夕礼拝

押し入る主イエス

「押し入る主イエス」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第49章22-26節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第3章20-30節
・ 讃美歌:7、353

<はじめに>  
 本日の3:27で、主イエスは、「また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」という、たとえ話をお語りになりました。
 大変物騒な、強盗の話です。しかし何と驚くべきことに、この押し入る強盗は主イエスご自身のことをたとえています。主イエスご自身が、強引に家に押し入って、その家を支配している強い者を縛り上げ、略奪する。主イエスが力づくで強盗のように家を支配してしまう、ということです。これは、どういうことをわたしたちに教えるたとえ話なのでしょうか。

<群衆と主イエス>  
 主イエスがこのことを語られた経緯が、20節以下に述べられています。  
 「主イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」とあります。家というのはおそらく、ガリラヤ地方での活動の拠点となっていた弟子のシモンとアンデレの家でしょう。

 主イエスはこれまで、神の国の福音、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということを宣べ伝え、また病の癒しや、悪霊を追い出す御業を数多く行なっておられました。
 「神の国は近づいた」というのは、神から離れ、罪に支配され、捕らわれている人々に、「神のご支配が近づいている」という知らせです。神が罪を赦し、恵みによって支配して下さる時が近づいている。だから、罪から離れ、神に立ち帰り、神のもとに来なさい、神と共に生きる者になりなさい、という招きの言葉です。
 そして、主イエスこそ、この神に遣わされ、神のご支配を実現するために来られた方です。そのことを証しする「しるし」として、神の力による、病の癒しや、悪霊を追い出す業が行われていました。

 そのような主イエスのことを聞きつけて、群衆が主イエスのもとに集まってきます。多くの人は、病を癒す力、悪霊を追い出す力を求めて集まったのでしょう。「群衆が『また』集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」とあるように、次から次へと、何度も何度も、群衆が押し寄せてきます。
 そして主イエスは、やってきた者を受け入れ、神の国の福音を語り、また癒しの業を行ない、一人一人を迎え入れ、仕えておられたのです。「一同は食事をする暇もなかった」とあるので、弟子たちもまた、その主イエスを手伝っていたのでしょう。主イエスはそのように、求めてやってきた者を受け入れて下さる方です。

<二つのグループ>
 さてしかし、ここに群衆とは違う思いでやってきた、二つのグループが登場します。
 一つは、主イエスの身内の人たちです。主イエスには、母マリアと、兄弟たちがおり、またその親戚もいたでしょう。その身内の人たちが、主イエスを取り押さえに来たのです。なぜなら、ある人々が、主イエスのことを「あの男は気が変になっている」と言っていたからです。
 この「気が変になっている」というのは、「エクスタシー」の語源になった言葉ですが、外に出てしまう、自分の外に出てしまって、自分を失っている、ということです。「気が変になっている」なんて失礼なことを言うな、と思うかも知れませんが、しかし身内の立場からすると、取り押さえ、自分たちのところに連れ戻して大人しくしていてもらいたい、というのは、当然の思いかも知れません。
 なぜなら、おそらく、マリアの夫であるヨセフは、この時すでに亡くなっていたと思われます。そうすると、主イエスはこの家の長男にあたるわけで、家業の大工を継いで、家族の面倒を見るのが当然のことなのです。しかし、30歳ごろになって、急に家を出て行き、あちこちで「神の国の福音」を宣べ伝え、力ある様々な奇跡の業を行ない始めたのです。
 しかも、律法学者と呼ばれる、宗教的・社会的に権威のある人々と論争をしたり、律法で決められていることを守らなかったりして、目を付けられています。
 主イエスは、律法を形式的に守ることよりも、その律法の根本の精神である、神の御心に目を向けさせようとしているのですが、律法学者たちは、律法を蔑ろにしていると怒り、3:6では「イエスを殺そうかと相談し始めた」とまで書かれています。
 身内からすれば、はらはらすることです。どうか権威者に盾突くのをやめて欲しい。そんなことをするなんて、やはりおかしくなってしまったのだ。このままにしておくのは不安だし、身内にとって迷惑だ。そんな風に考えて、主イエスを取り戻しに来たのです。

 もう一つのグループは、エルサレムから下って来た律法学者たちです。律法学者はこれまでのところにも出てきて、先ほど主イエスに殺意を抱いていたということも申しました。
 しかし、この「エルサレムから下ってきた律法学者」というのは、さらに特別な権威を持った人たちです。エルサレムは、神を礼拝する神殿があり、ユダヤの人々の信仰的な中心地でした。このエルサレムで決定されたことが、全ユダヤの地域に伝えられ、その指令に従うことになっていました。そのようなところから、わざわざ出向いてきた律法学者たちです。
 主イエスの噂がエルサレムまで届いていたのでしょう。様子を見に派遣されてきたのか、または関心があってやってきたのかは分かりませんが、とにかく権威のある律法学者がやってきたのです。

 そして、彼らの主イエスへの評価は、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」というものでした。
 彼らは、主イエスがある力をもって、癒しの業、悪霊を追い出すことが出来ることは認めました。しかし、その力の出所は、神ではなく、悪霊だ、と考えました。
 律法学者たちは、主イエスが語っておられる神の国の福音と、神の力を、受け入れなかったのです。

 「ベルゼブル」とは、「家の主人」という意味です。家とは、人のこと。つまり人を支配する者、という意味の名を持つ悪霊です。人を支配し、その主人となり、神から遠ざける。それが悪霊、また「神に敵対する者」という意味である「サタン」という存在です。
 主イエスが悪霊を追い出すことが出来るのは、その、神に敵対する力の親玉である「ベルゼブル」に取りつかれているからであって、ベルゼブルの強力な力によって、下っ端の弱い悪霊を追い出しているんだ。人を支配している悪霊を、さらに強力な悪霊の力で押さえつけ、支配しているんだ。
 そんなふうにエルサレムから下って来た律法学者たちは話していたのです。

<内輪もめではない>
 そのことに対して、主イエスはたとえで語られました。
 「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう」。
 悪霊を追い出す業は、悪霊の力によるものではない。仲間が仲間を追い出すようなことをするだろうか、ということです。主イエスの力は、この悪霊に真っ向から敵対するものである、ということです。
 主イエスが行なっておられる御業は、悪霊同士の内輪もめなどではなく、神と、悪霊との戦いなのです。
 そしてこれは、この世界が神の力と悪の力の二元論で成り立っているということを言っているのではありません。神の力は、圧倒的に悪霊を支配する、ということを、主イエスは語っておられます。ここでも、主イエスは「神の国の到来」、神のご支配が来ている、ということを語っておられるのです。
 それが、「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」と語られたことの意味です。押し入って、強い者たち、つまりサタンを縛り上げ、奪い取り、家を御自分のものにする。その力が、主イエスにはある、ということです。これは、力強い神の国、すべてに勝利される神のご支配のことを語っているのです。

<悪霊に支配されるわたしたち>  
 家とは、わたしたち人間のことであると、先ほどお話しました。人は、簡単に悪霊に支配されてしまいます。この悪霊だ、ベルゼブルだ、という話を、古い時代の人々の迷信で、今のわたしたちに関係ないことだと思ってはいけません。悪霊とは、人を神から遠ざける力であり、誘惑であり、神に敵対させる力のことです。そのような力は、わたしたちの周りに溢れているのです。
 わたしたちの弱く、臆病で、それなのに傲慢で、欲深い心は、すぐに悪霊に支配されます。むしろ、わたしたちが自分の思い通りにすることを促してくれる悪霊を、喜んで迎え入れてしまっているくらいかもしれません。

 わたしたちは、神に造られたものであり、神の恵みに生かされ、命を養われているものです。神が愛をもってわたしたちを支配して下さる。そこに、命とまことの平安があります。神だけが、わたしたちの支配者です。その神の恵みを喜び、感謝して、神に従って歩むことが、人間の本来の生き方です。神と共に歩み、神と共に生きることが、神に造られたわたしたちの、最も幸いな姿なのです。

 しかし、人は罪に捕らわれて、自分を中心に生きようとしてしまいます。本来の姿を失っている。「気が変になる」は「外に出る」という意味だと言いましたが、まさに自分の存在を外に失っているのは、わたしたちなのです。
 命を与えて下さる神から離れ、自分の力で生きられるような気になり、もっと多くのものを自分で手に入れようとします。しまいには、神に自分の願いを叶えさせようとしたりして、自分自身が主人になり、すべてを支配し、コントロールしようとするのです。自分の家だから、自分が主人だ、と思ってしまうのです。しかし、そうではありません。わたしをお造りになった神が、わたしたちの主人なのです。
 しかし人は、そうして神を主人とすることをやめ、神との関係を壊してしまっています。神との関係の破れによって、人は命の源である神から離れ、死へ、滅びへと向かっていきます。それぞれが支配者になろうとして、隣人との関係も破壊していきます。そしてこれこそ、悪霊の望むところなのです。
 神以外に目を向けさせ、世の力に頼らせ、自分の力に頼らせ、他の人と比べさせ、もっと上に、もっと人より良く、もっと願いどおりに。そういってわたしたちを、どんどん神の恵みから引きずりだし、そのご支配から遠ざけていくのです。そしてそこに、ベルゼブルが大きな顔をして居座ります。

 この力に、わたしたちは対抗することが出来ません。わたしたちの努力や、真面目さ、清廉潔白な生き方、精神力の強さなどは、悪霊に対して何の力もありません。
 むしろ、自分の正しさや、頑張っていることなどは、自分を絶対化したり、人を批判したりするような、悪霊の付け入るスキや弱さにもなってしまうでしょう。
 わたしたちは、自分の力ではもはや何も出来ない。ただ滅びていくことしか出来ない。そのようなものなのです。

<押し入る主イエス>  
 しかし、そのように自分ではどうにもならない罪の虜になり、悪霊に支配されてしまっているわたしたちを解放するために、神の御子である主イエスは来て下さったのです。  
 主イエスは外から来られます。そして、サタンに支配されているわたしたちの中に、押し入ってきて下さり、サタンを縛り上げ、わたしたちをサタンから、奪い取って下さる。勝ち取って下さるのです。
 そうして、神の恵みの中へと、取り返して下さる。わたしたちを支配し、愛をもって、治めて下さる。主イエスはそのような方なのです。

 このたとえ話も、神の国、神のご支配のことを告げているものだと、先ほど申しました。主イエスが来られ、わたしたちを罪から解放し、サタンから勝ち取り、神の恵みの支配の中へと入れて下さる。これこそ、主イエスが1:15から、ずっと人々に教えておられる、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」ということなのです。この方がわたしたちを支配し、主人となって下さることによって、わたしたちは、神の恵みの内に歩んでいくことが出来るのです。

 御自分を強盗にたとえるなんて、少し暴力的な話でしたけれども、実際に主イエスは、どのようにわたしたちの罪を解放し、悪霊と戦って下さったでしょうか。悪霊に掴みかかり、グーでぶん殴ったのでしょうか。そうではありません。

 主イエスは、御自分がすべての罪を背負い、十字架に架かって死なれることで、わたしたちを罪から解放し、また悪の力に打ち勝って下さったのです。それほどに、わたしたちが捕らわれていた罪の力は大きなものでした。
 罪のない方が、御自分に敵対する者となってしまったわたしたちの罪のために、命を献げて下さる。これはわたしたちにとって想像も出来ないようなことです。しかしそれが、神の救いのご計画でした。父なる神の御心に最後まで従い、すべての苦しみを引き受けて下さった。そのことを通して、主イエスは、悪霊に打ち勝ち、わたしたちの罪をすべて贖い、わたしたちのための救いのみ業を実現して下さったのです。

 父なる神は、この十字架で死なれた主イエスを復活させて下さり、主イエスが、まことにすべてに勝利し、すべてを支配する方であることをお示しになりました。そして、わたしたちは、この主イエスの復活の命に結ばれて、神のご支配のもとに生き、罪を赦され、悪に打ち勝ち、死に勝利する恵みを約束されているのです。

 自分の罪を償うこと、悪と戦うことは、わたしたちにはもはや出来ないことです。しかし、主イエスが、わたしたちのために戦い、わたしたちのために十字架に架かって下さいました。こうして、十字架によって打ち立てられた神の恵みのご支配が、わたしたちの罪を覆い、わたしたちを神の下で生きる者へと、新しくして下さるのです。
 この、主イエスによって示された、神の愛を信じること。神のご支配の中で、神と共に生きることを喜んで受け入れること。それが、この恵みを差し出されたわたしたちに求められていることなのです。

<聖霊によって>  
 主イエスは、たとえの最後に、大切なことを話されました。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒?の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒?する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」これは、どのような意味なのでしょうか。  

 気を付けなければいけないのは、これは、「こういう罪は赦されるけど、ああいう罪は赦されないよ」と、罪の種類によって赦される、赦されないがある、ということを言っているのではありません。  
 「人の子らが犯す罪やどんな冒とくの言葉も、すべて赦される」ということと、「聖霊を冒とくする者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」ということは、表裏一体のことです。  

 先ほどのたとえ話によって、主イエスが行っておられる、福音の宣教と、さまざまな御業は、悪霊の力ではなく、神の力、つまり聖霊なる神の力によって、なされているということが示されました。人々が神の国の福音を聞き、主イエスが救い主であると信じ、罪を赦される、という出来事が起こる所には、そこに聖霊なる神がおられ、働いておられるのです。  
 聖霊はわたしたち一人一人に働いて、信仰を導き、主イエスとわたしたちを一つに結んで下さる、そのような神さまです。  

 その、聖霊なる神を、悪霊だと言い張り、冒?し、拒否する、ということは、聖霊なる神の力によって、わたしを悪霊の支配の中から奪い返し、支配して下さる主イエスを受け入れないということです。それはつまり、神が主イエスによって差し出して下さっている、罪の赦し、救いの恵みを拒否することなのです。  
 主イエスがわたしたちを救うためになさっている命がけの戦いを、聖霊の力ではなく、悪霊の業によることだ、などというのは、とんでもないことです。救いへと導いて下さる聖霊を冒?するということは、救いを拒否することであり、そうして主イエスの十字架による罪の赦しを受け入れないなら、永遠に赦しを得ることは出来ない、ということなのです。  

 わたしたちが、自分では償うことが出来ない罪を赦されるのは、主イエスがわたしたちの代わりにすべての罪を負って、十字架にかかって死んで下さったことを信じることによってです。そして、この「信じる」ということさえ、わたしたちは自分の思いや、熱心さによって出来ることではありません。聖霊の力が必要なのです。
 神の方から、外から押し入るように、一方的に恵みが注がれ、わたしたちは、その恵みを受け入れることしか出来ないのです。聖霊なる神に導かれ、自分が自分の主人であることをやめて、主イエスをただお一人の主人として、自分の中に受け入れる、ただそのことを求められているのです。
 そうして、聖霊なる神の導きによって、主イエスの救いを信じるならば、神の恵みを受け取り、神の支配に喜んで身を委ねるならば、「人の子らが犯す罪やどんな冒?の言葉も、すべて赦される」。そのように主イエスは語って下さるのです。
 主イエスが主人としてわたしの家にいてくださること。そこにこそ、わたしたちのまことの平安があり、癒しがあり、命があるのです。

 御言葉が語られているこの礼拝においても、聖霊なる神が働いてくださり、主イエスが主人となって支配して下さり、わたしたちを恵みで満たして下さいます。わたしたちが主イエスに自分自身を明け渡し、そのご支配にすべてお委ねするならば、そこに悪霊の居場所は失われ、わたしたちは最も自然で、幸いな、本来の生き方、神を礼拝する者として、生きることができるのです。

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