主日礼拝

希望を打ち砕かれて

「希望を打ち砕かれて」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第88編1-19節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第24章13-27節
・ 讃美歌:310、313、393

 受難週から始まる新年度
 本日は4月1日、2012年度の最初の日です。進学や就職あるいは職場における異動などによって、この4月から新しい生活を始めるという方もおられるでしょう。4月からこの地で新たな歩みを始めるために引っ越して来られ、その第一日にこの教会の礼拝に出席なさったという方もおられるのではないかと思います。教会においても、今日から新年度の歩みが始まります。この礼拝において、長尾ハンナ先生の牧師就任式が行われました。また2月の総会で選出された長老、執事による新たな体制が今日からスタートします。4月はそのように様々な面で新しい始まりの月です。その最初の日を主の日として迎え、礼拝をもって始めることができることはまことに幸いなことであると思います。
 そして本日は、教会の暦において「棕櫚の主日」と呼ばれています。主イエスがそのご生涯の最後にエルサレムの町に来られ、人々が棕櫚の枝を振って歓迎したことを記念する日です。しかし今週は「受難週」です。主イエスを歓迎した人々は数日後には「十字架につけろ」と叫ぶようになり、その週の金曜日に、主イエスは十字架に着けられて殺されてしまうのです。今週私たちはその主イエスの受難を覚えて歩みます。そのために本日から、受難週の早朝祈祷会が毎朝行われていきます。また水、木、金と、受難週祈祷会が行われます。それらの祈りの会に多くの方が参加していただきたいと願っています。み言葉を聞いて祈りつつこの受難週を歩み、そして来週のイースター、主の復活の記念日を迎えたいのです。受難週から2012年度の歩みが始まるというのは意味深いことです。主イエス・キリストの十字架の苦しみと死、そして復活は、神様が私たちのために成し遂げて下さった救いのみ業の中心です。そのみ業にしっかりと思いを向けることによってこそ、復活して今も生きておられる主イエスと共に新しい生活を始めることができるのです。

受難週からイースターへ
 さて今私たちは、ルカによる福音書を読み進めており、その最後の章、24章に先週から入っています。この24章は、十字架につけられて死んだ主イエスが三日目に復活した、イースターの出来事を語っています。イースターはまだ来週なのに、既に先週から復活の出来事を語る箇所に入っているわけです。しかし先週読んだ12節までの所に語られていたのは、イースターの日の朝早く主イエスの墓に行った婦人たちが、主イエスの遺体がそこにないことを見出し、そして天使から、「主イエスは復活してここにはおられない」と告げられたということでした。彼女たちは復活した主イエスに出会って喜んだのではありません。主イエスは復活した、と告げられただけで、それを信じたわけではなかったのです。彼女たちからその知らせを受けた弟子たちも、それを「たわ言」だと思って信じませんでした。ペトロだけは立ち上がって墓へと走って行きましたが、結局墓が空っぽであることを確認しただけでした。婦人たちも、弟子たちも、主イエスの復活を信じ、その喜びに満たされてはいない。そういう意味で彼らはまだ受難週の状況の中にいるのです。
 人々が復活した主イエスと出会い、その復活を本当に信じ、喜びに満たされたことは、13節以下、つまり本日の箇所以降において語られています。そういう意味で13節から始まるいわゆる「エマオ途上」の話は、ルカによる福音書が語る主イエスの復活において中心となる話だと言えます。主イエスの復活を信じ、その喜びに満たされるとは、つまりイースターの喜びにあずかるとはどのようなことなのか、がここに語られているのです。この大切な話を、本日と来週、つまり受難週の主日とイースターの主日とにまたがって読んでいきたいと思います。そのことによって、主イエスの苦しみと死を覚える受難週から主の復活を記念するイースターの喜びへの歩みを、私たちの信仰において深く味わっていきたいのです。

エルサレムを離れて行く弟子たち
 さて13節は「ちょうどこの日」と始まります。「この日」つまり主イエスの復活の日、主イエスの十字架の死から三日目の週の初めの日です。二人の弟子が、エルサレムからエマオという村へ向かって歩いて行きました。「弟子」とあるのですから、彼らは主イエスに従ってきた人々です。二人の内の一人の名前はクレオパだったと18節にあります。主イエスが「使徒」となさった十二弟子の中にその名前はありませんが、彼も主イエスに従っていた人なのです。22節を読むと、彼らは今朝主イエスの墓で起ったことの情報を既に得ています。婦人たちが墓での体験を弟子たちに伝えた時、彼らもそこにいたのです。その二人の弟子が、その後エルサレムを離れ、エマオという村へと向かったのです。何のためにエマオへ向かったのか、それは分かりません。大事なことは、彼らがエルサレムを離れようとしていた、ということです。主イエスが十字架につけられて死んだエルサレム、そして今朝婦人たちがその復活を告げる言葉を天使から聞いた、そのエルサレムを彼らは離れて行こうとしていたのです。

目が遮られていた
 彼らは歩きながら「この一切の出来事について話し合って」いました。「この一切の出来事」それは19節以下に語られているように、「ナザレのイエスのこと」です。自分たちが信じて従ってきた主イエスが捕えられ、十字架につけられて殺されてしまったこと、ところが今朝、その墓から遺体が無くなっているのを婦人たちが見つけ、天使が彼女らに「主イエスは復活して生きておられる」と告げたこと、それらのことについて彼らは話をしていたのです。15節に「話し合い論じ合っていると」とあります。こういうことではないか、ああいうことではないか、と議論に熱中している様子が分かります。するとそこにいつのまにか一人の人が近づいて来て、一緒に歩き始めました。その人こそ、復活した主イエス・キリストご自身でした。しかし「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」。今その方のことを熱心に話し合っている、当の主イエスが目の前に現れたのに、分からなかったのです。復活した主イエスが傍らを共に歩いておられるのに、目が遮られていてそのことに気付かなかったのです。

希望を打ち砕かれて
 共に歩いているその人は、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねました。すると「二人は暗い顔をして立ち止ま」りました。クレオパは、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」と言いました。「お見受けしたところ、あなたもエルサレムから来られたようだが、この数日そこで起こったあんなに大きな出来事を知らないのですか。あなたは何を見ていたんですか。あなたの目は節穴ですか」、目が遮られている彼がそのように言ったのです。随分失礼な言い方ですし、相手が主イエスご自身だったことを考えれば滑稽な言葉ですらあります。しかし主イエスは忍耐強く「どんなことですか」と再びお尋ねになりました。この主イエスの問いに促されて彼らは、今何を論じ合っていたのか、自分たちがどのような気持ちでエルサレムを離れて行こうとしているのかを語っていったのです。19節後半から24節までの彼らの言葉を読んでみます。
「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」。
 ナザレのイエスは、神からイスラエルの民に遣わされた預言者であり、行い、つまりみ業においても、また言葉、教えにおいても力ある方だった。彼らは主イエスのことをそのように捉えていました。それゆえに21節にあるように「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけて」いたのです。「イスラエルを解放してくださる」というのは、異邦人であるローマの支配を打ち破り、イスラエルの独立を勝ち取って下さるということです。それは単なる政治的解放を実現することではなくて、イスラエルが神の民としての祝福を受けること、つまり神による救いの実現です。主イエスこそ神によるイスラエルの民の救いを実現して下さるメシア、救い主だと彼らは期待し、それゆえに主イエスに従って来たのです。主イエスがエルサレムに上ろうとされた時、彼らは、いよいよイスラエルを解放し、救いを実現して下さる時が来たのだと思い、喜んだでしょう。ところが彼らの期待は裏切られました。20節「それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです」。イスラエルの民の宗教的、政治的指導者である祭司長や議員たちによって主イエスは捕えられ、ローマの総督ピラトに引き渡され、十字架につけられて殺されてしまったのです。天からみ使いが現れて土壇場で主イエスに勝利をもたらすことを期待していたのに、そんな奇跡は起こりませんでした。主イエスご自身も全く抵抗することなしに十字架につけられ、死んでいったのです。それによって彼らの期待は無惨に打ち砕かれ、彼らはがっかりしてしまいました。こんなはずではなかった、主イエスに期待して従ってきた自分たちの歩みが全て無駄になってしまったと感じたのです。彼らが今エルサレムから離れて行こうとしているのはそのためでしょう。エマオに何か用事があったわけではないと思います。主イエスに期待し、希望を抱いて従って来たエルサレムで、その希望を徹底的に打ち砕かれたのです。もうこのエルサレムにはいたくない、一刻も早くそこを離れ去りたい、それが彼らの思いなのだと思うのです。
 しかし彼らは今朝、仲間の婦人たちの知らせによって驚かされました。婦人たちが朝早く墓に行ってみると、主イエスの遺体が見つからず、そこに天使が現れて「イエスは生きておられる」と告げたのです。ペトロをはじめとして何人かの者が墓に行って、確かに遺体がないことを確認しました。その知らせを彼らは受けたのです。彼らは道々そのことをも話し合い論じ合っていたのです。つまり彼らは、主イエスの復活を告げる言葉を既に聞いているのです。遺体が行方不明になったというだけでなく、天使が「イエスは生きておられる」と告げたことを知っているのです。その知らせを聞いた上で彼らは、エルサレムを出てきたのです。つまり彼らにとって、主イエスの復活を告げる言葉は、とうてい信じることができない「たわ言」にしか聞こえなかったのです。「主イエスは生きておられる」と聞かされても、彼らの希望はなお打ち砕かれたままです。イースターの日の昼日中にありながら、彼らは復活の喜びを得ておらず、まだ主イエスの受難による悲しみの中にいるのです。「二人は暗い顔をして立ち止まった」という17節の言葉がそれを象徴的に表しています。

復活を信じることができない私たち
 つまり彼らは、イースターの日を迎えたにもかかわらず、まだ受難週の続きを歩んでいるのです。先週の箇所における婦人たちの姿についても同じことを申しました。あの婦人たちも、この二人の弟子も、どちらも主イエスの復活を告げる言葉を聞いています。墓に遺体がない、という状況証拠も示されています。しかし彼らは、主イエスが復活して生きておられることを信じることができず、その喜びを得ることができていないのです。それは私たちの姿ではないでしょうか。私たちも、あの婦人たちやこの弟子たちと同じように、聖書を通して、また教会の教えによって主イエスの復活を告げ知らされています。しかしそれを本当に確信をもって信じることができず、主イエスの復活の喜びに満たされることができず、主の復活を記念する日である日曜日の礼拝に集いながら、なお受難週の中を生きているようなことがあるのです。ルカによる福音書は主イエスの復活を語るこの箇所でそういう人間の姿を繰り返し描いています。それが人間として自然な姿だということです。婦人たちもこの二人の弟子も、特に疑り深いひねくれた人間だったわけではありません。むしろ主イエスに従って来た人たちなのですから、人一倍信仰に熱心であり、神による救いを求めていたと言えるでしょう。その彼らが、イースターのこの日、まだ主イエスの復活を確信することができずにいるのです。

共に歩んで下さる主イエス
 けれども彼らはこの後、主イエスが復活して生きておられること、いつも共にいて下さることを確信するに至りました。そして主イエスのことを全世界に宣べ伝える働きをしていきました。そういう大きな転換が彼らに起ったのです。それは、復活した主イエスご自身が彼らに出会って下さったことによって起った転換です。そのことを語っている28節以下は来週のイースター礼拝において読みたいと思います。しかし本日の27節までの所が既に私たちにはっきりと示し、語ってくれていることがあります。それは、主イエスの復活の知らせを聞いてもそれを信じることができず、それゆえに希望を打ち砕かれた絶望の中で暗い顔をして論じ合いつつエルサレムを離れ去ろうとして歩いているこの二人の弟子たちの傍らに、復活なさった主イエスが近付き、共に歩いておられるということです。彼らは目が遮られていて分からなかったけれども、生きておられる主イエスが、既に共に歩んで下さっていたのです。彼らの姿が私たち自身の姿であるならば、このことも私たちに起っているのです。復活して生きておられる主イエスは、その確信をまだ得ることができていない私たちのところに来て下さっており、既に共に歩いて下さっており、私たちと出会うための備えをして下さっているのです。本日の箇所はそのことを私たちに示してくれているのです。

聖書の説き明かしによって
 私たちの傍らに来て下さっている主イエスは、二人の弟子に問いかけたように私たちにも、「あなたがたは何を話しているのですか。何を悲しみ、苦しんでいるのですか」と問いかけて下さるのです。私たちはその問いに答えて、自分の思いを、悲しみ苦しみを、抱えている絶望を語っていくのです。主イエスはその私たちの思いを忍耐強く聞き取って下さいます。しかしただ聞くだけではなく、主イエスは私たちを教え諭して下さるのです。それが25節以下に語られていることです。「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。主イエスは、聖書を説き明かして下さるのです。「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」。つまり、聖書、この場合には勿論旧約聖書ですが、その全体にわたって、主イエスによって成し遂げられることになっている救いのみ業が語られていることを、具体的には、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだった」ということを、示し教えて下さったのです。彼らは、主イエスご自身によるこの聖書の説き明かしを、つまり説教を聞いたのです。

神の言葉を聞く
 説教を聞いたことによって彼らの目が開けて、目の前の人が主イエスだと分かり、主の復活を信じる信仰が与えられ、喜びに満たされた、とは書かれていません。彼らの目はなお遮られており、復活して生きておられる主イエスが共におられることに気付いていません。彼らの目が開かれて主イエスに気付くのはこの後のことです。けれども、主イエスによる聖書の説き明かしを聞いたことは、彼らにとってとても大切な体験となりました。復活なさった主イエスは、私たちの傍らに来て下さり、聖書を説き明かして下さるのです。神様の独り子である救い主キリストが苦しみと死を経て栄光に入ることによって成し遂げられる神様の救いのみ心が、聖書にどのように語られているかを教えて下さるのです。その説き明かしを聞いたことが、生きておられる主イエスとの出会いへの備えとなったのです。聖書の知識を得たことが備えとなったのではありません。そうではなくて、聖書の語ることに耳を傾けるようになったことが、生きておられる主イエスとの出会いへの備えとなったのです。主イエスが近付いて来て語りかけて下さるまでは、彼らは「話し合い論じ合って」いました。主イエスの十字架の死と、今朝婦人たちから伝えられた出来事について、こういうことではないか、ああいうことではないか、こう考えれば説明がつくとかつかないとか、自分の思い、考えを語り合っていたのです。しかしそのように論じ合っている彼らは、結局「暗い顔をして立ち止まる」ことしかできませんでした。人間の思いや考えでいくら論じ合っても、復活の喜びに至ることはできないのです。しかし復活した主イエスが傍らに来て下さり、語りかけて下さり、そして彼らの思いを聞き取って下さった上で、聖書を説き明かして下さったことによって彼らは、自分の思いや考えを熱っぽく語っている口をつぐみ、黙って、聖書の語る神の言葉を聞く者となったのです。自分の思い、考えによって主イエス・キリストを理解し、説明し、納得しようとして論じることをやめて、神の言葉に耳を傾けるようになった時、彼らの心には大きな変化が生じていました。この時はまだ意識していませんでしたが、この後、目が開かれて主イエスに気付いた時、彼らは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合ったと32節にあります。聖書の説き明かしによって神の言葉を聞き、心が揺さぶられ、燃える、そういう体験を彼らは与えられたのです。それが、生きておられる主イエスとの出会いへの備えとなったのです。

目が開かれることを求めて
 主イエスの復活を告げ知らされても、それを本当に確信をもって信じることができない、それゆえに私たちは、主イエスの受難によって希望を打ち砕かれた弟子たちのように、苦しみ悲しみの闇から抜け出すことができないのです。受難週は、私たちを捉えているその闇を見つめ、その闇のゆえに主イエスが十字架にかかって死なれたことを深く覚える時です。しかし復活して今も生きておられる主イエスは、その受難週を歩む私たちの傍らに既に来て下さっており、共に歩んで下さっています。そして私たちに語りかけ、聖書を説き明かし、主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた神様の救いのみ業を教えて下さっているのです。そのようにして、私たちの目を開き、主イエスとの出会いを与えようとして下さっているのです。私たちの遮られている目が、主イエスによって開かれて、生きて共におられる主イエスに気付くことができるようにと祈り求めつつ、この受難週を歩みたいと思います。主が目を開いて下さることによってこそ私たちは、復活の喜びに満たされたイースターを迎えることができるのです。

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