夕礼拝

十字架のキリストこそ救い

「十字架のキリストこそ救い」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第53章1-10節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第8章27-38節
・ 讃美歌 ; 304、505

 
はじめに
本日朗読された箇所は、主イエスの弟子の一人ペトロが信仰を言い表す場面と、それに続いて主イエスが初めてご自身の死と復活を予告された場面です。内容的に言うと27~30節までのペトロの告白の部分に一つのまとまりであると言って良いでしょう。しかし、本日は、その後に続く主イエスの受難予告も含めて御言葉に聞きたいと思います。私たちは、主イエスの苦しみを覚える受難節を歩んでいますが、本日は棕櫚の主日です。主イエスが十字架につけられるエルサレムに入られた日で、この日から受難週に入ります。十字架を目前にして苦難の歩みが本格的に始まるのです。そのことを思う時に、主イエスの受難予告も含めて御言葉に聞くことは、意味のあることだと思うのです。本日は、ペトロの告白と受難予告の前半の33節までの箇所から御言葉を聞き、来週は、受難予告を含めた31節以下から聞くことにしたいと思います。

イエスは何者か
 本日の箇所は主イエスの問かけから始まります。主イエスは「人々は、わたしのことを何者だと言っているのか」と問われます。主イエスは、これまで、ご自身が何者なのかということを明確に語ってはいません。例えば「わたしは神の子、救い主である」と自ら語ったりはしていないのです。多くの御言葉を語り、御業を行うことによってご自身が神の子であることを示されたのです。主イエスに出会い、その教えや業に触れた人々は、それぞれに主イエスのことについて論じていたのです。この時、主イエスについて様々なことを言う人がいました。そのことは、弟子たちが、「『洗礼者ヨハネだ』、と言っています、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と答えたことからも分かります。それを受けて、主イエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねるのです。主イエスはこの時、周囲の人の自分に対する評価を気にしていたのではありません。弟子たちに向かって、自分を「何者だと言うのか」と問おうとされていたのです。「周囲を取り巻く人々は様々なことを言っているかもしれないが、わたしに従っているあなた方はわたしのことを何者だと言うのか」と言うのです。この問いは私たちも、聖書を読み、主イエスによる救いを求めていく中で必ず問われることです。最初の内は、主イエスについての人々が話す色々な話を聞いて関心を持ち、その教えを聞いてみようと思っているだけかもしれません。何となく主イエスの後について行って、その方がどのような方か見てみようという思いでいることもあるでしょう。しかし、後について行く中で、必ずどこかで問われるのは、「いったい自分にとってイエスとは何者か」ということです。私たちが歩むこの時代にも、主イエスについて様々なことを言う人々がいます。例えば、キリスト教以外の宗教やキリスト教の異端の中には主イエスを神の子とするのではなく、預言者の一人であるとしているものがあります。又、イエスを権力と戦った革命家の一人としたり、倫理的に素晴らしい教えを説く教師の一人としている人々がいます。民衆を扇動して社会を混乱に陥れるカルト教団の教祖の一人のようにとらえられたりもします。そのように様々なことが言われる中で、それではあなたはイエスを何者だと言うのかとの問の前に立たされるのです。

ペトロの告白
主イエスの問いかけに対して、真っ先に答えたのはペトロでした。この時、主イエスはペトロだけに語りかけているのではありません。主イエスは「弟子たち」に語りかけているのです。そして、ご自身を何者であると思うかと聞くときも「あなたがたは」と弟子たち全てに問われたのです。主イエスのこの問いは、信仰の根本を問われるような、ストレートな問いかけです。このような問いに対して、私たちは一瞬戸惑ってしまうのではないかと思います。「あなたにとってイエスとは何者なのか」。下手な答え方をしたら、「あなたは何も分かっていない」と怒られてしまいそうです。もし、この時の弟子たちの中にいたら、「少し、周りの弟子たちの答えを伺ってから答えよう」と思うかもしれません。しかし、ペトロは違いました。他の弟子たちが口を開く前に、真っ先に答えたのです。ペトロは主イエスがガリラヤ湖で弟子を召された時、真っ先に声をかけられた、主イエスの一番弟子と言ってもいいような人です。主イエスが問われた時、ペトロは、「自分は弟子たちの中でも一番主イエスと長く一緒に歩んできた。主イエスはどのような方かは良く分かっている」というような思いになったかもしれません。「主イエスについて他の人は色々なことを言っているが、自分ほど良く分かっている人はいない」とか、「自分が答えないで誰が答えるのか」と思ったかもしれません。いずれにしても、このペトロが真っ先に、他の弟子たちの答えを待つことなく「あなたは、メシアです」と答えたのです。もちろん、他の弟子たちも同じように思っていたでしょう。ペトロは弟子たちの思いを代表していると言って良いでしょう。ペトロの告白は、この福音書において初めてなされた主イエスに対する告白です。メシアという言葉はギリシャ語で言うとキリストになります。救い主を表す言葉です。ここで、ペトロは、主イエスのことを救い主、キリストだと告白したのです。救い主というのは自分の救いとなる唯一の存在です。周囲の人々から聞かれるイエスの姿というのは、たいてい「~の一人」という形でなされるものです。そうではなく、「あなたこそ、私の救い」「他に並ぶものがない唯一の救い主だ」と語ったのです。主イエス・キリストを信じて生きるということは、周囲の人々が何と言っていたとしても、ペトロのように、「あなたはメシアです」と答えることなのです。イエス・キリストを信じる信仰を持って歩むということは、イエスこそ、ただ一人の神の子であり、救い主であると告白しつつ歩むことです。ここで、ペトロは今までの主イエスと共に歩んで来た道を思い起こし、心からの思いでこの告白をなしたのです。ペトロはここで、決して間違ったことを語ってはいないのです。

主イエスをいさめる
しかし、ここで、真っ先に勢いよく「あなたはメシアです」と告白したペトロが、主イエスから叱られるという出来事が起こります。そのことが続く31節以下に記されています。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっていると弟子たちに教え始められた」とあります。主イエスに対する初めての信仰の告白がなされたすぐ後に、主イエスの最初の受難予告が続くのです。「はっきりとお話しになった」とあるように主イエスはこのことを曖昧にではなく、疑いの余地のない仕方で語られたのです。ここで語られていることは、弟子たちが初めて知る、主イエスのお姿です。これまで、弟子たちは主イエスの多く御言葉を聞き、御業を見てきました。主イエスは、重い皮膚病を患うものに「よろしい、清くなれ」と言われ清くし、中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と語り立ち上がらせました。手のなえた人に「手を伸ばしなさい」と言われ元どおりにし、ご自身に触れた 出血の止まらない女を癒し「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。又、時に、四千人、五千人の人々をわずかな食物で満腹にされました。時に、嵐の中、逆風でこぎ悩む、弟子たちの傍へ湖の上を歩いて近づかれたのでした。そこには、人々にとって見れば、苦難とは無縁であるかのように見える救い主の姿が示されています。しかし、ここで、今まで聞いたこともない主イエスのお姿が告げられるのです。人の子が苦しみを受けて殺されるというのです。「人の子」とは主イエスがご自身の事を語る時にしばしば用いられた表現です。この「人の子」という言葉を聞いた時にペトロを始め弟子たちは何を思い起こしたのでしょうか。もしかすると、旧約聖書が語る次のような言葉かもしれません。「見よ、『人の子』のような者が天の雲に乗り、『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え 彼の支配はとこしえに続き その統治は滅びることはない」。この言葉から、人々が想像したのは、自分たちが直面している苦しみ、ローマ帝国の支配からの解放をもたらす力強い「人の子」の姿であったことでしょう。しかし、この時、主イエスは、「人の子」が多くの苦しみを受け、その結果殺されるのだと言われているのです。それは、ペトロにしてみればあってはならないことです。自分がメシア、救い主と告白する人の姿としては全く相応しくない姿です。この主イエスの言葉を聞いて、とっさにペトロは主イエスをいさめ始めたのです。今までに知らされていなかったメシアの姿、それこそ真のメシアの姿であるにも関わらず、ペトロはそれを受け入れることが出来なかったのです。

主イエスに対する躓き
ペトロは、イエスを救い主と告白した直後に、その救い主としての主イエスのお姿に躓きました。自分が告白した告白が意味することを示されて、それを受け入れることが出来なかったのです。ここには、私たち人間が、救い主を求める時の姿が示されていると言ってもいいでしょう。主イエスを救い主として受け入れる時、そこで、自分が望んでいる救い主の姿を思い描き、それに主イエスを従わせようとしてしまうのです。心の中で主イエスを自分の思い描くメシアにしてしまうのです。それは、イエスを、預言者の一人や、革命家の一人だとか、素晴らしい倫理道徳の教師の一人としているのと同じようなものです。信仰生活の中では、常にこのようなことが起こるのです。この時、ペトロが主イエスをいさめる時、主イエスを「わきへお連れ」したことが記されています。主イエスは今、エルサレムへ、十字架への道を歩んでおられます。それは、私たちの救い主として、十字架に進まれる苦難の道です。ペトロは、その道を、主イエスに従いながら歩む中で、その道から逸らせようとしたのです。主イエスの前に立ちはだかって、その道のわきへと主イエスを連れ出したのです。そこに示されるメシアの苦しみが受け入れられなかったからです。それは、救いを目指して歩まれる、主イエスを、自分自身の思いにそうものにしようとしたということです。主イエスと出会い、この方を救い主として告白しつつ、主イエスをわきへ連れ出してしまうのです。
主イエスは、ペトロの告白の後、「御自分のことをだれにも話さないように戒められ」ました。私たちの感覚からすると、このことは不可解です。イエスこそキリスト、救い主であるということを語り伝えることこそ伝道だからです。この御言葉によって、イエス・キリストについて話すなということが教えられているわけではありません。ここでは、主イエスを自分自身の思いに主イエスを従わせてしまう中で、主イエスについて語っても、それが本当の意味で主イエスの救いを伝えることにはならないということが言われているのです。主イエスに従いながらも御心よりも人間の思いを優先し、主イエスを語ることによって、むしろ自分の思いを語ることになってしまうことを戒めておられるのです。

主イエスの叱責
主イエスは、ご自身をわきに連れて行ったペトロを叱責します。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。とても激しい言葉です。弟子に向かって「サタン引き下がれ」と言うのです。何故ここまで激しくペトロを退けるのでしょうか。この時、十字架に赴く道を誰よりも苦しみつつ歩んでいたのは主イエスでした。もしかしたら、主イエスご自身が、誰よりもエルサレムに行くのを止めたいと思っていたかもしれません。主イエスは神の御子でありつつ真の人となられ、人間の経験する苦しみを苦しまれた方なのです。しかし、苦しまれつつも、ただ、父なる神の思いに従い、真の救の御業を成し遂げるためにエルサレムへの道を歩まれたのです。しかし、ペトロは、主イエスを神様の御心とは異なる方向へと導こうとしたのです。ペトロのしたことは、主イエスを神の御心に従う道から引き離そうとすることであったのです。そのようなものを主イエスは「サタン」と呼んで激しく退けるのです。結局、ペトロは、主イエスをメシアと告白したすぐ後に、神のことではなく人間のことを思っているのです。人間の思いを神の思いに先立たせて、神の御心を曲げようとしているのです。そのようなペトロに主イエスはここで、「引き下がれ」と言われています。これは、自分の後ろに下がれということです。十字架に向けて歩む自分の前に立ちはだかるのではなく、もう一度、自分の後ろに下がれというのです。主イエスの前で御心に従う歩みを妨げるのではなく、主イエスの後に従いつつ御心にそう歩みをするようにと言われるのです。主イエスは激しく叱責なさることによって、人間を支配する罪と戦われているのです。人々を罪から救うために進まれる、ご自身の歩むべき道を明確にし、そこを歩もうとされているのです。

人間の思いと戦われる主
主イエスは、ご自身を自分の思い通りの救い主にしてしまう人間の思いによって苦しめられました。ペトロが、自分の理想と異なる姿を示した主イエスをいさめたように、人々は、自分の望むメシアでなかった主イエスを十字架につけたのです。主イエスが、エルサレムに入城した時、歓喜の声で迎え入れた群衆が、そのすぐ後に「十字架につけろ」と叫ぶようになったのです。聖書が語る神は、人間が思い描き理想とする神とは異なります。神を信じない人は、神とは人間の願望が投影されたものだと主張するかもしれません。確かに私たちが救いを求める時に、自らのことを思っているということがあります。しかし、聖書が語るキリストは、いつも、私たちの思いに対抗して御心をなそうとされるのです。私たちにとって躓きにしかならないご自身の姿を示し、人間の自分の望む救いを求めようとしてしまう営みに対抗して、「引き下がれ」と言われるのです。主イエスに従おうとしながら、自分の思いをキリストに押しつけてしまうような者の思いに対抗して十字架へと進んで行かれるのです。その戦いの中で、自ら苦しみつつ、人間の思いにうち勝ち、神様の御心を成し遂げて下さるのです。そして、この戦いが、主イエスの十字架なのです。ですから常に、私たちは、十字架のキリストを示されなくてはならないのです。十字架で苦しまれた主の姿を示される時に、私たちの救い主を求める思いが、いかに罪に満ちたものであるかを知らされるのです。人間の思いの背後で、主イエスが苦しみを受けつつ、神の思いに生きられたことで、私たちが救われていることが示されるのです。その主イエスの戦いと苦しみを前に、悔い改め続けることこそ、この方を救い主として受け入れる者の姿勢なのです。悔い改めとは、キリストがお一人で苦難と戦われたことを知らされ、私たちが理解しない中で、私たちの思いを超えた救いの御業が行われているということを覚える時に起こることなのです。
先ほど讃美した讃美歌21の304番、「茨の冠を主にかぶせて」はエルサレムにおける主イエスの苦難の情景を描きます。

茨の冠を 主にかぶせて、「ユダヤ人の王」と 主をあざける。
彼らはその時 知らなかった、その傷がわたしをいやすことを。

そして、ただ、その情景を描写するだけではなく、人々がその主のエルサレムにおける苦難を理解しないことをも歌います。「彼らはその時、知らなかった。」彼らは主イエスの苦難の意味を知らなかったのです。誰にも理解されないところに苦難があります。又、この讃美歌は同時に、その苦難の意味をも歌います。誰からも理解されなかった主イエスの苦しみによって私たちの傷が癒される、罪が赦されるのです。この十字架を知らされ続ける中で、私たちは、この十字架こそ、私たちの救いであると告白することが出来るのです。

おわりに
私たちも、主イエスに従おうとする歩みの中で、この時のペトロのように振る舞っています。主イエスの後について行こうとしながら、自分の思いと全く異なる主イエスのお姿に直面して、主イエスをわきへ連れ出してしまう。主イエスの前に出て、自分が望む方向へお連れしようとしてしまう。人間の思いを優先させてしまうのです。救い主と告白しつつ、自分の思い描く救い主を主イエスに押しつけてしまうのです。そのような私たちの信仰の歩みの背後で、主イエスご自身が戦われ苦しまれているのです。この苦しみを繰り返し知らされる中で、私たちは、悔い改め続けるのです。その度に、主イエスの後ろに下がり、十字架の主を、自らの救い主とするのです。その歩みの中で、自分の思いではなく御心を求めて歩む者とされるのです。そこに自らの思いとは異なる救い主の姿があったとしても、又、そこに苦しみがあったとしても、主が担われたものと受け止めることが出来るのです。この受難週の歩みが、十字架の主を示されながら、主イエスの後に従いつつ歩みたいと願います。

関連記事

TOP