夕礼拝

父母を敬え

「父母を敬え」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第20章12節
・ 新約聖書: エフェソの信徒への手紙 第6章1-4節
・ 讃美歌 : 10、394

十戒の後半に入る
 「あなたの父母を敬え」。本日はこの十戒の第五の戒めをご一緒に読みたいと思います。十戒は、その前半において、神様に対する私たちのあり方を語っており、後半において、私たち人間どうしの関係について語っています。本日の第五の戒めからその後半に入るというのが、広くなされている理解です。私たちが求道者会で学んでいる「ハイデルベルク信仰問答」もそういう分け方をしています。後半の、人間どうしの関係についての教えの冒頭にあるのが、「あなたの父母を敬え」という戒めなのです。

父母を敬うとは
 この戒めは、その後の「殺してはならない」や「盗んではならない」などと並んで、おそらく最も普遍的に受け入れられる教えでしょう。世界中どの国でも、どんな信仰を持っている人でも、この戒めに反対する人はいないだろうと思います。私たちの国においてもそうです。日本的な倫理においても、「父母に孝行を尽す」ということは最も大事なこととされてきました。戦前の「教育勅語」にも「父母ニ孝ニ」とありました。私たち日本人にとってこの戒めは昔から馴染みのものです。今さら聖書によって教えられなくてもこのことはもう分かっている、と思う人もいるでしょう。しかし、それではこの分かりきったことを日々の具体的な生活において本当に実行できているか、というと、事はそう簡単ではないと思います。単なる理念、お題目としてこれを掲げることと、実際にこれを実行することとは違うのです。
 ヴィクトール・フランクルという名前をご存知の方もあるでしょう。ユダヤ系オーストリア人で精神医学者でしたが、ナチス・ドイツによってアウシュヴィッツ強制収容所に入れられました。そこでの体験を書いたのが有名な『夜と霧』です。彼は、ナチスのユダヤ人迫害が激しくなってきたころ、アメリカに留学するチャンスを得たのだそうです。留学すれば、ナチスに追われることもなく研究生活を送ることができたでしょう。しかし迷った末彼は留学をしなかった。それは、「父母を敬え」という十戒を守るためだったそうです。ナチスの危険の中に両親を置いて留学することはできない、ということです。ユダヤ人、ユダヤ教徒として彼は「たとえ行き先が死の収容所であっても、十戒の民であることを恥じることなく、両親と共に生きよう」と決心したのです。その結果アウシュヴィッツの地獄を経験することになったのです。「父母を敬う」とはこういうことでもあるのです。

私たちの課題
 これはまことに特殊な極限状況かもしれませんが、しかし私たちの日常生活においても、これと通じることはあるのではないでしょうか。このフランクルの例が示しているように、この戒めは決して、未成年の若者に対して「両親を敬い、従え」と教えているだけではありません。この戒めは、既に成人し、一家を成している大人に対しても与えられているのです。その人々にとって父母は、もう働くことができなくなった老人たちです。子供たちの世話にならなければ生きることのできない親たちを、しっかり支え、その面倒を見ることをこの戒めは教えているのです。それは子供たちにとって経済的にも大きな負担です。以前「楢山節考」という映画を見ましたが、そこに描かれているいわゆる「姥捨て」が、日本においても貧しい人々の生活の中で行われていたのです。そしてそれは今日私たちのこの社会において、新たな仕方で現実となってきています。高齢化が進む中で、親の介護が切実な、また緊急の課題となっており、いわゆる「老老介護」、自分も既に老人になっている子供が親を介護している、という事態も生じています。介護付きの老人の施設が次々と出来ています。そういう施設が現代の「姥捨て山」となっているという場合もあります。しかしそういう所に入れる人はまだ幸せなのであって、一人暮らしの老人が、誰にも看取られずに孤独死するという事態も増えています。そういう人の中には、本当に天涯孤独の人もいるけれども、子供や親戚があってもいろいろな事情で頼ることができないという人も多いようです。そしてそこには子供の側にもいろいろな事情があり、必ずしも子供が親不孝だと決めつけることはできません。親が子供をさんざん苦しめてきた、という場合だってあります。そういう様々な現実を見ていくと、「あなたの父母を敬え」という戒めは決して分かりきったことではない、今日の私たちにとって、大変大きな、そして難しい課題であると言わなければならないと思うのです。

世代間の対立
 今は、老いた両親を支える、ということについて語ってきましたが、この戒めは勿論、若い子供が父母を敬うべきであることをも教えています。それもまた、決して当然の分かりきったことではありません。いつの時代にも、子供は本質的に親に反抗し、また親に代表される社会の既成の体制に反発するものです。そういうことを通して子供は成長し、一人前になって独立していくのです。そういうことが昔から繰り返されてきたわけですが、しかし以前は、そのような子供の反発を親は親としての権威をもって受け止め、そこに様々な葛藤が生じつつもある絆が成り立っていたように感じます。しかし現在はそういう絆が失われ、あるいは希薄になっています。それは親の、特に父親の権威が喪失して、子供の反発をしっかりと受け止めることができなくなり、その中で子供の反発は限りなく拡大し、親に対する全面的な否定、無視、そしてひどいときには親を殺してしまうところまで行ってしまう、ということが起っています。それは「今の親はだらしがない」と簡単に言えることではありません。昔はがっちりとした家制度があり、その枠の中で親には、特に父親には、子供に有無を言わせないような権威があったのです。その権威を支える枠が今や失われています。それによって、それまでは当たり前のことだった「父母を敬え」ということが当たり前ではなくなっているのです。どうして父母を敬わなければならないのか、が分からなくなっているのです。そこで「生んでやったんだから」などと言っても通用しません。誰も生んでくれと頼んだわけではないし、親自身にしても、こういう子供を生もうと意図して生んだわけではないのです。つまり今日は、親と子の関係を築いていくための土台が失われている時代です。そういう中で私たちは、「あなたの父母を敬え」という神様のみ言葉をもう一度新たに受け止め直すことを求められているのだし、またそこに、親と子の関係を築いていくための確かな土台を再発見する道が開かれているのです。

「あなたの父母を敬え」の根拠
 「あなたの父母を敬え」という戒めの根拠は何なのでしょうか。それは十戒の構造を見つめることによって示されます。先ほど申しましたように、この第五の戒めは多くの場合十戒の後半の冒頭の戒めであるとされています。そうすると、前半が四つ、後半が六つの戒めということになります。しかしこのような区切り方のみが絶対的なのではありません。第五の戒めを前半の最後に位置づけ、前半も後半も五つずつとする区切り方もあるのです。前半には、神様との関係における人間のあり方が語られていますが、その最後に、「あなたの父母を敬え」も位置づけられるという読み方です。なぜそのような区切り方が出来るのでしょうか。イスラエルの民において、神様を礼拝する単位は個人ではなくて家庭でした。その家庭において、礼拝を司り、家族に信仰の指導をするのが親、特に父親の役割でした。つまり親、特に父親は、家族全体の、神様との交わり、信仰の導き手なのです。家族は親を通して神様のみ言葉を受け、礼拝を体験し、祈りを学ぶのです。まさにここに、「あなたの父母を敬え」という戒めの根拠があります。父母を敬い、その教えに従うことを通して、子供たちは、神様を敬い礼拝する神の民の一員として生きていくのです。それゆえにこの戒めは、神様を敬い礼拝して生きることを教えている前半の中に位置づけることができるのです。

親の権威
 このことは、聖書において親の権威というものがどのように考えられているかを示しています。親の権威は、生んだという事実のみによって自然に生じるのではなくて、親が、神様の教えに従って子供を正しく教育していくことにおいて生じるのです。本当に神様に仕え、従っている親の姿や言葉には権威があるのです。それは子供を威圧するような、親の考えを押し付けるような権威ではなくて、神様の恵みによってこの世の常識や見栄やプライドから解放されて自由に生きることから来る権威です。その自由によって人をも解放し、生かし、慰め力づける、喜びに満ちた権威です。そういう権威は、上辺だけのはったりによっては生まれません。また神様を自分の都合のために利用しているような所では得られません。神様に対する親の姿勢が本物であるか見せ掛けのものであるかを、子供は敏感に察知するものです。つまり、「あなたの父母を敬え」という戒めは、子供に対してよりも先ず親に対して、この戒めに相応しくあることを求めているものだと言えるでしょう。本日共に読まれた新約聖書の箇所、エフェソの信徒への手紙第6章の冒頭のところもそういうことを語っています。「父と母を敬いなさい」という掟において、「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」と語られているのです。「怒らせてはなりません」というのは、なるべく怒らせないように顔色を伺うということではなくて、主に従う者としての本当の権威、子供を生かし、慰め力づける喜ばしい権威をもって育てるということです。そのようにこの戒めは、むしろ親の方に重い課題を与えるものなのです。

父母を用いて下さった神
 しかしそれは、子供は自分の親が尊敬できる、神様のみ心に従っている親ならば敬い、従うべきだが、そうでない親は敬わなくてもよい、と言っているということではありません。『ハイデルベルク信仰問答』は、この戒めによって神様が私たちに望んでおられることを次のように語っています。「わたしがわたしの父や母、またすべてわたしの上に立てられた人々に、あらゆる敬意と愛と誠実とを示し、すべてのよい教えや懲らしめにはふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐すべきである、ということです。なぜならば、神は彼らの手を通して、わたしたちを治めようとなさるからです」。ここに語られているように、「あらゆる敬意と愛と誠実とを示し、ふさわしい従順をもって服従し、彼らの欠けをさえ忍耐する」ことが父母を敬うことです。子供は親を査定して「あんたが立派なら言うことを聞いてやる」などと言うべきものではないのです。むしろどのような親であっても、敬意を示し、服従し、その欠けを忍耐することが求められているのです。それは何故かというと、「神は彼らの手を通して、わたしたちを治めようとなさるからです」とあります。父母は、神様が私たちを治めるために用いておられる人々です。治めるとは、命を与え、養い、導いて下さるということです。神様が、私たちの両親を用いて私たちに命を与え、この世に生まれさせ、養い育て、導いて下さっているのです。つまり私たちの父母が、神様の恵みのみ業の中に位置づけられ、用いられているのです。それは親が信仰者であるかないか、また尊敬できる立派な親であるか否か、ということとは関係ありません。信仰者でなくても、あるいは親失格の子供を苦しめてばかりいるような親であっても、いやそもそもいろいろな事情で全く自分を育てることのできなかった、あるいはしなかった親であっても、しかし神様が、その父母を通して、私を生まれさせ、生かして下さっているのです。その神様のみ業、み心のゆえに、親に敬意を示し、服従し、その欠けを忍耐することが求められているのです。そういう意味では、父母を敬うのは生んでもらったからだ、というのは正しいのです。ただしそれは、生んでもらったという恩があるからではありません。主なる神様が、この父母によって自分をこの世に生まれさせ、生かしておられる、そこに神様の恵みのみ業があることを思い、その神様を敬い、そのみ心に従うという信仰によって、生んでくれた父母を敬うのです。つまり、自分という人間がこの世に生まれ、今生きていることを、神様の恵みのみ業として受け止めることによってこそ、私たちは本当の意味で父母を敬うことができるようになるのだし、その欠けをも忍耐し、また年老いた父母を本当に助け、世話をすることができるようになるのです。つまり、父母を敬うということは、実は、自分自身の命、人生を、神様の恵みによって与えられたものとして受け入れ、喜び、神様に感謝して生きる、ということと表裏一体なのです。自分の人生を神様の恵みによって与えられたものとして喜ぶことができる人のみが、本当に父母を敬うことができるのです。そこに、この十戒の「あなたの父母を敬え」という戒めと、教育勅語の「父母ニ孝ニ」との根本的な違いがあるのです。

父母に従うことと神に従うこと
 ですから、親に敬意を示し、服従し、その欠けをさえ忍耐するというのは、親の言うことはどんな間違ったことでも従え、ということではありません。この戒めは十戒において、第一から第四の、主なる神様を敬い、礼拝し、神様にこそ従えという戒めに続くものとして位置づけられています。父母を敬うことは、神様を敬い従うことの次に置かれているのです。それは先ほど申しましたように、父母は神様を礼拝すること、信仰を子供に伝え、教える者として立てられている、ということによります。つまり十戒において第一のこととされているのは神様を敬い、従うことです。そのことの中に、父母を敬い、従い、その欠けをさえ忍耐することが位置付けられているのです。ですからもしも父母に従うことが神様に従うことと矛盾し対立するようなことがあるならば、本当に従うべきなのは神様であることはこの十戒の構造から明らかです。私たちは、人間に従うのではなく神様に従って生きるのです。ただその場合にも、「親に敬意を示し、服従し、彼らの欠けをさえ忍耐する」ということを最大限に努めることが大切です。私たちは、信仰を、親不孝の、また親に対する自分の自己主張の手段や言い訳にしてしまってはならないのです。

世代間の対立においても
 このことは、親と子の関係においてのみでなく、前の世代と後の世代の関係、そこにおいてしばしば起る対立にもあてはめることができます。新しい世代は前の世代に対して、つまり社会の既成の体制に対して反発し、それを否定し、乗り越えようとします。そういう世代間の対立は社会全体にもあり、また教会においても起ります。そういう場面において、この第四の戒めは、古い世代にも新しい世代にも、大切なことを教えてくれます。つまり前の世代の者たちには、本当の権威を持って次の世代と向き合うことが求められているのです。本当の権威は、神様のみ言葉に真剣に従い、その恵みによってこの世の常識や見栄やプライドから解放されて自由に生きることによってこそ生じるものです。いわゆる権威主義的にそれまでのあり方を次の世代に押しつけるようなことは、先ほどのエフェソ書の言葉で言えば「子供を怒らせる」ことにしかならないのです。そして後の世代の者たちには、自分たちが主イエスと出会い、信仰を得ることができたのは、前の世代の人々を神様が用いて下さったことによってなのだということをしっかりと覚えて、神様に従うことの中で前の世代の人々に敬意を表し、その語ることに耳を傾け、そしてその欠けをさえ忍耐しつつ、共に生きることが求められています。それは決して前の世代の人々の言うことにただ服従せよということではありません。人間に従うのではなく神様に従うという勇気が大切です。しかしそこで、前の世代の人々に対する尊敬を失うことなく、しっかり対話しつつ歩むことが求められているのです。

主イエス・キリストによって
 「あなたの父母を敬え」という戒めはこのように、家族の中だけの問題ではない大きな広がりを持っています。またこの戒めは、信仰によって、自分の命、人生を本当に喜んで生きることができるようになった者こそが行なうことのできる戒めなのです。私たちが喜びと感じることはいろいろあります。良い人間関係に恵まれ、幸せなまた平穏な生活を送り、能力を発揮して充実した日々を過ごすことができているというようなことは、確かに大きな喜びを与えてくれます。しかし私たちが本当に喜んで生きることができるようになるのは、そういうことによってではありません。そのような喜びは失われることがあります。例えばあのフランクルの例のように、両親のためにその喜びを放棄しなければならないことがあるかもしれません。寝たきりになった親の世話を何年もしなければならなくなり、そのためにいろいろなものを犠牲にしなければならないこともあるのです。その時になお、その人生を喜ぶことができるか、ということが問われているのです。そこにおいても私たちに真実の喜びを与えてくれるのは、主イエス・キリストを信じる信仰をおいて他にありません。神様の独り子であられる主イエスが人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。それは私たちの罪の赦しのためであると共に、私たちがこの世の人生において背負う全ての苦しみ、つらさ、惨めさを共に負って下さるためだったのです。その十字架の主イエスが共にいて下さることによって、私たちは、いろいろな重荷を背負いながらも、自分が今ここにこうして生きていることを深いところで喜び、受け入れ、感謝することができるのです。そして、神様がその命を、人生を、自分に与えるために用いて下さった父母を本当に大切にし、神様への感謝をもって父母に仕え、父母と共に生きることを喜ぶことができるのです。

祝福の約束
 この第五の戒めには、約束が付け加えられています。それは、「そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる」という約束です。エフェソ書6章2節に「これは約束を伴う最初の掟です」とあるのはこのことです。「あなたの神、主が与えられる土地」とは、イスラエルの人々にとってはカナンの地ですが、私たちにおいてはそれは、今自分が生かされているこの地、この人生のことであると言ってよいでしょう。自分の人生を、主が与えられる土地」つまり神様の恵みによって与えられたものとして受け止める、それが信仰をもって生きることです。その信仰をもって生きる人生において、「長く生きることができる」ために、「あなたの父母を敬え」という戒めは与えられているのです。それは、両親を大事にする者は長生きできる、ということではないでしょう。長く生きることは神様の祝福の印です。神様の祝福が豊かに与えられ、喜ばしい、幸いな人生が与えられる、自分の人生を神様の恵みによって与えられたものとして受け止めて生きる者には、そういう約束が与えられているのです。その祝福の中で、私たちの父母との関係、また子供たちとの関係も、祝福を受けるのです。年老いた両親の世話をすることは、子供にとってなかなか大変なことであると同時に、親の方にとっても、子供に迷惑をかけたくない、という思いから大きな心の負担が生じます。親の方にも子供の方にも、「あなたの父母を敬え」という戒めを、喜んで受け止めることができない現実があるのです。しかしそのような現実の中で、親も子も、主イエス・キリストによって自分の人生を喜びをもって受け止めることができるなら、親と子の関係が祝福されるのです。喜んで世話をし、喜んで世話される交わりが与えられるのです。子供にとって、あるいは新しい世代の者たちにとって、親を、あるいは前の世代の人々を敬うことはなかなか大変なことです。「偉そうなことを言っているが自分は何なのだ」と言いたくなることも多いのです。また親や前の世代の者たちにとって、本当に権威ある、子供や次の世代の人々を怒らせないよい親、先輩であることはなかなか難しいことです。「あなたの父母を敬え」という戒めを、空しいお題目にしてしまおうとする要素が、どちらの側にもあるのです。しかし、親も子も、前の世代の者たちも後の世代の者たちも、主イエス・キリストによって、自分の人生を神様によって与えられたものとして本当に喜ぶ信仰を与えられるなら、両者の関係は神様の祝福の下に置かれます。第五の戒めは、親と子が、また前の世代の者たちと後の世代の者たちが、神様の祝福の中でお互いによい交わりを築いていくための道しるべとして与えられているのです。

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