「あなたは神の子です」 副牧師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: イザヤ書 第65章13-19節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第14章22-36節
・ 讃美歌 : 447、287
はじめに
本日はマタイによる福音書第14章22節から33節をご一緒にお読みしたいと思います。主イエス・キリストが、弟子たちのところに来て下さるという話しです。弟子たちは小さな舟に乗っておりました。その舟はガリラヤ湖の強風によって、波は逆巻き大変な状況にありました。そのような中で主イエスが水の上を歩いて、漕ぎ悩んでいる弟子たちの舟のところまで来られたという話です。この話は私たちの理解しょうとするときに、合理的に説明しようとする試みがなされます。主イエスは浅瀬を歩いておられたのだ、弟子たちがそれを、水の上を歩いていると勘違いしたのだ、と解釈する註解者もあります。主イエス・キリストは湖の中で荒れ狂う風と波に翻弄され恐れを抱きながら闘っている舟の人々に語りかけられました。27節の御言葉です。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と語りかける主イエス・キリストのお姿が描かれています。
教会と重ね合わせて
弟子たちだけが乗った小舟が、ガリラヤ湖へと漕ぎ出していきます。主イエスはそこに同船しておられません。弟子たちは自分たちだけで向こう岸へと向わなければならなかったのです。その舟がしかし、逆風のため波に悩まされ、漕ぎ悩んでいます。弟子たちは一晩中、何とかして舟を進めようと努力しましたが、いっこうに成果はあがらないのです。弟子たちの心には次第に不安と恐怖が募っていったことでしょう。逆風に悩む弟子たちの小舟、それはこの世を歩む教会の姿を象徴しています。教会に連なる信仰者たち、私たちはこの舟に乗り込んでいる弟子たちなのです。そして教会という私たちのこの舟は、しばしば逆風によって漕ぎ悩んでしまう、時として嵐にあって沈みそうになってしまう小舟なのです。私たちが主イエス・キリストを信じる信仰者となって、即ち洗礼を受けて教会に連なる者となって生きていくときに、私たちは教会という小舟に乗ってガリラヤ湖へと漕ぎ出していくことになるのです。22節に、「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」とあります。弟子たちは、自分たちの意志で向こう岸へ行こうと思って漕ぎ出したのではありません。主イエスに強いられたのです。主イエスに命令されたのです。主イエスは何故そんな危険なことを命じられるのか、と思ってしまいます。私たちもまた、いろいろなきっかけによって教会の礼拝に集うようになり、そこで聖書の教え、主イエス・キリストによる神様の恵み、キリストの十字架の死による罪の赦しの福音を聞きます。そしてそれが自分に与えられている恵みだと信じるようになり、その救いにあずかりたいと願うようになり、信仰を告白して洗礼を受け、教会の枝、信仰者になります。その時から私たちは、一人の信仰者として、主イエスの弟子としてこの世を生きる者となるのです。しかしこの世には、主イエス・キリストによる救いの恵みを否定する力が働いています。神様を信じ、従うことを拒む人間の思いがうず巻いています。この世には、信仰にとっての逆風がいつも吹き荒れているのです。ですから私たちが信仰者として生き始めた途端に、私たちは逆風の中に漕ぎ出していくことになるのです。信仰は持つけれども、舟に乗って漕ぎ出すことはせずに陸に留まっているということはあり得ないのです。
主に命じられて
この舟に主イエスが乗り込んでおられません。主イエスは、弟子たちだけで先に向こう岸に行くように命じておられたのです。このこともまた、この世における教会の歩み、私たちの信仰の歩みの姿なのです。しかし主イエスは教会と、私たちと、共にいて下さらないのでしょうか。教会は、私たちは、自分たちの力だけで、この世の荒波を乗り越えて信仰者として歩んでいかなければならないのでしょうか。この福音書の最後の場面で、復活された主イエスが、弟子たちを全世界へと遣わすに際して、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語られました。このように約束して下さったのです。主イエスはそのように、いつも私たちと、教会と共にいて下さるはずなのではないのでしょうか。その通りなのです。主イエスはいつも共にいて下さるのです。けれども、その主イエスを私たちはこの目で見ることはできません。手で触れることもできません。主イエスが共にいて下さることは、信じるしかないことなのです。主イエスが私たちの日々の歩みについて、「こうしなさい、ああしなさい」という指示を与えてくれるわけでもありません。私たちはやはり自分で考え、自分で決断しつつ、信仰者として日々を歩んでいくのです。それは、弟子たちが、自分たちだけで向こう岸へと漕ぎ進んでいく、その船旅と同じであると言えるでしょう。主イエスが乗っておられないというこのたびの状況は、私たちの信仰の歩みのこの面を言い表しているのです。
驚くべきことが
弟子たちの舟は一晩中、逆風に悩まされ、漕ぎ悩んでいました。そして、夜明けごろ、主イエスが水の上を歩いて彼らの舟へと近づいてこられたのです。マタイによる福音書ではそのことを、「イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」と言っています。主イエスが弟子たちのところへ行かれたのです。つまり、弟子たちと、教会といつも共にいて下さる主イエスご自身を示して下さろうとしているのです。水の上を歩いてきたということの意味はそこにあります。主イエスが神の子としてのみ力によって、共にいて下さるご自身を示し、苦しみ悩んでいる弟子たちに救いのみ手を差し伸べて下さっているのです。けれども、主イエスを見た弟子たちは、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげました。主イエスが、共にいて下さるご自身を示して下さり、弟子たちのところに近づいてくださったとき、弟子たちはおびえたのです。主イエスが救いのみ業をなして下さる時に、弟子たちはかえって恐れを覚えてしまったのです。水の上を歩いて来る主イエスを見て幽霊だと思ってしまったということは、弟子たちが主イエスを、人間の常識に捕えられた自分の思いの中でしか捉えていなかったということです。自分たちの常識、人間の考えられること、思い、人間の思いの範囲内で主イエスを捉えていたのです。主イエスは、私たちの人間としての思いをはるかに超えた方です。主イエスの与えて下さる恵みや救いは、私たちが恵みとは、救いとはこのようなものだろうと思っていることをはるかに超えているのです。共にいて下さる主イエスがご自身を示され、御業を示して下さるときに、私たちは、私たちの思いを超えた恵みの力に直面するのです。
わたしはある
そのように恐怖を覚え、あわてふためく弟子たちに、主イエスは、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけられます。「わたしだ」というのは、「幽霊などではない、わたしだよ」という意味でもあります。更にこの言葉に深い意味があります。これは英語で言えば「I am.」というだけの、とても単純な言葉です。この文脈では「わたしだ」と訳すのがよいわけですが、「わたしはある」と訳すことも出来る言葉です。この言葉は旧約聖書の出エジプト記第3章14節で使われております。主なる神様がモーセに現れ、ご自身をお示しになった時の言葉、「わたしはある」と同じなのです。それゆえにこの「I am.」に大変、短い単純な言葉は、聖書において、主なる神様が人間にご自身をお示しになる時の言葉となりました。それを主イエスはここで使っておられるのです。ですからこれは単に「幽霊などではない、わたしだ」ということを言っているだけではありません。主イエスがまことの神として弟子たちにご自身を現わされたのです。「恐れることはない」という言葉がそれに続いていることもそこで意味を持ってきます。例えばルカ福音書第二章のクリスマスの話で、羊飼いたちに天使が現れ、主の栄光に照らされた時、彼らは非常に恐れたのです。すると天使が、「恐れるな」と言い、そして救い主の誕生という喜びを告げるのです。「恐れるな」という言葉はそのように、生ける神と出会い、神の栄光に触れた者が恐れを抱かずにはおれない、そこに神様から告げられる恵みの言葉です。生けるまことの神様が、恵みをもってあなたに臨んでいるのだ、ということを告げる言葉です。その恵みの内容を語っているのが、最初の「安心しなさい」という言葉です。これは、9章の2節と22節で、主イエスが病気で苦しんでいる人を癒すときに、「元気になりなさい」と言われたのと同じ言葉です。逆風の中で行き悩み、不安と恐怖に捉えられている弟子たちのもとに、主イエスはまことの神としてご自身を現し、彼らを癒し、慰め、力づけて下さっているのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」というみ言葉はそういうことを言い表しています。そして、主イエスが共にいて下さるというのは、このみ言葉が私たちにも響くということなのです。私たちの信仰の歩みは、弟子たちだけでガリラヤ湖を渡っていくこの船旅に似ています。主イエスは、私たちのところに来て下さり、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけて下さるのです。
信仰者の原型
主イエスのこのみ声を聞いたペトロが、それに反応します。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と言ったのです。このペトロの言葉は、主イエスの「わたしだ」という言葉に応答しているのです。「わたしだ」という主イエスの言葉に対して、「あなたであるなら」と言っているのです。つまり彼は、主イエスがまことの神としてご自分を現わされたことにすばやく応答しているのです。私たちはここに信仰の原型を見出すことが出来ます。神様がご自身を示されたことに人間が応答する、それが信仰です。ですからこのペトロは信仰者の代表です。そこで彼が言ったことは、「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」ということでした。ペトロは自分が特別な力を得ることを求めているのではありません。ペトロは主イエスに「私に命令してください」と言っているのです。まことの神であられる主イエスの命令、み言葉があれば、自分が水の上を歩いて主イエスのもとに行くことだって可能だ、と言っているのです。ですからここで、示されているのは自分の力ではなくて主イエスの力、権威です。主イエスがまことの神としてご自身を現わされた、それに応答して彼は、あなたこそまことの神であられることを信じます、まことの神として、私に命令して下さい、み言葉を下さい、そうすれば私が水の上を歩くことだって可能であると信じます、と言ったのです。ですからこれは、主イエスに対する信仰の告白です。このペトロの姿には、全ての信仰者の見倣うべき模範があります。
主に促されて
私たちが、主イエス・キリストを信じ、主イエスの弟子としてこの世を歩んでいくことは、水の上を歩いていくような事柄ではないでしょうか。水の上を歩くことは、本来私たちには出来ないことです。あり得ないことです。私たちが、主イエス・キリストを生けるまことの神の独り子と信じ、その主イエスの十字架の死による罪の赦しを信じ、その復活を信じ、それが私たち自身の復活の先駆けであり、私たちの肉体の死の彼方に、神様が新しい命と体を与えて下さるという恵みを示しているのだと信じて、喜びと希望をもってこの世を歩んでいく、そんなことも、本来私たちがしようとして出来ることではありません。あり得ないことなのです。一人の人が、主イエス・キリストによる神様の救いの恵みを信じて生きるということは、水の上を歩いていくような驚くべき奇跡なのです。そのような奇跡が、まことの神であられる主イエスのみ言葉によって、私たちに起っているのです。
恐ろしくなり
主イエスはペトロのこの信仰の告白に応えて、「来なさい」と言われました。ペトロは主イエスのそのみ言葉を頼りに、舟から降りて水の上を歩き始め、主イエスのもとへと進んでいったのです。ペトロは一心に主イエスを信頼し、主イエスのみ言葉に信頼して歩みました。そのことによって、ペトロは確かに水の上を歩いたのです。けれども次の瞬間、「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけた」。とあります。ここは口語訳聖書では「風を見て恐ろしくなり」となっております。ペトロは、風を見てしまったのです。風そのものは見えないとすれば、風によって逆巻く波を見たのです。主イエスを信頼し、主イエスを見ていた目を逸らして、自分を取り巻く周囲の状況に目を奪われたのです。するとすぐ、恐ろしくなった。そうしたら、水の上を歩けていたはずの足が沈み出したのです。主イエスを一心に見つめ、み言葉に信頼して、主イエスがお命じになるなら、この自分が水の上を歩くことだって起こる、と信じていた時には、本当にそれができたのに、ひとたび主イエスから目を離し、周囲の状況、教会や自分を取り巻く逆風、困難、また自分の弱さを見てしまう時に、人間の限界が自分の限界になってしまうのです。水の上を歩くことなどできるわけがない、その通りになってしまうのです。
主に救われて
ペトロは沈みそうになり、「主よ、助けてください」と叫びました。それは「救ってください」という言葉です。主イエスはすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえ、ペトロと共に舟に上がって下さいました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と主イエスは言われます。信仰の薄いとは、信仰が小さいという言葉です。私たちは、本当に小さな信仰しか持っていません。主イエスを信頼し、み言葉を信じて歩み出すけれども、すぐに周囲に目が行ってしまい、主イエスを見つめるのではなく、周囲の困難な状況を、あるいは自分の弱さを見るようになり、結局溺れそうになってしまうのです。しかし主イエスはその小さな信仰しか持っていない私たちを、神の子としての強い力でしっかりと捉えて下さり、共に舟に上がって下さるのです。主イエスが共にいて下さる教会の中に抱き止めて下さるのです。その時、舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言って主イエスを拝んだのです。ここに、教会があります。私たちの信仰は小さなものです。み主イエスの御言葉に信頼し続けることができずに、周囲の状況を見て恐ろしくなり、沈みかけてしまう私たちであります。主イエスによってしっかりと捉えられ、その十字架の死によって罪を赦され、主イエスこそ神の子と告白する、ことです。
それぞれが遣わされて
私たちはこれより、礼拝堂をより出て、それぞれの場へと遣わされます。主イエスによって、信仰の船旅へと、促され、私たちは漕ぎ出します。私たちの目には主イエスは見えません。私たちは、私たちだけで逆風逆巻くこの世の荒海へと漕ぎ出していくのです。それでは主イエスは、弟子たちが一晩中逆風に漕ぎ悩んでいた時に、何をしておられたのでしょうか。23節にそれが語られています。「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」。主イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、漕ぎ出させてから、ひとり山に登り、そこで祈っておられたのです。その祈りの中に、弟子たちの舟のこと、彼らだけで向こう岸へ向けて漕ぎ進んでいく船旅のこと、逆風に悩まされている彼らの苦しみ、不安、恐れのことが覚えられていたのです。私たちの信仰の歩み、その船旅に、主イエスは目に見える仕方で共にはおられません。私たちの信仰の生活は、主イエスが船長としてあれこれ指示してくれて、私たちはただその通りにしていればよい、というようなものではないのです。私たち一人一人の信仰の生活においても、また教会の歩みにおいても、私たちが考え、決断し、実行していかなければならないことが沢山あるのです。しかしそのような私たちの歩みが、主イエスの祈りに覚えられている、主イエスが父なる神様に私たちのことをとりなしていて下さる、そのとりなしの中で、私たちは歩んでいるのです。そして私たちのことをしっかりと覚え、とりなしていて下さる主イエスが近づいて来て下さるのです。主イエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」語りかけて下さるのです。