夕礼拝

神を賛美した

「神を賛美した」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第85編1-13節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第15章29―39節
・ 讃美歌 : 295、355

繰り返される
 本日は、マタイによる福音書第15章29節から39節をご一緒にお読みしたいと思います。本日与えられました箇所では、主イエスのなさった2つの出来事が記されています。小見出しにもありますように主イエスが大勢の病人をいやされたということです。これまでも、マタイによる福音書では主イエスが癒しの御業をなさったということを見て来ました。そして、本日の箇所でもそのような主イエスのお姿を描いているのです。主イエスは多くの病に苦しむ人や身体の不自由を覚えている人を癒されました。そして、次に主イエスは四千人に食べ物を与えました。男性だけで、4千人もいた群衆に、僅か7つのパンと少しの魚を与え、満腹にさせたということが語られています。私たちは聖書を読みます時に、この箇所をすばやく読み通してしまわないでしょうか。なぜなら、この2つの出来事は、既にこれまで読んで参りました内容と似ているからです。
 まず、主イエスが大勢の病人を癒されたことについては言いますと、例えばマタイによる福音書第8章16節では(開かず、聞いて頂ければ良いと思いますが)主イエスが「言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。」とあります。また、9章35節では主イエスは「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とあります。また14章14節では主イエスが舟から上がられ「大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。」とあります。同じ14章の34節から36節には主イエスの癒しに関する要約が記されております。主イエスは御自分のもとに集まって来た、病に苦しみ、身体の不自由を覚えている人たちを深く憐れまれ、癒されました。マタイによる福音書は、主イエスのこのようなお姿を繰り返し描いています。本日の箇所は新しいことが記されているのではありません。主イエスのいつものお姿を語っているのです。そしてマタイ福音書において、主イエスが大勢の人を癒されたという、主イエスの御業を語っているのはこの箇所で最後になります。 救いの実現  これまで見てきましたように、主イエスは大勢の病人を癒されました。そして、31節では主イエスの癒しの御業を見た群衆の反応が記されています。「群衆は、口の利けない人が話すようになり、体の不自由な人が治り、足の不自由な人が歩き、目の見えない人が見えるようになったのを見て驚き、イスラエルの神を賛美した」。とあります。今お読みした31節の箇所と似ている旧約聖書の箇所があります。イザヤ書35章の言葉と似ているのです。イザヤ書とは預言書ですが、第35章では神様の救いが実現した様子が記されています。神の救いが実現し、荒れ野や砂漠が一面の花畑になる、苦しみは取り去られ、喜びと楽しみに満ちた世界が与えられる、ということが語られています。神の救いが実現する時「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように踊り上がり、口の利けなかった人が喜び歌うようになる」と記してあります。31節に語られているようなことが、神の救いによって齎されるということです。イザヤ書に預言されていた神の救いが、この主イエスの御業によって実現しているということなのです。マタイによる福音書はそのことを描きました。そして、癒しの御業を行った主イエスにおいて、群衆はこの神の救いの御業を目の当たりにしたのです。そして「イスラエルの神を讃美した」とあります。主イエスこそ、預言されていた救いをもたらす方、救い主であられるということです。群衆はその救い主の姿を見て、驚きました。群衆はイスラエルの神を讃美したのです。主イエスという救い主を遣わして下さった父なる神を讃美したのです。

イスラエルの神を賛美した
 ここで群衆は「イスラエルの神を讃美した」とありますが、この群衆と言うのは一体どのような群衆だったのでしょうか。癒しを求めてきた群衆であったということは申しました。本日の状況をもう少し見てみますと、主イエスはガリラヤ湖のほとりに行かれました。そして、主イエスは山に登って座っておられたのです。主イエスはガリラヤ湖が見える山に登られ、座っておられました。主イエスが座れたということは、特別なことです。主イエスが特別な場所を作られたということです。主イエスは日常において、山に登られ、祈りをされていました。主イエスにとって山に登られるというころは、一歩父なる神に近づき、それだけ深く父なる神との交わりの中に、お帰りになることであったのです。そして、その場に主イエスは今、大勢の群衆とおられるのです。大勢の群衆が、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を連れて来て、イエスの足もとに横たえたのです。主イエスの後を追いかけるようにしてきた人々は、主イエスの足元に、自分たちの重荷を置くしかなかった人々だったのです。更に、この人々はユダヤ人ではなく異邦人であったのです。そのことはもう少し前の21節にありますが、主イエスは「ティルスとシドンの地方に行かれた。 」ということから分かります。この地域はガリラヤ湖のから少し斜め左のところにある地名です。ここは、ユダヤ人があまり住んでいない、ユダヤの国から離れたところなのです。主イエスはユダヤ、ガリラヤの周囲にはいることができなくなり、追われるようにこの場所にきたのです。主イエスを取り巻く状況が第15章の始めに記されていますが「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。」(15章1節)ファリサイ派の人々、律法学者たちとはエルサレムの最高議会のメンバーたち、ユダヤ当局のメンバーが、ガリラヤの主イエスのもとに来ていたのです。主イエスのことを何とかしなければならないという動きが、エルサレムの都で起こっていたのです。そのような事情の中を主イエスは歩んでいたのです。32節には「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに」とあります。おそらく、ティルスとシドンから3日間の旅を主イエスとしてきたのです。更にこの群衆が異邦人であったということの根拠として31節が挙げられるのです。「イスラエルの神を賛美した」という言葉です。ユダヤ人たちが自分たちの神をほめた讃えるときに、わざわざ「イスラエルの神」とは言いません。イスラエルとはユダヤ人であり、神の民イスラエル、神に選ばれた民という、ユダヤの神に対する特権を示す言葉なのです。主イエスは異邦人に対しても伝道をされたのです。

繰り返される主イエス
 そして、続けて見ていきますと主イエスは弟子たちを呼び寄せました。この32節から本日のもう1つの出来事であります主イエスが食べ物を与えられた話になります。この話は14章13節から21節において群衆に食べ物を与えた物語が記されています。主イエスは同じ奇跡を2回なさったのです。この先の16章9、10節を読みますと、主イエスはこのように言われました。「まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。」とあります。主イエスはここではっきり、厳しく、自分はパンの奇跡を2度もしたではないかと、言われるのです。そのことを覚えていないのかとおっしゃるのです。主イエスはこの奇跡を繰り返し行われたのです。この16章の主イエスのお言葉からしますと、繰り返さなければ分からない弟子たちの鈍さがあったのかもしれません。また、これは私たちの姿でもあります。私たちの鈍さに対しても、主イエスは同じことを繰り返され、飽きることなく、ご自分の本当に語りたいこと、なさりたいことを私たちに示しておられるのです。ここでも主イエスは繰り返し、何度でも私たちを招いて下さり、私たちに言葉をかけて下さるのです。

憐れんでくださる
 14章の話と本日の話はどちらの話もほぼ同じです。けれども、違いがあります。32節の続きですが、主イエスは弟子たちを呼び寄せ「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。」と言いました。主イエスご自身が、群衆の食事のことを心配しておられるのです。主イエスは「群衆がかわいそうだ」と言われたのです。この「群衆がかわいそうだ」。という主イエスのお言葉は「私は群衆を憐れむ」と訳せる言葉です。この「憐れむ」という言葉は、既に何回か見てきましたが、この言葉は「内臓」という意味の言葉から来ており、「内臓が揺り動かされるような憐れみ、同情」を意味しています。「はらわたがよじれるような」と言う場合もあります。つまり、自分自身が痛み苦しむような、そういう憐れみ、同情です。同情という言葉は、同じ心になる、という意味ですが、私たちの同情は、なかなか本当に相手の苦しみと同じ心になるということはできないものです。しかし主イエスがここで覚えておられる同情、憐れみは、相手の苦しみが自分自身の苦しみとなり、自分が揺り動かされ、痛みを覚える、そこまで相手と本当に一体となる同情なのです。主イエスはそのような思いで、群衆の空腹を感じ取られたのです。主イエスはこのような「憐み」の眼差しをもって群衆をご覧になったのです。本日の七つのパンで四千人を満腹にされた奇跡は、主イエスのそのような憐れみ、同情のみ心によってなされたことです。そして主イエスが憐れみを覚えておられるのは、人々の空腹だけではありません。先ほど見た、あの山上の癒しのみ業、足の不自由な人、目の見えない人、体の不自由な人、口の利けない人、その他多くの病人を癒された、そこに働いているのも、主イエスのこの憐れみのみ心、本当の同情なのです。主イエスが、苦しんでいる者、いろいろな意味での空腹を覚えている者、弱っている者たちを深く憐れみ、本当の同情をもって関わって下さるのです。人々の苦しみを癒され、飢えを満たされ、慰めを与え、力を与えて下さるのです。主イエスはこのお言葉を弟子たちを呼び寄せて言われました。このことは、マタイによる福音書がこの弟子たちを重んじ、その責任を強調しているとも理解することが出来ます。主イエスはこの「憐み」の眼差しを特に弟子たちにまず伝えました。主イエスの弟子たちとは主イエスの地上での御働きを受け継いで、継承する責任を期待されている者たちです。その主の弟子たちが、そのような主イエスの憐みをも受け継ぐようにと期待されていることをマタイによる福音書は特に明確にしているのです。その弟子たちは、今日においては教会に連なる私たちです。特にその主イエスの眼差しが私たち一人ひとりに注がれていることもまた、私達が受け止めたいことであります。

弟子たちの現実
 さて、弟子たちは言いました。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」この弟子たちの反応は現実的であります。この世の現実を見ている言葉です。こんなに人里離れた、辺鄙なところで、これだけ大勢の人々に十分与えるほどのパンを一体どうやって手に入れたら良いのだろうか、ということです。弟子たちはここで解散して各自で何とかさせた方が良いのではありませんか、と主イエスに対して無言のプレッシャーを与えているような、弟子たちの言葉です。これが弟子の現実の姿です。主イエスの憐みは、弟子たちには届かなかったのでしょう。主イエスの憐みは圧倒的な、大きな力を伴っていましたが、弟子たちがそのような主イエスの憐みに生きようとしても、彼らにはそのような力はなかったのです。「群衆はかわいそうだ」しかし、弟子たちの力ではどうすることもできないのです。イエス様一体どうすればよいとあなたはお考えなのですか、どうすることも出来ないではありませんか、ということです。このような弟子たちの言葉と言うのは自分たちの無力な表現だけではなく、主イエスへの信頼の欠如も示しています。弟子たちには、「群衆がかわいそうだ」とおっしゃったのが主イエスであるということが分からなかったのです。その憐みは人間の同情、憐みではなく、主イエスの憐みなのです。

主イエスの奇跡
 主イエスは弟子たちに「パンは幾つあるか」と言われました。弟子たちは、「七つあります。それに、小さい魚が少しばかり」と答えた。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンと魚を取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。人々は皆、食べて満腹した。残ったパンの屑を集めると、七つの籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が四千人であった。イエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダン地方に行かれた。この状況はマタイによる福音書第14章を思い起こします。弟子たちの持っている者は、7つのパンと少しの魚です。弟子たちは自分たちの無力さをここではっきりと示されます。主イエスは地面に座るように命じられ、感謝の祈りを唱え、パンや魚を裂いて群衆にお渡しになったのです、そして、みなが満腹して多くの余りが出ました。主イエスの憐みの御業が今ここで、異邦人の間でも行われたのです。

十字架の主が憐れんで
 主イエスの深い憐み「群衆がかわいそうだ」という動機から、本日の出来事が行われたのです。主イエスの奇跡はまさに愛の業なのです。主イエスのこの愛の奇跡においても、食物を群集に分かち合えう働きは弟子たちを通して行われました、主イエスは弟子たちに渡され、弟子たちは群衆にそれを配るのです。その時に弟子たちは始めて、無力さを克服できるのです、弟子たちはただ主イエスに従って、憐みの業に参加することが求められているのです。この主イエスの御姿を前にして私たちのなしうることは、ただ平伏し、神を讃美することです。そして主イエスは憐れみの主として、ご自分のすべてをささげられるのです。人間の罪をすべて背負って身代わりになって死んで下さるのです。私たちが受けるべき苦しみを代って引き受けて下さいました。この福音書の後半の、受難への歩みにおいて語り示されていくのです。私たちは、主イエスの憐れみ、同情が、この十字架の苦しみと死にまで至る真実の憐れみ、同情であることを知らされています。多くの人々の様々な苦しみ、悩み、悲しみを、主イエスがご自分の身に引き受け、背負って下さったのです。主イエスが四千人の人々を満腹にされた奇跡は、ただ食べ物の量を増やしたということではありません。主イエスが弱っている人々をその憐みの眼差しよって養われ、慰められ、力づけて下さったのです。そして今、主イエスは私たち一人一人を、同じ恵みを与えられます。そのことを象徴しているのが、本日も共にあずかる聖餐です。聖餐において私たちは、主イエスが私たちのために十字架にかかって下さったその肉と、そこで流された血とにあずかります。それは肉を食べたり血を飲んだりすることではなくて、主イエスがご自身の命を犠牲にするほどの深い憐れみと同情とをもって私たちを愛して下さっていることを覚え、その愛によって私たちが満腹し、養われ、力づけられていくためです。この四千人の人々と共に主イエスの恵みに連なり、救い主の愛に満たされ、神を讃美したいと思います。

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