夕礼拝

創造の神

「創造の神」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第1章 1節
・ 新約聖書; ヘブライ人への手紙一、第11章 3節

聖書の最初の言葉
 「初めに、神は天地を創造された」。「聖書でも読もうか」と思ってその第一頁を開くと、私たちは先ずこの言葉に出くわします。最初にこの言葉と出会った時、皆さんはどんなことを思ったでしょうか。どんな感想を持ったでしょうか。あるいは今日、まさにこの礼拝において、生まれて初めてこの言葉に触れた、という方もおられるかもしれません。今まさに、この言葉に出会って、どのように思われたでしょうか。
 私自身のことを言えば、この言葉に最初に出会ったのはいつのことだったのか、全く記憶がありません。生まれた時から聖書が身近にあり、日曜日ごとにそれを、読むというよりも聞かされてきましたから、聖書という書物を、意識的に読んでみようと思って開いたというのはかなり後になってからだったのです。ですからこの創世記の最初の言葉も、いつのまにか知っていましたし、特にある時にこの言葉と出会ったという記憶はありません。この言葉に驚いたことも、特別な感想を抱いたこともない、というのが私の正直なところです。私はこの言葉を、つまり、神様が天地を、この世界を創造された、この世界は神様によって造られたものだ、ということを、何の抵抗もなく、そういうものだと受け止めてきたのです。クリスチャンの家庭に生まれ育った人の中にはけっこうそういう人が多いのではないでしょうか。

科学と信仰
 けれども、勿論そのような受け止め方をしていない人も沢山います。特に、物心ついて、様々な知識、特に科学的な知識を学んでからこの言葉に触れた人は、多かれ少なかれ、この言葉に驚き、とまどうのではないかと思います。中にはこの一行を読んだだけで、「ああ、聖書というのは、昔の無知な時代の人が書いた、読むに値しない本だ」と思って読むのをやめてしまうという人もいるかもしれません。そうはしないまでも、「こんなことはとても信じられない、受け入れることはできない、これをこのままに信じ受け入れることが聖書の教える信仰、キリスト教の信仰だとすれば、自分はとてもそれにはついて行けない」と思う人は多いのではないでしょうか。
 あるいはまた、この言葉を自分なりに合理化して読み、そうすることによって受け入れることができる、と思う人もいるかもしれません。「神」というのを、宇宙に基本的に存在している原理、あるいはエネルギーのようなものに置き換えるならば、その原理によって宇宙が誕生したことを、神による天地創造と重ね合わせて読むことができるかもしれません。このごろでは、この宇宙はビッグ・バンと呼ばれる大爆発によって生まれ、それ以来今も膨張し続けていると考えられているようです。そのビッグ・バン以前はどうだったのか、と素人は考えますが、私のおぼろげな知識では、その前というのはない、時間も、ビッグ・バンによって始まったのだということのようです。そうなるとこれは、ある意味で、神による天地創造、それは「無からの創造」であるとよく言われるわけで、無からなのだからその前はない、というのとかなり近い話になるわけで、科学の目からも聖書はもう一度評価され直してよいのではないか、という議論が生まれたりもしているようです。そのように、科学とある折り合いをつけて、それによってこの言葉を受け入れる、ということもあるのです。

二者択一の間違い
 「初めに、神は天地を創造された」という聖書の冒頭の言葉の受け止め方はこのように様々です。しかしここで大事なことを指摘しなければなりません。それは、今申しましたどの読み方をするとしても、それと、聖書が本当に教えようとしている信仰に生きることは何の関係もない、ということです。最初に私は、自分の体験として、神様がこの世界をお造りになったということを、素直に、そのままに受け入れ、信じてきたと申しました。しかしそれが信仰ではないのです。そのように思っていたからといって、私が特に信仰深い人間だったということでは全くありません。聖書に書いてあることをそのように素直に、疑うことをせずに信じ受け入れれば、それが神様を信じていることになる、というものではないのです。そのように言うと意外に思い、反発する方もおられるかもしれませんが、そのことは、第二のケース、科学的な知識からして、聖書に書いてあることは受け入れられない、信じられないという思いのことを考えていくことによってはっきりします。聖書に書いてあることは科学的に言ってナンセンスだ、だから聖書は、キリスト教は信じることができない、という考えは全く間違っています。しかしそれはどこが間違っているのかというと、科学か信仰か、という二者択一の考え方がそもそも間違っているのです。科学を取れば信仰は捨てなければならない、というものではないのです。しかし、そういうものではない、と言うならば、同時にそこで先程の、「聖書に書いてあることを素直にそのまま受け入れることが信仰だ」という考えをも捨てなければなりません。なぜならその考えでは、科学ではなく聖書を信じることが信仰だ、ということになるからです。科学を捨てて聖書の言葉を素直に信じることが信仰だと主張していることになるからです。つまりこれもまた、二者択一の考え方なのであって、「聖書に書いてあることを素直に受け入れることが信仰だ」ということと、「聖書に書いてあることは科学的にナンセンスで信じられない」ということとは、実は一つのコインの表と裏のようなものなのです。どちらかを主張するならば、同時にもう一つの主張も成り立つことになるのです。しかしこれらはどちらも間違っています。信仰は、科学を否定し拒否するところに成り立つものではないのです。別の言い方をすれば、科学を否定しなければ信仰が成り立たないなどというほど、信仰はヤワなものではないのです。
 従って、先程申しました第三の考え方、信仰と科学とをどこかで折り合いをつけて聖書を読もうとする、そんなことも全く不必要であり、むしろ間違っているのです。ビッグ・バンが天地創造とどんなに共通点があっても、それで天地創造を信じるわけではありません。聖書の言葉は、科学と折り合いがつくかどうかでその価値が決まったりするものでは全くないのです。

信仰によって
 それでは、私たちはこの聖書の最初の言葉、「初めに、神は天地を創造された」をどのように読み、受け止めたらよいのでしょうか。その導きを与えてくれるのが、先程共に読まれた、新約聖書、ヘブライ人への手紙第11章3節です。もう一度そこを読んでみます。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」。「信仰によって」とあります。これがまず第一に重要なことです。このヘブライ人への手紙の第11章は、信仰の本質とは何か、その信仰によって私たちは何を知り、どのように生きるようになるのか、を語っている所です。その、私たちが信仰によって知ることの冒頭に、「この世界が神の言葉によって創造された」ことがあげられているのです。神様による天地の創造は、信仰によって、信仰によってこそ分かることです。信仰によらなければそれは分からないのです。別の言い方をすれば、天地創造は、何らかの仕方でそれを分かり、理解することによって信じるようになるというものではないのです。まず信じるのです。そうすることによって初めて分かってくるのです。信じなければ分からない、それが神による天地創造なのです。それゆえに、聖書の語る天地創造を、科学的認識と同じ土俵の上に並べてどちらをとるか、などというのはナンセンスなのです。天地創造は信仰という土俵の上においてのみ分かることであり、意味を持つことです。それを科学的認識によって論じても全く無意味なのです。
神の言葉によって
 次に重要なことは、「この世界が神の言葉によって創造され」と言われていることです。それは、創世記の1章3節以下で、神が「光あれ」と言われるとその通りに光が出来た、というふうに、天地創造のみ業は神様のみ言葉によってなされていったことが語られている、そのことを言っているのでしょう。そういう意味では、1節にはまだ、「神の言葉による創造」ということは語られていない、とも言えます。しかし、このことの中心的な意味は、神様がどのようにして天地を造っていかれたか、という「やり方」の問題ではないのです。「言葉によって」ということが意味しているのは、そこに、神様の明確なご意思、み心がある、ということです。この世界は神の言葉によって創造された、というのは、この世界がこのような世界として存在し、私たちが今ここにこのような者として存在していることの背後には、神様のご意思、み心、あるいはさらに言えばご計画がある、ということなのです。そのことは、1節の、「初めに、神は天地を創造された」においても、「神は」という言葉において見つめられ、語られていることです。この世界は、「神が」創造された、神のご意思、み心によって創造された、この世界の存在の根拠は、神のご意思、み心、ご計画なのだ、そのことをこの1節は既に明確に語っているのです。

存在の意味
 それは言い換えるならば、この世界が、そしてその中に生きている私たちが、今ここに、このように存在しているのは、偶然ではない、ということです。そのことには意味がある、ということです。このことは、科学によっては絶対に知ることのできない、まさに信仰によってのみ分かる真理です。科学は、この世界に働いている原理を明らかにし、その成り立ちを説明し、どのような因果関係によって現在の世界の姿があるのかを解明しようとします。けれども、そこに意味や目的を見出すことはしないし、それは科学としてはむしろしてはならないのです。科学の説明においては、地球の存在も、その上に生命体があることも、人間がいることも、そしてこの私がいることも、無数の偶然の積み重ねの結果であり、そこに意味はないのです。この世界と、自分という人間の存在の意味は、信仰において、神様がこの世界を、私たちを、そのみ心によって造って下さったという天地創造の信仰においてこそ示されるのです。
恵みのみ心によって
 この世界があり、私たちが生きていることは、偶然ではなく、神様のご意思、み心によることで、そこには意味がある。それが、「初めに、神は天地を創造された」という聖書の最初の言葉の教えていることです。そしてそのご意思、み心は、私たちへの恵みのご意思、恵みのみ心なのです。聖書が教えているのは、この世界と私たちの存在には、神様の何らかのみ心がある、しかしそのみ心は私たちにとって好意的なのかどうかわからない、ということではありません。そこにあるみ心は、私たちに対する恵みのみ心なのだ、神様はこの世界と私たちを、恵みによって造って下さったのだ、と聖書は告げているのです。ですから、「初めに、神は天地を創造された」というみ言葉は、言い換えるならば、「この世界は、神様の恵みによって造られ、支えられている、よい所なのだ」ということであり、「私たちの命は、人生は、神様の恵みによって与えられ、守り導かれているよいものなのだ。この人生は生きる価値のある、すばらしいものなのだ」ということなのです。この信仰に生きることこそが、「初めに、神は天地を創造された」というみ言葉を正しく読むことなのです。

福音の第一声
 それゆえに、旧約聖書の最初の文章であるこのみ言葉は、聖書全体を貫く福音、よい知らせ、喜びのおとずれの第一声であると言うことができます。主なる神様が、どのような恵みによってこの世界を、私たちを造り、生かして下さっているのか、そのことを私たちはこの後、天地創造の物語を読み進めていくことによって教えられていきます。そしてその恵みが、独り子イエス・キリストを私たちのために遣わし、その十字架の死と復活によって私たちの罪を赦し、永遠の命を約束して下さるまでのものであることが、新約聖書に語られていくのです。そのように聖書全体が語っていく福音の第一声として読むことこそ、このみ言葉の正しい読み方です。創世記1章1節をそのように読むことによって、その後に続く天地創造の物語の全体が、福音のみ言葉として私たちに響いてくるのです。天地創造は、先ず信じる、それから分かっていくのだ、と申しましたのはそういうことです。神様が大いなる恵みによってこの世界を、私たちを造って下さった、この世界は、そして私たちの人生は、すばらしい所であり、生きる価値のあるものだ、という福音を信じることによってこそ、天地創造の物語は、この科学の時代を生きる私たちにとっても、意味のあるみ言葉となるのです。
 この世界は、この人生は、すばらしい所であり、生きる価値のあるものだ。この福音によって生きることができる私たちは本当に幸いです。そして今この社会には、特に、この福音を必要とし、求めている人々が沢山います。年間三万人を越える人々が自殺しているというこの社会の問題は、この福音が人々に届いていない、ということなのです。それは私たち教会の責任でもあります。「初めに、神は天地を創造された」。この聖書の最初の言葉を、神様の大いなる恵みのみ言葉として聞き、その喜びに生かされ、神様の恵みのみ心を証ししていく者でありたいのです。

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