夕礼拝

知恵と奇跡を行う力

「知恵と奇跡を行う力」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: エゼキエル書 第14章21-23節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第13章53-58節
・ 讃美歌 : 289、356

新しい出発
 本日はご一緒にマタイによる福音書第13章53節から58節をお読みしたいと思います。マタイによる第13章には主イエスの語られた譬え話が記されております。本日の最初の箇所には「イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。」とあります。小見出しには「ナザレでは受け入れられない」とあります。また、本日の話は別の福音書ではマルコによる福音書第6章1節から6節とルカによる福音書4章16節から30節に記されております。それらの箇所を並行記事と言いますが、この2つの箇所と比較をしてみますとマタイによる福音書の特徴が明らかになります。マタイによる福音書では「イエスはこれらのたとえを語り終えると」となっておりますが、この部分はマタイによる福音書だけにしかありません。マタイによる福音書において、このような言い方をしている他の箇所にもあります。マタイによる福音書でのこのような言い方は主イエスの教えの後に1つの区切りをつけるような場合に使われております。マタイによる福音書の第7章28節には「イエスがこれらの言葉を語り終えられると」とあります。マタイによる福音書第13章において主イエスは譬え話を語られ、天の国について語られました。そして、これらの譬えが終了して新しい場面が始まるということです。
 主イエスは譬え話を語り終えられ、その場所を去り、故郷にお帰りになったのです。主イエスはもともとナザレという町でお育ちになり、ナザレからガリラヤ湖の近くのカファルナウムを中心とする地域において御言葉を語り、癒しの業をされておりました。そして、そこから故郷の町「ナザレ」に帰られたのです。自分の故郷に帰られた主イエスはそこでも会堂で教えておられました。会堂というのはユダヤ教の会堂、シナゴーグのことですが、どのようなきっかけによって会堂で教えられたのか、マルコによる福音書やルカによる福音書では「安息日になったので」という言葉で説明をしております。マタイによる福音書ではその理由や経緯を記してはおりません。
 何をどのように教えられたのかということについては、マタイによる福音書では触れておりません。その内容には触れないで、それを聞いた人々の反応が記されております。主イエスの教えを聞いた人々の反応に集中して本日の箇所は記されております。

人々は驚いた
 人々の反応は主イエスの教えに対して「驚いた」ということです。この「驚く」という言葉はギリシア語ではそう頻繁に使われるものではなく、「相当にびっくりする」というという意味がある言葉です。この「驚く」と言う言葉は先ほどもご紹介した同じマタイによる福音書の第7章28節において使われております。28節をお読みします。この箇所は主イエスが山上の説教を語られたところであります。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。」本日の箇所の54節の「驚いて」という言葉は7章28節の「非常に驚いた」と同じ言葉です。主イエスの教えにびっくりする、あっけにとられるということです。主イエスの故郷の人々はまた、主イエスの語られた教えに対して非常に驚いたのです。人々は驚いて言いました。
 54節からお読みします。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」とあります。ここでは、まず主イエスの家族のことが記されています。兄弟にはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダの4人がいました。また姉妹の名前は記されていませんが、姉妹たちと複数形で書かれていますので、2名の姉妹がいたことは確かでしょう。従って主イエスには少なくとも6人の兄弟姉妹がいたことを私達は知ることが出来ます。
 また、父は大工であったヨセフであり、母はマリアであります。主イエスの語られる教えに非常に驚いた人々は、主イエスの故郷の人々であり、主イエスの家族のことも知っておりました。
 主イエスに対する驚きから、主イエスを信じる信仰へと導かれるということは私たちにおいても起こることかもしれません。主イエスの教え、御言葉に驚いたということは、主イエスの教えに対して反応をしたということです。そこに、この教えは一体何なのであろうか、と思ったのです。主イエスの教えに対する驚き、主イエスに対する興味、関心から、主イエスのことをもっと知りたいと思うこともあるでしょう。結果として、主イエスを信じ、洗礼を受けるということが起こるかもしれません。しかし、そのようにならない場合もあります。

人々はつまづいた
 57節では「このように、人々はイエスにつまずいた。」とあります。この驚きが信仰に至るのではなく、むしろイエスにつまずくということが起こる場合もあります。57節には故郷ナザレの人々は、「イエスにつまずいた」とあります。ナザレの人々の驚きはつまずきを生み出したのです。驚きが信仰に至るのではなく、つまずき、主イエスへの拒絶を生んだのです。主イエスの故郷の人々は、主イエスの家族のことはよく知っておりました。けれども、が神から遣わされた独り子であり、救い主であるなどと到底考えられなかったのです。何故ナザレの人々は主イエスにつまずいたのでしょうか。主イエスの故郷の人々は主イエスの語られること、癒しの御業に非常に驚きました。そして、54節からです。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」また、「この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう」。これがナザレの人々の思いであります。そして、主イエスにつまづいた理由です。主イエスにつまづいたというのは、主イエスを救い主として受け入れることが出来ず、信じることが出来なかったのです。この人々の言葉の中に「どこから得たのだろう」と言う言葉が2回出てきております。原文には、「得た」という言葉はありません。「どこから」という言葉だけがあります。直訳をしますと「彼のこのような知恵と力はどこからだろう」となります。56節も、「この人のこれらすべてはどこからだろう」となります。人々は、主イエスの語られる教え、御言葉に非常に驚きました。しかしその驚きは、「このような知恵と奇跡を行う力はどこから来るのか」という疑問を生み出したのです。ナザレの人々は主イエスのことを昔からよく知っていました。主イエスの家族のこと、仕事のことも知っておりました。そして、今主イエスが神の教えを語っているということも知っていたのです。その主イエスがナザレの町に帰って来て、町の会堂で教えているのです。人々は、56節にあるように「このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」と思ったのです。人々は小さい頃からの主イエスをよく知っております。それゆえに、今主イエスが神の子として、救い主としてお語りになっていることを受け入れることができないのです。それによって、人々は主イエスにつまづいたのです。信じることが出来なかったのです。主イエスはそのような故郷の人々の姿を見て、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言われました。そしてそのような主イエスの語られる教えや力を受け止める、信じることのできない人々の前では、あまり奇跡をなさらなかったのです。

主イエスの御心
 主イエスの故郷の人々は主イエスについて、本当によく知っていたのでしょうか。彼らが知っていたのは、55、56節にあるように「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」とあるように、主イエスの家族、家族のことです。この事は目に見える部分の事柄です。自分達と共通している、一人のナザレ人としてのイエスを知っているのです。自分たちが知っている範囲の中の事柄として、イエスを捉えようとしているのです。確かに、主イエスは私たちを同じ肉体を持たれた一人の人間であります。そして、同時に神の国の教えを語る、神様の独り子であります。御言葉を語る権威とを与えられたお方です。主イエスを信じるということ、主イエスがこのようなお方であるということを信じることです。主イエスにおいて、神の御言葉が語られ、神の力が働いていることを信じることです。それは、時に私たちの人間の常識や目に見える姿を超えるものです。私たちの考えの中で主イエスを理解しょうとするのであれば、そこにはつまづきが生じます。私たちもナザレの人々と同じであります。私たちが自分の考えの中に主イエスを押し込めようとするのであれば、主イエスの本質を見失ってしまうことになります。

新しい出発
 そして、主イエスの最大の御業は、主イエスが神様の独り子であられ、私たちのために、私たちの罪をすべて背負って、十字架にかかって死んで下さったという、人間の常識をはるかに超えておられるお方であるということです。また、私たちが自分の考えの中に主イエスを押し込めようとするのであれば、私たちの知っていることだけの主イエスになってしまいます。信仰の世界はもっと広いものです。私たちの知っている世界をはるかに超える世界へと神様が誘って下さるのです。自分が慣れ親しんでいる世界から新しい世界へと旅立つことになります。自分が安心していることができる故郷から旅立つということです。神様を信じ、主イエス・キリストに従っていく信仰とはそのようなものです。本日の箇所の中にある57節の「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」という主イエスのお言葉は有名であると思われます。ここでの「預言者」というのは、神様の御言葉を語る人です。伝道者と言っても良いと思います。伝道をするのは、伝道者だけではありません。教会に連なる全ての人がこの「預言者」に当てはまります。私たちが伝道をしょうとする時に、近いものに伝道するのは最も難しいことであると痛感させられます。特に自分のことをよく知っている者たち、家族への伝道は難しいものです。また、私たちの伝道の業には失敗も多いものであります。主が共にいて下さり、主が語って下さることを信じ、委ね、信頼をしていきたいと思います。

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