主日礼拝

十字架につけられた王

「十字架につけられた王」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第22編1-32節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第23章32-38節
・ 讃美歌:12、296、361

二人の犯罪人と共に
 十字架の死刑の判決を受けた主イエスが処刑の場へと引かれていった場面を先週の礼拝において読みました。本日の33節によると、その場所は「されこうべ」と呼ばれている所でした。マルコ福音書では、それはゴルゴタという地名で、その意味が「されこうべ」だったと語られています。されこうべのように見える丘だったのでしょう。主イエスはそこで十字架につけられたのです。本日の箇所には、この時、主イエスの他に二人の犯罪人が一緒に十字架につけられたことが語られています。33節によれば、主イエスの十字架を真ん中に、一人は右に、一人は左に、その二人の十字架が並んだのです。なぜ主イエスの十字架が真ん中だったのか、それはおそらく、38節に語られている、主イエスの頭の上に掲げられた札のゆえだったのでしょう。その札には、「これはユダヤ人の王」と書かれていました。この札は主イエスに死刑の判決を下した総督ピラトが掲げさせたものです。ユダヤ人の指導者たちは、イエスをピラトに訴え出るに際して、この男は自分がユダヤ人の王だと主張している、と語りました。つまりローマの支配を否定して自分がユダヤの支配者になろうとしている、と訴えたのです。だからピラトは主イエスを尋問した時に「お前がユダヤ人の王なのか」と問うたのです。主イエスはそれに対して、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになりました。これは問いに対する答えにはなっていません。主イエスはこの問いには答えようとなさらなかったのです。しかしピラトはこれを聞いて、訴えてきた人々に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言いました。ピラトは、ユダヤ人の指導者たちが、自分たちの宗教的権威を守るためにイエスを抹殺したいと願い、そのために自分を利用しようとしていることを知っていたのです。利用されたくないピラトは、主イエスを釈放したいと思っていましたが、しかしこれまで見てきたように、指導者たちのみならず民衆までもがイエスを十字架につけろと叫び、要求したので、彼らを満足させるために死刑の判決を下さざるを得ませんでした。面白くないピラトはその腹いせに、主イエスの十字架に「これはユダヤ人の王」という札を掲げさせたのです。これはピラトの、主イエスに対してと言うよりもユダヤ人たちに対する皮肉であり、侮辱です。ヨハネによる福音書を読むと、ユダヤ人の祭司長たちが、この札を「この男は『ユダヤ人の王』と自称した」と書き換えてくれるように求めたけれども、ピラトは頑としてそれを拒んだと語られています。ピラトは、ユダヤ人の王がその民の要求によって無様に十字架につけられた、という演出にこだわったのです。そしてその演出の一環として、他の二人の犯罪人を左右に、あたかも王であるイエスが左右に従えている家来のように配置して十字架につけたのです。これはピラトのユダヤ人たちへのあてこすりですが、同時に主イエスに対する侮辱でもあります。主イエスは、二人の凶悪犯罪人を左右に従えた親玉として処刑されたのです。この場面を見た人は誰も、イエスの十字架だけは他の二人とは違って罪なくして処刑されているのだ、などとは思いません。どう見ても、この中で一番悪いのは真ん中のイエスだ、イエスこそ罪人たちの王様なのだと誰もが思う、そういう配置で主イエスは十字架につけられたのです。

くじを引いて服を分け合う
 34節の後半には、「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った」とあります。十字架につけられる人は服をはぎ取られ、それは死刑執行人たちの役得となったのです。「人々」というのは十字架刑を執行したローマの兵士たちです。そしてこのことは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第22編の19節に語られていることの実現です。詩編第22編は、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死とを予告している詩であると言うことができます。冒頭の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉はマタイ、マルコ福音書において、主イエスが十字架の上で叫ばれた言葉とされています。ルカ福音書はそのことは語っていません。しかしルカも本日の箇所でこの22編を意識していることは確かです。その一つの現れがこの、主イエスの服をくじで分け合ったということです。詩編22編の17~19節を読んでおきます。「犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」。服をくじで分け合うというのも、その人を侮辱し、苦しめることなのです。主イエスはこの詩人が預言した通りの仕方で侮辱され、辱められたのです。

徹底的な侮辱
 35節には、「民衆は立って見つめていた」とあります。その「民衆」は先週の所にも出てきていましたが、主イエスを十字架につけることをピラトに要求した人々です。彼らが主イエスの十字架を見つめていたのは、決して同情や憐れみの思いをもってではありません。むしろ憎しみと嘲りの目で見つめていたのです。だからその次に、「議員たちも、あざ笑って言った」と続いています。議員たちは、主イエスをピラトに訴えた人々です。ついにイエスに勝利し、十字架につけて殺すことができる、その喜びをもって彼らは主イエスをあざ笑ったのです。彼らが言ったのは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」ということでした。さらに36節には、十字架刑を執行している兵士たちが「酸いぶどう酒」を主イエスに突きつけたとあります。このぶどう酒は本来は十字架の死刑を受ける者の苦しみを和らげてやるための麻酔薬として用意されていたもののようですが、ここでは兵士たちも民衆や議員たちと一緒に主イエスを侮辱するためにぶどう酒を突きつけたと語られています。彼らも「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ったのです。この兵士たちの嘲りの言葉は、主イエスの頭の上に掲げられていたあの札から来ています。ピラトの命令で「これはユダヤ人の王」という札を掲げた兵士たちが、それをネタに主イエスを嘲ったのです。つまり本日の箇所に語られていることは、主イエスが犯罪人たちのまん中で、その親玉のようにして十字架につけられ、その下では兵士たちがはぎ取った服をくじで分け合い、民衆たちは憎しみの目で見つめ、議員たちは「お前は神からのメシア、神に選ばれた者ではなかったのか」とあざ笑い、兵士たちは「ユダヤ人の王なら王様らしい力を見せてみろ」と嘲った、ということです。手足を十字架にくぎ打たれてぶら下げられるという十字架の死刑はただでさえ苦痛に満ちた、またそれが長く続く最も残酷な処刑であると言われますが、それに加えて主イエスは、これでもかこれでもかといわんばかりに徹底的に辱められ、侮辱されたのです。

自分を救え
 議員たちと兵士たちが主イエスをあざ笑った言葉に目を留めたいと思います。議員たちは、「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と言いました。彼らは、主イエスが多くの病人を癒し、悪霊にとりつかれていた人から悪霊を追い出し、死んだ人を生き返らせることまでして、苦しみ悲しみの中にある人々を救ったことをとりあげています。そのように人々を救う力のある神からのメシア、つまりキリスト、救い主ならば、自分をこの十字架の苦しみと死から救ったらよいではないか、ということです。それができないということは、お前は神からのメシアでも、選ばれた者でもないということだ、お前が偽物のメシアだということがこれで明らかになったのだ、と彼らは言っているのです。また兵士たちは、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言いました。本当の王様なら、なぜ無様に十字架につけられるのか、つまりお前は王でも何でもない全くのニセモノ、ただの大法螺吹きだったのさ、ということです。この二つの嘲りの言葉には共通点があります。「自分を救え」ということです。「自分を救うことのできないお前はニセモノだ」ということです。十字架につけられ、苦しみつつ死のうとしている主イエスは、そういう嘲りを受けたのです。このこともまた、詩編22編が語っていたことです。その8、9節にこうあります。「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」。この詩人が受けた嘲りの言葉と、本日の箇所の「自分を救え」というのは同じことです。主なる神様に愛され、選ばれ、遣わされた者なら、その主に頼んで救ってもらうことができるはずだ、主の力を受けて自分を救い、十字架の死を免れることができるはずだ、そういうことが起らないということは、お前は主に愛されてはいなかったのだ、自分が神に愛され、選ばれ、遣わされていると思ったのはお前の思い込み、幻想に過ぎなかったのだ、ということです。

嘲り、ののしりの中で
 主イエスが受けたこの侮辱の言葉は非常に深刻であり、私たちをも動揺させます。主イエスは十字架につけられて殺されました。十字架は、今ではキリスト教のシンボルとなり、神様による救いの印とされています。十字架を見るとドラキュラも逃げていく、そのように悪魔の力、悪い力へのお守りのように思われているところもあります。だから十字架を首から下げている人もいます。しかし十字架は本来は、とても残酷な死刑の道具です。極悪人が見せしめのために殺されるためのものです。主イエスはそういう極悪人の一人として、十字架の死刑に処せられたのです。鞭で打たれ、十字架を担いで運ばされ、服をはぎ取られ、手足に釘を打たれてぶら下げられ、その苦痛の中で死んだのです。そこには何の救いも感じられません。神の愛とか、守りとか、恵みなどというものが一切失われた現実がそこにはあるのです。議員たちや兵士たちが言っているように、このような救いのない苦しみの中で死んでいこうとしている者が、救い主だったり、王だったりすることなどあり得ないのです。人を救うためには、救うことのできる力が必要です。自分が滅びてしまうようでは、人を救うことなどできません。王であるというからには、人を従わせるだけの権力が必要です。捕えられ、裁かれ、死刑に処せられてしまうようでは、王ではあり得ないのです。だからお前は救い主でも王でもない、という彼らの嘲りは当っています。主イエスを信じる信仰に生きようとする私たちも、このようなイエスを救い主だとか王だとか信じるのはお前の思い込み、幻想に過ぎない、イエスにそんな期待を抱くと必ず裏切られるぞ、という嘲りやののしりを受けるのです。そういう嘲りやののしりを生む思いが、あの東日本大震災による被災の現実を見る中で今多くの人の心にあります。お前の信じている神は何をしているのか、恵み深い愛の神がいるというなら、なぜこんなことが起るのか、このように人々が苦しみ、死んだという事態のどこに、神の救いがあるのか、神が本当に神であると言うなら、力を見せてみろ、苦しむ人々を救ってみせろ、それができないなら、救いだとか恵みだとか偉そうに言うな…、そういう思いが今人々の心の中にうず巻いているし、私たちもそういう嘲り、ののしりによって動揺しているのではないでしょうか。十字架につけられた主イエスを嘲り、ののしった声は、今私たちの周囲にも溢れているのです。私たち自身の心の中にも、「自分を救えない者がどうして人を救えるのか」という深い問いがあるのです。それは決して大震災があったからだけではありません。人間の歩みには、様々な苦しみ悲しみ困難があります。中にはいわゆる不条理、なぜ自分がこのような苦しみ悲しみを味わわなければならないのか、その理由が全くわからないようなものがあります。そういう苦しみ悲しみを前にして、私たちは、神が本当に神ならなぜ今救ってくれないのか、救いの力、愛や恵みの力を発揮しない神など本当の神ではないのではないか、と思い、さらには、もともとそんな神などいなかったのではないか、自分の思い込み、幻想に過ぎなかったのではないか、とも思ってしまうのです。

主イエスの祈り
 このような嘲り、ののしりを受けたことこそ、主イエスにとって、手足を釘打たれる肉体の苦痛に勝る苦しみだったと思います。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは主イエスのその苦しみから発せられた言葉です。しかしルカはむしろ、主イエスが黙ってその嘲り、ののしりに耐えておられるお姿を語っています。その忍耐の中で主イエスがお語りになった一言が34節です。「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』」。十字架につけられた肉体的苦しみの中で、また徹底的に侮辱され、嘲られ、ののしられる中で、彼ら、つまり自分を十字架につけた人々への赦しを、主イエスは父なる神様に祈ったのです。その「彼ら」の中には、嘲り、ののしっている人々も含まれていると言えるでしょう。主イエスを十字架につけて殺し、抹殺しようとしている、そこにおいて、自分を救う力のないお前は救い主でも王でもないとののしっている人々、それら全ての人々の罪の赦しを、主イエスは祈り願われたのです。その祈りの根拠というか前提として、彼らは「自分が何をしているのか知らないのです」と言っておられます。主イエスを十字架につけた人々も、嘲りののしっている人々も、自分が何をしているのか、そして今何が起っているのかを知らないのです。だから彼らを赦してくださいと祈っておられるのです。
 34節のこの部分全体に括弧がつけられています。それは、古い写本にこれが欠けているものがあり、もともとこの部分があったのかどうか疑いがある、ということです。しかしこのお言葉は、ルカによる福音書の描く主イエスのお姿によく合っているものですから、私たちはこれを十字架の上での主イエスのお言葉として大事にしたいと思います。

知らなかったこと
 彼らは何を知らなかったのでしょうか。主イエスが十字架につけられることにおいて何が起っていたのでしょうか。それは、父なる神の独り子であられる主イエスが、神様に背き逆らい、神を神として敬わず、従わず、自分が主人となって、自分の思いによって歩もうとしている、その私たちの罪を全て背負って、引き受けて、十字架にかかって下さったということです。十字架の死刑を受けなければならない罪人は本当は私たちであるのに、その私たちの身代わりとなって主イエスが十字架につけられたのです。神の独り子である主イエスは、これまで数々の奇跡を行い、病人を癒し、悪霊を追い出し、死者を復活させることすらもなさいました。主イエスはそのような力を持った方であり、その力によって十字架の死を免れることもおできになる方です。また父なる神様は主イエスを十字架につけようとする者を滅ぼし、救い出すことがおできになる方です。しかし主イエスも、父なる神様も、それをしようとはせずに、主イエスが十字架につけられ、徹底的に侮辱され、嘲りとののしりを受けながら死ぬことを選びとって下さったのです。それは全て、私たちのため、私たちの罪が赦され、神様の祝福を受けて生きる神の子とされるためでした。私たちは自分の罪の中で、また人々の罪の中で、様々な苦しみ悲しみに陥ります。自分が人を傷つけ、人間関係を破壊してしまう、とりかえしのつかない罪を犯してしまうことがあります。また人のそういう罪のために苦しみ、傷つき、赦せないという思い、憎しみを抱き、そこからどうしても抜け出せないということもあります。神様をも、人をも、愛そう、愛したい、愛さなければと思いながら、それができないという現実に絶望を覚えます。また私たちのこの世の歩みは、様々な出来事に翻弄され、思わぬ苦しみを背負うことがあります。このたびの震災のような自然の災害もそうですし、病気になったり、事故や事件に巻き込まれたりすることもあります。自然災害を引き金として起った原発事故によって、この社会の仕組みそのもの、国の政策そのものが原因である悲惨な事態に私たちは今まさに直面しています。それらの出来事の中で、いったい神様の救いなどどこにあるのか、神が私たちを愛しておられ、恵みを与え、守り導いて下さると言うけれども、そんな愛や恵みや守りはどこにも見えないではないか、と思うことがあります。主イエスの十字架は、まさにそのような、救いも助けも恵みも愛も見当たらない現実のただ中に、神様の独り子が身を置き、その苦しみ悲しみ絶望を自分の身に背負い、引き受けて下さったという出来事です。主イエスがこのように十字架にかかり、自分を救うことができずに殺されてしまう、その苦しみと死を味わって下さったからこそ、私たちがそのような救いの見えない苦しみの中で絶望を覚える時にも、そこに、十字架につけられた主イエス・キリストが共にいて下さるのです。彼らが知らなかったのはこのことでした。私たちも、このことをしっかりとわきまえていないと、自分を救うことのできない救い主など救い主でない、というののしりに負けてしまい、主イエスを救い主と信じて依り頼むことは幻想に過ぎなかったのではないかと思ってしまうのです。しかし、主イエスが自分を救うことができず、いや救おうとなさらず、私たちの罪を背負って十字架の苦しみと死を引き受けて下さったからこそ、そして父なる神様が愛する独り子主イエスを救うのでなく、十字架の苦しみと死へと歩ませて下さったからこそ、十字架の苦しみと死を本来受けなければならないはずの私たちが赦され、救われる道が開かれたのです。

十字架につけられた王
 人を救うためには救うことのできる力が必要だ。自分が滅びてしまうようでは、人を救うことなどできない。王であるというからには、人を従わせるだけの権力が必要だ。捕えられ、裁かれ、死刑に処せられてしまうようでは王ではあり得ない。それが私たちの常識です。しかし主イエス・キリストの十字架は、その常識をくつがえす出来事です。捕えられ、裁かれ、死刑の判決を受け、鞭打たれ、十字架に釘づけられ、人々の侮辱、嘲り、ののしりを受けつつ死んだ、この主イエスこそ、神様の独り子、まことの神であられ、私たちのまことの救い主、私たちの罪を赦し、新しく生かして下さるまことの王であられるのです。このことを知らずに、主イエスを十字架につけ、嘲っている人々のための赦しを、主イエスは父なる神様に祈って下さいました。それは私たちのための祈りでもあります。私たちは、この主イエスの十字架の上での執り成しの祈りによって、赦され、新しく歩み出すことができるのです。主イエスを信じて新しく歩み出す私たちは、自分が何をしているのかをはっきりと知っています。私たちは、十字架の死によって私たちの罪を全て赦し、苦しみや悲しみを共に担って下さる神様の独り子イエス・キリストをまことの王としていただき、その王の下で、その恵みを喜び、感謝しつつ、キリストの父である神様を礼拝し、ほめたたえつつ生きているのです。

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