主日礼拝

今日も明日も、道を進む

「今日も明日も、道を進む」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第118編22-29節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第13章31―35節
・ 讃美歌:57、113、394

エルサレムへの旅
 本日ご一緒に読みますルカによる福音書第13章31節以下のところは、謎のような言葉が連なっていて、何を語っているのか、ちょっと読んだだけでは分からない、という感じがするのではないかと思います。小見出しは、「エルサレムのために嘆く」となっています。エルサレムという町の名前がこの箇所において重要な役割を果していることは読めば見当がつきます。どうしてここに、エルサレムについての話が出てくるのでしょうか。主イエスは今、エルサレムにおられるのではありません。主イエスの活動は、お育ちになったナザレの町を含むガリラヤ地方で始められました。聖書の後ろの付録の中の、「新約時代のパレスチナ」の地図を見ていただけば分かりますが、ガリラヤ地方というのは、この地図の北の方、ガリラヤ湖の西側の一帯です。エルサレムのあるユダヤはずっと南、死海に近い地域です。主イエスはガリラヤの町や村を巡って教えを説き、本日の32節にもあるように、悪霊を追い出したり病気を癒したりしておられたのです。しかしこの福音書の9章51節から、その活動は新しい段階に入っています。そこには、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。ここから、エルサレムへの旅が始まったのです。今読み進めている13章において、主イエスはなおその旅の途上にあります。そのことは先週読んだ22節にも語られていました。そこには「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とありました。主イエスは今、ガリラヤからエルサレムへと向かう旅の途中なのです。

ヘロデの下を去れ
 当時ガリラヤ地方を支配していたのが、31節に出てくるヘロデです。このヘロデのことは9章7節以下にも語られていました。そこを読むと、洗礼者ヨハネを捕え、その首をはねたのはこの人であることが分かります。またそこには、この人が主イエスのうわさを聞いて、「この人はいったい何者だろう」と思い、イエスに会ってみたいと思った、とも語られています。しかしそれは主イエスの教えを受けたいと思ったということではありません。彼は、自分の支配の妨げになるなら、ヨハネを殺したように主イエスをも殺してしまおうと思っていたのです。本日の箇所では、何人かのファリサイ派の人々が主イエスのところに来て、「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」と告げています。ヘロデはいよいよ主イエスを抹殺しようという思いを固めたのです。ここから分かることは、主イエスはこの時まだヘロデの支配している地域におられたということです。だからファリサイ派の人々は主イエスに、その地域から立ち去るように、と忠告したのです。これが主イエスのためを思っての忠告なのか、それともファリサイ派の人々がヘロデの殺意を利用して主イエスをこの地域から追い出そうとしていたのか、それははっきりしません。しかしとにかく彼らは主イエスに、命が惜しかったらヘロデの支配する領域から出て行くようにと言ったのです。

三日目にすべてを終える
 それに対する主イエスのお答えが32節です。主イエスはヘロデのことを「あの狐」と呼んでおられます。狐という動物はどこでも、ずる賢い悪人を例えるのに用いられるようで、狐には気の毒な感じがしますが、それはともかく、主イエスはヘロデにこう伝えなさいとおっしゃいました。「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」。勿論主語は「私は」です。このお言葉が語っているのは、一つには、私が行なっているのは、悪霊を追い出し病気を癒すという、人々を苦しみから救うための業であって、ヘロデの支配を打倒しようとする政治的運動をしているわけではない、ということです。そして、私はあなたがどう思おうと、この業を、これまでと同じようにこれからも変わらずに続けていく、と宣言しておられるのです。そしてもう一つ、ここに語られているのは、「三日目にすべてを終える」ということです。これが謎のような言い回しであるわけですが、この「三日目」には「もうじき」という意味があると考えてよいでしょう。今日、明日、そして三日目ですから「あさって」です。あさってには全てを終える。それは、「今私が行なっているこの業はもうじき終るのだ。だからヘロデよ、心配しなくていい。お前が殺そうとしなくても、私の働きはもうじき終るのだ」という意味であると考えることができます。

預言者として死ぬために
 これが、ヘロデに伝えなさいと言われていることですが、それに続いて主イエスは人々に語っていかれます。33節です。「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」。今日も明日もその次の日も、主イエスは進んで行こうとしておられるのです。「自分の道を」という言葉は原文にはありません。しかし意味を明確にするために相応しい補いであると言えるでしょう。主イエスは誰に強制されることもなく、また脅されて方向転換をすることもなく、ご自分の道をまっすぐに歩いて行かれるのです。その行き先はエルサレムです。主イエスはここで、私は今も、これからも、エルサレムへの道を進んで行くのだと宣言しておられるのです。エルサレムは、もはやヘロデの支配する領域ではありません。そこは当時ローマ帝国の直轄地になっており、総督ポンティオ・ピラトが支配しているのです。そういう意味では、「ヘロデの支配下から立ち去ってください」というファリサイ派の人々の勧めの通りにしようとしている、とも言えます。けれどもそれは、ヘロデによって殺されるのを恐れて、命を守るためにエルサレムへと逃れて行こうとしているのではないのです。そのことを示しているのが、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ」というお言葉です。主イエスは、ヘロデの手を逃れて生き延びるためではなくて、預言者として死ぬために、エルサレムへと向かっておられるのです。

十字架の死と復活と昇天によって
 預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ない」と語られています。しかし旧約聖書に出て来る過去の預言者が皆エルサレムで死んだというわけではありません。ですからこれは、エルサレムで死ななければ本当の預言者とは言えないから、という話ではありません。エルサレムは、主なる神様の民イスラエルの首都です。そこには神殿もあり、神様の民イスラエルの礼拝の中心地です。主イエスの預言者としての、つまり神様のみ言葉を語り伝えるお働きは、最終的にはこのエルサレムでこそなされるべきであり、エルサレムの人々こそ、主イエスの教えを聞くべきなのです。しかしそのことによって何が起るかを主イエスはよくご存知です。主イエスが預言者として神様のみ言葉を語っても、エルサレムの人々は聞く耳を持たず、主イエスとその教えを拒み、十字架にかけて殺してしまうのです。主イエスはそのことを意識しつつ、「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえない」とおっしゃったのです。そしてこれを先ほどの32節の、三日目にすべてを終えるというみ言葉と合わせて読むならば、主イエスは、エルサレムで死ぬことによってすべてを終える、と言っておられたことが分かります。そしてそこから、「三日目に」という言葉のもう一つの意味が見えてきます。それは主イエスの十字架の死から三日目の復活をも指し示しているのです。そしてそこにはさらに、復活から四十日目に主イエスが天に昇られたこと、いわゆる昇天も分ち難く結びついています。十字架の死と復活と昇天はひとつながりの出来事です。これらによって、先ほどの9章51節にあった、主イエスが「天にあげられる」ことが実現するのです。「天にあげられる」ことによって、主イエスの地上におけるみ業が終わるのです。ところで32節の「すべてを終える」の「終える」は、正確に訳せば「完成される」という受け身の言葉です。つまりこれは主イエスがご自分でみ業を完成させ、終える、というのではなくて、そのみ業は神様によって完成されるのです。神様が、十字架にかかって死んだ主イエスを復活させ、天に昇らせて下さることによって、救いのみ業を成し遂げ、完成して下さるのです。その時期が近づいたので、主イエスはそのことが起る場所であるエルサレムへと今向っておられます。イスラエルの民の礼拝の中心地であるエルサレムこそ、このことが起るのに相応しい場だからです。神様による救いのみ業は、神様の民のど真ん中、中心で行われ、完成されるべきであるのです。

エルサレムのための嘆き
 34節以下は、そのエルサレムのための主イエスの嘆きのお言葉です。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」。このお言葉は、主イエスご自身の体験から出たと言うよりも、主なる神様とイスラエルの民のこれまでの長い歴史を踏まえたお言葉であると言うべきでしょう。主イエスご自身は、この福音書の記述によれば、活動を始めてからはまだエルサレムに行ったことがありません。エルサレムの人々に語りかけたことはまだないのです。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」というのは、主イエスをお遣わしになった父なる神様のお言葉です。神様はこれまで繰り返し、エルサレムを中心とするイスラエルの人々を、ご自分の民として、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」、集め、養い、育もうとしてこられたのです。そのために、預言者やその他の人々をお遣わしになったのです。「だが、お前たちは応じようとしなかった」。イスラエルの人々は、主なる神様からの語りかけに応答しませんでした。彼らは預言者たちを殺し、神様から遣わされた人々を石で打ち殺すようなことをしたのです。神様が差し伸べておられる恵みのみ手を振り払い、むしろそのみ手に噛み付いて、あくまでも自分の思い通りに、自由に、自分が主人となって生きようとしたのです。それはイスラエルの人々だけの話ではないでしょう。彼らは私たち人間の代表です。私たちは誰もが皆、彼らと同じように、神様に背き逆らい、私たちを養い、守り、導いて下さろうとするみ手を振り払って、あくまでも自分の思い通りに、自由に、自分が主人になって生きようとしているのではないでしょうか。しかし雛は、めん鳥の翼の下に守られていなければ成長することも、いやそもそも生きることもできないのです。自分の力で、あるいは人間どうしの協力によって生きていくのだ、いけるのだ、と思っている私たちは、自分たちだけでなんとかやっていけると思っているヒヨコのようなものではないでしょうか。その結果私たちは様々なこの世の力に支配され、翻弄されて、自由でも何でもない、主人であるどころかむしろ奴隷のように束縛された悲惨な状態に陥っていくのです。苦しみや悲しみの中で、それを乗り越える力もなく、さりとて忍耐することもできずに絶望に捕えられていくのです。それらは全て、「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」ということの結果なのではないでしょうか。エルサレムのための主イエスの嘆きは、そのまま私たち一人一人に対する嘆きなのです。

滅びへの警告
 最後の35節に、「見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」とあります。これもまた謎のような言葉です。「主の名によって来られる方に、祝福があるように」というのは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編118編26節の言葉です。そしてこれは、この後の19章後半で主イエスがエルサレムの町に入られる、その時に人々が主イエスを歓迎して叫んだ言葉でもあります。そうだとすると、お前たちがこのように言う時が来るまで、とあるのは、主イエスがエルサレムに入られる時まで、ということなのだろうか、とも思います。しかしそのように理解してしまうと、私がエルサレムに到着するまでは、あなたがたエルサレムの人々は決して私を見ることがない、ということになり、意味のない発言になってしまいます。実はルカ福音書において、主イエスがエルサレムに入られた時にこの言葉を叫んで歓迎したのは、エルサレムの一般の人々ではなくて、「弟子の群れ」となっているのです。しかしここで「お前たちがこのように言う時が来るまで」と言われている「お前たち」は弟子たちではありません。ですからここは、主イエスがエルサレムに入られる時まで、という意味ではあり得ないのです。ではその時とは何時のことなのでしょうか。それを考えるためのヒントとなるのは、これが「見よ、お前たちの家は見捨てられる」という言葉と結びつけられていることです。神様が預言者やその他の人々を遣わして、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、イスラエルの民を呼び集めて下さったのに、応じようとせず、その恵みのみ手を拒んだイスラエルの民は見捨てられてしまう、そのことを語る中で、「お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない」と言っておられるのです。主イエスが主なる神様のみ名によって来る時に、この人たちは「見捨てられてしまう」、それは、この世の終わりに主イエスがもう一度来られる、いわゆる再臨の時のことであり、そこで行われる審き、最後の審判のことを言っています。最後の審判においては、神様の語りかけに応答せず、差し伸べられたみ手を拒み、振り払った者たちは、見捨てられ、滅ぼされてしまう、エルサレムのことを嘆きつつ主イエスは、そのことへの警告を語っておられるのです。

今のうちに
 この警告が、先ほどの、今日も明日も道を進み、三日目に、エルサレムにおける死と復活と昇天とによって救いのみ業が完成される、というみ言葉に続いて語られていることに意味があります。主イエスのこのお言葉を聞いている人々は、今、主イエスのお姿を見ているのです。その教えを聞き、悪霊を追い出し、病気を癒しておられるみ業を見ているのです。しかし、その主イエスのみ業は、三日目に、つまりもうじき、終ってしまう。そうしたらもう主イエスのお姿を見ることは、終わりの日の審きの時までできない。その時になってからではもう遅いのであって、見捨てられて滅ぼされるしかない。だから、今のうちに、主イエスのお姿を見、そのみ言葉を聞くことができる間に、神様が差し伸べて下さっているみ翼の蔭に身を寄せなさい。神様の語りかけに応答して、差し出された手を握り返して、救いにあずかりなさい、と主イエスは語りかけておられるのです。「見よ、お前たちの家は見捨てられる」というのは、「お前たちなんかもう地獄行きだ」という滅びの宣言ではなくて、警告です。このままだとこうなる、しかし、今ならまだ間に合う、今のうちに、雛を羽の下に集めるめん鳥のようにあなたがたを救いへと招いておられる主なる神様のもとに立ち返りなさい、と主イエスは人々に、つまり私たちに、語りかけておられるのです。
 このように、主イエスが今日も明日も道を進み、三日目にすべてを終える、というみ言葉は、あなたがたが救いにあずかるための時は限られている、そこにはタイムリミットがある、ということをも語っています。このことは先週読んだ箇所にも語られていたし、先週申しましたように、12章以来繰り返し語られてきたことです。神様はあなたがたを救いへと招いておられる。その救いにあずかるために、善行を積むようなことは全く必要ないし、いかにも信仰者らしい立派な人になる必要もない。ただ神様の招きに応えて、み翼の蔭に身を置けばよいのだ。しかし、この招きに応えることにはタイムリミットがある。その時を失うならば、見捨てられ、滅ぼされることにもなるのだ、ということが、ここでも語られているのです。

神の招きは今も私たちに
 そのタイムリミットはいつなのだろうか、と私たちは思います。三日目にすべてを終える、という言葉がそのタイムリミットを示していると申しました。この言葉は主イエスの十字架の死と復活と昇天とを指しているとも申しました。これらのことによって主イエスは天に上げられ、それによって神様による救いのみ業が完成されたのです。その時点が救いにあずかるためのタイムリミットなのでしょうか。だとしたらそれはもう約二千年前のことですから、私たちなどはとっくの昔に時間切れで救いにあずかることはできない、ということになります。しかしそんなことはありません。もしそうなら、福音書を書く意味もないことになります。しかしルカはこのように福音書を書き、さらにその続きとして使徒言行録をも書きました。そこには、天に上げられた主イエスのもとから、聖霊が弟子たちに降り、この世に教会が誕生し、その教会によって、主イエスの十字架と復活によって成し遂げられた神様の救いが宣べ伝えられ、その福音、救いの知らせを信じる人々が興され、その人々が洗礼を受けることによって聖霊の働きによって教会の一員とされ、この救いの恵みが全世界に広がっていくことが語られています。つまり神様は今も、そのみ翼を大きく拡げて、私たちを神の子として、ご自分のもとに養い守り生かそうとして語りかけ、招いておられるのです。私たちは、その神様からの語りかけになかなか気付かず、またそれを拒み、差し伸べて下さっている手を振り払ったり、その手に噛み付いたりしてばかりいます。「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で撃ち殺す者」とはまさにこの自分のことだ、と言わざるを得ません。しかし主イエスはここで、そのような私たちに「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか」と語りかけておられるのです。この招き、語りかけに対してどうするかは、私たちが決めることです。「だが、お前たちは応じようとしなかった」ということになるのか、それとも、この招きに応えて主イエスによる救いにあずかるのか、それはこれからなのです。私たちにはなお、そのための時が与えられています。しかしその時はいつまでもあるわけではありません。タイムリミットはあるのだ、ということを忘れてしまってはならないのです。けれども私たちがなすべきことは、タイムリミットはいつか、と考えることではなくて、神様が主イエス・キリストの十字架の死と復活によって実現し、私たちにもあずからせようとしていて下さる救いへの招きを見つめ、その招きのみ言葉を真剣に聞いていくことです。そのことの中で、それぞれにとって最も良い時に、神様のこの招きに応えようという思いが、聖霊の働きによって与えられていくのです。

関連記事

TOP