夕礼拝

取るに足りない僕

説教題「取るに足りない僕」 副牧師 川嶋章弘

イザヤ書 第43章1-7節
ルカによる福音書 第17章1-10節

主イエスの教えが集められている箇所
 新しい年を迎えました。昨年12月は、この夕礼拝で聖書が告げる幾つかのクリスマスの物語に耳を傾けてきましたが、本日からは、再びルカによる福音書を続けて読み進めていきます。本日、共に読み進めていくのは17章1-10節です。この箇所では、ほかの福音書で別々の箇所に出てくる主イエスの幾つかの教えが集められています。1-2節では、誰かをつまずかせることについて、3-4節では、自分に対して罪を犯した人を赦すことについて、5-6節では信仰について、そして7-10節では、僕について語られています。小見出しが「赦し、信仰、奉仕」となっているのは、主イエスの教えの内容を並べた苦肉の策なのかもしれませんが、どうしてもまとまりに欠ける印象を受けます。しかし主イエスの幾つかの教えが集められているとしても、ルカ福音書はそれらをばらばらに切り離して語っているのではありません。私たちはルカ福音書の流れを、前後の結びつきを大切にしつつ読み進めていきたいのです。

弟子たちへの教え
 冒頭1節に「イエスは弟子たちに言われた」とあるように、この箇所で語られている主イエスの教えは、すべて弟子たちに向かって語られています。さらに5節には「使徒たち」という言葉が出てきます。復活したキリストに出会った弟子たちが「使徒」と呼ばれますから、本日の箇所の時点では、弟子たちはまだ使徒ではありません。それにもかかわらずルカ福音書がここで弟子たちを「使徒」と呼んでいるのは、ここで語られている主イエスの教えが、教会が誕生した後の時代に使徒とされて歩む弟子たちに向けて語られているからではないでしょうか。主イエスは、後に使徒と呼ばれる弟子たちに向けて、また彼らによって導かれる教会に向けて、そして私たちに向けてこれらの教えを語っているのです。教会の交わりの中で主イエスを信じ、主イエスに従っていこうとする私たちが、どのように生きたら良いのかが教えられているのです。

つまずきは避けられない
 まず主イエスは1節で「つまずきは避けられない」と言われています。信仰生活に「つまずきは避けられない」ということです。信仰を持って生きれば、つまり神様を信じて生きれば、いつも順調にハッピーに生きられるのではありません。誰もが信仰を持って神様を信じて生きる中でつまずくことがあります。このことを主イエスは直視しておられるのです。「つまずき」という言葉は、もともと「罠」とか「落とし穴」という意味の言葉です。私たちは信仰生活の中で、あたかも罠にはまり、落とし穴に落ちるようにして、信仰の活力、信仰者として生きる元気を失ってしまうときがあります。神様から離れてしまいそうになるときがある、あるいは神様を遠くに感じてしまうときがあるのです。主イエスは信仰者であれば誰もが信仰の活力を失ってしまうことがあり、それを避けることはできない、と言われているのです。

兄弟姉妹をつまずかせる
 その上で主イエスは、「それをもたらす者は不幸である」と言われます。先ほどお話ししたようにここで主イエスは弟子たちに、そして後の教会に向かって語っていますから、ここでは教会のメンバーがほかのメンバーをつまずかせることが言われています。主イエスは、「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」と言われました。小さい者とは信仰において弱さを抱えている者、傷つきやすさを抱えている者ということでしょう。教会においてほかの兄弟姉妹を、とりわけ信仰において弱さや傷つきやすさを抱えている者をつまずかせてはならない、その人たちから信仰の活力を失わせてはならない、と主イエスは戒めておられるのです。
 教会の交わりにおいてほかの人をつまずかせてしまうのは、どのようなときでしょうか。なによりも私たちが自分とほかの人を比べて相手の信仰を評価したり裁いたりするときに、その人をつまずかせてしまうのではないでしょうか。自分と相手の信仰を比べて、この人の信仰はしっかりしていないと評価したり、自分の奉仕と相手の奉仕を比べて、自分はこれだけ奉仕しているのに、あの人はなにもしてくれないと思ったりするのです。あるいはキリスト者はこうあらねばならないというような、自分の考えるキリスト者のイメージによって、相手の信仰生活にあれこれ言ってしまうこともあります。面と向かってほかの人の信仰を評価したり裁いたりすることはあまりないとしても、私たちはしばしば本人のいないところで、あるいは心の中で、「あの人はクリスチャンらしくない」とか、「あの人はクリスチャンなのに」という言葉をつぶやいてしまっているのではないでしょうか。教会の交わりの中で、そのようにほかの人の信仰を評価し裁くことによって、その人をつまずかせ、その信仰の活力を失わせてしまうのです。
 自分はむしろ信仰において弱さや傷つきやすさを抱えている者だから、自分がほかの人をつまずかせるよりも、ほかの人が自分をつまずかせてばかりいる、と思うこともあるかもしれません。しかしあえて強い、弱いという言葉を使うとしても、教会のメンバーが信仰の強い者と弱い者にはっきり分けられるわけではないと思います。誰もが信仰において弱さや傷つきやすさを抱え、ほかの人からつまずきを与えられる者であり、しかし同時に誰もが自分の信仰が強いかのように思って上から目線でほかの人の信仰を評価したり裁いたりして、ほかの人につまずきを与えてしまう者なのです。私たちは皆、ほかの人をつまずかせ、傷つけてしまう者、ほかの人の信仰の活力を失わせてしまう者であり、主イエスはそのような私たちに対して「不幸である」と言われているのです。

兄弟姉妹を赦す
 続く3節で主イエスはこのように言われています。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい」。教会の交わりの中で、兄弟姉妹が自分に対して罪を犯したとき、相手を戒め、そして相手が悔い改めれば相手を赦しなさい、と言われているのです。このことは私たちにとってとても難しい問題です。自分に対して罪を犯した人を戒めることができるだろうかと思います。戒めるつもりで裁いてしまうことになりはしないだろうかとも思います。そのことによって相手との関係が損なわれることも恐れます。しかし主イエスが「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい」と言われるのは、教会の交わりがお互いの罪を見て見ぬふりをする交わりではなく、お互いの罪に向き合う交わりだからです。そのように言われると私たちはどう相手の罪を戒めたら良いのだろうかと考えてしまいます。相手の罪を戒めるための良い方法を求めがちなのです。しかし方法を求める前に、私たちは4節の主イエスの言葉に目を向ける必要があります。主イエスは「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」と言われています。3節でも「悔い改めれば、赦してやりなさい」と言われていたので、相手が悔い改めるならば、相手を赦しても良いと言われているように、相手を赦す条件は相手が悔い改めることである、と言われているように思えます。しかし主イエスが4節で言われていることを具体的に思い浮かべれば、そうではないことに気づきます。主イエスは、相手が自分に対して「一日に七回」罪を犯した場合のことを語っています。「一日に」と言われていることが鍵です。一日に七回、相手が自分に対して罪を犯します。一日24時間で計算すれば大体3時間20分おきに相手は自分に対して罪を犯すことになります。そしてその度に、「悔い改めます」、「ごめんなさい」と言って相手が自分のところにやって来るのです。もしそのようなことがあれば私たちは、「悔い改めます」と言っても全然本気で悔い改めていないではないか、「ごめんなさい」と謝っても口先だけではないか、と思うのではないでしょうか。ですからここで主イエスが言われていることの中心は、相手が悔い改めたら相手を赦して良いということではないのです。一日に七回罪を犯して、七回悔い改めたとしても、そのような悔い改めは、その場限りの、口先だけの悔い改めであるかもしれません。しかしそれにもかかわらず赦しなさい、と主イエスは言われているのです。マタイによる福音書で、ペトロが主イエスに何回まで相手の罪を赦したら良いかと尋ねたとき、主イエスは「七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。それは無制限に赦しなさい、ということです。ここでも基本的には同じことが見つめられています。一日に七回自分に対して罪を犯し、七回悔い改めた相手を赦すとは、無制限に相手を赦すことと変わらないのです。私たちは朝に相手が自分に対して罪を犯したら、夜まで根に持ってしまう者です。それどころか翌日も翌々日も、場合によっては何年も引きずってしまう者です。そのように自分に対して罪を犯した相手をなかなか赦せない私たちに、主イエスは、相手が一日に何度自分に対して罪を犯しても、何度でも相手を赦しなさい、無制限に赦しなさい、と言われているのです。

どこまでも赦して生きる中で
 相手をどこまでも赦すことの中でこそ、自分に対して罪を犯した相手を戒めることがなされていくのではないでしょうか。相手をどこまでも赦して生きるときにこそ、本当に相手の罪を戒めることができるし、相手を悔い改めに導くこともできるのです。それは、決してどのような言い方で相手を戒めたら大丈夫だろうかというような方法の問題ではありません。そうではなく私たちキリスト者の生き方の問題です。どこまでも相手の罪を赦して生きるのでなければ、どのような言い方をしても相手を戒めるのではなく裁くことになりかねません。1-2節で言われていたように、相手をつまずかせてしまうことに、相手の信仰の活力を失わせてしまうことになりかねないのです。相手を戒めることが先にあるのではなく、私たちが相手の罪を赦して生きることこそが先にあります。主イエスは私たちが自分に対して罪を犯した相手を赦して生きるよう、それもどこまでも赦して生きるよう求めておられるのです。それは言葉をかえて言うならば、相手を愛して生きるよう求めておられるということにほかなりません。ペトロの手紙一4章8節に「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです」とあります。私たちに何よりもまず求められているのは、心を込めて愛し合うことなのです。

信仰があるかないか
 このように1-4節では、教会の交わりにおいて私たちがほかの人をつまずかせ、その信仰の活力を失わせてしまうことのないように、また自分に対して罪を犯した人をどこまでも赦すように教えられています。しかし私たちはこれらの主イエスの教えを到底守ることはできないと思わずにはいられません。私たちは自分とほかの人を比べて相手を裁き、相手をつまずかせてしまう者です。意識せずに相手をつまずかせてしまい、信仰者としての元気をなくさせてしまうこともあります。また私たちは自分がほかの人に対して犯した罪は忘れてしまうのに、ほかの人が自分に対して犯した罪を根に持ち続けてしまう者です。そのような私たちがこの主イエスの教えを守るためには、今よりももっと大きな信仰が必要なのではないかと思うのではないでしょうか。弟子たちも、あるいは誕生したばかりの教会の人たちも同じように思ったのです。だから5節で弟子たちは「わたしどもの信仰を増してください」と主イエスに言っています。相手をつまずかせず、相手をどこまでも赦して生きるためには、今の信仰では足りないから、もっと信仰を増やしてくださいと願ったのです。この弟子たちの感覚は私たちにもよく分かります。しかし主イエスはこのように言われました。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。「からし種一粒ほどの信仰があれば」と言われているように、信仰は量の問題ではありません。信仰の量を増やせば、信仰を大きくすれば、今は到底できないことでもできるようになる、ということではないのです。では信仰は量ではなく質の問題だ、と言われているのでしょうか。ここで主イエスはそのようにも言われていません。からし種一粒は小さいけれど、それが大きな影響を及ぼすと言われているわけではないからです。ここで主イエスが見つめておられるのは、からし種一粒ほどの信仰があるかないかです。信仰があるかないかが見つめられている。そして信仰があれば、本当の信仰があれば、桑の木に「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くという奇跡が起こるのです。いえ、それよりもはるかに大きな奇跡が起こります。教会の交わりにおいてほかの人をつまずかせず、自分に対して罪を犯した相手をどこまでも赦すという、私たちには到底できないように思える奇跡が起こっていくのです。

主人と奴隷の関係
 量でも質でもなく、信仰があるとはどういうことなのでしょうか。本当の信仰とは何を意味しているのでしょうか。このことが7節以下で、主イエスがお語りくださった僕の話を通して示されます。「僕」と訳されていますが奴隷のことです。ここで主イエスが奴隷や奴隷制度を認めていることには問題があると考えるのは的外れだと思います。主イエスの時代には奴隷がいたのであり、そのことを今の時代の価値観で捉えてもあまり意味がないからです。主イエスは弟子たちにとって身近な、分かりやすい主人と奴隷の関係を用いて語りました。だから主イエスは弟子たちに、彼らのうち誰かに奴隷がいる場合を思い浮かべるよう促したのです。畑を耕すか羊を飼うかする奴隷が畑から帰って来たとき、その奴隷の主人は、「すぐ来て食事の席に着きなさい」とは言わないだろう、むしろ夕食の用意をし、主人が食事を済ませるまで給仕するよう命じ、主人の食事が終わってからその奴隷は食事をするよう命じるだろう、と話されました。そして9節で、「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか」と言われています。奴隷が主人に命じられたことを果たしたからといって、主人は奴隷に感謝しません。それが当り前でした。ですから弟子たちは、自分に奴隷がいたとして、自分の奴隷が命じられたことを果たしたからといって、自分は奴隷に感謝しない、ということがよく分かったと思うのです。
 けれども主イエスが主人と奴隷の関係を通して本当に伝えようとしていることは、神様と弟子たちの関係、神様と私たちの関係です。この関係においては、弟子たちや私たちが主人なのではなく、神様が主人であり私たちは神様の奴隷です。10節でこのように言われています。「あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」。私たちは神様の僕、神様の奴隷です。神様から命じられたことをみな果たしたとしても、それはしなければならないことをしただけなのです。奴隷が主人に雇われているのではなく主人のものであったように、私たちも神様に雇われているのではなく神様のものです。私たちは自分の働きの対価や報酬を神様から与えられるのでも、神様に求めるのでもないのです。これだけたくさん働いたのだからもっと報酬をくださいと思うのは、神様と自分の関係を履き違えているのです。私たちは自分が「取るに足りない僕」であることをわきまえなくてはなりません。神様の「取るに足りない僕」として生きることこそ、私たちに求められている生き方です。信仰があるとは、本当の信仰とは、私たちが神様の奴隷として、「取るに足りない僕」として生きることにほかならないのです。

取るに足りない僕
 「取るに足りない僕」と訳されていますが、「役に立たない僕」(聖書協会共同訳)や「ふつつかな僕」(口語訳)とも訳されます。しかしどの訳も、しっくりこないところがあります。この僕は、主人から命じられたことをすべて果たしたのですから、「役に立たない僕」でも「ふつつかな僕」でもないように思えます。「取るに足りない」というのは「問題にもならない」というような意味ですが、「問題にもならない僕」というのもよく分かりません。訳すのが難しい言葉ですが、「報酬を払うべき価値がない」という意味でとらえるのが良いように思います。私たちは神様が報酬を払うべき価値がない僕、神様から報酬をいただく価値がない僕なのです。私たちはこのことをしばしば忘れてしまいます。自分が神様から報酬をいただいて当然のように勘違いしてしまうのです。しかし私たちは神様に対して報酬を求められるような者ではまったくありません。むしろ神様に背いて、自分勝手に生きている私たちは裁かれて当然、滅ぼされて当然なのです。それにもかかわらず、神様は一方的な恵みによって救われるに値しない私たちを救ってくださり、ご自分のもの、ご自分の僕としてくださいました。共に読まれた旧約聖書イザヤ書43章4節に「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し」とあります。滅ぼされて当然の私たちを、救われるにまったく値しない私たちを、神様は愛してくださり、大切にしてくださり、「あなたは価高く、貴い」と言ってくださり、独り子を十字架に架けて救ってくださったのです。ですから私たちはこの救いの恵みに感謝し、神様の「取るに足りない僕」として、それぞれに与えられている務めを担って、神様のみ業に仕えていきます。そのように生きるときにこそ、私たちは神様の前に何も誇るものがない自分に気づかされ、自分とほかの人を比べることをやめ、ほかの人を裁くのでも、つまずかせるのでもない歩みへと導かれるのです。そのように生きるときにこそ、私たちは神様が自分の罪をどこまでも赦してくださったことに気づかされ、ほかの人をどこまでも赦すよう導かれるのです。神様の「取るに足りない僕」として生きることこそ、主イエスが私たちに求めておられる本当の信仰であり、生き方なのです。
 私たちは確かに「取るに足りない僕」、神様から報酬をいただく価値がない僕です。しかし神様はそのような私たちに、食事の席で主人に給仕して当然の私たちに、逆に給仕してくださいます。この福音書の12章37節にあるように、私たちを「食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」のです。これから私たちは聖餐にあずかります。神様は私たちを聖餐の食卓に着かせてくださり、救われるに値しない私たちのためにキリストが十字架で体を裂き、血を流して私たちを救ってくださった、その救いの恵みを味わわせてくださるのです。新しい年も、私たちはこの計り知れない救いの恵みの中で、神様の「取るに足りない僕」として歩んでいくのです。

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