夕礼拝

執り成しに生きる民

「執り成しに生きる民」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:民数記 第8章5-22節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一 第2章9-10節  
・ 讃美歌:151、504

民数記前半のクライマックス
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書を読み進めておりまして、先月から第四の書物、民数記に入りました。先月も申しましたが、この民数記は、タイトルの通りにイスラエルの民の人数のことばかりを語っている無味乾燥な、退屈な書だと思われがちです。確かにそういう面はあるのですが、しかし私たちはこの書が聖書正典の中に入れられており、従って教会の信仰の規範とされていることを忘れてはなりません。これが六十六巻の聖書正典の中の一つであるということは、この民数記がもし失われたら、聖書からかけがえのないものが失われる、ということです。無味乾燥だとかつまらないとか言っているだけでなく、民数記こそが語っているかけがえのないメッセージを読み取っていく努力を私たちはしなければならないのです。  先月は第6章の終りの所に記されている、主なる神様が祭司アロンに、イスラエルの民を祝福するためにお示しになった言葉、いわゆる「アロンの祝福」を読みました。イスラエルの民が神様からのこの祝福に支えられて、約束の地への荒れ野の旅を続けて行く、ということが民数記の大事なテーマであることを先月はお話ししました。本日は第8章の5節以下を読みます。ここに、民数記前半の一つのクライマックスがあると言えると思います。そのことを御一緒に確認していきたいのですが、そのためには、1?8章にかけて語られてきたことの全体像をつかまなければなりません。そのために本日は、聖書のあちこちを開いていただきながら話を進めることになりますので、そのつもりでお聞きいただきたいと思います。

幕屋を建て終わった日に
 さて民数記8章は7章から続いている部分です。7章の冒頭の1節に「モーセは幕屋を建て終わった日に」とあります。この「幕屋を建て終わった日」の出来事が7章と8章に語られているのです。「幕屋」とは、出エジプト記の最後の第40章において、主なる神様が建設をお命じになったものです。それは「臨在の幕屋」と呼ばれ、一番奥の「至聖所」に、十戒の刻まれた石の板が納められた「掟の箱」が置かれ、幕で隔てられたその手前の聖所に香をたく祭壇などが置かれ、幕屋の入り口に犠牲の動物を焼いてささげる祭壇が築かれています。祭司として任命されたアロンとその子らがこの幕屋で祭儀を行うのです。この幕屋こそ主なる神様がイスラエルの民と共にいて下さることの目に見えるしるしであり、それゆえに「臨在の幕屋」と呼ばれるのです。彼らはこの幕屋を中心として荒れ野を旅していったのです。民数記7、8章は、その幕屋を建て終わった日のことを語っているのです。  ところで、出エジプト記第40章17節によれば、この幕屋が完成したのは「第二年の第一の月の一日」でした。「第二年」というのは、イスラエルの民が奴隷とされていたエジプトから出た日を第一年の始めとして、そこから数えて第二年ということです。つまりエジプト脱出から丁度一年後の、「第二年の第一の月の一日」にこの幕屋が完成したのです。そのことを頭に置いて民数記の第1章1節を見ていただきたいのですが、そこには「イスラエルの人々がエジプトの国を出た翌年の第二の月の一日、シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった」とあります。「エジプトの国を出た翌年」とは「第二年」です。その「第二の月の一日」とあります。幕屋の完成が「第二年の第一の月の一日」でしたから、1章1節が語っているのは7、8章の一月後のことなのです。民数記は、第二年の第二の月の一日のことから語り始め、7章に入ってその一ヶ月前の「幕屋の完成した日」のことに遡って語っているのです。どうしてそんな語り方をしているのかを考えるためには、7、8章に語られていることと、1章以下に語られていることとの関係を知る必要があります。それを見ていきたいと思います。

神の民イスラエルの基本的陣形
 第7章には、臨在の幕屋が完成して主に奉献され、聖別されて祭儀の場所として用いられ始めるに際して、イスラエルのそれぞれの部族の指導者たちが奉献のための献げ物をささげたことが語られています。十二の部族の長が、一日一部族ずつ、十二日かけて、それぞれ全く同じ内容の献げ物をささげたことが、ご丁寧に十二回繰り返して語られているのです。聖書を通読する者にとってここは、十二回同じことを読まなければならないという最大の試練の場です。しかしこの十二回同じことが語られているということによって、臨在の幕屋においてなされる祭儀こそがイスラエルの十二の部族を一つに結び合わせる絆であることが示されていると言うことができます。また、十二部族が全く同じ献げ物をささげたことに、部族の間に優劣や上下の関係はないことが象徴的に示されているとも言えます。7章の記述からイスラエルの十二の部族の名を確認しておくと、第一日に献げ物をささげたのが12節のユダ族、第二日が18節のイサカル族、第三日が24節のゼブルン族、第四日が30節のルベン族、第五日が36節のシメオン族、第六日が42節のガド族、第七日が48節のエフライム族、第八日が54節のマナセ族、第九日が60節のベニヤミン族、第十日が66節のダン族、第十一日が72節のアシェル族、第十二日が78節のナフタリ族です。けれども、実はイスラエルの民にはこの十二部族の他にもう一つの部族があったのです。それはレビ族です。そのレビ族が清められてイスラエルの民の間での大事な務めを与えられたことが、本日の第8章に語られているのです。レビ族に与えられた務めとは何か。そのことが8章の18、19節にこのように語られています。「わたしはレビ人を、イスラエルの人々のすべての長子の身代わりとして受け取った。わたしはこのレビ人をイスラエルの人々の中から、アロンとその子らに属する者とした。それは、レビ人が臨在の幕屋でイスラエルの人々のために作業に従事し、彼らのために贖いの儀式を行い、イスラエルの人々が聖所に近づいても、災いが彼らにふりかからないためである」。レビ人は、「アロンとその子らに属する者」とされた、と語られています。アロンはモーセの兄弟であり、先程も申しましたように祭司に任命された人でした。「アロンとその子ら」とは祭司たちのことです。モーセとアロンの兄弟はこのレビ族の出身でした。レビ族の中からアロンとその子らが祭司に任命され、そして彼らと同族であるレビ族の人々は、祭司たちに属する者として「臨在の幕屋でイスラエルの人々のために作業に従事し、彼らのために贖いの儀式を行」うという務めを与えられたのです。つまりレビ人の働き、務めは「臨在の幕屋」で祭司たちが行う祭儀のために仕え、この幕屋に関するもろもろの働きを行うことだったのです。このレビ人たちが清められてその任務につくことによってこそ、「臨在の幕屋」はその機能を発揮することができます。従ってこのことは、7章の幕屋の奉献、聖別と不可分に結び付いています。このように7、8章には、第二年の一月に、祭司とレビ人によって営まれる臨在の幕屋における祭儀という神の民イスラエルの中心が整えられ、十二部族が一つに結集する絆、核が 据えられたことが語られているのです。  それに対して第1章以下に語られていることは、このようにして結集されたイスラエルの民の人数とその陣形です。1章には第二年の二月に行われた人口調査のことが語られています。第1章46節には、この調査の結果、イスラエルの民の、兵役に就くことができる二十歳以上の男子の総計は六十万三千五百五十人だったと語られています。それは先ほどの十二部族の総計です。そして1章47節以下には、もう一つの部族であるレビ族のことがこのように語られています。「レビ人は、父祖以来の部族に従って彼らと共に登録されることはなかった。主がモーセにこう仰せになったからである。『レビ族のみは、イスラエルの人々と共に登録したり、その人口調査をしたりしてはならない。むしろ、レビ人には掟の幕屋、その祭具および他の付属品にかかわる任務を与え、幕屋とすべての祭具の運搬と管理をさせ、幕屋の周囲に宿営させなさい。移動する際には、レビ人が幕屋を畳み、宿営する際にはレビ人がそれを組み立てる。それ以外の者が幕屋に近づくならば、死刑に処せられる。イスラエルの人々はそれぞれ所定の位置に、部隊ごとにその旗を掲げて宿営するが、レビ人は掟の幕屋の周囲に宿営し、怒りがイスラエルの人々の共同体に臨まないように、掟の幕屋の警護の任に当たらねばならない』」。「掟の幕屋」と「臨在の幕屋」は同じものです。レビ人はその幕屋に関わる任務を行う部族として、その幕屋の周囲に宿営するように定められたのです。そのことを受けて第2章には、この幕屋を中心として十二の部族がどのような配置で宿営するかが語られています。臨在の幕屋の東にはユダ、イサカル、ゼブルン族が、南にはルベン、シメオン、ガド族が、西にはエフライム、マナセ、ベニヤミン族が、北にはダン、アシェル、ナフタリ族が宿営するのです。このようにイスラエルの民は臨在の幕屋を中心に、その四方を囲む形で宿営しており、中心である臨在の幕屋の周囲には、レビ人が宿営しているのです。これが、荒れ野を歩んでいく神の民イスラエルの民の基本的な陣形なのです。

イスラエルの長子の身代わり―レビ人
 さて3、4章には、レビ人と他の十二の部族の関係のことがまとめて語られています。レビ人は祭司であるアロンとその子らに属する者とされたということを先ほど見ましたが、アロンの子らとは具体的にはエルアザルとイタマルです。この二人が父アロンと共に祭司としての務めを果たしたことが3章3、4節に語られています。一方3章14節以下には、レビ人の人口調査がなされたことが語られています。レビ族には、ゲルション、ケハト、メラリという三つの氏族があったと17節にあり、それぞれの氏族の生後一か月以上の男子の数と、またそれぞれの氏族が臨在の幕屋において果たすべき役割が21節以下に語られています。そして39節には、そのようにして数えられたレビ人の数は二万二千人だったとあります。そしてこの第3章において最も大事なのは、このレビ人たちが、イスラエルの他の十二部族の中の初子、つまり最初に生まれた男子の身代わりとされていることです。そのことが3章11?13節に語られているのです。「主はまた、モーセに仰せになった。見よ、わたしはイスラエルの人々の中からレビ人を取って、イスラエルの人々のうちで初めに胎を開くすべての初子の身代わりとする。レビ人はわたしのものである。すべての初子はわたしのものだからである。エジプトの国ですべての初子を打ったとき、わたしはイスラエルの初子を人間から家畜に至るまでことごとく聖別して、わたしのものとした。わたしは主である」。このことをさらに詳しく語っているのが、本日の第8章16節以下なのです。「彼らはイスラエルの人々の中からわたしに属する者とされている。彼らは、イスラエルの人々のうちで初めに胎を開くすべての者、すなわちすべての長子の身代わりとして、わたしが受け取った者である。イスラエルの人々のうちに生まれた初子は、人間であれ、家畜であれ、すべてわたしのものである。エジプトの国ですべての初子を打ったとき、わたしは彼らを聖別して、わたしのものとした。わたしはレビ人を、イスラエルの人々のすべての長子の身代わりとして受け取った。わたしはこのレビ人をイスラエルの人々の中から、アロンとその子らに属する者とした。それは、レビ人が臨在の幕屋でイスラエルの人々のために作業に従事し、彼らのために贖いの儀式を行い、イスラエルの人々が聖所に近づいても、災いが彼らにふりかからないためである」。このようにレビ人は、「イスラエルの人々のすべての長子の身代わりとして」主がご自分のものとなさった人々なのです。「イスラエルの人々のうちに生まれた初子は、人間であれ、家畜であれ、すべてわたしのもの」だと主は言っておられます。それは3章13節に語られていたように、「エジプトの国ですべての初子を打ったとき、わたしはイスラエルの初子を人間から家畜に至るまでことごとく聖別して、わたしのものとした」からです。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放された時、その決め手となったのは、主なる神様がエジプト中の初子を撃ち殺し、しかしイスラエルの民の初子は守られたといういわゆる「過越の出来事」でした。この出来事は、単にイスラエルの民は撃ち殺されずにすんだ、ということではなくて、このことによって、イスラエルの民の全ての初子は主なる神様のものとなった、ということを意味していたのです。それは決して単なる象徴的、精神的なことではありません。3章40節以下には、イスラエルの十二の部族の中の「生後一か月以上のすべての長子」つまり初子の数を数えるようにとの命令が語られており、43節には、イスラエルの人々のすべての長子の数は二万二千二百七十三人だったとあります。レビ人の数は先程申しましたように二万二千人でした。このレビ人が、イスラエルの全ての長子の代わりに、主に献げられ、主のものとなるのです。全ての長子の数は二万二千二百七十三人で、レビ人の数は二万二千人ですから、全ての長子の身代わりとなるには二百七十三人足りません。それでその二百七十三人の分はお金で祭司に支払われた、ということが46節以下に語られています。レビ人はこのようにして、イスラエルの十二部族の長子、初子たちの代わりに、具体的に主にささげられ、主のものとなったのです。本日の8章5節以下に語られている「レビ人の清めの儀式」はそのことを表しています。10?12節にはこうあります。「そして、レビ人を主の御前に進ませ、イスラエルの人々はレビ人の上に手を置く。次に、アロンはイスラエルの人々の奉納物として、レビ人を主の御前に差し出して主に仕える者とする。レビ人は雄牛の頭に手を置く。アロンは、一頭を贖罪の献げ物として、他の一頭を焼き尽くす献げ物として主にささげて、レビ人のために罪を贖う儀式を行う」。イスラエルの人々がレビ人の上に手を置くことによって、レビ人はイスラエルの人々の身代わりとなり、主への奉納物となります。そして今度はレビ人たちが雄牛の頭に手を置くことによって、雄牛が彼らの身代わりとなり、その雄牛が犠牲として献げられることによってレビ人たちの罪の贖いがなされるのです。このことによって、13?15節に語られていることが実現するのです。「あなたは、レビ人をアロンとその子らの前に立たせ、彼らを奉納物として主に差し出し、レビ人をイスラエルの人々から区別すると、レビ人はわたしのものとなる。その後初めて、レビ人は臨在の幕屋に入って、作業に従事する。あなたは彼らを清め、奉納物としなさい」。レビ人がイスラエルの人々の長子の身代わりとして主への奉納物となり、主のものとなることによって、祭司たちを補佐して臨在の幕屋の作業に従事する者として立てられた、それがこの8章に語られているレビ人の清めの儀式なのです。このことによってイスラエルの民は、臨在の幕屋においてご自身を現し、語りかけて下さる主なる神様を礼拝しつつ、主に導かれて荒れ野を旅していく体制を整えることができたのです。  以上が民数記1?8章のエッセンスです。タイトルをつけるなら、「荒れ野における神の民の陣容」とでもすることができるでしょう。その陣容の中心は臨在の幕屋であり、そこで祭司とレビ人たちが行なう祭儀、礼拝だったのです。民数記は先ずその陣容の全体像を語り、それからその中心、核となっているものは何かを語っているのです。

信仰者の群れの存在意義
 イスラエルの民におけるこのレビ人の存在はとても大事であり、またいろいろなことを考えさせられます。イスラエルが主なる神様の民として歩むことができたのは、このレビ人たちが、民全体の代表あるいは身代わりとして主のものとなり、主に仕える務めを行なっていったことによるのです。私たちはそこに、人類の中に主なる神様を信じ、礼拝する人々がいることの意味を見ることができます。またそれはさらに、ある国ないし民族の中に、主を信じる信仰者の群れが存在していることの意味であると言うこともできます。人類が、あるいはある国ないし民族が、主なる神様に導かれて歩んでいくためには、その中に、全体の人数からすればごく少数であっても、主のものとして聖別された人々が存在するということが必要なのです。その人々が、人類全体の、あるいはその国や民族全体の代表あるいは身代わりとして、主にささげられ、主のものとなり、主に仕えていくことによって、人類に、あるいは国や民族に、中心が出来るのです。核となるものが据えられるのです。そしてまさにそこを中心として、全体が結び合わされ、隊列が整い、また歩むべき方向が示されていくのです。イスラエルの民は、レビ人を中心とするそのような体制を整えて荒れ野の旅路を歩み出した、そのことを民数記は語っているのです。

レビ人として生きる私たち
 私たち信仰者は、教会は、今私たちが生きているこの社会において、レビ人の役割を与えられています。主なる神様を信じ、その独り子イエス・キリストによる罪の赦しと新しい命の救いにあずかって生きる私たちは、この社会において少数者です。しかし私たちは、神様によって選ばれ、召されて、信仰を与えられています。それは主なる神様が私たちを、この社会において、レビ人として、主への奉納物、主のものとされた民として立てて下さったということです。私たちは、この国の、あるいはさらに広く人類全体の、代表として、身代わりとして、信仰を与えられ、主を礼拝し、主に仕える民とされているのです。それは私たちだけが救いにあずかり、神様の恵みを受けるためではありません。私たちの存在が、この国の全ての人々が、また全人類が、主なる神様に導かれ、その祝福の下を歩んでいくための中心、核となる、そのために私たちは選ばれ、信仰を与えられ、遣わされているのです。そんなこと、世間の人々は誰も思っていませんが、しかし全てを造り支配しておられる神様は私たちをそのように見つめておられるのです。

執り成しに生きる民
 本日共に読まれた新約聖書の箇所はペトロの手紙一の第2章9、10節です。9節の前半に「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」とあります。レビ人がイスラエルの民の中で選ばれ、祭司を補佐して祭儀を司る者とされたように、主イエスを信じる信仰者は、人類の中で、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」なのです。私たち信仰者が特別立派な人間だから選ばれたわけではありません。私たちに何か功績があったから抜てきされたのでもありません。10節にこうあります。「あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」。弱い罪人である私たちが選ばれて神の民、祭司の民とされたのは、ひとえに神様の憐れみのみ心によることです。神様は独り子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪を赦し、神の子として下さったのです。私たちはその憐れみに感謝して、その恵みに応えて、祭司の民としての務めを果していくのです。祭司の民は人々の間で何をするのか、何をすることによって祭司としての務めを果たすことができるのか、それが9節後半に語られています。「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」。祭司の務めとは、神様と人々との間に立って執り成しをすることです。レビ人も、イスラエルの十二部族と主なる神様の間に立って贖いの儀式を行なうことによって、人々の罪が赦され、神の民として歩めるように奉仕しました。私たちもこの社会において、そういう役割へと神様によって立てられているのです。私たちにおける執り成しの働きは、動物の犠牲を献げることではありません。罪の贖いのための犠牲は、主イエス・キリストが、十字架の上でご自分の命をささげて下さったことによって既に完全に成し遂げられているのです。私たちのなすべきことは、独り子イエス・キリストの十字架の死によって私たちを「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった」神様の力ある救いのみ業を、人々に広く伝えていくこと、キリストの十字架による救いの福音を伝道していくことです。福音を伝道していくことによってこそ私たちは、今のこの社会において、レビ人として、執り成しに生きる民として歩むことができるのです。

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