主日礼拝

苦難の理由(わけ)

「苦難の理由(わけ)」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 哀歌 第3章1-57節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第9章1-12節
・ 讃美歌:11、132、532

「苦難の理由(わけ)」という題
 本日は、「苦難の理由(わけ)」という題でお話をします。「苦難、苦しみ」についてのお話をしようというわけです。この礼拝は横浜指路教会の春の伝道礼拝で、普段教会の礼拝に参加しておられない方々をお招きすることを目的としてなされています。そういう伝道礼拝においては普段は、喜びへと人々を招くような、元気が出そうな題を掲げるのですが、今回は「苦難」をテーマとしました。それは勿論、3月に起った東日本大震災を意識してのことです。あれから二か月が過ぎ、この地震と津波が引き起こしたすさまじい被害の実態と、そのもたらしている物心両面での様々な影響が明らかになってきました。また福島第一原発の事故はなお深刻な状況が続いており、放射性物質による環境の汚染がこれからどこまで進むのか、誰もが不安を覚えています。しかしそんな中でも、横浜に住む私たちはいちおう普通の生活ができており、多少の不便を感じつつも震災前とほぼ変わらない日々を送ることができています。その中で私たちは、被災した方々のことを思い、できるだけの支えをしたいと願い、救援のための物資を集めたり、義援金を送ったり、そのためのチャリティー活動に協力したり、あるいは被災地でのボランティア活動に参加したりしています。このような時こそ、助け合い、支え合うことの大切さを誰もが感じているのです。けれどもそのような積極的な思いを抱いている一方で、私たちの心には今、一つの深い問いが生じているのではないでしょうか。本日の礼拝の案内のチラシにこのように書きました。「私たちは、そして日本の社会全体は今、東日本大震災の苦しみの中にいます。未曾有の災害を前にして私たちは、人生における苦難、苦しみの謎に直面しているのです」。ある日突然起った地震と津波によって、3万人近くの人々の命が突然に奪われ、その中の1万数千人の人は遺体すら見つからない、また十数万もの人々が家や財産を全て押し流され、生活の基盤を破壊され、あるいは住み慣れた地を離れて避難しなければならなくなったというこの大災害は、私たちの人生にある日突然襲ってくる苦難、苦しみの謎に私たちを直面させています。そこで私たちは、「なぜ」という思いを抱くのです。自分が被災した人は「なぜ自分がこのような苦しみを受けなければならないのか」と当然思うでしょうし、直接の被災者でない者は、「なぜあの人たちがこのような苦しみを受けるのか、それはなぜ私ではなくてあの人たちだったのか」と思うのです。これは考えても答えの出ない謎です。今私たちの誰もが、この苦難の謎に直面しているのです。この謎は決してこの震災によって始まったわけではありません。私たちはそれぞれの人生における様々な苦しみの出来事、いわゆる不条理によって、その謎に直面させられます。しかし普段は一人一人が個別に体験しているその謎が、このような大災害において、皆の共通する問いとなっているのです。今、私たちはこの問いを避けて通ることはできません。それゆえに今回、「苦難の理由(わけ)」という題を掲げたのです。しかし最初に申し上げておきますが、このような題を掲げた私自身が、この問いに対する何らかの答えを持っていて、「苦難の理由」を皆さんに説明することができる、などということはありません。私自身もこの問いを抱いており、その答えを求めているのです。つまり本日のこの題は、私自身もこういう話を聞きたい、と思って掲げたものです。本日はこの問いを、皆さんとご一緒に、聖書に問いかけていきたいと思っています。苦難の謎に対して聖書が語っていることを、皆さんとご一緒に聞き取っていきたいのです。

苦難は罪の罰?
 そのために本日ご一緒に読むのは、新約聖書ヨハネによる福音書第9章の始めの所です。イエス・キリストと弟子たちの一行が歩いていくその通りすがりに、「生まれつき目の見えない人」を見かけたのです。その人を見て弟子たちはイエスに、「ラビ、―それは先生という意味ですが―、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねたのです。生まれつき目が見えないというのは、目が見えることを当たり前と思っている者には到底想像出来ない深い苦しみであると思います。しかも「生まれつき」というところにポイントがあります。例えばその人が何か失敗をして、その結果見えなくなったのではないのです。生まれた時から見えない、そこにはまさに人生における苦難の謎があります。この人はなぜ目が見えない者として生まれて来たのか、それはなぜこの人であって他の人ではないのか、という問いが弟子たちの心に生じたのです。それを彼らは主イエスに問うたわけですが、その時彼らが前提としていたのは、このような苦しみは罪の結果であるに違いない、ということでした。罪の罰(ばち)が当って、このような苦難が生じているのだ、という思いです。つまり彼らは、苦難には理由があるはずであり、それは罪だと思っているのです。しかし問題は、この人が生まれつき目が見えないということです。つまり本人が何か罪を犯す前から見えなかったわけで、だとしたら誰が罪を犯したのか、両親だろうか、親の因果が子に報いて、彼は目が見えない者として生まれてきたのだろうかと考えたのです。この弟子たちの問いは、苦難の謎に直面する時に私たちが考えることを代表的に言い表しています。苦難の謎に直面し、「なぜ」という問いを抱く時に私たちは、その苦難の理由を知りたい、苦難を引き起こした原因を知り、そこに働いている因果関係を知りたいと思うのです。それは、原因も理由も分からない苦難は、受け入れることもあきらめることもできないからです。だから私たちは苦しみの原因を知りたいと切実に願います。そしてそこで私たちがしばしば考えるのが「罪とその罰(ばち)」という図式です。罪の罰が当ったという図式で苦難の謎を説明するのが、一番分かりやすいのです。それが弟子たちの問いであり、私たちもしばしば同じような思いを持ちます。このたびの大震災においても、例えば、このようなことが起ったのは、我々日本人があまりにも物質的な豊かさを追い求め、利益をあげるために自然を破壊してきたことに対する天罰が下ったのではないか、などと思ったりするわけです。
 この弟子たちの問いに対してイエス・キリストは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」、これは、本人でも両親でもない第三者が罪を犯したからだ、ということではありません。主イエスはここで、罪の罰(ばち)としてこの苦しみが生じたという彼らの前提そのものを否定しているのです。苦難の謎を罪に対する罰という図式で考えることは間違っている、と主イエスはおっしゃったのです。このことを私たちは先ずしっかりと受け止めたいと思います。苦難の理由(わけ)を罪に対する罰に求めることによっては、苦難の謎に対する正しい答えを得ることはできない、と主イエスは言っておられるのです。それはなぜでしょうか。思うにそれは、苦難を罪に対する罰として説明しようとする話というのは多くの場合、自分は苦難の外にいて、苦難の中にある人を第三者として眺めているところでなされるものだからではないでしょうか。あの弟子たちの問いもそうです。彼らは生まれつき目の見えない人を通りがかりに見てこの問いを発しています。彼ら自身はその苦しみの中にはいません。苦しみの中にいるこの人を見たことによって苦難の謎に直面し、心穏やかでいられなくなったので、この苦しみの原因を知って納得したいのです。そして例えばこの人は両親の罪のせいで生まれつき目が見えないのだ、という説明によって納得できれば、そのとたんに彼らはその人のことをもう忘れてしまうのです。つまり彼らの思いは、苦しんでいるこの人にではなくて、自分がこの現実をすっきりと納得したい、という自分のことに向けられているのです。このたびの震災においても、直後に石原都知事が「これは天罰だ」と発言して顰蹙を買いましたが、彼はあそこで、東北の人たちに天罰が下ったと言ったわけではなくて、日本人全体を覆っている「我欲」を問題にしたのです。しかし彼の発言が受け入れられなかったのは、自分は苦しみの外に立って眺めながら、その原因、理由を語ることによって、結局自分の考えを主張していたからです。苦難を天罰として説明しようとする話は往々にしてこのように、苦しんでいる人に思いを向けるのではなく、自分の主義主張を語るだけのことになります。そういうことによっては、苦難の謎に対する正しい答えは得られないのです。

神の業が現れるため
 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と答えた主イエスは続いて、「神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃいました。この言葉は、この人の苦しみを引き起こした原因を語ってはいません。「神の業がこの人に現れるため」の「ため」は、原因ではなくて目的を示す言葉です。主イエスは、苦難の理由(わけ)を尋ねる弟子たちの問いに対して、その原因ではなくて目的をお語りになったのです。主イエスが苦難の謎を前にして、その理由(わけ)として見つめておられ、また私たちにも見つめさせようとしておられるのは、その苦難が何故起ったかという原因ではなくて、その苦難の中で何が行われるのか、そのことによってその苦難にどのような意味が与えられていくのか、ということなのです。
 この苦難の中で行われること、それは「神の業がこの人に現れる」ことだと主イエスはおっしゃっています。この人の苦しみの現実の中に、神様のみ業が行われ、現されていくのです。苦難の中で神様のみ業が行われ、現される、苦難にはそういう目的がある、と主イエスは言っておられるのです。しかしそこで私たちは勘違いをしないようにしなければなりません。主イエスはここで、一般論として、苦難とはそういうものだ、という話をしておられるのではないのです。この言葉に続いて4節5節にこう語られています。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」。「わたしをお遣わしになった方の業」それが「神の業」です。それを「わたしたち」が行うのだ、と主イエスは言っておられます。しかも、今の内にです。ぐずぐずしている暇はない、まだ日のある今の内に、直ちにそれを行うのです。そう言って主イエスは、6節以下に語られているように、地面に唾をして作った泥をその人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」とおっしゃいました。その通りにしたことによってこの人は目が見えるようになったのです。つまり、この人に現れるとおっしゃった神の業を、主イエスご自身が早速行い、成し遂げられたのです。ですから、「神の業がこの人に現れるため」というのは、神様がそのうち何かみ業を行い、現して下さる、ということではありません。苦難というのはそこに神のみ業が現れるものだ、という一般論でもありません。主イエスご自身が、苦しんでいるこの人に対して、神の業、救いの業をすみやかに行われるのです。「神の業がこの人に現れるため」というお言葉は、この主イエスご自身のみ業を前提として語られているのです。
主イエスによる救いのみ業
 つまり主イエスは、苦難の謎を前にして、その外に立って眺めながら客観的にそれを論ずるということをなさらないのです。苦難の原因について語らないのはそのためでしょう。原因をあれこれ考え語ることは、結局のところ、その苦難の外に立って、他人事として論ずることにしかならないのです。また主イエスが苦難の原因ではなくて目的を語るのも、今申しましたように「苦難の目的とは」と抽象的に論ずるためではなくて、苦しんでいるその人に働きかけ、神のみ業を具体的に行うためです。そのみ業は、生まれつき目の見えないこの人の目を開き、見えるようにする、という癒しのみ業でした。このみ業は大きな波紋を及ぼしていきます。この後のところには、主イエスがなさったこのみ業をめぐって、当時の宗教的指導者だったファリサイ派の人々との間にすったもんだが起り、その中で、主イエスこそ神様から遣わされた救い主であることが明らかにされていったことが語られていくのです。つまりこの癒しのみ業は、主イエスによって成し遂げられる救いを指し示し、主イエスこそ救い主であることを現すしるしとしての役割を果たしています。主イエスによって成し遂げられる救いとは、神様の独り子である主イエスが、苦しんでいる者のために十字架にかかって死んで下さることによって実現しました。主イエスは、罪人である私たちの罪と苦しみとを背負い、私たちの身代わりとなって十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。生れつき目が見えなかった人を癒されたというみ業も、主イエスがこの人の苦しみをご自分の身に引き受け、背負い、身代わりになって死んで下さることによって成し遂げられる救いのしるしなのです。主イエス・キリストは、苦しんでいる人を外から眺めながらその原因を論ずるのではなくて、その苦しみをご自分の身に背負って自らが苦しみ、死んで下さった方なのです。主イエスのこの苦しみと死とによって、神様の救いのみ業が私たちの上に現わされたのです。苦難の謎に直面している私たちに、聖書が見つめさせようとしているのはこのことでしょう。苦難の謎は私たちに、その理由(わけ)を問う思いを引き起こします。しかしそこで私たちが苦しみの原因を知ろうとしても、その答えは得られないし、またそこで私たちが考えることは苦難の謎への正しい答えとはなりません。苦難の謎を前にして私たちが見つめていくべきこと、求めていくべきことは、苦しみの原因ではなくて、その苦しみにおいて神様が、独り子イエス・キリストによってどのようなみ業を行なわれるのか、そのみ業によってその苦しみにどのような意味が与えられていくのか、なのです。私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスが、苦しんでいる人々の苦しみを決して見過ごしにはなさらず、そこに共にいて下さり、苦しみと死を共に担い、引き受けて下さり、そしてそこでご自身の復活による罪と死に対する勝利、新しい命の恵みを示し、与えて下さる、その主イエスのみ業を見つめていくことこそ、苦難の謎を前にして私たちがなすべきことなのです。

私たちを用いて下さる
 そしてそこにおいて、主イエスが4節で「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行なわねばならない」とおっしゃったことの意味が見えてきます。神様のみ業を「わたしたち」が行なうのだと主イエスは言っておられるのです。つまり、ご自分が行なっていく神の業に弟子たちを、そして私たちをも招き、参加させようとしておられるのです。実際には、ここで行なわれた癒しのみ業は主イエスがお一人でなさっています。「わたしたち」とは言われていても、弟子たちが、また私たちが出来ることなどほんのちっぽけな、無きに等しいものなのです。しかし、主イエスは、苦難の中にいる人々の苦しみと死を共に担い、復活の恵みを示し与えていくというみ業を私たちと一緒に行なおうとしていて下さるのです。この主イエスのみ業にほんのわずかでも加えられ、その中で用いられていくことを通して、苦難の理由(わけ)が、その原因ではなくて目的が、意味が、私たちにも示されていくのだと思うのです。

罪の結果としての苦しみ
 さて、苦難の謎に対して聖書が語っていることを聞き取っていこうとする時に、旧約聖書をも読むことが大切です。旧約聖書には、人間の苦難、苦しみのことが多く、また深く語られています。それはこの聖書を生み出したイスラエルの民が、その歴史において多くの苦しみを味わい、体験してきたことによります。苦しみについて語っている箇所が旧約聖書には沢山あるのです。先ほど共に朗読された「哀歌」もその代表的なものです。哀歌は要するに「嘆きの歌」です。これは「エレミヤの哀歌」とも呼ばれており、エレミヤ書の後に置かれています。預言者エレミヤが体験した苦しみとは、神様の民であるはずのユダ王国の、バビロニアによる滅亡と、いわゆるバビロン捕囚の出来事です。バビロニアの軍勢によってエルサレムが陥落し、多くの人が殺され、国が滅ぼされ、重立った人々がバビロンに捕囚として連れ去られてしまう、それは言ってみればバビロニアという大津波によってユダの国が飲み込まれ、多くの人の命が奪われ、全てが押し流されて瓦礫となってしまったという体験です。その苦しみがこの哀歌に歌われているのです。ここを読む時に私たちは、これを歌った詩人が、この苦しみの理由(わけ)を、その原因を、はっきりと自覚していることに気付かされます。1~3節にこうあります。「わたしは主の怒りの杖に打たれて苦しみを知った者。闇の中に追い立てられ、光なく歩く。そのわたしを、御手がさまざまに責め続ける」。詩人は今のこの苦しみを「主の怒りの杖に打たれて」いるのだと言っています。この苦しみは主なる神様のみ業なのだ、ということです。そのことは38節にもはっきりと語られています。「災いも、幸いも、いと高き神の命令によるものではないか」。国の滅亡と捕囚というこの災いも神様の命令によって下されているのです。そして40~42節にこう語られています。「わたしたちは自らの道を探し求めて主に立ち帰ろう。天にいます神に向かって両手を上げ心も挙げて言おう。わたしたちは、背き逆らいました。あなたは、お赦しになりませんでした」。神様からこの災いが下されたのは、自分たちが背き逆らったから、つまり自分たちの罪のゆえにこの苦しみが下されたのだ、と言っているのです。国を滅ぼされ、バビロンに捕囚となってしまったこの苦しみの原因は、神様に対する自分たちの罪にある、と哀歌は歌っているのです。

苦しみの中の望み
 ここに語られていることは、苦しみの原因を論ずることによって苦難の謎に対する正しい答えは得られない、という先ほどヨハネ福音書から読み取ったことと一見矛盾するように見えるかもしれません。しかし、先ほどのことは、「この人が生まれつき目が見えないのは」というふうに、自分は苦しみの外に立って、人の苦しみの原因をあれこれ論ずることについての話でした。ここに語られているのは、自らが苦しみのただ中にいる者の、自分たちの民族が滅亡の危機に瀕している、その苦しみの中心にいる者の思いです。自らが苦しみのただ中にいる者においてこそ、そういう者においてのみ、苦しみの原因を問う問いは意味あるものとなるのです。イスラエルの民は、その苦しみのただ中において、その原因が神に対する自らの罪にあることを見つめていきました。国が破れ滅ぼされたことの原因は、考えようによっていろいろなことに求めることができたでしょう。軍事力が不足していたから、経済力も含めた国力が足りなかったから、周囲の大国との外交的かけひきに失敗したから、国民の愛国心が足りず、我欲に支配されていたから、などと言うことだってできたのです。けれどもイスラエルの人々は、苦しみの原因をそのような周辺的なことにではなくて、主なる神様との関係に、神様を神様として礼拝せず、そのみ心に従わず、神ではなく自分の思いを中心とし、そういう意味で確かに我欲に捕われて神と隣人をないがしろにしてきたという自らの生き方の中心にこそこの苦しみの原因がある、と受け止めたのです。同じように国を滅ぼされた多くの民族が歴史から消えて行ったのに、イスラエルが今日に至るまで民族の独自性を維持することができた秘密がそこにこそあります。苦難の理由(わけ)をこのように受け止めた彼らの間には、先ほど読んだ40節にあったように「わたしたちは自らの道を探し求めて主に立ち帰ろう」という「立ち帰り」が生まれていきました。彼らは、悔い改めてやり直すことができたのです。新しくなることができたのです。そしてそこには、28節以下に語られているような、苦しみ、絶望の中における一筋の希望もまた与えられていきました。28~33節。「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。ここに語られている希望は、神様に依り頼めば救いが得られる、というような単純な話ではありません。我々の背きの罪を赦さず、怒りの杖によって打ち、この苦しみを与えておられる神様のみ手の下で、口を塵につけるようにしてその懲らしめを黙して味わっていくことの中でこそ、その苦しみをお与えになっている神様ご自身の慈しみ、憐れみのみ心が示され、望みが見いだされていくのだ、というのです。その神様の憐れみのみ心を求めて、55~57節には、「深い穴の底から、主よ、わたしは御名を呼びます。耳を閉ざさず、この声を聞き、わたしを助け、救い出してください。呼び求めるわたしに近づき、恐れるなと言ってください」と語られています。自らの苦しみを、罪のゆえに主なる神様ご自身によって与えられている苦しみとして受け止めていく所には、このような望みもまた与えられることを哀歌は告げているのです。
 私たちの人生から苦難の謎がなくなってしまうことはありません。しかし私たちが自らの苦しみの謎に直面して、それを神様のみ手によることとして受け止め、そこで真剣に神様と向き合っていくなら、そしてその神様がご自分の独り子イエス・キリストを遣わして下さり、主イエスが私たちの罪と苦しみとを背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことを見つめていくなら、その苦難の中に神様の救いのみ業が現わされ、望みが与えられていくことを、聖書は私たちに告げているのです。

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