主日礼拝

賛美の祈りを唱え

「賛美の祈りを唱え」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 列王記下 第4章42-44節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第6章30―44節
・ 讃美歌:13、358、571

忘れられない救いの出来事
 本日はマルコによる福音書第6章30節から44節の御言葉をお読みします。本日の出来事は小見出しにもありますように「5千人に食べ物を与える」という主イエスの奇跡の物語です。わずか5つのパンと2匹の魚で、男だけで5千人もの人々が養われ、すべての人が食べて満腹になったという驚くべき出来事です。本当に不思議な出来事です。この話はマルコによる福音書、他の3つの福音書も含めた4つの福音書マタイ、ルカ、ヨハネによる福音書にも記されている唯一の奇跡です。4つの福音書全部に大変詳しく記されています。四つ福音書すべてにこれほど丁寧に書かれている記事は、十字架と復活の記事以外には、この記事しかありません。恐らく、この奇跡の物語は最初の教会にとって、忘れられない大切な救いの物語として、その心に深く刻まれたのだと思います。この出来事の中に主イエスのお姿の中にまことの救い主としての姿を見出したのです。忘れられない出来事して、忘れてはいけない出来事としてこの物語を描いたのです。主イエスが天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡されました。その様子は、最後の晩餐の場面をも思い起こさせます。聖餐式の原型となる最後の晩餐の出来事にも重なり合いながら、そこから更に広がる教会の交わりを指し示しています。主イエスは天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂き、弟子たちにパンを与えられました。そして弟子たちだけではなく、弟子たちを通して更に多くの人たちに恵みが分配されているのです。

主イエスの前で報告する
 マルコによる福音書は、この不思議な奇跡に先立って興味深い導入の物語を記します。30節です。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。」とあります。使徒たちとは「遣わされた者たち」です。6節の後半から13節には、主イエスによって12人の弟子たちが伝道へ派遣されたということが書かれています。弟子たちは二人ずつ組になって伝道へと遣わされ、そして伝道の旅から帰って来ました。弟子たちが主イエスにその結果を報告しているのです。自分たちがしたこと、語ったことをすべて、ます主イエスに報告したのです。初めての伝道の経験、緊張に満ち、不安に満たされる思いをして、今やっと思いで主イエスのもとに戻って来たのです。弟子たちの中に自分の成果を主イエスに報告したいと思って興奮していた者もいたかもしれません。あるいは逆に、いくら教えを説いても受け入れてもらえず、沈んだ気持ちで帰って来た弟子たちがいたかもしれません。伝道に大きな手応えを感じた者もいれば、自分の無力さに打ちのめされた者もいます。主イエスから遣わされた者が経験することは、いつでもその両面を含んでいます。主イエスの弟子である私たちすべて主イエスに遣わされた者として、同じような経験をするのです。御言葉が私たちの家族や身近にいる者たちに伝わり、慰めとなったときの喜びは大きいものです。しかし、また自分が教会へ行くことが家族や親しい友人たちに理解されないときの寂しさと辛さも味わいます。私たちは主イエスからそれぞれの場へと遣わされ、様々な経験を抱えながら、主イエスのもとに帰って来るのです。私たちは一週間それぞれに遣わされた場所での生活を経て、再び主イエスのもとに集められるのです。弟子たちも誇らしい思いや打ちのめされた思い、悲喜こもごも抱えて帰ってきました。

休みなさい
 弟子たちの報告を聞いて、主イエスがまず弟子たちに命じられたのは、休むことでした。主は言われます。「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」(31節)。主イエスのこのお言葉は主イエスがまことの牧者であられるということが示しています。主イエスは誰よりも、私たちの体の疲れ、魂の疲れを覚えていて下さいます。主イエスはそのような疲れを覚えている弟子たちの姿を見抜かれました。「あなたがただけで、人里離れたところへ行って、しばらく休むがよい」(31節)と仰いました。この「休む」という言葉は、主イエスの招きの御言葉にも使われております。マタイによる福音書11章28節の有名な御言葉です。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」という御言葉の「休ませる」と同じ言葉です。主イエスの御許に来て、重荷、荷物をおろしほっと一息つくのです。けれども主イエスご自身はと言いますと、片時も休むことなく、人々に福音を説き、病気を癒しておられました。疲れを覚えておられたに違いありません。しかし、主イエスは御自分の疲れよりも、まず弟子たちの疲れのことを深く心に留められ「しばらく休むがよい」、と仰って下さったのです。マルコによる福音書は、ここで「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」という説明を加えています。主イエスは、弟子たちの疲れを気遣っておられるのです。
 けれども、ただ単に体を休めればよいのではありません。主イエスはここで、弟子たちに「あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むが良い」と勧めています。ここで「人里離れた所」と訳されている言葉は、文字通り訳しますと「荒れ野」を意味する言葉です。「荒れ野」とは、旧約聖書以来の長い伝統の中で、特別な意味を担ってきた場所です。神様と出会う場所であり、神の啓示を受ける場所でした。主イエスご自身もまた、しばしば、人里離れた場所や高い山に登って、ひとりで祈っておられました。主イエスは今、弟子たちに対して、そういう意味での「まことの休息」を与えようとしておられます。人里離れたところで、神と向かい合う祈りのときを持つようにと命じておられる。何よりも、神の前で、魂の休みを得るようにと促しておられるのです。そこで弟子たちは、群衆を避け、自分たちだけで舟に乗って、荒れ野へと出て行ったのです。

主イエスの慰め
 ところが、群衆は弟子たちの行動を見逃しませんでした。舟で出かけた弟子たちを、陸づたいに先回りして待ち受けたのです。神様と向かい合う静かな祈りの休息は、群衆の熱心な求めによって妨げられてしまいました。けれども、主イエスは、そのような群衆をお叱りになりませんでした。むしろ、主イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、その人々の姿を深く憐れまれたのです。34節です。「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」主イエスの前にいたの「飼い主のいない羊」のような群衆でした。羊とは本来、羊飼いに養われてこそ生きられる動物です。自分で道を見出すことも、自分で食物を探すことも、自分で危険から身を守ることもできません。羊は羊飼いを失ったら荒野をさまよい歩き、体中に傷を受け、飢えと渇きで死んでしまうか、野獣の餌食となってしまいます。しかし「飼い主がいない」というのは、単なる飢えや渇きの問題だけではありません。深い、魂の救いが無いということを示しています。外面的なものだけではなく、心の中にも傷を受け、飢えと渇きを覚えるということです。主イエスは彼らの中に「羊飼いが居ない」という者の姿を見出されたのです。この時、ユダヤの社会の指導者とされる人々は大勢いたと思われます。しかし、信頼できる、自分たちが心の底から信じることの出来る、導き手がいなかったということです。主イエスはそのような者たちに教えられます。御言葉を与えるのです。どの方向に向かえばよいのか、どの道を歩いたら身を滅ぼすことになるのかを教えます。疲れている者、傷ついた者、悲しむ者には慰めを与えられます。

深く憐れんで
 主イエスはこのような、群衆に深く憐れまれました。「深く憐れむ」とは、「はらわたが痛む」という意味です。「はらわた」はユダヤ人にとって、感情や喜怒哀楽の在りか、感情の座です。私たちの言葉で言えば「胸が痛む」とか「心が痛む」と言うべきところを、ユダヤ人は「はらわたが痛む」と言います。「深く憐れむ」とは、相手の惨めな状態に自分のはらわたがまるで引き裂かれるような痛み、存在そのものが深く動かされることを意味します。主イエスの御自身の存在が深く動かされたということです。まことの指導者を見失っている群衆たち、それはまことの神様を見失っているために、どこに行ってよいか分からなくなってしまっているということはどんなに辛いことか、そして厳しいことか、主イエスが誰よりも、群衆たち自身よりも深いところで、ご自分の痛みとして下さっているのです。そして、群衆に色々と教えられました。私たちの姿もまた、この羊に重ね合わせることができると思います。現代人もまた飼い主のいない羊たちだと言えます。飼い主が不在であると羊たちは道を誤ってしまいます。現代ではマスメディアが私たちを巧妙にマインドコントロールしています。私たちが本当の魂の牧者に出会わず、私たちを造られた方の御心を知らないままに過ごしていると、心のすき間に良き羊飼いの声ではない別の声が飛び込んできます。私たちもまた心の空洞と飢え渇きを本当の良き羊飼いの言葉とパンで満たす必要があります。

あなたが与えなさい
 主イエスは群衆たちに教えられました。まことの御言葉を。このような状況の中でとんだ迷惑を被ったのは弟子たちです。せっかくの休息を妨げられ、お腹を空かせたまま、少し乱暴な言い方になってしまいますが、群衆に教え始められた主イエスにつき合わなければなりませんでした。このようなハプニングは私たちの間では日常茶飯事です。私たちのささやかな計画も、しばしば周りの人に妨げられます。一日の仕事を終えて疲れ切り、いざ休もうとしていると、突然、電話がかかってくる。小さいことですが、これもまた私たちが日常的に経験することです。そんなことを考えると、この後の弟子たちの様子に親近感を覚えます。弟子たちのいらいらした姿が見えるようです。このように描かれています。「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう』」(35―36節)。弟子たちの本音は自分たちの食事をすることさえままならないのに、とても他の大勢の人たちの面倒まで見られないことでしょう。それが弟子たちの判断です。まことにもっともな、そして冷静な判断です。しかし、あたかも、そのような常識的な冷静さに挑むかのように、主イエスは弟子たちにお命じになります。
 主イエスは言われます。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37節)驚くべき主イエスのお言葉です。   そんなことを言われても、途方に暮れるばかりです。弟子たちは答えました。「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」。あきれ果て、明らかに不服そうな弟子たちの顔が目に浮かびます。しかし、主イエスは、弟子たちの様子にはお構いなしに命じて行かれます。集まった群衆の手もとにあるパンの数を確認させるのです。弟子たちは確かめて来て答えました。「五つあります。それに魚が二匹です」。この後の出来事については、事実だけが記されていきます。「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになりました。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった」(39―44節)。

主の弟子として
 主イエスの手もとにあるのは、わずか五つのパンと二匹の魚でした。しかし、主イエスは、それを弟子たちに手渡す前に、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」られたのです。主イエスによって分かたれたパンは、主の弟子たちを通し、大勢の人々に分かち合われ、すべての人が満たされるに至ったのです。ここに、満ちあふれるほどの豊かな食事の秘密があります。私たちは地上のことに心を占領され、すぐにお金の計算をしてしまうのではないでしょうか。二百デナリオンものパンを、一体どこから、どうやって、と考えてしまいます。男だけで五千人いたとすれば、女性や子どもも加えて、優に一万人を越える空腹の群衆を前にしているのです。お金の計算を始めれば、困ってしまうしかありません。自分の手の内を数え始め、自分の持っているもの、自分の能力に頼っていれば、すぐに限界が見えてきます。しかし、間違えてはなりません。確かに、主イエスは、弟子たちに、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。しかし、それは、「あなたがたの力で」ということではありません。むしろ、「あなたがたの手を通して」ということであるはずなのです。主イエスは、天を仰いで賛美の祈りを唱えることから始められました。主イエスにおいて、天の祝福が開けています。主の弟子として遣わされた者は、この天からの祝福と共に送り出されるのです。私たちが何かをするのではありません。主ご自身が、私たちを通して、私たちを用いて、ご自身の民を豊かに養ってくださいます。そこにこそ、遣わされた者の光栄があるのです。

伝えるため
 主イエスの弟子とは、ただ主によって選ばれ、召し出され、主のものとされて、主の御業ために用いられる者です。主イエスの者として用いられる本当の喜びを味わいます。主イエスご自身がまことの導き、羊飼いとなって語ってくださる救いの物語の中に招き入れられます。私たちも、主の御業のため、御心のままに用いていただくのです。ですから、私たちの小さな業も、主イエスによって用いられるのです。主イエスは言われました。「休むが良い」本当の休みとは、遣わしてくださった方のもとに立ち帰り、このお方のもとに留まることの中で与えられます。人里離れた所で、神の前にひとりで立つ経験も大事です。また同時に、主イエスのもとに集められた交わりの中で、天からの祝福を分かち合うこと大事なことです。ひとつの恵みに共にあずかることを通して、私たちはお互い豊かに養われるのです。主によって養われ、主のものとして導かれ、主の御前に整えられた民として、主の御業のために用いられるのです。飼い主のいない羊のような群衆の有様を、主は深く憐れまれました。どこを目指して歩んでよいか分からず、何のために生きるかも分からなくなった人間は、自分の身勝手な思いに引きずられて、罪の迷いの中に捕らわれてしまっています。しかし、主イエスは、ご自身の命を捨てて羊を救い出し、この群れのまことの飼い主となってくださいました。天におられた神の御独り子であるが、罪を犯して飼い主のない惨めな状態に陥っている地上のわたしどものところにまで降られました。御自分の命を捨てて、飼い主のいない羊を救い出されたのです。そして、さらには、羊の群れの世話をする者たちを任命されます。ご自身の民である教会を整えられます。それは、更に広く福音を宣べ伝えるためであります。そのために主イエスは遣わされるのです。

祝宴の先取り
 主イエスの弟子たちは不思議なパンの奇蹟を通して、最も深く教えられ、養われました。すべての人が食べて満腹した後、「パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠いっぱいになった」と記されています。なぜ、籠は十二あったのでしょうか。十二人の弟子たちが、ひとつずつ籠を持って集めたからです。食事をする暇さえなくていらいらしていた弟子たちが、五千人以上の大群衆と一緒に満腹して、更に籠がいっぱいになるほどに満たされたのです。しかし、これで救いが完成されたわけではありません。やがて飼い主が取り去れる時が来ます。主イエスが十字架に架かれるときです。この緑なすガリラヤの野辺で行われたパンの分かち合いは、やがて主ご自身が命のパンとなり、それが私たちのために十字架上で裂かれ、分かたれることで、クライマックスを迎えます。弟子たちは、深い挫折を味わいます。主イエスは、ご自身の死によって罪を完全に贖い、死の力を打ち破って復活された方として、代々にわたって世界の果てにまで、ご自身の群れを養い導いてくださるのです。確かに、荒れ野で主に養われた群衆は、そのままで教会になるわけではありません。この食事が最後の晩餐とぴったり重なり合うわけでもありません。この群れのただ中に、主ご自身が共におられることによって、終わりの日、御国において開かれる大いなる宴会を先取りするようにして、主に養われる喜びが満ちあふれています。やがて、弟子たちは主イエスの十字架と復活を経て、聖霊の注がれるペンテコステによって、を経験します。そして、主の民、教会が召し出されました。そのとき、この荒れ野の経験が大切に思い起こされ、伝えられたのです。主が共におられ、主によって養われる驚くべき恵みの証しとして、この経験はすべての福音書の中に大切に記録されたのです。

命へと導かれ
 わずか五つのパンと二匹の魚が五千人を養ったからといって、なぜそんなに驚くのでしょうか。世界中の信仰者の群れが今も主から手渡される命の言葉とパンによって養われているということこそ、もっと驚くべきことではないでしょうか。主の御言葉が語られ、主の聖餐が祝われるところ、まさにそこが私たちのガリラヤの野辺です。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」(詩編23編)。
主によって与えられた、主イエス御自身の命によって与えられた命によって養われる幸いを、捨ててはなりません。滅びに向かう道ではなく、命に至る道を歩みましょう。

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