「死者の中から生き返った」 伝道師 長尾ハンナ
・ 旧約聖書: イザヤ書 第35章3-10節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第14章1-12節
・ 讃美歌 : 431、324
主イエスと洗礼者ヨハネ
本日はご一緒にマタイによる福音書第14章1節から12節をお読みします。1、2節をお読みします。「そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、家来たちにこう言った。」「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」とあります。領主ヘロデは主イエスの評判を聞き洗礼者ヨハネのことを思い起こしたのです。そして、主イエスを「洗礼者ヨハネだ」と言いました。洗礼者ヨハネとは、同じマタイによる福音書第3章に出てくるユダヤの荒れ野で教えを宣べ伝えていた人です。主イエスはこの後に、人々に神の国の福音を宣べ伝えます。主イエスの前に洗礼者ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた。」と人々に悔い改めを説いていました。多く者が洗礼者のヨハネの元に来ました。エルサレムとユダヤの全土から、またヨルダン川沿いの地方一体から、多くの人がヨハネのもとに来たのです。人々はそれぞれ罪を告白し、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けました。主イエスもそのお一人です。主イエスも洗礼者ヨハネから洗礼を受けるためにガリラヤからヨルダン川へ来ました。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときの様子が記されています。天が主イエスにむかって開きました。主イエスは神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのをご覧になりました。その時、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえたのです。この様子は、マタイによる福音書第3章に記されております。洗礼者ヨハネは主イエスが世に現れる前に、その道備えをした人です。主イエスの先駆者です。続く第4章では洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた主イエスが荒れ野で誘惑を受けられたことが書かれています。そして、4章12節では主イエスはヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれたことが書かれています。主イエスはこの洗礼者ヨハネが捕らえられてから、神の国の福音を宣べ伝え始められました。そして、本日の箇所では洗礼者ヨハネの最後の様子が記されております。
ヘロデ・アンティパス
本日の箇所の3、4節では洗礼者ヨハネが牢に捕らえられた理由が示されています。「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、『あの女と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである」とあります。領主ヘロデがヨハネを捕え、殺したのです。この領主ヘロデというのは、マタイによる福音書第2章に出てきますヘロデ大王の息子であり「ヘロデ・アンティパス」という人です。主イエスがベツレヘムでお生まれたになった時に、このヘロデ・アンティパスの父であるヘロデ大王は東の国から来た博士たちの言葉に不安を覚えました。東方の博士たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と言い、その言葉にヘロデ大王は不安を覚え、主イエスを殺そうとしたのです。そのヘロデ大王の息子です。このヘロで大王の死後、その領土は3人の息子たちによって分割統治されることになりました。3人の息子とは2章22節に名前が出て来る「アルケラオ」(アルケラオス)と、この「アンティパス」と、ルカ福音書3章1節に出て来る「フィリポ」(フィリッポス)です。この3人によってどのように分割をされていたのかと言うのは、聖書の後ろの付録の地図の6、「新約時代のパレスチナ」にあります。ヨルダン川の西のサマリアとユダヤはアルケラオス、ガリラヤ湖の西のガリラヤと、飛び地になりますがヨルダン川の東のペレアはアンティパス、そしてガリラヤ湖の東北のトラコン地方はフィリッポス統治をしていたのです。しかし、この当時、地域全体は既にローマ帝国の支配下にありました。ですので、この3人の兄弟の支配も皇帝アウグストゥスの許可なしにはあり得ません。ですから、3人は父であるヘロデ大王とは違って、この地の「王」とは名乗ることはできなかったのです。9節ではヘロデが「王」とありますが、正確に言うと1節の「領主」が正しい言い方です。「領主」とは、もっと上の権威ある者から領主と認められている、ということです。実際、ヘロデの兄弟アルケラオスは、じきに皇帝から統治能力なしと判断され、追放されました。ですから主イエスが神の国の福音を宣べ伝える活動された当時は、ユダヤとサマリアはローマ帝国の直接統治下に置かれておりました。ローマ帝国からの総督として赴任していたのがポンテオ・ピラトだったのです。
ヨハネは捕らえられ
さてその3節にありますように領主ヘロデは、自分の兄弟から妻を奪い、自分の妻にしました。洗礼者ヨハネは領主ヘロデにそのことを叱責しました。『あの女と結婚することは律法で許されていない』(4節)と批判をしました。洗礼者ヨハネは、人々の罪を厳しく指摘し、悔い改めを求めていましたので、ヘロデのこの結婚についても、姦淫の罪に当ると批判をしました。洗礼者ヨハネのその批判に怒り、ヘロデはヨハネを捕えて監禁し、殺してしまおうと思っていました。しかし、ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたのですが、民衆を恐れており殺すタイミングを失っていました。ヘロデが民衆を恐れていたというのは、人々が洗礼者ヨハネを預言者と信じ、尊敬していたからです。ヘロデはヨハネをいつか殺そうと思いつつも、実行する機会に恵まれませんでした。そのような中で、ヨハネを殺す口実が生まれたのが本日の話です。
祝いの席で
ヘロデは自分の誕生日の祝いの宴席のときにヨハネを殺しました。領主の誕生日の祝いの宴とはまことに盛大なものであります。多くの家臣たちも参列していたでしょう。参列者たちが、主役である領主ヘロデにお祝いを述べ、健康を喜び、その支配が長く続くようにと願ったのです。そして、ヘロデ自身も自分の誕生日の祝いが盛大に行われる中で、自分こそこの国の支配者であると確認したでしょう。自分こそがこの国の支配者であり、何でも自分の思い通りになる権力を握っており、全ての者は自分に従うのだと思っていました。自分こそが王であるという思いに喜び、満足していたのです。
そして、ヘロデの誕生日の祝いとしてへロディアの娘が皆の前で踊りを踊りました。ヘロディアの娘とは、ヘロディアと先の夫との間の娘で、聖書には出てきませんが「サロメ」という名前であったと伝えられています。若く美しい娘の踊りに、宴席は盛り上がり、ヘロデも喜びました。そして、ヘロデは、娘に「願うものは何でもやろう」と言ったのです。7節には「誓って約束した」とあります。すると娘は母親ヘロディアと相談して、8節には「娘は母親に唆されて」とあります。そして、娘は「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」(8節)と言いました。ヘロデは「願うものは何でもやろう」と確かに言いました。自分はこの国の支配者であり、娘が願うものは何でも与えることが出来ると思っていました。このヘロデの言葉は、自分は何でも自由に与えることができる、全てのものが自分の思い通りになる、ということを前提とした言葉です。自分ここの国の支配者であり、王であるから何でも出来ると思っていたのです。この姿が罪の姿です。
憎しみから殺され
ヘロデは「何でもやる」と誓った手前、娘の願いを断ることができずにいました。自分はこの国の王であり、何でも出来る者であるはずである。多くの人々が自分の語った言葉を聞いております。撤回することは出来ませんでした。そして、その娘の願いどおり、人を遣わし、牢の中でヨハネの首をはねさせました。そして、そのヨハネの首を盆に載せて運ばせ、娘に渡したのです。このことは娘サロメ自身の意志であるよりも、母親ヘロディアの思いによることでした。ヘロディアは、自分が領主ヘロデの妻となり、権力を得ました。しかし、その結婚をヨハネが批判したのです。へロディアは大変ヨハネを憎んでおりました。その憎しみが大きくなり、殺してやろうとまで思ったのです。そのヘロディアの深い憎しみが、この誕生日の宴席において現実な事柄となりました。一人の預言者の命を奪ったのです。ヨハネはこのような最後を迎えたのです。弟子たちはヨハネの遺体を引き取り葬りました。そして、そのことが主イエスのところに報告されました。
主イエスの出現
本日の箇所はこの話が以前に起こったとして、回想として語られています。今この時にヨハネが殺されたのではありません。領主ヘロデが主イエスの評判を聞き、家来たちに主イエスは「洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。」ということを問いだし、振り返っているのです。おそらく、ヘロデにとって自分の誕生日を祝う宴席において洗礼者ヨハネを殺したという出来事は忘れてしまいたい思い出だったでしょう。しかしそのことを再び思い起こさせるような事態が起こっていたのです。それは主イエスの出現であります。主イエスの評判を聞き、ヘロデは自分の行ったことをフラッシュバックという形で思い出したのです。主イエス・キリストが、自分の領地であるガリラヤで教えを宣べ伝え、病人や悪霊につかれた人を癒していました。教えを宣べ伝え、力ある業、奇跡を行っている主イエスの評判を聞いて、ヨハネのことを思い出したのです。そして2節にあるように「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」と言いました。自分が殺したはずのヨハネがもう一度現れている。ヘロデは主イエスのことをそう見ました。自分が殺した者がその恨みの思いによって生き返ってきて復讐しようとする、そのような思いにとりつかれていたのです。
ヘロデは今不安と恐れの中にいました。主イエス・キリストによって起ってきた不安、恐れです。そして、この不安、恐れは、主イエスをもヨハネと同じように抹殺しようとする思いを生みます。本日の洗礼者ヨハネの死の出来事というのは、主イエスがこれからたどっていく十字架の死への道を暗示しています。ヨハネは、悔い改めを求め、そのしるしである洗礼を授けることによって主イエスの先駆けとなった人です。しかし、その死においても、主イエスの先駆けとなったのです。
ヘロデの思い
ヘロデは主イエスの評判を耳にして、洗礼者ヨハネのことを思い出したのです。自分の誕生日の祝いの宴席では自分はこの国の支配者は自分である、自分を中心として全てが回っていく、そう思い、その喜びの中にいました。その祝いの宴席の出来事において洗礼者ヨハネを殺したことを思い出しました。洗礼者ヨハネは人々の罪を指摘し、悔い改めを求めていました。「天の国は近づいた。」と語っていたのです。主イエスの先駆けとして、この世に来た預言者です。その預言者を殺したのです。自分こそ、この国の支配者であると思っていました。ですから、その自分を批判する者の存在は、自分にとって邪魔な者でしかありません。洗礼者ヨハネはまことの支配者である神様の御言葉を語りました。それは4節の「あの女と結婚することは律法で許されていない」ということだったのです。神様の御言葉とそこに現されている神様の御心排除し、自分こそが支配者である、王であると、ヨハネを捕らえたのです。そして、洗礼者ヨハネを殺したのです。洗礼者ヨハネは神の真理を語りました。神様の御心である御言葉を語る人を殺すことは、まことの支配者である神様を殺し、自分こそが支配者であり、まことの王であるする歩みです。私たちの心にも、このヘロデのような心はないでしょうか。自分の支配者は自分であり、自分の中に小さな王国をつくり、そこの王であろうとしているのです。自分こそが、自分の支配者であると思っていないでしょうか。私たちは小さなヘロデではないでしょうか。
主イエスにおいて
私たちは神様を信じる者になるのでしょうか、またヘロデのように拒んで神の御言葉を殺す者になるのでしょうか。神を信じる者というのは、神様が遣わされた主イエス・キリストを信じる者となるのでしょうか、ということです。領主ヘロデは主イエスの評判を聞いて恐れと不安を覚えました。家来たちに問いました。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」主イエスにおいて、奇跡を行う力が働いているとしたのです。 主イエスの力を恐れたのです。しかし、ヘロデは主イエスの評判を聞いていたのです。実際に主イエスの奇跡を行う力を見ていたのでしょうか。ここでは、ヘロデと主イエスは一緒のところにいるわけではありません。人々の評判を通してヘロデは恐れ、不安になりました。主イエスはこのとき、故郷のナザレにおりました。本日の前の箇所ですが、13章53、54節にはこうあります。「イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。」とあります。そして故郷の人々は驚いて「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。」と言いました。ナザレでは、58節「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」とあります。それにも、関わらず、主イエスの評判は広がって行き領主ヘロデのところにも入ったのです。「だから、奇跡を行う力が彼に働いている」(2節)と続いていくのです。
命の支配へと
主イエスにおいて働いた力とはどのような力でしょうか。ヘロデを恐れさせた力とは何でしょうか。主イエスは神様から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われたお方です。神の愛する子、独り子です。神の御心が示されたお方です。人々に神の国の福音を宣べ伝え、奇跡の業をされました。そして、本日の箇所の出来事は、主イエスの評判を聞いた、領主ヘロデが洗礼者ヨハネを思い起こした時の出来事です。この時、主イエスは故郷に帰られ、故郷の人々は主イエスのお働きに驚きました。しかし、主イエスを信じることへと至りませんでした。人々は主イエスのお働き、力を認めなかったのです。人々は不信仰であったとあります。それは主イエスは自分の故郷から理解されなかった、捨てられた者であるということです。主イエスのことを分かっているはずの者たちが、何も分かっていなかったということです。自分の民から捨てられた者であるということです。そして、主イエスはこれから十字架への道を歩まれます。殺される、死を迎えられる者であるということです。しかし、主イエスの死は普通の死ではありません。十字架における死は人間の罪をすべて背負われた死です。主イエスは人間の罪のため、罪を贖い、赦しを与えるために十字架の死を歩まれたのです。そして、十字架の死から復活されました。地上の王、指導者の権力は終わりがあります。それは人間に終わりがある、死があるということです。ヘロデ大王は死にました。そして、洗礼者ヨハネも無残な死を迎えました。しかし、主イエスの死は人間の死と同じでありません。主イエスの死は終わりではありません。主イエスは死の力に勝利されたお方です。死を死なれた方です。主イエス・キリストはすべての支配、権威の頭におられる方です。この世の支配者、権力、王と同じではないのです。最後の敵として、死が滅ぼされます死に勝利をされたお方です。このお方をまことの支配者として恐れるのです。領主ヘロデを恐れさせた主イエスのお力です。主イエス・キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼされたのです。主イエスがすべての支配から勝利をされたということです。死の支配から、まことの命の支配へと私たちを導いて下さるのです。