夕礼拝

罪を赦す方

「罪を赦す方」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:ダニエル書 第7章13-14節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第2章1-12節
・ 讃美歌:220、441

<神の子>  
「神の子イエス・キリストの福音の初め」。
マルコによる福音書は、第1章1節から、このようにして始まります。福音書の記者マルコは、イエスという方こそ、神の子であり、キリスト、つまり救い主である、ということを語ろうとしています。  
 本日の箇所も、主イエスが、「子よ、あなたの罪は赦される」と、罪の赦しを宣言なさる方、神の権威を持って、わたしたちを罪から解放するために来て下さった方である、ということを指し示している箇所です。

<御言葉を語る主イエス>  
 それは、4人の男たちが、家の天井を破って、病気の友人を主イエスの許に連れて来た、そのような大胆な出来事から始まりました。
 今日出て来るこの家は、おそらく主イエスの弟子となったシモン・ペトロの家です。主イエスは前回、カファルナウムに来られた時、安息日に会堂で教え、悪霊を追い出し、その後にシモンの家に行って、熱を出して寝ていたシモンのしゅうとめを癒して下さいました。そして、主イエスの評判を聞き着けた多くの人々がシモンの家に詰めかけ、病人や悪霊に取りつかれた者たちを連れてきて、主イエスに癒していただいたのでした。

 人々は、病や苦しみを癒してもらいたい一心です。その思いは、病気を抱えている人、大切な人や、家族が病気になっている人、誰しもが心から願うことです。この病さえなければ。この苦しみや痛みさえ取り除かれれば。そのために出来ることならどんなことでもしたいし、何にでも頼りたい。人々はそのような必死の思いで、主イエスのところへやってきます。

 しかし主イエスは、腕の良い医者として来られたのではありません。
 主イエスがまずなさることは、福音を宣べ伝えることです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。これが、主イエスが教えておられたことです。神の国とは、神のご支配のことです。神は、神から離れて罪に捕らわれている人々を解放し、救い出し、ご自分のもとへ、神の恵みのご支配の中へ招こうとしておられます。そのために、主イエスはこの世に遣わされました。
 神の御子、主イエスによって、神の救いの約束が実現する時が来ています。だから、神のもとに立ち帰りなさい。神の方に心を向けなさい。そのことを、宣べ伝えておられるのです。
 そして、この神の国の福音が確かであること、神に遣わされた主イエスにおいて、救いが実現することの「しるし」として、主イエスは神の力によって、病を癒し、悪霊を追い出し、また汚れを清めて下さったのでした。
 ですから、神の力によってなされる奇跡や御業の目的は、病を癒すことではなく、神の権威を示し、神から離れていた人々が、神の国の福音を信じ、神の下に立ち帰る、ということなのです。

 本日の箇所でも、シモンの家に大勢の人が集まり、戸口の辺りまですきまもないほどになった、とありますが、そこでまず主イエスがなさっていたことは、「御言葉を語ること」でした。集まった人々は、主イエスの語られる御言葉、神の国への招きに、耳を傾けていたのです。

<4人の男>
 そこに、4人の男が、中風の人を運んで来た、とあります。中風とは、半身麻痺や脳卒中のことを現す病名ですが、もとのギリシア語は、麻痺や、足腰の立たない状態のことを言っているようです。自分では主イエスのところに行くことが出来ない、ということです。この人が連れて行って欲しいと望んだかどうかは分かりませんが、4人の男は、とにかく主イエスがカファルナウムにおられることを聞くと、この人を担いで、急いで連れて行ったのです。

 この人たちは、もしかすると前回、主イエスがシモンの家に来られたときに、癒していただく機会を逃してしまったのかも知れません。前回の時も、癒しを求める多くの人々が集まってきたのですが、主イエスは朝早く暗いうちに出かけて、父なる神に祈りをささげ、「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と仰って、福音を宣べ伝えるために、弟子たちと共にカファルナウムを出て行かれたのです。
 その主イエスが再び来られた。今回こそは、絶対に中風になった仲間を癒してもらおう。4人の男はそうして、中風の人を何とか主イエスのもとに連れて行こうとしたのでしょう。

 ところが、家に集まってきた人が多すぎて、群衆に阻まれて、主イエスのもとに連れていくことが出来ません。主イエスに近づけないと知ると、4人の男は家の屋上に中風の人を担いで上り、屋根をはがして穴を空け、病人ごと寝床をつり降ろしました。そこまでして、主イエスに中風の人を見てもらいたかったのです。もしかすると、またすぐに、主イエスは他の町や村へ行ってしまうかも知れない。そんな焦りがあったかも知れません。
 今ここに、神の権威をもって「神の国は近づいた」と語り、力ある業を行なわれる主イエスがおられる。この時を逃してはいけない。その思いが、これほど大胆な行動を起こさせました。

<罪の赦し>
 そうして目の前につり降ろされてきた中風の人に向かって、5節にあるように、「イエスはその人たちの信仰を見て、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」とあります。
 「子よ、あなたの罪は赦される」。主イエスは、中風の人に、罪の赦しを宣言なさいました。それは、「その人たちの信仰を見て」、つまり連れて来た四人の男の信仰を見て、こう言われた、とあるのです。

 四人の男が、中風の人の救いを求めて、主イエスのところに来たことは間違いありません。しかし、彼らが求めていた救いは、中風の人の罪の赦しの宣言ではなく、癒されることだったのではないでしょうか。痛みや苦痛が取り除かれて、体が動くようになること。もとの生活に戻り、働いたり、仲間と共に礼拝をささげたりすることだったのではないでしょうか。彼らは目に見える癒し、救いを望んでいたはずです。
 健康や、豊かさや、当たり前の生活を望むこと、現在の悩みや苦しみが無くなることは、切実な願いであり、求めるのは当然のことです。

 しかし、主イエスがお与えになったものは、目に見えないものでした。「罪の赦し」です。
 罪とは神から離れ、自分勝手に、自分の思いで人生を歩むことであり、造り主である神との関係が断絶していることを言います。それは、神に造られた人間の本来の生き方を失った状態です。神は、人が神を知り、神の愛に応えて生きるものとして、創造して下さいました。しかし、人は神に逆らい、神に背いて歩んでいるのです。そこに、苦しみや、隣人関係の破れや、絶望が起こります。神は、人がそのような歩みをやめて、ご自分のもとに立ち帰ることを望んでおられます。そのために、独り子である主イエスを遣わし、人の罪を赦すために、救いのみ業を実現しようとしておられるのです。
 ですから、人間にとっては、罪を赦され、神と共に生きること。自分自身が、神に愛をもって造られたものであると知り、神を礼拝して喜んで生きることこそ、本当に求めるべき救いなのです。またここにしか、人の根本的な癒し、慰めはありません。

 今現在の苦しみがなくなっても、また新たな苦しみや悩みが起こってきます。孤独を感じたり、虚しさを感じることがあります。今、病を癒していただいても、人はまた病を得ることがあるし、いずれは老いて、弱さを覚え、必ず死んでいきます。
 しかし、その自分の人生や命が、すべてをお造りになり、支配しておられる神のものであるということ。自分の存在が、神に愛され、祝福されているのだと知ることが出来るなら、どのような世の苦しみや悲しみがあっても、神の御手に自分を委ねて、神の愛に支えられて、希望を持ち続けて歩んでいくことが出来るのです。
 神は、この愛をわたしたちに示すために、御子であるイエス・キリストを世に遣わされたのです。

 主イエスは、病に苦しみ、生活を失い、おそらく希望も失っていた、この中風の人に、この神の愛を告げて下さいました。
 「子よ、あなたの罪は赦される。」主イエスは、中風の人を「子よ」と呼びかけられました。父なる神の深い愛をもって、あなたは神に愛されている。あなたは神のものだ。神と共に生きる者になりなさい。そのことを宣言なさったのです。主イエスは、中風の人に、本人や仲間たちが求める以上に、もっとも必要で、もっとも善いものを与えて下さったのでした。

<信仰>  
 この「罪の赦し」は、中風の人自身、望みもしなかったことです。そもそも、自分では主イエスのもとに行くことも出来なかったのです。そして、四人の男も、本当に望むべき救いではなくて、ただひたすら中風の人の病の癒し、回復を望んでいたのだろうと思います。とにかく彼らは、新しいことを教え、力ある業をなさる主イエスが来られたと聞き、彼らの思う救いを求めて、必死になって主イエスのもとに駆けつけました。  
 主イエスは、神の国への招きを語っておられました。神のご支配のもとに来るようにと呼びかけておられました。そこへやって来た。求めてきた。主イエスはそのことを、「四人の男の信仰」として見て下さったのです。  
 この四人の男の信仰を見て、主イエスは中風の人を救って下さいました。
 中風の人は、自分の力や思いや努力ではなく、ひたすら友の信仰と、主イエスの恵みによって救われたのです。それは四人の男の信じる強さや、立派さということではありません。信仰は、真実な方である神に依り頼んで、神を仰ぐことなのです。
 四人の男は、自分たちの近くに来て下さった主イエスの「神の国」への呼びかけ、招きに、仲間を連れて応えた。神の恵みを求め、神に向かって行った。
 これを主イエスは、救いの理解が不十分であっても、必死過ぎてめちゃくちゃなやり方だったとしても、ご自分の真実によって、そこに「彼らの信仰」を見て下さり、良しとして受け取って下さいます。そして、主イエスご自身の真実によって、中風の人に本当に必要な救い、「罪の赦し」を与えて下さるのです。またこの四人の男も、「子よ、あなたの罪は赦された」との御言葉を、自分のこととして聞いたに違いありません。  

 わたしたちも、神を求めた動機は、さまざまだったかも知れません。苦しみから解放されることであったり、虚しさを克服するためであったり、悩みを解決したいという思いから、求め始めたかも知れません。自分の願いを叶えるために神の力を求め、神が与えようとしておられる救いのことを、正しく分かっていなかったかも知れません。
 しかし、神の御子イエスは、一人一人と出会って下さり、神に救いを求めていること、神から恵みを得ようとしていることを、「信仰」と見て下さり、招きに応えた者として喜んで下さるのです。
 今、わたしたちがここで礼拝をしているということも、一人一人に神の招きがあったということであり、それに応えたということなのです。神はそれを喜んで受け入れて下さいます。
 そして、聖書の御言葉を通して、聖霊の導きを与え、まことに求めるべき救いを教えて下さいます。そして、わたしたちにとって、最も必要なもの、最も善いもの、つまり「罪の赦し」と、神と共に生きる恵みを、豊かに与えて下さるのです。
 またわたしたちも、主がここにおられると知って、救いを知らない友のために、家族のために、大切な人のために、彼らが主のもとに来ることが出来るように執り成し、祈り求めるなら、神は喜んでその人を、御自分の救いへ招き入れて下さるのです。

<どちらが易しいか>  
 さて、聖書では、これらの出来事を批判的な目で見ている人々がいました。律法学者たちです。彼らも、主イエスの話を聞きに人々と共に集まっていたのでした。
 しかし彼らは、一連の出来事を見聞きして、7節にあるように、心の中であれこれ考えた、とあります。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒とくしている。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」  
 主イエスは、彼らが心の中で考えていることを霊の力ですぐに知って言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」  

 どちらが易しいのでしょうか。  
 律法学者は、「あなたの罪は赦される」と言う方が、簡単だと思っています。それは目に見えないことだし、言ったところで、本当に罪が赦されたかどうかは確かめようがないからです。ある意味、口先で言うだけなら誰にでも言えることです。それに、本来「罪を赦す」というのは、神にしか出来ないことです。それを自分が神であるかのように簡単に口にして、確かめようもないことを宣言する。そんなイエスという奴は神を冒?している!と考えたのです。  
 もし中風の人に「起きて、床を担いで歩け」と言ったなら、癒しが起こるか起こらないか、神の力があるかないかは、その場で一目瞭然です。中風の人が現実に起き上がるなんてことは、本当に奇跡の力、神の力がなければ起こらないことだ。だから、そのことを命じる方が、誤魔化しがきかないし、ずっと難しい。そんな風に律法学者は考えています。    

 しかし、本当に難しく、わたしたちに必要なのは、「罪を赦される」ことです。これは神にしか出来ないことです。病が癒されることと比べ物にならないほど難しい、大きな奇跡です。罪の赦しは、目に見えなくても、神の前に立つ人間の存在そのものを、根底から新しく造り変えることだからです。滅びる者を、永遠に生きる者とすることだからです。  

 主イエスは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われました。「人の子」というのは、本日のダニエル書に出てきましたけれども、旧約聖書において「救い主」のことを現しています。律法学者たちは、主イエスがご自分を「人の子」と言われた時点で、ご自分のことを「救い主」であると言っているのだ、ということが分かったでしょう。
 そして、主イエスは中風の人に「起きて、床を担いで歩け」とお命じになり、その通りになったのです。この癒しの奇跡は、人の願いを叶えるためではなく、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせる」ため、主イエスが「罪を赦す」ことがお出来になる方だと明らかにするために、行われたのです。

<罪を赦す方>  
 罪の赦しは、神でなければ出来ませんし、決して癒しの奇跡より易しいことではありません。罪の赦しは、神の御子である主イエスが、十字架に架かって死なれることで、実現するからです。神の御子の死によって、すべての人の罪が贖われ、赦される。滅びから救われ、神と共に生きることが出来るようになる。これほどの奇跡はありません。
 そして、十字架の死の後、父なる神は御子を復活させ、御子の救いを信じる者に、永遠の命と、終わりの日の復活を与えることを約束して下さったのです。この終わりの日の約束は、わたしたちの人生が、苦しみや悩みや、死に苛まれて虚しく終わるのではなく、その先に、神と共に生きる永遠の喜びがある、という希望を与えます。わたしたちの苦しみも悩みも悲しみも死も、すべて、神のご支配の中にあるのです。
 「子よ、あなたの罪は赦される」。これは、御自分の十字架の死と復活によって、罪の赦しを実現するために来られた主イエスにしか、告げることの出来ない言葉です。神の御子が、御自分の命を捨てて下さることで実現する、最も難しく、最も偉大で恵み深い、奇跡の業なのです。  

 それなのに、わたしたちも、律法学者と同じように、目に見えない罪の赦しよりも、病の癒しや、目に見える奇跡の方が大事に思えたり、本当に必要な救いを求めないということがあるかも知れません。「罪の赦し」を、頭の中でしか捉えられず、今の苦しみが取り除かれることこそ救いだと考えてしまうのです。

 しかし救いは、自分の人生が幸せになるとか、苦労がなくなる、悩みや悲しみがなくなる、ということではないし、自分の願いを叶えるために神が動いてくれる、ということではありません。
 救いは、神が、神御自身の正しさを貫かれるために、わたしたちへの愛のために、神に背くわたしたちの罪を、独り子である御子の十字架によって、赦して下さるということ。そして神と共に生きるわたしの人生を、祝福し、喜んで下さるということです。
 神の御心が為される、ということが、わたしたちの救いです。
 そして、その救いの恵みに生かされるわたしたちもまた、神を喜んで、神を礼拝して生きることが出来るのです。わたしたちの人生には、変わらず苦しみも、悩みも、悲しみもあります。しかし、そのすべてを担い、共にいて下さり、愛して下さる方がおられると知ることが、まことの癒しと慰めをもたらすのです。本当の喜びに満ちた人生を与えられるのです。
 主イエス・キリストこそ、この神の御心を実現してくださる神の子であり、「子よ、あなたの罪は赦される」と言って下さる方なのです。

 本日は聖餐に与ります。聖霊のお働きによって、わたしたちが、パンと杯という目に見える「しるし」を通して、十字架の死によって罪を赦して下さった、主イエスの体と血にあずかること、天におられる主イエスと一つにされていることを覚える時です。
 洗礼を受けて、罪を赦され、目には見えない神の国に、わたしたちが確かに入れられているということを、確信させられる時です。生ける神と共にあることを、今この地上にあっても体験し、終わりの日に完成する神の国の確信を強められ、具体的な、明日からの日々を歩む力を与えられていくのです。これまで見たこともないような、思いをはるかに超えた神の業に、わたしたちは与っているのです。この神の御業に、共に驚き、神を賛美致しましょう。

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