主日礼拝

神の子の死

「神の子の死」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: レビ記 第16章1-16節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第23章44-49節
・ 讃美歌:299、442、449

主イエスの死
 ルカによる福音書を読み進めて参りまして、いよいよ、主イエス・キリストが十字架の上で息を引き取られる場面です。主イエスの死の場面は、当然のことながら四つの福音書全てが語っています。四つの福音書の内、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、お互いの間にかなり共通する部分があるのですが、主イエスの十字架の場面においては、ルカはマタイ、マルコとはかなり違った語り方をしています。マタイ、マルコにはなくてルカにのみある記述、逆にルカにはなくてマタイ、マルコにはある記述があるのです。マタイ、マルコにおいて、主イエスが十字架の上で最後にお語りになったのは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉です。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。マタイとマルコにおいては、主イエスはそう叫んで死んでいかれたのです。しかしルカにおいては、主イエスの最後のお言葉は46節の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」です。これはマタイやマルコにはない、ルカが独自に伝えている言葉です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言って死ぬのと、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って死ぬのとでは、かなり印象が違います。主イエスが十字架の上で亡くなったことは全ての福音書が語っていますが、その語り方にこんなにも違いがあることに私たちはある戸惑いを覚えるのではないでしょうか。

絶望の中での死
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というお言葉は、主イエスが、父である神様に見捨てられてしまったという苦しみ、絶望の中で死なれたことを示しています。この言葉は、詩編第22編の最初の言葉です。主イエスはそれを死に臨んで語られたのです。詩編第22編はこのように神に見捨てられた絶望をもって語り始められていますが、最後のところは神への信頼の言葉となっています。3月の聖句として掲げ、週報の1頁目に記されている「成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう」という言葉がそれです。それゆえに、主イエスが十字架の上でお語りになった最後の言葉も、詩編22編を暗唱することで、今置かれている苦しみと絶望の状況を語りつつ、しかし最終的には神様への信頼を表明しようとなさったのだ、しかしこの最初の言葉だけで力尽きてしまったのだ、という説明がなされることもあります。けれどもそれは不自然な、苦しい説明だと言わなければならないでしょう。聖書の中の一つの言葉でその時の自分の思いを表すことはあるのであって、やはりあの一言のみを主が十字架の上で語り、そして死んでいかれたということの重さを受け止めるべきです。あのお言葉を語っているマタイ、マルコは、主イエスが、罪のゆえに神様に見捨てられて死ぬ、その罪人の苦しみと絶望をご自分のものとして体験して下さり、そういう苦しみの中で死なれたことを語っているのだと言うべきだと思います。そしてそれはまさに私たちのためでした。私たちこそ、本来自分の罪のゆえに神様に見捨てられ、絶望の内に死ぬしかない者なのです。その私たちの絶望を、主イエスが背負い、引き受けて下さった。そこに私たち罪人のための救いのみ業がある。それゆえに、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という最後のお言葉に私たちは、主イエスによる救いの恵みを聞き取ることができるのです。

信頼の中での死
 しかし本日ご一緒に読むルカによる福音書にはそのお言葉がありません。その代わりに、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というお言葉が語られているのです。これはどのように捉えたらよいのでしょうか。先ほどから語ってきた、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というお言葉に主イエスによる罪人への救いの恵みを聞き取ることができる、ということからすると、ルカが伝えている主イエスの最後のお言葉にはとまどいを覚えます。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というお言葉は、父なる神様を信頼し、そのみ手に自分の霊を安心して委ねている、という感じです。つまり主イエスは、十字架につけられて殺されるという苦しい、悲劇的な死を遂げたけれども、その中でも平安のうちに、安らかに、父なる神様に全てを委ねつつ亡くなった、ルカはそう語っているように感じられるのです。そうすると、この主イエスの死は私たちにとってどういう意味を持つのでしょうか。何の罪もない神の子である主イエスが、捕えられ、死刑の判決を受け、十字架という最も残酷な仕方で殺されてしまう、その苦しみや絶望の中でも、父なる神様に信頼して平安の内に、自分の魂を父のみ手に委ねて死んでいった、それは私たちにとって模範とすべき姿であるかもしれません。私たちも、自分が死を迎える時に、この主イエスのように、父なる神様に心から信頼して自分の霊をお委ねして死んでいければ、それが理想的な死に方だ、そういう死に方ができるようになりたい、という願いを持つことはあるでしょう。けれどもそこで私たちが感じるのは、自分はなかなかそうはなれそうもない、それは神の子である主イエスだからこそできることで、自分はとてもそのような平安や神様への信頼の内に死を迎える自信はない、ということなのではないでしょうか。つまりルカが描いている主イエスの死の姿は、理想的ではあるかもしれないが、罪と弱さの中を生きている私たちにとはかけ離れた、そういう意味であまり慰めにならない姿だ、ということにもなるのではないでしょうか。皆さんはどうであるか分かりませんが、私はこれまで、ルカが語っているこの主イエスの最後のお姿よりも、マタイやマルコが語っている、神様に見捨てられた絶望を語る言葉と共に死んでいったお姿の方が、自分にとって慰めとなり、救いを与えてくれる、と感じていたのです。けれども、本日の説教のために改めてここを読んでいる中で、私の思いは変わってきました。つまり、ルカが描いているこの主イエスの最後のお姿も、罪と弱さの中にある私たちに慰めと救いを告げている、と思うようになったのです。


 そのように思うようになったのは一つには、44、45節を改めて味わうことによってです。こう語られています。「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」。主イエスが十字架につけられたこの日、昼の十二時ごろ、つまり真っ昼間に、全地が暗くなり、主イエスが息を引き取られた三時までその闇が続いたのです。これは何を表しているのでしょうか。神の独り子である主イエスが十字架につけられて死のうとしている、そのことを天も嘆いて光を失い、暗闇が全地を覆ったのだ、と私たちは普通考えます。しかしルカが描いているのはそのような現象なのでしょうか。この闇はむしろ、全地に住む人々、つまり全ての人間が、神様に背き逆らう罪の中にある、そのことの現れなのではないでしょうか。神様の独り子であり、救い主として来られた主イエスを十字架につけて殺してしまうというのは、神様に対する最も大きな反逆であり、人間のこの上なく重大な罪です。その罪のさ中に闇が全地を覆った、それは、このような罪に支配されている人間の真実の姿が明らかにされたということではないでしょうか。つまりこの三時間の闇を語ることによってルカは、主イエスの死を悼んで天がこの時ばかりは光を失ったというおよそ二千年前の出来事を語っているのではなくて、罪と弱さに捕えられている私たちが今まさに陥っている現実を描いているのではないでしょうか。私たちは今まさにこの闇の中にいるのです。物理的にはまばゆいばかりに明るい光に照らされていながら、私たちの現実は、様々な点でますます深まる闇の中に置かれている、そのことを私たちは感じているのではないでしょうか。その闇の根本にあるのは私たちの罪です。神様との良い関係を失い、そのために隣人との間にも良い関係を築くことができず、むしろ人を憎み傷つけ殺してしまうようなことばかりを繰り返している、そういう罪の深い闇が私たちを覆っているのです。そういう私たちの闇の現実が、主イエスが十字架につけられて殺されるという出来事においてあらわになった、ルカがここで描いているのはそういうことだと思うのです。45節でルカは改めて「太陽は光を失っていた」と語っています。「全地は暗くなり」だけで十分なはずなのに、わざわざ太陽が光を失ったことを語っているのです。日食が起ったために全地が暗くなったのだ、などという説明はルカの意図から全くかけ離れたことでしょう。太陽が光を失った、それは旧約聖書によれば神様の怒りの印です。太陽は、私たちを明るく照らすために神様が造り与えて下さったものですが、その太陽が光を失ったということは、私たちを照らして下さる神様の恵みが失われたということです。神様が遣わして下さった救い主である主イエスを十字架につけて殺してしまうという罪によって、人間は神様の恵みを失い、怒りの下に置かれた、ルカはそのことを描いているのです。

神殿の垂れ幕
 そしてそこに、「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」ということがつけ加えられています。ここにもルカの特徴が現れていて、マタイとマルコでは、この出来事は主イエスが息を引き取った直後に語られています。その場合にはこの出来事は、主イエスの十字架の死によって実現したことを描いているということになります。この「神殿の垂れ幕」というのは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、レビ記第16章に出てくる「垂れ幕」です。その2節に「決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように」とあります。つまりこの「垂れ幕」は、神殿において、一番奥の「至聖所」と、その手前の「聖所」とを隔てる幕です。その幕の向こうの至聖所には、ここに語られているように、決められた人が、決められた日に、決められた儀式を経た上でないと入ることができないのです。その儀式とは贖罪の儀式、つまり罪の贖いの儀式です。罪の赦しと清めを経ずに神様の前に出たら、死を招くのです。つまりこの垂れ幕は、罪人である人間が神様のみ前にノコノコ出て行って死を招くことを防ぐための幕なのです。主イエスの死と共にその幕が真ん中から裂けたというのは、罪人と神様とを隔てていた幕、罪人は神様のみ前に出ることができないと告げていたその幕が裂けて、私たちが神様のみ前に出る道が開かれたことを意味しています。主イエスの十字架の死によってその道が開かれ、罪人である私たちが赦されて神様のみ前に出ることが出来るようになった、そういう救いが与えられたことを示す出来事として、マタイとマルコではこのことが語られているのです。ところがルカにおいては、この出来事は主イエスの死の前に語られています。全地が暗くなり、太陽が光を失ったことと並んで、この出来事が語られているのです。ですからルカにおいては、この出来事の持つ意味はマタイやマルコとは違うと言うべきでしょう。それは主イエスの十字架の死によって実現した救いではなくて、むしろ主イエスを十字架につけて殺すという人間のこの上ない罪の結果生じたことを語っているのだと思うのです。つまりこの垂れ幕が裂けたことは、神殿の破壊です。神殿とは人間が神様を礼拝するための場所です。その場所が破壊され、神様を礼拝するすべが失われた、神様と人間とをつなぐ道が閉ざされてしまった、人間の罪のためにそういう事態が生じていることをルカは語っているのではないでしょうか。そしてこれが、先ほどの闇の本質です。私たちは罪によって深い闇に覆われてしまっている、その闇とは、神様との関係が断たれ、神様を礼拝する道が閉ざされてしまう、神様のみ前に出ることができなくなってしまう、ということにこそその本質があるのです。神様との関係が失われてしまうことは、太陽が光を失うようなものです。太陽こそ私たちが見ている光の源です。私たちは自分の中に光を持ってはいないし、自分でそれを作り出すこともできません。太陽の光、そのエネルギーをもらって、それを様々な仕方で用いて、光やエネルギーを得ているのです。神様との関係を失い、礼拝を失うことは、その太陽が光を失い、太陽からの光やエネルギーの供給がストップしてしまうようなものなのです。神様に背き逆らい、主イエスを拒み、十字架につけてしまう罪に陥っている私たちは、このような闇の中にいる、そのことをルカはここに徹底的に描いているのだと思うのです。

大声で叫んだ主イエス
 そのような闇の現実の中に、主イエスの声が響きます。それが、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」。今回私が改めて気付かされたもう一つのことは、46節に「イエスは大声で叫ばれた」とあることです。「叫ぶ」というのはそもそも大声ですることです。ですからこの「大声で叫ばれた」という言い方は非常に強調されており、まさに大音声で叫んだ、という様子を描いているのです。皆さんは既にそれに気付いておられたかもしれませんが、私にとってこれは一つの新たな、また驚くべき発見でした。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という言葉は、もっと静かに、穏やかに、ささやくように語られた言葉であるような印象を持っていたのです。しかしその印象は間違っていたことに気付かされました。主イエスは大声で、大音声で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫ばれたのです。そうするとそれは、最初に申しましたような、父なる神様を信頼し、そのみ手に自分の霊を安心して委ねている、というのとは違うのではないでしょうか。主イエスは、十字架につけられて殺されるという苦しい、悲劇的な死を遂げたけれども、その中でも平安のうちに、安らかに、父なる神様に全てを委ねつつ亡くなった、と先ほど申しましたけれども、ルカがこの主イエスの最後のお言葉によって語っているのはそういうことではないのではないか、と思えてきたのです。それでは、主イエスのこの最後の大声での叫びとは何だったのか。それは、主イエスが、今全地を覆っている闇、罪のゆえに私たちがその中に閉ざされてしまっている暗さのただ中から、父である神様に呼びかけて下さった声です。この闇は、私たちが罪のゆえに神様の恵みを失い、その怒りの下に置かれてしまっていることを示しています。つまり神様は罪人である私たちから遠く離れ去ってしまっておられる、もう私たちは神様によって見捨てられてしまっているということの印なのです。しかしその暗闇、神様に見捨てられた絶望の極みである十字架の上から、神様の独り子であられる主イエスが、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫び、私たちの罪のゆえに遠く離れ去ってしまっている神様を言わば呼び戻して下さっているのです。主イエスがご自分の霊を父である神の御手に委ねることによって、闇に覆われた地上と天におられる父なる神様との間をつないで下さり、結び付けて下さっているのです。私たちは、神様に背いた罪のゆえに、神様との関係を自ら断ち切り、その結果神様との交わりを失い、つまり礼拝を失い、神様のみ前に立つすべを失っています。神様を礼拝し、そのみ前に出て、神様との関係を確立することよりも、人間どうしの関係を整備し築いていくことの方が大事だ、緊急だと思い、そのためにあくせくし、人間どうしの横のつながりの中だけで何とかうまくやっていこうとするけれども、結局自分の力の及ばない壁にぶちあたり破綻してしまう、そういう闇に私たちは覆われています。私たちが陥っているその闇の中へと来て下さり、その闇を引き受けて十字架の苦しみと死を味わって下さった主イエスが、ご自分の霊を父なる神様に委ねて下さり、父なる神様が主イエスの霊をしっかりと受けとめて下さることによって、罪の闇の中にいる私たちにも、自分の霊を神様に委ね、主イエスによって私たちの父となって下さった神様との関係を整えられ、神様との良い交わりを持って、つまり神様を礼拝しつつ生きる道が開かれたのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」という主イエスの最後の大声での叫びは、そのように罪人である私たちと天の父である神様とをつないで下さり、私たちにも、自分の霊を、人生を、そしてそこにおける苦しみや悲しみ、困難、思い通りにならないあれこれのことの全てを、父なる神様の御手に委ねる道を開いて下さったのです。

闇は消え、新しい世界が
 主イエスはこのように大声で叫んで、そして息を引き取られました。この主イエスの死によって、全地を覆っていたあの闇は消え去ったのです。主イエスの最後のあの大声が、闇を蹴散らし、雲散霧消させたかのようです。そしてそこには、新しい世界が開かれていったのです。47節がそれを語っています。「百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」。百人隊長とはローマの兵隊の隊長です。死刑の判決を受けた主イエスと二人の犯罪人を引いて来て、その処刑を実行するのが彼らの仕事です。まさに主イエスを直接十字架につけ、殺したのは彼らなのです。その隊長であり責任者だった彼が、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美したのです。彼のこの言葉は、自分たちが死刑囚だと思って処刑したこの人は実は正しい人、罪のない人だった、というだけのことではありません。彼は、無実の人間を十字架につけて殺してしまうというとんでもないことをしてしまった、ということに気付いて恐れたのではないのです。「神を賛美した」と語られています。これも、ルカだけが語っていることです。ルカは、異邦人であるこの百人隊長が、主イエスの十字架の死の様を見て、神を賛美した、つまり礼拝したと語っているのです。このことが、先ほどの「神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた」ということと対になっていると言えると思います。主イエスの十字架において、私たちが罪の闇に閉ざされ、神様の怒りの下で、神様との関係を失い、礼拝するすべを失っていることが明らかにされました。しかし、主イエスがその十字架の上で、父なる神様にご自分の霊を委ねて死んで下さったことによって、まさに主イエスを十字架につける罪の中にいる私たちが、父なる神様を賛美し、礼拝する道が開かれたのです。48節には、「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」とあります。この群衆は、ピラトのもとでの裁判において、イエスを十字架につけろ、と叫んだ人々です。その群衆が処刑を見届けようと見物に来ていたのです。しかし敵意と悪意をもって眺めていた彼らも、主イエスがあのように叫んで息を引き取られたのを見て、胸を打ちながら帰って行った、つまり、自分たちのしたことを悔いる思いが生じているのです。主イエスの死によって、そのような転換が起っています。勿論本当の意味での新しい世界は、主イエスの復活によってこそ開かれていきます。しかし神の子である主イエスが十字架の上で、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫んで息を引き取られたことによって、罪の闇の支配が終わり、新しい世界が開かれ始めているのです。
 この後私たちは聖餐にあずかります。この聖餐において私たちは、主イエスが罪人である私たちのためにご自分の霊を父の御手に委ねて死んで下さり、それによって罪人である私たちを父なる神様とつなげて下さった、その恵みにあずかります。この恵みの中で私たちも、自分の歩み、人生を父なる神様にお委ねしつつこの人生を歩む者とされていきます。そしていつか死を迎える時には、「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と、父なる神様を信頼し、そのみ手に自分の霊を安心して委ねることができるようになるのです。

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