夕礼拝

兄弟を赦す

「兄弟を赦す」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 申命記 第24章17節―22節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第18章21―35節
・ 讃美歌 : 436、457

仲間を赦さない家来
 本日はマタイによる福音書第18章21節から35節の御言葉に聞きたいと思います。本日の箇所は主イエスのたとえ話しでありますが、その前に主イエスとペトロの問答があります。ペトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したらなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と主イエスに問いかけました。主イエスは「あなたに言っておく。七回どころから七の七十倍までも赦しなさい。」主イエスのお答えはもちろん、490回まで赦しなさいということではありません。赦すとはどういうことか、たとえ話を通して語っておられるのです。

借金を赦されて
 主イエスの語られたたとえ話しはこのような話しです。ある王様から、家来がお金を借りていました。額は一万タラントンです。一タラントンとは六千デナリオンです。一デナリオンというのは当時の労働者の一日の賃金の相場でした。ですから一タラントンは六千日分の賃金となります。一年に三百日働くとすれば、それは二十年分の賃金ということになります。一万タラントンはその一万倍ですから、一人の人が一万タラントンを稼ぐには二十万年かかるという計算になります。この一万タラントンとは絶対に返すことのできない借金を、この家来は王に対して負っているということなのです。その家来が借金の返済を求められました。当然、支払うことができません。王の前にひれ伏し、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」(26節)としきりに願いました。彼に返す当てがあるわけではありません。ですので「きっと全部お返しします」というのは、その場を逃れるための言葉です。しかしそのように必死に願う彼のことを、王は憐れに思いました。そして、驚くべきことに借金を赦し、借金を帳消しにしたのです。この家来は一万タラントンという膨大な借金を赦してもらったのです。一生かかっても決して返すことのできない借金を、突然、もう返さなくてもよい、と免除されたのです。家来は借金の重圧から解放され、自由になりました。そして、大きな喜びに満ちたことでしょう。
 けれども、たとえ話は続きます。28節です。「ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。」のです。百デナリオンとは、百日分の賃金です。一年に三百日働くという先程の計算でいくならば、年収の三分の一ということです。現在の私たちの生活で言いますと、何十万円、何百万円という額でしょうか。その仲間は、彼にそういう額の負債を負っていたのです。彼はその仲間を捕まえて首を絞め、「借金を返せ」と迫りました。その人は「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼んだのです。つい先ほど、彼が主人の前でしたことと同じです。しかし彼は赦さず、借金を返せない者がつながれるいわゆる債務監獄に放り込んでしまったのです。それを見た仲間の者たちが王に事の次第を告げると、王は彼を呼びつけ、「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言いました。そして借金を帳消しにしたことを取りやめ、一生牢に入れてしまいました。

赦しの根拠
 このたとえ話は、仲間を赦さない家来の姿は、人間の身勝手さ、自分が人に与えている損害や迷惑はすぐに忘れてしまって、人が自分に与えている損害や迷惑ばかりに目が行ってしまうというという様子をよく現しています。また、与えられている恵みをすぐに忘れて自分勝手に生きてしまう人間の姿を描いているとも言えます。そういう意味でこの家来の姿は、私たち自身と重なるのです。しかし、このたとえ話は単に「どれだけ人を赦すべきか」ということを語っているだけではありません。
 先ほどの最初のペトロの問いかけに戻りますとペトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきか、七回までですか。」と言いました。主イエスは七の七十倍まで人を赦しなさいと言われました。この主イエスのお言葉は大変厳しい教えに聞こえます。無限に人を赦しなさい、ということです。主イエスはこのように教えられ、続けてたとえ話をされました。このたとえ話しでは、赦すとはどういうことか、赦しの本質について語っています。私たちは兄弟の自分に対する罪をどの程度赦すことができるのでしょうか。ある程度、また当然自分の赦せる範囲ではできると思います。けれども、そうはいかないときがあると思います。主イエスはたとえ話を通して、単に無限に赦しなさい、と言っているのではありません。きちんとした理由、赦しの理由、根拠を示しているのです。そのことをこのたとえ話は語っています。ペトロの問いかけは何回、どこまで赦すべきか、という問いでした。それに対して主イエスのお答えはなぜ赦すべきか、ということで答えておられるのです。
 私たちはなぜ人の罪を赦すべきなのか。いや、本当に赦すことなど可能なのでしょうか。本日のたとえ話によりますと、私たち自身がもう既に、無限に大きな罪を赦されているということが示されました。一万タラントンという、自分の力では一生かけても決して返すことのできない、償うことのできない負債、罪を、私たちは赦されたのです。ですので、このたとえ話によると大きな負債、罪を赦された私たちが、自分に百デナリオンの借金のある仲間を赦すのは人間として当然のことで、それをしないならば、この家来のような振る舞いをすることになる、と話は語っています。私たちが人の罪を赦すのは、自分の罪が既に赦されているからなのです。自分に与えられている赦しの恵みがあるから、それに応えて、自分も人を赦す、それが私たちが人を赦すことなのです。だから私たちが人を赦すことは、当然のこと、自然のことであると言えます。当然のことと言えるのです。それがこのたとえ話で主イエスが語っておられることです。そしてそこにこそ、ペトロの七回と主イエスの七の七十倍の違いがあるのです。つまり、ペトロは、「七回まで」と言った時に、大いなる決心をしたのでしょう。七回までも人を赦すことができるような寛容な者となろう、そのような人間になるために努力しようと決心したのでしょう。ペトロにとって、人を赦すことは、そういう決意と努力によって行う良いことだったのです。しかし主イエスはそれに対して、七の七十倍まで赦しなさいと言われました。主イエスは、人を赦すことは、人間の決意や人間の業、努力によることではありません。そして、積極的に人を赦さなければならないのです。なぜならば、あなたがたは人が自分に犯している罪とは比べものにならないような大きな罪を赦されている者だからだ。そのことを本当に覚えるならば、七の七十倍まで人の罪を赦すことが当たり前のことになるのだ。これが、このたとえ話の意味です。ペトロの七回の赦しと、主イエスの七の七十倍の赦しの違いは、程度の問題ではなくて、本質の違いだ、「赦し」の持っている意味が違うのだと先程申しましたのはこのことです。ペトロは赦しは自分の決意や努力によってなされるものであると考えておりました。それに対して、主イエスは神様の赦しの恵みに応えて生きるところに赦しは生まれてくるものだと言っておられるのです。

一万タラントンの負債
 一万タラントンの借金を赦してもらったこの家来は私たちの姿です。自分が一万タラントンを赦されたことが分からなければ、人を赦すことは結局人間の業でしかないのです。そこでは、できるだけ赦そうとは思うけれども、でもこれは赦せない、あれは赦せない、ということになり、結局「赦せない」という憎しみの思いに満たされていってしまうのです。私たちは、一万タラントンの借金を、罪を負っている者であり、しかもそれを赦してもらった者である。私たちは日々、罪を重ねて生きています。その罪は私たちの中に積み上げられていきます。一万タラントンという金額は、借金の額としては現実にあり得ないような金額です。しかし私たちが日々神様に対して犯している罪は、一万タラントンという大きな額なのです。隣人に対してもまた、同額の大きな罪を犯しているのです。私たちは自分の力でこの罪を帳消しにすることはできません。私たち日々繰り返し、罪を重ねて生きているのです。

主イエスの十字架
 私たちの一万タラントンの借金を、罪を、神様が赦して下さいました。主イエス・キリストの十字架によってです。一万タラントンの借金を帳消しにするということは、この主人が、王が、それだけの損失を引き受けることです。この主人は、莫大な損失を引き受けることによって、この僕を赦してやったのです。27節に「憐れに思って」とあります。この言葉は、主イエスが私たちを憐れんで下さることを語るところに使われる言葉です。「内臓」という言葉から来ています。「はらわたがよじれるような憐れみ」と説明されます。主イエスご自身が、罪人である私たちのために、痛み、苦しみを背負って下さる、そのような憐れみです。主イエスはそういう憐れみのみ心によって、損失を引き受けてくださったのです。私たちのために十字架にかかって下さいました。それは父なる神様が、かけがえのない独り子の命を犠牲にして、私たちの罪を赦して下さったということでもあります。一万タラントンの赦しは、神様が私たちのために損失を引き受け、犠牲を払い、独り子のイエス様が苦しみを受けて死んで下さることによって実現したのです。主イエス・キリストを信じるとは、主イエスの十字架の苦しみと死とによって、私たちの一万タラントンの罪、自分の力ではとうてい償うことのできない罪が赦され、帳消しにされたのです。

僅かな傷
 私たち人間が神様に赦して頂いた罪は本当に大きいものです。一万タラントンの罪とも言えるでしょう。そして私たちの兄弟が、隣人が、私たちに対して犯している罪は、百デナリオンです。百デナリオンは相当の額です。人が自分に対して犯す罪によって私たちが傷つけられる、小さな傷ではありません。相当の痛みを伴い、苦しみを伴うのです。けれども、それはやはり百デナリオンです。一万タラントンとは比べることすらできない、僅かなものです。一万タラントンを神様が、独り子主イエスの十字架の苦しみと死とによって赦して下さったなら、それによって赦された私たちが、兄弟の百デナリオンを赦すことができないというのが、人間の姿なのです。
 神様が先ず、私たちを赦して下さっています。神様が、独り子イエス・キリストの命という犠牲を払って私たちを赦して下さり、私たちに自由を与えて下さったのです。その恵み、自由の中で、私たちは、人を赦すことができます。赦さなければならないのではありません。そのために努力していくのでもありません。特別に寛容な人間になるのでもありません。赦された者だから、赦すのです。赦されて生きている者だから、赦すことこそが自然なのです。そこに、七の七十倍までの赦しが実現していきます。主イエスによる本物の赦し、自分に罪を犯す兄弟を兄弟として回復することのできる赦しです。私たちのこの地上の歩みは、どうしても赦すことのできないことがあります。その中でこそ、いかに私たちの赦された罪は大きいのかということが示されます。主イエスの十字架によって、私たちは赦し合う世界へと導かれるのです。

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