主日礼拝

方向転換

「方向転換」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: アモス書 第9章11-15節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第24章13-35節
・ 讃美歌:322、321、517

エルサレムを離れて行く弟子たち
 主イエス・キリストが復活なさったイースターの日の昼間、二人の弟子たちが、エルサレムからエマオという村に向かって歩いていました。彼らはこの日の朝、仲間の婦人たちが主イエスの墓に行ってみると、埋葬されたはずの遺体が見当たらず、そこに天使が現れて、「主イエスは復活して生きておられる」と告げたことを既に聞いていました。しかし彼らは主イエスの復活を信じることはできませんでした。エマオへの道すがら彼らはこれらの出来事について論じ合っていましたが、いったい何が起ったのか、どのように受け止めたらよいのか、分からなかったのです。そこに、復活なさった主イエスが近付いてきて一緒に歩いていかれました。しかし「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」と16節にあります。彼らの目が遮られていたのは、主イエスの復活を信じていなかったからです。だから主イエスご自身を見てもそれと分からなかったのです。そもそも彼らが今、エルサレムを離れてエマオへと向かおうとしているのも、復活を信じていないからです。彼らは主イエスこそイスラエルの民をローマの支配から解放し、救いを与えて下さるメシア、救い主だと信じてエルサレムまで従って来たのでした。ところがそのエルサレムで主イエスは捕えられ、十字架の死刑に処せられてしまいました。彼らが期待していた奇跡的な救いは起らず、主イエスご自身も何ら抵抗することなく十字架の死へと歩まれたのです。彼らは期待を裏切られ、深い失望、落胆に陥りました。その失望落胆の中で、彼らは今エルサレムを離れて行こうとしています。もうエルサレムにはいたくない、一刻も早くそこから出ていきたいという思いで、彼らは今道を歩いているのです。

聖書を説き明かして下さる主イエス
 そのような失望と落胆の中で、これらの出来事について論じ合いながら歩いている彼らの傍らに近付いてきて、共に歩いておられる主イエスは、「あなたがたが話しているのは何のことですか」と彼らに問いかけました。主イエスのこの問いに答えて彼らは、道々論じ合っていたこと、主イエスに対して抱いていた希望と、それが裏切られ、落胆してしまっている気持ちを語りました。それを聞いた主イエスは、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」とおっしゃいました。救い主メシアは、苦しみを受け、それを通して栄光に入ることになっている、神様はそのような救いのご計画を預言者たちによって既に告げておられるではないか、どうしてそれが分からないのか、とおっしゃったのです。そして、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」と27節にあります。つまり主イエスは彼らに、聖書を説き明かして下さったのです。聖書のどこにどのような仕方で「御自分について」つまり主イエスによって成し遂げられる神様の救いのみ業について語られているのかを教えて下さったのです。ここで言う聖書は旧約聖書ですが、そこには神様の独り子である主イエスが苦しみを受け、殺されることを通して神様の救いのみ業が実現することがそこかしこに預言されています。二人の弟子は主イエスご自身の口から、それらの箇所の説き明かし、つまり説教を聞いたのです。

目が開け、イエスだと分かった
 以上が27節までに語られていることであり、先週の礼拝において私たちはそこまでの所を読みました。しかしこのように主イエスご自身から聖書の説き明かしを受けたけれども、それで彼らの目が開かれて、目の前におられるのが復活した主イエスだと分かったわけではありません。彼らの目はなお遮られていたのです。本日このイースターの礼拝においては、28節以下を中心に読んでいきますが、そこには、夕方になって彼らがエマオの村に着いた時のことが語られています。道々聖書を語ってくれたあの旅人はなおも先へと歩み続けようとしていました。二人はその人に、もう夕方だから自分たちと一緒にこの村に泊まるように勧めました。「無理に引き止め」たと29節に語られています。彼らはこの人の語る聖書の話をもっと聞きたかったのです。そのようにして彼ら三人は夕食の席に着きました。その席で、主イエスが「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」。するとその時、二人の目が開け、イエスだと分かったのです。彼らはこの時ようやく、主イエスが本当に復活して生きておられることを信じることができるようになったのです。

復活した主イエスとの出会い
 彼らが主イエスと共に食事の席に着いている中で復活した主イエスとの出会いを与えられたことは大きな意味を持っています。そこには、主イエスの復活を信じる信仰がどのようにして得られるのかが示されているのです。彼らが主イエスの復活を信じたのは、「主イエスは復活して生きておられる」という知らせを聞いたことによってではありませんでした。また主イエスの十字架や復活について、人間どうしの間であれこれ論じ合うことによってでもありませんでした。主イエスご自身によって道々聖書の説き明かしを受けたことによってですらなかったのです。主イエスの復活を信じる信仰は、主イエスと共に食事の席に着き、主イエスが分け与えて下さるパンをいただき、食する、その体験の中でこそ与えられるのです。主イエスの復活を信じて生きるとは、復活して今も生きておられる主イエスが招き、分け与えて下さる食事にあずかりつつ生きることです。つまり私たちの信仰は頭や心の中だけの事柄ではなくて、むしろこの体をもって味わい、体験していくものなのです。主イエスの復活という奇跡も、頭の中で考えているだけではいつまでたっても本当に分かり、信じることはできません。生きておられる主イエスとの出会いと交わりの中でこそそれを信じることができるのです。

説教と聖餐において
 主イエスが招き、分け与えて下さる食事、それは教会の礼拝において行われる聖餐を意味しています。「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」という主イエスのお姿は、十字架につけられる前の晩のいわゆる最後の晩餐においてパンを裂いて弟子たちに分け与え、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃった主イエスのお姿を思い起こさせます。これが、礼拝の中で行われる聖餐の起源となりました。聖餐において私たちは、主イエスが招き、分け与えて下さる食事にあずかるのです。そしてそこで、復活して今も生きておられる主イエスとの出会いと交わりを体験するのです。聖餐は、主イエスが十字架にかかって肉を裂き、血を流して私たちの罪の赦しを実現して下さったことを覚え、その恵みにあずかる食事です。しかしイースターの日にこの二人の弟子たちが体験した出来事を通して、それは復活して今も生きておられる主イエスとの出会いの場ともなったのです。
 しかしこの食事が復活した主イエスとの出会いの場となるためには、備えが必要でした。主イエスご自身が聖書を説き明かして下さったこと、つまり説教を聞いたことがその備えとなったのです。そのことを振り返って彼らは、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合いました。聖書の説き明かしによって心が燃える体験をすること、言い換えれば、聖書の言葉が自分に対する神様からの語りかけとして響いてくること、それが、主の招いて下さる食卓における主イエスとの出会いへの備えとなったのです。聖書の説き明かしを聞いただけで主イエスとの出会いが与えられるわけではありません。しかし聖書の説き明かしなしにその出会いが与えられることもないのです。聖書の説き明かしによって、主イエスが招いて下さる食卓における出会いへの備えがなされる、それは私たちの礼拝で言えば、説教と聖餐の関係を表しています。礼拝において、説教を聞くことと聖餐にあずかること、その二つが結び合う所に、主イエスとのまことの出会いが与えられ、復活して生きておられる主イエス・キリストと共に歩む信仰の生涯が与えられるのです。

洗礼
 本日この礼拝において、四名の方々が信仰を告白して洗礼を受け、この教会に加えられます。既に礼拝において聖書の説き明かしを聞き、心の燃える体験をしてこられました。そして今、主イエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れて、主の招いて下さる食卓である聖餐に共に連なる者となり、復活して今も生きておられる主イエス・キリストと共に歩む新しい人生を生き始めるのです。神様がそのように導いて下さったことを共に心から感謝したいと思います。

主イエスの姿が見えなくなった
 主イエスを中心とする食卓において、目が開け、イエスだと分かった、そのとたんに、「その姿は見えなくなった」と31節にあります。彼らが主イエスの復活を信じることができなかった間は、主イエスは目に見える仕方で共に歩み、語りかけ、教え、パンを分け与えて下さったのです。しかしそれが主イエスだと分かり、復活して生きておられる主イエスが共にいて下さることを彼らが信じたとたんに、そのお姿は目に見えなくなりました。それは、主イエスが復活して生きておられ、共にいて下さることを信じた者は、もはやそのお姿をこの目で見る必要はないからです。そしてそれが、洗礼を受けて信仰者として生きる私たちのこの世における生活です。私たちは、復活して生きておられる主イエスが、肉体の目には見えない仕方で共にいて下さることを信じて生きるのです。それは決して不確かな、あやふやなことではありません。むしろ私たちはだからこそ、いつでもどこでも主イエスと共に歩むことができるのです。どのように暗い、困難な状況においても、目に見える現実には何の救いも助けも見出せないような中でも、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して今も生きておられる主イエスが共にいて下さることを信じ、その主イエスに依り頼み、そこに希望を見出すことができるのです。

喜ばしい方向転換
 彼らは「時を移さず出発して、エルサレムに戻っ」たと33節にあります。エルサレムを離れ去ろうとしていた彼らが、方向転換をしたのです。それまでエルサレムは彼らにとって、失望と落胆を与えられた場所でした。期待が裏切られ、自分の努力が全て無駄になった、水泡に帰した、そういう所だったのです。しかし今や、復活して生きておられる主イエスとの出会いによって、同じそのエルサレムが全く新しい意味を持つ場となりました。確かにそこで、彼らの期待は裏切られ、失望落胆に陥ったけれども、そのことを通して、神様が人間の思いをはるかに超えた救いのみ業を行って下さったのです。主イエスが、苦しみを受けることを通して栄光に入り、死の力に打ち勝つ神様の救いを実現して下さったのです。失望落胆の場は、そのような大いなる救いの実現の場となったのです。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現したのはそういう救いの出来事です。彼らはその救いの出来事の中へと、方向転換して戻って行ったのです。洗礼を受けて主イエス・キリストを信じる信仰者となるとはこのような方向転換をすることです。方向転換して向かうのは、それまでと全く違う新しい場所ではありません。それまでいたのと同じ場所、同じ現実、同じ人生です。しかしその意味が全く変わるのです。失望落胆を覚えていた現実が、復活した主イエスが共にいて下さり、神様の救いのみ業を行って下さる場となるのです。それまでと同じ所、同じ現実、同じ人間関係へと、神様の新しい救いの恵みを受けて、主イエスが共にいて下さる中で遣わされていく、それが洗礼を受けて信仰者として生きる者の歩みです。主イエスの復活を覚え、喜び記念するこのイースター、洗礼を受ける四名の方々と共に、私たち全ての者が、この喜ばしい方向転換を与えられ、復活して生きておられる主イエス・キリストと共に歩み出したいのです。

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