夕礼拝

救いに至る賢さ

「救いに至る賢さ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ヨシュア記 第9章1-27節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第16章1-13節
・ 讃美歌:136、456

祝福と呪い
 私が夕礼拝の説教を担当する日は今、旧約聖書ヨシュア記からみ言葉に聞いています。前回、10月には第7章を読みました。そこには、神の約束の地であるカナンに入ったイスラエルの民が、アイという町を攻め取ろうとした時のことが語られていました。大して強い相手ではないから楽に攻め取れると思っていたのに、打ち破られ、追い返されてしまったのです。それは、イスラエルの民の中に、主なる神の命令に背いて、神に献げるべきものを自分のものにしてしまっていた者がいたからでした。次の第8章には、その罪人を除き去ったイスラエルが再度アイを攻め、ついに攻略することができたことが語られています。その8章の終わりの方の30節以下には、ヨシュアがエバル山に主なる神の祭壇を築き、犠牲を献げたことが語られています。8章33節を読むと分かるように、この祭壇はゲリジム山とエバル山という二つの山の間に築かれたようです。新共同訳聖書の後ろの付録の地図の3「カナンへの定住」を見ると、丁度真ん中あたりに、北にエバル山、南にゲリジム山とあり、その間にシケムという町があります。このシケムが、この祭壇のあった所です。ヨシュア記においてこのシケムは大変重要な町です。最後の24章には、死を前にしたヨシュアが、このシケムに全イスラエルを集めて、主なる神にのみ従い、他の神々に心を向けることは決してしない、という契約を結ばせたことが書かれています。8章30節以下に語られている祭儀も、このシケムの契約と関係があると思われます。34節に、ヨシュアが「律法の言葉すなわち祝福と呪いをことごとく」読み上げた、とあります。それはつまり、主なる神に従い、主のみを礼拝して歩むなら祝福が、主を忘れ、他の神々に心を向け、偶像を拝むなら呪いが与えられる、ということです。イスラエルの民はその祝福と呪いを、アイという町の攻略において具体的に体験したのです。そのことが7章と8章に対照的に語られていたのです。

滅ぼし尽くせという命令
 さて、アイを攻め落とし、その住民を滅ぼし尽くしたイスラエルの噂はこの地方の全ての人々に伝わっていきました。イスラエルが彼らを滅ぼし尽くしたのは、申命記7章1-5節にある主の命令によることでした。そこを読んでおきます。「あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離してわたしに背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅ぼされるからである。あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、石柱を砕き、アシェラの像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである」。このように、これらの民を滅ぼし尽くせという命令の意図は、他の神々を拝む礼拝、祭儀がイスラエルの民の中に入り込んで来て、主なる神の祝福が失われてしまうことがないように、ということです。今日の私たちの感覚ではこれはまことに残虐な、非人道的な命令ですが、主なる神のみを拝み、主にのみ仕えることが何よりも大切であるという信仰が、古代の感覚においてはこのような仕方で語られたのです。

ギブオンの住民の策略
 本日の9章1節には、今の申命記7章1節にも出て来たいくつかの民の王たちが同盟を結んで、自分たちを滅ぼし尽くそうとしている侵略者であるイスラエルと戦おうとしたことが語られています。ところが、彼らの中の一つの町ギブオンの住民だけは彼らとは全く違った行動に出ました。イスラエルと協定を結ぼうとしたのです。つまりイスラエルから、彼らを滅ぼさないという約束を取り付けようとしたのです。ギブオンの住民は、イスラエルと戦うのではなくて、協定を結ぶことによって生き延びようとしたのです。
 しかしカナンの地の住民とこのような協定を結ぶことは、先ほどの申命記7章において、主なる神から固く禁じられていました。「彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない」と言われていたのです。そのことはギブオンの人々も知っていました。そこで彼らは策略を立てました。自分たちはこの地に住む者ではなく、遠い国から来た者であると見せかけたのです。そのために彼らは、イスラエルの民の陣営から三日ほどの所にいるのに、何ヶ月もかけて旅をしてきたかのように扮装しました。4節にあるように「彼らは使者を装い、古びた袋、使い古して繕ってあるぶどう酒の革袋をろばに負わせ、継ぎの当たった古靴を履き、着古した外套をまとい、食糧として干からびたぼろぼろのパンを携えた」のです。そのような姿でイスラエルの民の所に来て、「わたしたちと協定を結んでください」と願ったのです。彼らがヨシュアに言った9節以下の言葉を読んでみます。「僕どもはあなたの神、主の御名を慕ってはるかな遠い国から参りました。主がエジプトでなさった一切のことも、ヨルダン川の東側のアモリ人の二人の王、すなわちヘシュボンの王シホンとアシュタロトにいたバシャンの王オグになさったことも、ことごとく伝え聞きました。わたしたちの長老はじめ国の住民は皆、わたしたちに、『旅の食糧を手に携え、彼らに会って、わたしたちはあなたたちの僕です、どうか今、わたしたちと協定を結んでくださいと言いなさい』と申しました。御覧ください。これがわたしたちのパンです。ここに来ようと出発した日に、食糧として家から携え出たときにはまだ温かかったのが、今はすっかり干からびてぼろぼろです。このぶどう酒の革袋も酒を詰めたときは真新しかったのですが、御覧ください、破れてしまいました。わたしたちの外套も靴も、はるかな長旅のため、古びてしまいました」。このような彼らの姿と言葉とによって、イスラエルの人々は、ヨシュアも含めて騙されたのです。14節には「男たちは彼らの食糧を受け取ったが、主の指示を求めなかった」とあります。つまり彼らが騙されたのは、主の指示を求めなかったからだったのです。主なる神のみ心を尋ね、その指示を求めることなしに人間が自分の思いや感覚で事を判断すると、このように騙され、失敗するのです。

主の前での契約
 ヨシュアとイスラエルの民はこのようにまんまと騙され、彼らと協定を結び、誓いを立てました。「彼らの食糧を受け取った」と14節にありますが、以前の口語訳聖書には「そこでイスラエルの人々は彼らの食料品を共に食べ」となっていました。原文の言葉は「受け取る」なのですが、その意味は口語訳のように、彼らから食糧を受け取り、それを彼らと共に食べたということです。食事を共にすることは聖書において非常に重要な意味を持っています。双方が共に食事をすることによって契約が結ばれるのです。ここで「協定」と訳されているのは「契約」という言葉です。口語訳は「契約」となっていました。神がイスラエルの民と結んで下さる契約と同じ言葉が使われているのです。つまりここでイスラエルの民はギブオンの住民と単なる協定を結んだのではなくて、契約を結んだのであり、「共同体の指導者たちもその誓いに加わった」とあるのは、主なる神の前での誓いがなされたということなのです。
 しかし三日後には、彼らがカナンの地に住む、主が滅ぼし尽くすことを命じておられた民だったことが明らかになりました。私たちの感覚では、騙されて結んだ契約は無効であり、解約できるはずです。しかし聖書における契約はそうではありません。主なる神に誓って結ばれた契約は取り消され得ないのです。例えば、アブラハムの子イサクが高齢になって、長男エサウを跡継ぎとして祝福しようとしたのに、騙されて弟ヤコブを祝福してしまったという話が創世記27章にあります。その祝福は後から取り消そうとしても取り消すことはできなかったのです。この場合もそれと同じです。ヨシュアたちは自分たちを欺いたギブオン人を非難しましたが、滅ぼすことはせず、彼らを奴隷としました。ギブオン人は奴隷となってイスラエルの民の中に生き残ったのです。最後の27節に「ヨシュアは、その日、彼らを共同体および主の祭壇のため、主の選ばれた所で芝刈りまた水くみとした。それは今日まで続いている」とあります。このような表現は、この話が、イスラエルの民の中に今ヒビ人に属するギブオン人たちが奴隷として生きており、芝刈りや水くみの仕事をしている、どうしてそうなったのか、を説明するための話として語られたことを示しているのです。

救いに至る賢さ
 さて私たちはこの話からどのようなメッセージを読み取ればよいのでしょうか。ここには、イスラエルの民を騙して、策略によって滅びを免れた人々のことが語られています。彼らギブオン人は、本来なら滅ぼし尽くされるはずだったのです。それは彼らがイスラエルに太刀打ちできない弱い民だったからではありません。主なる神がそうお命じになっていたからです。だから彼らは、他の民族と同盟して軍勢をどんなに集めても無駄なのです。その状況の中で彼らは4節にあるように「賢く立ちまわ」りました。策略を巡らして滅亡を免れ、生き延びることができたのです。つまり彼らには、救いに至る、あるいは少なくとも滅びを免れる賢さがあったのです。その賢さをこそ私たちはこの話から見つめるべきなのです。

彼らの賢さ
 彼らはどこが賢かったのでしょうか。それは、自分たちはもう滅びるしかない、戦っても、抵抗しても無駄だ、ということを彼らがはっきり悟っていたことだと言うことができます。他の民はそうは考えなかった。何とかしてイスラエルの侵略を阻止するために力を合わせて戦おうとしたのです。戦って事態を乗り切ろうとしたのです。しかしギブオンの人々は最初から戦うことを放棄しています。その思いが24節に語られています。「あなたの神、主がその僕モーセに、『この地方はすべてあなたたちに与える。土地の住民をすべて滅ぼせ』とお命じになったことが僕どもにはっきり伝わって来たので、あなたたちのゆえに命を失うのを非常に恐れ、このことをいたしました」。主なる神がこの土地の住民を全て滅ぼせとお命じになったから、自分たちはいくら戦っても勝ち目はない、ということを彼らははっきりと自覚しているのです。主なる神の前ではもう滅びるしかない、その事実をはっきり認めた上で、その滅びから何とかして逃れるすべはないかと彼らは必死で考え、策略を立て、それによってついに滅びを免れたのです。彼らのしたことは、同盟してイスラエルと戦おうとした他の王たちと比べて、いかにも弱腰の敗北主義に見えます。しかし結果的には彼らは、他の王たちよりもはるかに賢い、適切な行動を取ったのです。

不正な管理人のたとえ
 これと同じような話が新約聖書の、主イエスがお語りになったたとえ話にあります。それが本日共に読まれたルカによる福音書16章の、いわゆる「不正な管理人のたとえ」です。主人の金を着服していた管理人がいました。そのことが主人に伝わり、監査が入ることになったのです。このままではクビになると悟った彼は、まだ管理人の地位にある間に、主人から借金をしている人たちを集めてその借用証書を書き換え、借金を減額してやったのです。そうして彼らに恩を売っておけば、クビになった時に迎えてもらえ、路頭に迷わずにすむだろう、ということです。これはとんでもない不正です。犯罪に犯罪を重ねるような行為です。しかしこのたとえ話では、主人は彼の抜け目のないやり方をほめた、と語られています。つまり主イエスはこのたとえ話において彼の賢さを評価しておられるのです。その賢さとは何か、それは彼が、自分の置かれている状況、つまりこのままではクビになり路頭に迷うことを正確に把握し、それを免れるためにできることを必死に考え、なりふり構わずそれを実行したことです。その的確な状況判断と大胆な行動が評価されているのです。16章8節の後半で主イエスは「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」と言っておられます。「この世の子ら」とは、神のことなどこれっぽっちも思わず、この世の論理だけで生きている者です。つまりこの「不正な管理人」のような人です。「光の子ら」とは、神を信じる信仰者のことです。主イエスはその「光の子」である信仰者に語りかけておられます。この世の子らが自分の置かれた状況をシビアに、的確に判断して策を立て、それを大胆に行っている、それに比べてあなたがたは、自分の置かれている状況が見えていないのではないか、余りにも呑気に構えて、必要なことを行っていないのではないか、そのように主イエスは言っておられるのです。ギブオンの住民がしたことも、この不正な管理人と同じです。この話は、「不正な管理人のたとえ」で主イエスが語っておられるのと同じことを私たちに問いかけているのだと思うのです。

罪のゆえに滅びるしかない私たち
 私たちが置かれている状況とはどのようなものでしょうか。それは、神に背き逆らう罪の故に滅びるしかない、ということです。私たちは、神から財産を預けられている管理人です。預けられているものは人によってそれぞれ違っていますが、神から預けられたものを管理し、用いて生きているのが私たちの人生なのです。そして間もなく神による監査が行われます。預けられたものを私たちがどのように用いたか、主人のものを浪費したり、私物化していないかを問われる時が来るのです。それが神による審きということですが、その審きを前にして私たちは、あの不正な管理人と同じ立場にあるのではないでしょうか。神が預けて下さったものを、神のみ心に適う仕方で用いるのではなくて、自分のものとして使い込んでおり、好き勝手に浪費してしまっているのではないでしょうか。そのような罪に陥っている私たちは、あのギブオンの人々と同じように、主なる神によって滅ぼし尽くされるしかない者なのです。ところが私たちは、そのことに対して非常に鈍感です。呑気です。自分の力で頑張ればどうにかなると思っている。それは、あの王たちが同盟してイスラエルと戦おうとしたのと同じです。彼らは彼らなりに必死だったのかもしれません、悲壮な思いで戦いに臨もうとしていたのかもしれません。しかし根本的には彼らは呑気なことをしていたのです。役に立たないことをしていたのです。それは、本当の現実が見えていなかったからです。その中で、ギブオンの住民だけが、事柄の本当の深刻さを見つめていました。そして、自分たちが生き残るためのただ一つの道を見出して、その道をなりふり構わず歩んだのです。

救われるためのただ一つの道
 彼らが生き残るためのただ一つの道、それは、彼らを滅ぼそうとしておられる主なる神に依りすがり、その下での契約を取り付けることでした。主なる神の契約の下に置かれることこそが、救われるための唯一の道だったのです。このことは、実は彼らギブオンの住民だけでなく、イスラエルの民においても同じでした。イスラエルの民だって、無条件に救いを約束されているのではありません。彼らも、主なる神との契約の下に置かれるという恵みによって神の民とされ、救いにあずかる者とされたのです。そのイスラエルの民が、そのことを忘れてしまって、主なる神に聞き従い、主を礼拝することをやめて、自分たちに豊かさを与えてくれる他の神々、偶像の神々に心を向けてしまうならば、主との契約において彼らに与えられていた祝福は呪いに変わってしまうのです。本日の箇所で彼らが「主の指示を求めなかった」のはそういう思いによってです。主に従い、主の指示を受けて歩むのでなく、自分で判断できる、自分の力でやっていける、と思ってしまったのです。彼らイスラエルの民も、主なる神の下でこそ生きることができるという自分の本当の現実を見失って、主を抜きにする歩みに陥ってしまったのです。本日の話においては、ギブオンの住民のみが、主なる神との契約にあずかることにこそ救いが、滅びを免れる道があることを意識しています。彼らはその契約の恵みをなりふり構わず求めたのです。その彼らの救いに至る賢さをこそ、私たちはここから学ぶ必要があるのです。

契約に忠実であって下さる主
 旧約聖書の中には、このイスラエルとギブオンの住民との契約のことが語られている箇所がもう一つあります。それはサムエル記下の第21章1-9節です。そこを読んでみます。「ダビデの世に、三年続いて飢饉が襲った。ダビデは主に託宣を求めた。主は言われた。『ギブオン人を殺害し、血を流したサウルとその家に責任がある。』王はギブオン人を招いて言った。-ギブオン人はアモリ人の生き残りで、イスラエルの人々に属する者ではないが、イスラエルの人々は彼らと誓約を交わしていた。ところがサウルは、イスラエルとユダの人々への熱情の余り、ギブオン人を討とうとしたことがあった。ダビデはギブオン人に言った。『あなたたちに何をしたらよいのだろう。どのように償えば主の嗣業を祝福してもらえるだろうか。』ギブオン人はダビデに答えた。『サウルとその家のことで問題なのは金銀ではありません。イスラエルの人々をだれかれなく殺すというのでもありません。』ダビデは言った。『言ってくれれば何でもそのとおりにしよう。』彼らは王に答えた。『わたしたちを滅ぼし尽くし、わたしたちがイスラエルの領土のどこにも定着できないように滅亡を謀った男、あの男の子孫の中から七人をわたしたちに渡してください。わたしたちは主がお選びになった者サウルの町ギブアで、主の御前に彼らをさらし者にします。』王は、『引き渡そう』と言った。しかし、王はサウルの子ヨナタンの息子メフィボシェトを惜しんだ。ダビデとサウルの子ヨナタンとの間には主をさして立てた誓いがあったからである。王はアヤの娘リツパとサウルの間に生まれた二人の息子、アルモニとメフィボシェトと、サウルの娘ミカルとメホラ人バルジライの子アドリエルとの間に生まれた五人の息子を捕らえ、ギブオン人の手に渡した。ギブオンの人々は彼らを山で主の御前にさらした。七人は一度に処刑された。彼らが殺されたのは刈り入れの初め、大麦の収穫が始まるころであった」。これもまた何とも血生臭い残酷な話です。しかしここに語られていることの中心は、主なる神が、ご自分の下でイスラエルとギブオンの人々が交わした契約を、それがあのように騙されて交わしたものであったにもかかわらず、大切にしておられ、それを破る者には怒りをもって臨まれる、ということです。「お前たちは本当は滅ぼし尽くされるべき者だったのに、私の民を騙して契約を結んでしまった。そんな奴らのことは知ったことか」とは主はおっしゃらないのです。彼らの血を流したサウルの子孫七人を犠牲にしてまでも、主はご自分の下で結ばれた契約を守ろうとされるのです。主なる神のもとでの契約を取り付けようとしたあのギブオンの人々の行為が、本当に賢明な、まことに賢いものだったことがここからはっきりと分かるのです。主なる神は、契約にどこまでも忠実であって下さる方です。契約の相手であるイスラエルの民がその契約を破って背き、罪に陥ったにもかかわらず、主は、ご自分の独り子イエス・キリストを救い主として遣わし、その命を犠牲にして、罪人の赦しを実現し、新しい契約を、主イエスを信じる者たちと結んで下さったのです。サウルの七人の子孫が先祖の罪のために殺されたのが残酷であるならば、神の独り子主イエス・キリストが、ご自分は何の罪もないのに、私たちの罪を全て背負って十字架にかけられ、殺されたことは、同じように、あるいはそれ以上に残酷なことです。しかし主なる神はそこまでして、契約を貫いて下さったのです。

救いに至る賢さに生きよう
 私たちは、元々神の民なのではありません。罪の内に死んでおり、滅ぼされるしかない者でした。しかしその私たちに神は、独り子イエス・キリストの十字架の死によって、神との契約にあずかる道を開いて下さいました。その契約にあずかることこそが、私たちが救いに至るただ一つの道です。ギブオンの住民と同じように私たちも、この神の契約の恵みをひたすら求め、それに依り頼んでいくという、救いに至る賢さをもって歩みたいのです。洗礼を受けることによって私たちはこの契約の恵みにあずかります。しかし既に洗礼を受けて神の民とされた者たちも、その恵みを忘れて鈍感になり、呑気さに陥ってしまうことがあります。私たちは、主イエス・キリストによって神が与えて下さった契約にしっかり留まって、その恵みをこそ真剣に求めていくまことの賢さに生きていきたいのです。

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