夕礼拝

わたしのもとに来なさい

「わたしのもとに来なさい」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第8編1-10節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第11章25-30節
・ 讃美歌 : 197、442

そのとき
「そのとき、イエスはこう言われた。」と本日の箇所が始まります。「その時」とはどのような「時」なのか。この部分は「そのとき、イエスは答えて言われた」となります。原文には「答えて」という言葉があります。しかし、主イエスは何かの問いに対して答えておられるのではありません。問いに対する答えということではなく、これまでの箇所において語られてきたことに対する応答として、主イエスは25節以下のみ言葉を語られたのです。本日の箇所の前の所で、主イエスは悔い改めない町をお叱りになりました。主イエスが教えを語り、数々の奇跡を行なわれたのに、悔い改めなかったがリラ矢の町々を主イエスはお叱りになったのです。この町々は、主イエスの御言葉を聞かず、御業を受け止めませんでした。主イエスの伝道が開始される前にその道備えをした洗礼者ヨハネのことも人々は受け入れようとはしなかったのです。神様は人々を救うために主イエスを遣わされました。その前には洗礼者ヨハネを遣わしました。人々は受け入れませんでした。語れる御言葉を聞かず、御業を受け入れませんでした。そのような現実が記されて来ました。そのことへの応答として、25節以下の御言葉は語られています。更に本日の箇所の先の12章でも主イエスのことを受け入れず、主イエスを批判していることが書かれています。ファリサイ派の人々が主イエスのなさることを批判してくるのです。12章14節には「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」とあります。主イエスの御言葉を聞かず、御業を受け入れず悔い改めようとしないだけではありません。主イエスを批判し、殺そうとする動きが起こっていたのです。本日の箇所は「そのとき」と始まります。そのような流れの中にあるのです。主イエスの御言葉を聞かず、御業が受け入れられず、主イエスを批判し殺そうとする者たちがいるときです。そのような現実への応答として、主イエスは何を語られるのでしょうか。

幼子のような者
 主イエスは「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。」主イエスは天の父なる神様をほめたたえる、讃美されているのです。続けて「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」とあります。「これらのこと」とは主イエスが語られたこと。御業をもって示された神の国の福音、神の恵みの支配の到来を告げることです。神の国の福音を告げ知らされ、悔い改めて神様の方に立ち返り、その恵みを受ける備えをしなさいと、ということです。「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」主イエスはこのような父なる神様の御業が今行なわれている、とおっしゃいます。主イエスは人々が悔い改めようとせず、主イエスに敵対し、批判し、殺そうとしている現実を見ておられるのです。天地の主である父なる神様の御業が働いている。神様御自身が、神の国の福音をある者たちには隠して、ある者たちには示しておられるということです。「知恵ある者や賢い者」には神の国の福音が隠されているとあります。主イエスの御言葉と御業を受け入れず、批判し、殺そうとしている人々とは決して愚かな人々ではありません。むしろ、この世においては「知恵ある者」「賢い者」なのです。そして、「幼子のような者に」神の国の福音が示されたのです。神の国の福音を示され、悔い改めて信じた人は「幼子のような者」と言われています。「幼子のような者」と「知恵ある者や賢い者」が対照で用いられています。「幼子のような者」は「知恵がない、賢くない」ということです。
幼子のように
 本日は旧約聖書の詩編第8編をお読みしました。2節の終わりのところから3節に「天に輝くあなたの威光をたたえます、幼子、乳飲み子の口によって」とあります。この箇所での「幼子、乳飲み子」と本日の箇所のマタイによる福音書での「幼子のような者」とは同じ意味で使われます。そのように弱く愚かな者に神の国の福音は示されました。「知恵ある者、賢い者」と「幼子のように弱く愚かな者」とどちらが良いのかということではありません。神様が隠されるなら、どんなに知恵ある賢い者も信じることはできないし、神様がお示しになるなら、どんなに幼い、あるいは弱く愚かな者でも信じることができる、ということです。私たちが神の国の福音を信じることができるかどうかは、私たちの側の力や資質や性格によるのではありません。私たちの側には何の根拠も理由もないのです。ただ神様がそれを示して下さるかどうかにかかっているのです。
 神様はどのようにして「これらのこと」を、つまり神の国の福音を私たちに示して下さるのでしょうか。そのことが、26節以下、特に27節にあります。「そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。主イエスは「すべてのことは、父からわたしに任せられています」と言っておられます。主イエスは、父なる神様から、全権を委任されてこの世に来られました。主イエスと父なる神様の間には、子と父という関係があります。その関係は、「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」という関係です。主イエスが神の子であられることは、父であり、主イエスをこの世に遣わされた父なる神様のみがご存じなのです。また、神の子である主イエスは、ご自分の父であられる天地の主なる神様をはっきりと知っておられました。主イエスは父なる神様の御心を実現しようとしておられるのです。そのように父と一体であり、父からすべてのことを任せられている子である主イエスが、その委任された全権を用いられます。父から任せられていることとは、父なる神様を私たちに指し示すということです。そのことが「神の国の福音を示す」こと、「これらのこと」を示すことなのです。つまり、父なる神様が「これらのこと」を私たちに示して下さる、それによって私たちが神様を信じることができるようになることです。私たちが父なる神を信じようとすることは、神の子である主イエス・キリストを通して起こることなのです。父なる神様から私たちの心に直接何かの語りかけがあるのではありません。私たちが祈りをするときに、最後に「主イエス・キリストの御名によって」と祈ります。主イエスの執り成し、主イエスの名によって父なる神へ私たちは祈りを合わせるのです。天地の主なる父を知り、信じることは、神の子である主イエス・キリストを通して起こるのです。

主の招き
 そしてこのことこそ、神の国の福音が、知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示された理由です。主イエス・キリストは、およそ二千年前に、ユダヤの地で三十数年といわれる生涯を生きた具体的な人です。主イエスの語る御言葉や御業を受け入れることが出来ない人々がいました。更に敵対する人々、批判する人々も多かったのです。主イエスが、この人間が神の子、救い主ということは考えられないことだったのです。28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という御言葉はこのことを受けて語られています。今見てきた27節までのみ言葉を前提として読むと、「わたしのもとに来なさい」という招きの意味がはっきりとするのです。「わたし」とは、神の子であり、父なる神からすべてのことを任せられている主イエス、この方を通してこそ、父なる神を知ることができる、この方が示して下さらなければ、誰も父を知ることはできない、そういう方である主イエス・キリストです。その主イエスのもとに行くことによってこそ、様々な重荷に疲れ果てている私たちに、まことの休み、安らぎが与えられるのです。この主イエスのもとに行かなければ、つまり主イエスという具体的な神の子によってではなく、直接に神を知り、信じようとするところでは、まことの安らぎを得ることはできないのです。主イエス・キリストという具体的な方のもとに来るとき、私たちは安らぎを与えられるのです。それは、主イエス・キリストが、この地上を、人間となった神の子として具体的に歩み、そして私たちのために、私たちの罪を背負って十字架にかかり、具体的な苦しみを受け、具体的に死んで下さったからです。父と一体であり、父からすべてのことを任されている方が、私たちのためにそこまで具体的に関わって下さり、苦しみと死を具体的に引き受けて下さったのです。この主イエス・キリストのもとで、私たちは、自分の重荷を本当に共に負っていて下さる方と出会い、安らぎを与えられるのです。まことの安らぎを与えてくれるのは、柔和さや謙遜さという理念ではなく、柔和で謙遜な主イエス・キリストという具体的な方です。その主イエスの具体的なお姿が、十字架の死において私たちに示されているのです。

主の選び
 主イエスは、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる」と言われました。軛を負うとは束縛を受け、自分の思い通りにはならない、不自由なことです。主イエス・キリストという具体的な方を神の子、救い主と信じて生きることにはそういう不自由さ、ある束縛があります。理念である神は、私たちの重荷を負ってはくれません。そしてこの世を生きる私たちの歩みには、様々な重荷もあれば、私たちをがんじがらめに縛りつける軛が他にいくらでもあります。主イエスという具体的な神の子から自由になることによって、私たちはそれらのこの世の力の奴隷となっていくのです。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と主イエスは言われました。それは主イエス・キリストという具体的な神の子のもとに行き、その弟子となること、信仰者となることです。そのために私たちがしなければならないことは何でしょうか。何もありません。私たちが、知恵ある者や賢い者になることによってそれが実現するのでは勿論ないのです。あるいは、幼子のようになろうと努力することが必要なのかというと、そうでもありません。信仰者となることにおいて、私たちの側で満たすべき条件など何もありません。神の国の福音は、父なる神様が示して下さることによってのみわかるものです。27節の言い方を用いれば、子であられる主イエスが父を示そうと思って下さった時に初めて分かるものです。つまり私たちの信仰そのものも、実は神様の賜物、神様が与えて下さるものなのです。それゆえに、今この礼拝に、信仰をもって集っている私たちは、主イエス・キリストが、私たちに父なる神様を示そうと決意して下さり、信仰へと導いて下さったことを感謝することができるのです。また今、信仰を求めて、主イエスによるまことの安らぎを求めてこの礼拝に集っておられる方々も、主イエス・キリストが、自分に父なる神様を示そうと既に決意しておられることを確信してよいのです。主イエスによる、神様の選びが前提にあります。私たちは、主イエスによって選ばれて、父を知る者とされたのです。何故私たちが選ばれたのか、私たちの側には何の理由もありません。ただ神様が、主イエスが、多くの人々の中から私たちを選び出して、主イエス・キリストの父なる神様を知る者として下さったのです。この神様の選びと招きがあるから、私たちは、重荷を負って疲れた心と体をひきずって、主イエスのもとに行くことができるのです。そしてそこでまことの安らぎにあずかることができるのです。まことの安らぎは、主イエスの軛を負い、弟子になった人にご褒美として与えられるのではありません。それだったら、主イエスのもとに行くことも、その軛を負うことも、弟子、信仰者になることも、重荷でしかないでしょう。まことの安らぎは、神様が自分を選んで下さり、ご自身を示して下さり、その恵みによって生かして下さっていることを知ることにあります。自分の側にではなく神様の側に信仰と救いの根拠があると知らされることこそ、まことの安らぎです。その安らぎに生きるために、私たちは、主イエスのもとに行くのです。その軛を負い、弟子になるのです。そのこと自体が安らぎだからです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」というのはそういうことでしょう。主イエスの軛を負い、主イエスの荷を負うことにこそ、まことの安らぎがあるのです。
 これから私たちは聖餐にあずかります。聖餐は、神様の独り子イエス・キリストが、具体的な人間となってこの世に来て下さり、私たちのために十字架にかかって具体的な苦しみを受け、具体的に死んで下さったことを覚え、私たちも具体的なこの体をもってその恵みを味わうために定められているものです。私たちは礼拝に集い、御言葉と聖餐において主イエス・キリストの具体的な恵みをいただき、天地の主である父なる神様をほめたたえつつ、主イエスの軛を負い、与えられた荷を背負って生き、そこにこそ私たちのまことの安らぎがあります。

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