主日礼拝

主の食卓にあずかる群れ

「主の食卓にあずかる群れ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第34編1-23節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第22章14-23節
・ 讃美歌:51、127、453

教会全体修養会を覚えて
 本日の午後と明日の午前、教会全体修養会を行います。当初は、前回と同じく富士山の裾野の宿泊施設まで貸切バスで出かけて、一泊で修養会を行う計画でしたが、東日本大震災とその余震が続く中で、泊まりがけの集会に参加することへの不安があり、教会を会場として通いで行うことになりました。会場はどこであるとしても、本日の主日礼拝は、修養会を意識した、その開会礼拝に当たるものとして守ることに変わりはありません。教会の教育委員会からも、本日の礼拝における説教を、修養会を意識したものとしてほしい、という要望を受けています。そのことを踏まえつついろいろ考えましたが、結局、特別な聖書箇所を選ぶことをせずに、今礼拝において読み進めているルカによる福音書の続きを読むことにしました。この箇所から、本年の修養会に相応しいみ言葉を聞くことができると思ったのです。
 前回の修養会は二年前の2009年でした。その年はちょうど、プロテスタント日本伝道150年、私たちの教会にとってはヘボン来日150年の記念の年でした。それで、指路教会の歴史を振り返り、そこに見えてくる事柄や課題を考えるという講演をしました。その修養会の反省として出てきたことは、講演は面白かったが、しかし講演を聞くことが中心なら、何も泊まりがけでよそに出かけなくても、教会でやればよいのではないか、ということでした。私も、確かにそうだなあと思いました。その反省を受けて、今年の修養会は、教会員どうしの交わりを深める、ということにより力を入れて行うことになりました。そのことと、東日本大震災の影響とが相まって、今回の修養会の企画が出来上っていったのです。ですからテーマとしては本年の教会の年間主題が掲げられていますが、その主題を意識しつつ、お互いの交わりを深めることを主な目的としてこの修養会は行われると理解しています。それゆえに、本日の主日礼拝においてもルカによる福音書の続きを読むことにしたのです。ここには、私たちが教会において信仰の兄弟姉妹と共に生きる、その交わりの基礎が示され、語られているのです。

過越の食事
 ここには、主イエスが十字架の死の前夜、木曜日の晩に、弟子たちと共に食事の席に着かれたことが語られています。この食事の後主イエスと弟子たちはオリーブ山の「いつもの場所」、そこは他の福音書では「ゲツセマネ」と呼ばれていますが、そこへ行って祈り、主イエスはそこで逮捕されます。そして夜が明けるとユダヤ人の最高法院による裁判に続いてローマの総督ピラトによる裁判が行われ、その日の内に十字架につけられるのです。ですからこの場面は、主イエスの十字架の死の前夜の、いわゆる「最後の晩餐」の場面です。その最後の晩餐は「過越の食事」でした。その意味については先週の礼拝においてお話ししましたが、ここでも簡単に確認しておきたいと思います。「過越」とは「通り過ぎる」という意味です。イスラエルの人々は、「通り過ぎる」という出来事によって実現した神様の大いなる救いのみ業を記念して、過越祭を行なっていたのです。その救いとは、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルの民を、神様が解放し、エジプトから脱出させて下さったということです。神様はモーセを遣わし、エジプト王ファラオにイスラエルの民の解放を要求させ、数々の災いによってご自分こそ神であられることをお示しになりました。しかしファラオは頑なにイスラエルの解放を拒否します。そこで、最後決定的な災いとして、エジプト中の初子、最初に生まれた男子を、人も家畜も皆撃ち殺す、というみ業が行われたのです。それがなされた夜、イスラエルの民の家では、小羊が殺され、その血が家の戸口に塗られました。その血が目印となって、初子を撃ち殺す主の使いはイスラエルの人々の家を何もせずに通り過ぎたのです。そのようにして、エジプト人の初子のみが人も家畜も全て撃ち殺されました。この最後決定的なみ業によって、イスラエルの民はついにエジプトから解放され、旅立つことができたのです。この過越の出来事を記念する祭の中心は、過越の小羊の肉や、酵母を入れないパンなど、いくつかの決められたものを、家族が揃って、旅立ちの支度をして食べるという過越の食事です。酵母を入れない、つまり発酵させずに焼いたパンを食べるというのも、過越の出来事によってエジプトから解放と言うよりも追放されたこの日に、生地を発酵させている暇もないくらい急いで焼いたパンを食べた、ということを記念しています。このように過越の食事は、エジプトの奴隷状態から解放して下さった主なる神様の救いのみ業を覚え、その神の民として歩むイスラエルの民の信仰の中心をなすものだったのです。  その過越の食事を、主イエスは十字架の死の前夜、弟子たちと共になさいました。過越祭に過越の食事をするのはユダヤ人としては当たり前のことで、誰もがしていることです。しかしこの食事はそのような年中行事としてなされたものではありません。15節で主イエスはこう言っておられます。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」。この「切に願っていた」という言葉は原文においては、「熱望する」という言葉が二度繰り返されている珍しい形になっています。つまり尋常でない激しく強い願いを示す言い方です。その感じを出して訳すには、「切に切に願っていた」と「切に」を繰り返した方がよいのかもしれません。この過越の食事は、主イエスの強い強い願いによって行われているのです。先週読んだ直前の箇所には、主イエスの指示によってペトロとヨハネがこの過越の食事の準備をしたことが語られていましたが、そこにも、主イエスがひときわ強い思いをもってこの食事の場を整えられたことが示されていたと言えるでしょう。

過越が成し遂げられる
 主イエスは弟子たちとこの過越の食事をすることをなぜそんなに強く願われたのでしょうか。主イエスは勿論、これが弟子たちと一緒に取る最後の食事となることを知っておられました。これが最後の、お別れの食事になるから、ということも言えるかもしれません。しかし主イエスの強い願いはそういうことから来たのではないことが、この食事の席でのお言葉から分かるのです。先ほどの15節に続いて16節では、「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない」と言っておられます。このことが、弟子たちと共に過越の食事をしたいと切に願っておられたことの理由なのです。しかしこのお言葉は何を言っておられるのかよく分からないという感じがします。「これこれの時までは決してこの過越の食事をとらない」とはどういうことか、今目の前に準備されている食事をとらない、ということなのか、しかしそれでは、「あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと切に願っていた」というお言葉と矛盾することになります。そういう疑問が感じられていたからでしょう、ここには「今後二度とこの過越の食事をすることはない」となっている別の写本があります。以前の口語訳聖書はそれに基づいて訳されていました。そのほうが意味が通ります。そしてもう一つの問いは、「神の国で過越が成し遂げられる」とはどういうことなのか、です。それらの疑問はちょっと置いておいて、次の17、18節にも同じような言い方が出てきていることに注目したいと思います。17、18節にこうあります。「そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。『これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい』」。この部分を、教会が行なっていった聖餐の制定のみ言葉として読んでしまうのは間違いです。それはこの後の19節以下です。18節のみ言葉は、明らかに16節と対になっており、この過越の食事を弟子たちと共に取ることを願っていた主イエスの思いを語っているのです。それはどのような思いなのでしょうか。16節の方では、「神の国で過越が成し遂げられるまで」と言われていたことが、18節では「神の国が来るまで」と言い換えられています。神の国が来るというのは、神様による救いが完成することです。その救いの完成のことを主イエスは、「神の国で過越が成し遂げられる」と言い表しておられるのです。過越とは、先ほど見たように、エジプトの奴隷状態にあった民が、主なる神様の大いなるみ業によって解放され、救われたということです。その過越が成し遂げられるということは、過越のみ業はまだ完成していないということです。それは成し遂げられ、完成されなければならない。それが成し遂げられ、完成されることによって神の国が来るのです。主イエスは弟子たちと共に過越の食事をとりつつ、今記念している過越が成し遂げられ、完成する時が来ることを、しかもそれまでは過越の食事をすることはないとか、ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまいと言うことによって、その完成が差し迫っていることを弟子たちに見つめさせようとしておられるのです。その過越の完成のために、主イエスは今、十字架の死への道を歩もうとしておられるのです。過越の小羊が犠牲となって死ぬことによってイスラエルの民の解放、救いが実現したように、罪に支配されその奴隷状態に陥っている生まれつきの人間がその支配から解放され、罪赦されて新しく生きるために、神様の独り子であられる主イエスが、まことの過越の小羊となって死んで下さるのです。過越のみ業は主イエスの十字架の死によって今やまさに成し遂げられ、完成しようとしています。そのことを教え示すために、主イエスはこの過越の食事を、十字架の死の前の晩に、弟子たちと共にすることを切に願い、その席を整えさせたのです。

聖餐の制定
 主イエスの十字架の苦しみと死とによって、つまり主イエスが過越の小羊として死んで下さることによって、今や過越が成し遂げられ、神様による救いのみ業が実現しようとしています。その救いの恵みに弟子たちを、そして私たちをあずからせるために、主イエスはこの過越の食事の席で、パンと杯を取り、それに特別な意味を持たせて分け与えて下さいました。それが19節以下に語られていることです。19節には「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』」とあります。主イエスが裂き、分け与えて下さるこのパンは、「あなたがたのために与えられるわたしの体」と呼ばれています。それは、このパンが何らかの仕方でキリストの体になってそれを弟子たちが食べる、ということではなくて、キリストが彼らのための過越の小羊としてご自分の体をささげて下さり、十字架にかかって死んで下さった、そのようにキリストが救いのためにささげて下さった体に、このパンを食べることによってあずかり、その救いの恵みをいただく、ということです。そのようなパンを、主イエスは弟子たちに与えて下さったのです。
 また20節にはこうあります。「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」。この杯はぶどう酒の杯です。そのぶどう酒が、「あなたがたのために流される、わたしの血」という特別な意味を与えられています。この「あなたがたのために流される」も先ほどの「あなたがたのために与えられる」と同じ意味で使われています。主イエスの血が、罪に支配されてしまっている人間の救いのために流されるのです。過越の小羊の血が目印となってイスラエルの民の初子の命が守られ、エジプトからの解放が実現したように、主イエスが十字架にかかって血を流して死んで下さることによって、罪の支配からの解放、赦しという救いが実現するのです。この杯から飲むことによって、その救いにあずかることができるのです。
 このように主イエスは、十字架の死の前の晩のこの過越の食事において、ご自分の体であるパンと、ご自分の血である杯とからなる食卓を整え、弟子たちを招いてそれにあずからせて下さいました。そして19節の終わりにあるように、「わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃいました。ここではその言葉はパンにおいてのみ語られていますが、明らかにここと繋がりのあるコリントの信徒への手紙一の第11章においては、杯においても同じことが語られています。つまり主イエスは弟子たちに、主イエスの体と血とにあずかる主の食卓にこれからもずっとあずかり続けていくようにとお命じになったのです。主イエスが定めて下さったこの食卓にあずかり、主イエスを記念し続けることによって、彼らは、主イエスの十字架の死によって実現する過越の完成の恵みにあずかり、罪を赦され、その支配から解放されて神様の民として生きていくことができるのです。

わたしの血による新しい契約
 「わたしの血による新しい契約」と言われていることにも注目しなければなりません。聖書における神様とその民との関係は契約の関係です。それは私たちが普通対等な人間どうしの間で結ぶ取り引きの契約とは違います。人間は神様と対等の立場で取り引きをできるような者ではないのです。この契約は神様が恵みによって与えて下さるものです。しかしそれが契約と呼ばれるのは、それを結ぶことによって双方に、それを守り行う義務が生じるからです。つまり神様は、人間と契約を結ぶことによって、それを行う義務を負って下さったのです。契約の締結においては血が注がれます。そのことも、「義務を負う」ということと関係があります。血は命を代表するものです。つまり血が注がれるとは命が注がれることです。契約において血が注がれるのは、この契約を破ったら命を取られてもよい、ということの印です。つまり契約を結ぶというのは命がけのことなのです。そういう契約を神様はイスラエルの民と結んで下さいました。その「旧い契約」について語っているのが旧約聖書です。そして今、主イエス・キリストの血が十字架で流されることによって、神様は「新しい契約」を結ぼうとしておられるのです。それは主イエスが血を流し、命を注いで与えて下さる契約、主イエスが命がけで打ち立てて下さる、神様と民との新しい関係です。

使徒たち
 旧い契約の相手は、イスラエルの民という一つの民族でした。しかし新しい契約の相手は、イエス・キリストを信じる者たちです。新しい契約によって、新しい神の民が生まれるのです。その先頭に立っているのが、この過越の食事に主イエスによって招かれた弟子たちです。彼らから、罪の奴隷状態から解放され、赦しを受けて神様の祝福の下を生きる新しい神の民である教会の歴史が始まるのです。彼らのことを私は弟子たちと呼んできました。けれども本日の箇所では最初の14節から一貫して、「使徒たち」という言葉が用いられています。「使徒」というのは「遣わされた者」という意味の言葉です。主イエスによってこの過越の食事へと招かれた彼らは、主イエスの十字架と復活を経た後、聖霊の力を受けて、全世界へと遣わされていったのです。ルカはその使徒たちの働きを、この福音書の続きである使徒言行録において書き記しました。彼ら使徒たちによって、主イエス・キリストの十字架と復活によって成し遂げられた過越の出来事、神様による大いなる救いのみ業が宣べ伝えられていき、各地に新しい神の民、キリストを信じる者たちの群れである教会が生まれていったのです。その新しい神の民の先頭に立っている使徒たちですが、本日の箇所には、使徒と呼ばれている彼らの中の一人が主イエスを裏切る者だったことが語られています。またこのすぐ後の所には、彼らの間に「誰が一番偉いか」という論争、もめ事が起ったことが語られています。彼らも、特別に清く正しい人などではない、罪と弱さをかかえた普通の人間だったのです。しかし主イエスが彼らを主の食卓に招いて下さり、ご自分の体と血とにあずかる恵みによって養い、そして彼らを遣わし、用いて下さったことによって、彼らは新しい神の民の先頭に立つ使徒となったのです。使徒言行録を読むと、彼らの教えを受けて誕生した教会が最初から行っていたことの一つに「パンを裂くこと」があります。それは単に一緒に食事をしたということではなくて、使徒たちが、あの過越の食事において主イエスがパンと杯とを彼らに与え、「私の記念としてこのように行いなさい」とお命じになったことに従って、主イエスの体であるパンと主イエスの血である杯を、新たに教会に加えられた人々にも分け与えていったということでしょう。ここに、私たちも礼拝においてあずかっている聖餐の起源があるのです。

主の食卓への招き
 弟子たちのためにあの過越の食事を準備し、そこに彼らを招き、そしてご自分の十字架の死による過越の完成にあずからせるためにパンと杯を聖別して与えて下さった主イエスが、今私たちをも、主の食卓へと招いて下さっています。その招きは、主イエスが命がけで打ち立てて下さった新しい契約への招きでもあります。私たちはこの招きにきちんと応えなければなりません。きちんと応えるというのは、清く正しい立派な人間になることではありません。むしろ、自分が招かれるに相応しくない罪人であることをわきまえることです。その罪人である私のために、主イエスがまことの過越の小羊となって、私の全ての罪を引き受けて十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの死に免じて、神様はこの私の罪を赦し、新しい神の民として生きることへと招いて下さっているのです。そのことを信じて、その招きを感謝してお受けすると表明すること、それが洗礼を受けることであり、それこそが、招きにきちんと応えることなのです。

教会における交わりの絆
 この招きに応えて洗礼を受け、主イエスによる救いの恵みを告げるみ言葉を毎週新たに聞きつつ主イエスの父である神様を礼拝し、その恵みの中で主の食卓に共につき、主イエスの十字架の死による過越の完成の恵みを味わいつつ生きることが私たちの信仰の生活です。そしてこの主の食卓に共にあずかるところに、私たちの教会における交わりの土台、基礎があります。教会における兄弟姉妹の交わりは、世間のそれとは基礎が違います。私たちは、お互いよく知っているから、親しいから、気が合うから交わりを持っているのではありません。そういうことが私たちの交わりを成り立たせているのではないのです。教会には沢山の人々が集まっています。人それぞれ様々な違い、個性がありますし、それぞれ皆罪人であり、弱さや欠けのある人間です。だから気が合わなかったり、意見が食い違ったり、生理的に好きになれなかったりすることもあります。しかしそういうことが交わりを成り立たなくするのでもないのです。私たちの交わりの絆、それは、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しという神様の救いのみ業です。目に見えることとしては、主の食卓に招かれ、共に聖餐にあずかっている、という事実です。教会とは、主の食卓に共にあずかる群れなのです。私たちがこの食卓に着こうと思ったのではありません。主イエスご自身が、私たちを聖餐の食卓に招こうと、切に切に願って下さったのです。そのために十字架にかかり、命を注いで下さったのです。この主イエスの命がけの恵みによって聖餐に共にあずかる者とされた私たちは、私たちの親しさや疎遠さ、気が合うとか合わないとか、仲が良いとか悪いとか、それらのことを乗り越えて一つとされるのです。主の食卓にあずかる群れとしての交わりを、ここに集っている者どうしの間に、主の導きによって築いていくことが、私たちに与えられている恵みに満ちた課題なのです。

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