解放においては二千匹の豚が犠牲にされました。それはこの地方の人々にとっては大損害でした。それで彼らは主イエスにこの地を出て行ってくれと言ったのです。同胞の一人が悪霊から解放されたという救いの出来事を喜ぶのでなく、経済的損害のみを見つめている彼らの姿は情けないとも言えます。しかしそれは豚二千匹の犠牲がそれほどに大きなものだったということでもあります。一人の人の救いのためには、そのような大きな犠牲が必要だったのです。神様は、私たちを悪霊の支配、罪と死の支配から解放するために、二千匹の豚よりももっと大きな犠牲を払って下さいました。それは主イエス・キリストの十字架の死です。神様の独り子であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスはご自分の命を犠牲にすることによって、私たちを支配している悪霊、罪の力を打ち破り、その支配から私たちを解放して下さったのです。先週の水曜日から、主イエスの十字架の苦しみと死とを特に覚えるレント(受難節)に入っています。3月末のイースターに向けて、主イエスが私たちのために払って下さった大きな犠牲を覚え、それによって与えられた解放の恵みを覚えて歩んでいきたいと思います。主イエスによって正気になったこの人は、「イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」と20節にあります。彼は、家族、同胞のもとへと主イエスによって新たに遣わされ、そこで主イエスによる救いの恵みを証しし、宣べ伝えていったのです。私たちのレントの歩みもそのように、主イエスによる救いの恵みを証ししていくものでありたいのです。

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