夕礼拝

あなたを救った

「あなたを救った」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第77編1-20節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第9章18-26節
・ 讃美歌 : 467、356

主イエスと指導者の出会い
 本日は御一緒に新約聖書のマタイによる福音書の第9章18節から26節の御言葉を御一緒にお読みしたいと思いまします第9章の18節から26節の主の御言葉を通して、神様の御言葉に耳を傾けたいと思います。
 本日の物語は、自分の愛する娘が死んでしまった、ある指導者が出て来ております。そしてその話に挟まれて十二年間も出血の病気を患っている女性が登場してくる物語が続いております。本日の箇所の小見出しには、「指導者の娘とイエスの服に触れる女」という、このように小見出しが書かれておりますので、そのような二つの話が続いているという事になります。
 本日の箇所はこの小見出しの括弧の所にもありますように、他の二つの福音書であるマルコによる福音書とルカによる福音書においても同じ話が書かれております。この二つの福音書にも共通して語られている物語であります。しかしこのマタイによる福音書に書かれております物語は、他の二つの福音書に書かれているものと比べても、この二つの福音書は大変詳細に書かれており、それに比べてこのマタイによる福音書の方は少し省略をするような形で書かれておりますので、マルコによる福音書とルカによる福音書の方を記憶されている方も多いのではないでしょうか。
 18節、「イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。」と本日の物語は始まっていきます。私達は公の場において、何か今伝えなければならない場において、もしその人が何が喋っているのであれば少し待つのが常識であります。しかしこの指導者は、イエスがこのようなことを話しておられると、そばに来てひれ伏して言ったと、このように記されております。このある指導者は、この言葉にもありますように、「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう。」と、このように主イエスに問いかけるのです。娘の死に遭遇したばかりの指導者の姿が描かれております。
 主イエスがこのような事を話しておられる、そのような間においても、自分の娘の死を主に知らせようとしてここに登場して来るのです。そして主イエスにひれ伏して言われます。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。」主イエスはその指導者の言葉を聞き、その指導者の後について行かれるという事が描かれています。わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう。指導者はこのように主に願い出たのです。そして主イエスは、19節「そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。」と、このようにあります。主イエスはその指導者の言葉を聞き、後について行かれたのです。

主イエスの服に触れる女性
 そしてそこで主イエスは次の人に出会います。癒されない病を抱えた女性が主イエスに近付いて来るのです。主イエスは指導者の言葉を聞き立ち上がり、指導者の家について行こうとしたその時に、新たな出会いがここに与えられるのです。「すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来」たと、このように記しております。
 ある指導者は娘を失っておりました。娘をたった今亡くしたという状況に置かれているのです。そしてこの十二年間も出血を患っている女性というのは、この二人に共通する事というのは、この世の喜びを失った者の代表のような姿です。
 まずこの女性の姿を見ていきたいと思います。主イエスは自分の娘を亡くしたその指導者の家に行こうとしたその時に、その途中でこの女性と出会うのです。十二年間の出血という病に苦しむ女性と出会います。この女性の苦しみというのは単に肉体の苦しみだけではありません。出血が止まらないというのは、その女性は当時宗教的にも汚れているという事を示す、そのような病でありました。当時のユダヤの社会では、このような女性の病は汚れたものと見なされており、人々との接触が禁じられておりました。宗教的にも社会的にも、人々との交わりにおいても蔑まされ、交わりから離されていた女性の姿が描かれております。そのような苦しみの中にいた女性が、後ろからそっと主イエスの服の房にふれたと、20節に記されております。
 この物語はマルコによる福音書にもルカによる福音書にも同じ物語が記されていると申しましたけれども、マルコによる福音書とルカによる福音書の違いは、この女性が主イエスの服の房に触れた途端にこの病が治されております。しかしマタイによる福音書ではそこは少し違っております。この女性はこの方に服の房に触れさえすれば治してもらえると思ったからであると、このような思いを持ってイエスの服の房に触れました。イエスは振り向いて言われた。彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治ったと、マタイによる福音書において記されております。

生きる勇気
 主イエスはこの女性が恐る恐る主イエスに近付き、自分の服の房に触れた事に気付きました。主イエスはこの女性の存在に気付かれたのです。そして今主イエスが向かおうとされていた、指導者の家に行くという計画をその場で瞬時に変えられました。そして主イエスは「この女性に、娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と、このように言われました。主イエスがこの言葉をかけられた時に、この女性の病が治ったというのです。
 マルコによる福音書とルカによる福音書では、この女性が服の房に触れた途端に病が治されたのですけれども、マタイによる福音書では「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われたこの主のお言葉によって、この女性の病が癒されたというのです。またこの言葉は、「生きる勇気を持ちなさい」と、そのような意味でも使われている言葉です。娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。その時、彼女は治ったというのです。ここに使われている彼女は「治った」という言葉には、特定の時を表わす動詞が用いられております。それに対してあなたの信仰があなたを救った。この「救った」という言葉は、救われたという状態がずっと続いているという言葉が使われております。この女性は救われたという事の表れとして病の癒しが起こったのです。主イエスの御言葉によって救われた。そのような状況において、この女性の病の癒しは起きたのです。またこの「元気になりなさい」というのは、マタイによる福音書の少し前の第9章2節でも使われている言葉です。9章の2節にはこのようにあります。すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される。」と、言われた。元気になりなさい。女性に語りかけられた言葉と同じ言葉が用いられております。
 マタイによる福音書の、この物語が語られた文脈で、「イエスがこのようなことを話しておられると、」と本日の箇所は始まっておりますけれども、この前の箇所の14節から17節までの所において為された事柄を受けております。罪人を招いて食事をされていた主イエス。喜びの食事をする中で主イエスが人々と語り合っていたそのような中でこの物語は始まっているのです。喜びに食事をする中で、ある指導者がここにやって来たというのが、マタイによる福音書のこの物語の特徴と言えるのであります。

死は終わりではない
 そして主イエスはこの女性を癒され、指導者の家にさらに進み向かいます。23節、イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」主イエスはこのように語りかけられました。しかしこの指導者の娘はもう亡くなっているのです。18節にはわたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。このような思いを持って指導者はやって来ました。しかしもう少女は、この子どもは亡くなっていたのです。
 主イエスは指導者の家に行き、笛を吹いている者達や騒いでいる群衆に出会います。これが人々の現実の姿です。そして主イエスは言われました。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」主のこの言葉を聞き、人々はあざ笑ったと記されております。
 マルコによる福音書やルカによる福音書と違って、指導者の娘は最初からもう死んでおりました。その中で指導者は、先生、手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょうと、このような思いを持って主イエスに願い出たのです。せめて手を置いてやってくれませんか。娘を生き返らせて下さいと、そのような指導者の思いがここに記されております。自分の子どもの回復を願う父親の姿が描かれております。他の福音書では一人娘であったと記されておりますけれども、一人娘を思う父親の姿があります。かけがえのない自分の子ども、宝のように育ててきた自分の娘、愛する者を失う親の姿が描かれております。大事な子どもが自分よりも先に死んでしまう。そのような悲しみの現実の姿が描かれているのです。底知れぬ悲しみと嘆きの姿が描かれております。わたしの娘がたった今死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょうというこの主イエスへの願いから、この指導者の思いというものが私達にも通じつのではないでしょうか。指導者は主イエスにふれ伏します。平伏して娘の生き返りを願うのです。しかし少女はもう亡くなっておりました。
 ですが主イエスはこのように言われるのです。「少女は死んだのではない。眠っているのだ。」この主の言葉を聞き人々はあざ笑います。この「眠っている」というのは、主イエスにおいて深い意味を表わす言葉であります。主イエスのこのお言葉というのは、主イエスにおいてこの死は終わりではないのです。眠りとはいつか目が覚めるという事です。主イエスが語られるこの御言葉、死んだのではない。眠っているのだというこの言葉において、主御自身が生きておられるのです。人々はイエスをあざ笑いました。一体この人は何を言っているのだろうか。私達の現実の姿が描かれております。 主イエスは群衆を外に出すと、家の中に入り少女の手をお取りになりました。「すると、少女は起き上がった。」とあります。この少女が「起き上がった」という言葉は受動態が使われております。つまり主の言葉によって、神の独り子による御言葉によって、この少女が起き上がったという事です。主イエス・キリストによる御言葉は、この少女にかけられ、起き上がったのです。
 これは単なる奇跡の物語を語っているのではありません。私達のために十字架にかかり死んで下さった主イエス。そのお方が語る復活の命の御言葉によって、死は終わりではない。眠っているのだ。このような主の御言葉によってこの少女は起こされたのです。
 主イエスは群衆達にこのように言われました。笛を吹き、騒いでいる群衆を見て、あちらに行きなさい。少女は死んだのではない。この「あちらへ行きなさい。」という言葉は、ここから出て行きなさいと言われている言葉です。主イエスは彼らにこのように言われるのです。人々は、人間は、この主の言葉を笑い騒ぎ立てるものでありますけれども、主イエスは彼らをあざ笑うのです。ある神学者はこのように言っております。「主イエス・キリストが自らの死をあざ笑い、それを眠りと呼ばれる。」つまり、主イエス・キリストの墓は、眠りであり、そして主イエス・キリストこそ命であり、眠るお方であると、このように言われるのです。私達の十字架にかかってくださった主イエス・キリストのゆえに、私達は死ではなく眠りにつくというのです。死は終わりではなく、この方において終わりではなく、この方と共に歩む事によって、新しい命が開かれていくのです。私達の罪のために十字架にかかり死んでくださった方が、私達に語りかけてくださり、私達に復活の命を与えてくださるのです。
 この話というのは、特別な二人の人に起きた話ではありません。18節ではこのようなことを話しておられると、ある指導者がひれ伏して言ったとあります。罪人との交わりの中に、社会的に高い地位にあった指導者が主の元にやって来たのです。罪人達との交わりの中に、この世の価値観と対立するかのような中にやって来て、主に語りかけるのです。
 私達は多くの群れの中にありながら、しかし一対一で主と出会います。私達は誰かと一緒に主イエス・キリストと出会うのではないのです。この世の中において、一対一で主と向かい合い、主との出会いを与えられ、主の御言葉によって私達は生かされているのです。主が語りかけてくださるこの御言葉において、私達も新たな命に生かされるようになるのであります。

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