「誘惑に遭わせず」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: 創世記 第3章1-7節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章13節
・ 讃美歌 : 394、360
はじめに
マタイによる福音書第6章にあります、主イエスが教えて下さった「主の祈り」を順番に読みつつ神様の御言葉に聞いております。主の祈りは全部で6つの祈りからなっており、本日の祈りは第6番目の最後の祈りです。前半の3つの神様に関する祈りに続いて、後半の3つの私たち人間に関する祈りです。私たち人間に関する祈りのうちで3番目の祈りにあたります。本日は「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」という祈りです。私たち人間に関する祈りと申しましたが、それは私たちのため、自分のための祈りであるということです。この祈りは私たちがいつも祈っている主の祈りの言葉で言うと「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」ということです。私たちが主の祈りで祈っている言葉では「試み」となっており、聖書の言葉では「誘惑」となっております。また、主の祈りで私たちが「悪より」と言っているところが「悪い者から」となっています。この祈りは主の祈りの全体から見ると、私たち人間に関する部分の祈りであると申しました。本日の祈りの箇所の前の部分は、人間に関する後半の祈りであり「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」となっております。本日の祈りはこの後に続きます。日用の糧、罪の赦しを求める祈りに続いて「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と言われているのです。このことが、日用の糧や罪の赦しと同じように私たちにとって必要なものだ、ということです。この「試み」は聖書の言葉では「誘惑」となっております。「試み」または「誘惑」に陥れば、罪を犯すことになります。罪を犯せば、赦されなければなりません。ここで私たちは試みに遭わないこと、誘惑に陥らないことが日用の糧と同じように必要とまでは考えてはいないのではないでしょうか。罪を犯すことを考えてみると、「我らの罪をもゆるしたまえ。」という祈りが必要なことは分かります。試み、誘惑に負けて罪を犯す時のことを考えてみますと、辛いことであり、誘惑や試みに打ち勝つことは難しいことであったかが分かります。私たちは、断固として罪を犯さないように誘惑には勝ちたいと思います。
神との関係において
この「わたしたちを誘惑に遭わせず」と言うのは「誘惑に入れないように」という字です。しかも「入れないように」という言葉は非常に強い言い方で、絶対に入れないで下さい、という意味です。他の言葉で「途中から止めさせて下さい」という言い方もあるのですが、この言葉の意味は「はじめから、何としてでも入れないで下さい」という言い方なのです。この「誘惑」「試み」と訳されている言葉は、「試験する、テストする」という言葉から来ています。試験、テストをすることによって、そのものがちゃんとしているか、本物であるかを確かめるという意味です。試みられて、鍛えられるということになりますが、人からの評価を受けるということになります。しかし、この祈りは「試みに遭わせず」と、神様に祈り求めています。つまり、神様から来る、神様との関係における「試み」であります。誘惑は誰にもでもあることです。いつでも襲ってきます。誘惑に勝つことが難しいことは、知っております。私たちすべての人間にとって深刻な事実だからです。その内容などは人に相談できることもありますが、誰にも言えないこともあります。人に話せないのであれば、人の助けを受けることもできません。自分ひとりで戦うしかないこともあります。神様との関係、信仰における試みなのです。その試みによって、私たちの信仰の真価が問われていく、試験をされるのです。私たちの信仰がちゃんとしているか、本物であるかどうかが試されていくのです。それであるがゆえに、この祈り「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」という祈り求めが必要なのです。ある人はこの祈りを「差し迫った叫び」と言いました。この祈りの必要性を示している言葉です。そのような誘惑がなぜあるのでしょうか。私たちは試み、誘惑がなければどんなに嬉しいことと思うかもしれません。このような私たちの日々の生活についている誘惑は神がお与えになったものなのでしょうか。だから、こうして神に祈るのでしょうか。誘惑に苦しむとき、そのようになぜ、このような誘惑、試みに遭わせるのかと思うかもしれません。私たちは平穏無事に過ごしている時にはそう思いません。私たちの歩みの中で試みは常にありますが、意識されない試みや誘惑もあります。しかし一度何かつらいこと、苦しいこと、悲しいことがあると、そこに信仰の危機が訪れます。それは一言で言えば、神様の恵みがわからなくなってしまう、ということです。平穏無事な生活の中では、そこに神様の恵みがあると思っていたのが、その生活が失われると、恵みも見失われてしまうのです。そこに試みが起ります。信仰の真価がそこで問われる、テストされるのです。信仰が本物であるかどうかがそこで明らかになるのです。本物の信仰であれば、どのような時も神を信じ、神様が喜びも悲しみを与えて下さると信じることができるのです。悲しい時にこそ、神様を信じ、寄り頼み、そこに支えを見出していきます。私たちは平穏無事な、喜びの時にだけ神様を信じているというのは、本当に信じていることにはならないのです。それでは自分の平穏な生活を失いたくない、そのために神様を利用しようとしているだけになってしまいます。しかし私たちは、そのことが分かっていても、困難、苦しみ、悲しみに出会うと時に、やはり神様の与えて下さる恵みが見えなくなってしまいます。自分の信じている神様とは一体どのようなお方なのであろうか、この信仰は何だったのであろうか、と思うようにもなってしまうのです。苦しみがそのようにして信仰の試みとなってしまうことがしばしば起こるのです。信仰の試みとなる苦しみは、物理的な仕方で起こることもあります。また人間関係においても起ることであります。それは教会の中でも起こります。信仰の試みです。私たちの信仰の真価が問われているのです。前回の、主の祈りの第五の祈り、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すことく、われらの罪をも赦したまえ」とあります。この祈りを本当に祈ることができるかどうかを、私たちはこのような試みの中で問われているのです。神の恵みが見えなくなってしまう。私たちは日々そういう信仰の試みの中に置かれているのです。
神から引き離そうとする力
試みとは私たちを信仰から、神様から引き離そうとする誘惑です。私たちの深刻な誘惑は、神様が与えて下さる恵みから私たちを引き離すことです。神様のもとで生きることをやめさせようとする「罪に至る」誘惑なのです。先ほどお読みした旧約聖書の創世記第3章において「誘惑」について語っております。ここでは最初の人間アダムとエバが蛇の誘惑に負ける話です。信仰における試みの本質がここに描かれています。まず蛇は「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と言います。神様は、人をエデンの園に住まわせ、そこに生えている木の実を自由に食べてよいとおっしゃいました。ただ、園の中央にある「善悪の知識の木」の実だけは食べてはいけないと言われたのです。このことは、神様の下で生きる人間の本来の姿とその生活を象徴的に表わしています。神様の下で生きる人間は、神様の豊かな恵みに養われているのです。そして神様は人間に、大きな自由を与えておられます。その中に、一つの小さな禁止、これだけはしてはいけない、ということがあるのです。神様の下で人間は、大きな自由を与えられて生き生きと、のびのびと生きることができるのです。そしてそこには一つの小さな禁止があります。ここを踏み越えてはならないという一線があるのです。それが、神様の下での人間の本来の生活でした。ところが蛇はそのことをよく知った上で、「園のどの木からも食べてはいけない」と神が言っているかのように語りかけてくるのです。蛇の言おうとしたことは、そんなひどいことを言う神を信じているのか?神のもとで生きることは窮屈な、何の自由もない生活ではないか、そんな生活はさっさとやめたらどうか、と言うことです。人間はこの蛇の誘惑に最初は抵抗して「いえそんなことはありません」と言いますが、今度は別のことを言ってきました。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」。善悪の知識の木の実を食べても、死ぬことはない、神がそれを食べたら死ぬと言っているのは嘘だ、あなたがたがそれを食べてしまうと、あなたがたも神と同じように善悪を知る者となってしまうから、つまり神と対等の者になってしまうから、そうさせないために神はこれを食べるなと言っているのだ。神はあなたがたをいつまでも自分の下に、奴隷のように縛りつけておくために、あの木の実を食べるなと言っているのだ。神の下で、神を信じて生きるというのはそのように不自由な、束縛された生活だ、そんなことはやめて神から自由になったらよいではないか。この実を食べてしまえば、あなたがたは神と対等になり、自由になれる。何でも自分の思い通りにできるようになるのだ。それが蛇の誘惑の意味です。蛇が言っていることは一貫しています。神を信じて、従っていても、何もよいことはなく、つらい苦しい不自由な生活でしかない、と言うのです。神から自由になって、自分の思い通りに生きたらよいではないか、と蛇は誘惑します。人間はこの誘惑に負けて、禁断の木の実を食べてしまったのです。これが試みの本質です。私たちは、様々なことによって試みを受けますが、その中でも1番の誘惑は苦しみ悲しみに出会う時に、神様の恵みが見えなくなってしまうことです。神様は本当に存在するのか、神様を信じていても何にもならない、何もよいことはない、束縛されるばかりで、本当の助けにはならない、だからそんなことはやめてしまえと思ってしまうことです。私たちを、神様から引き離し、神様のもとで生きることをやめさせ、自分が主人となって、自分の思い通りに歩ませようとする誘惑を、私たちは日々受けているのです。
悪より救い出したまえ
そのような、中でこの祈りの後半の「悪より救い出したまえ」とはどのような意味を持つのでしょうか。単に何かの悪、悪いことをしてしまわないように、という祈りではありません。聖書では、「悪い者から救ってください」となっています。「悪」とも訳せるし、「悪い者」とも訳せる言葉が原文には使われております。しかし内容から言えばこの祈りは、「悪いことをしてしまわないですむように」というよりも、「私たちを神様から引き離そうとする悪い者の誘惑から守ってください」ということなります。そういう意味では、「悪い者から救ってください」というこの訳はよいと思います。その場合の「悪い者」は、「悪い人」というだけではなくて、まさにアダムとエバに語りかけたあの蛇に象徴されているサタン、悪魔のことが意識されます。悪魔は、私たちの心に、様々な機会を用いて、神様を信じることは無意味で、束縛でしかないと、ささやいてくるのです。神の支配に生きることをやめて自由になったらよい、自分の思い通りに生きたらいい、とささやきかけてくるのです。そのような悪魔の力から救い守ってくださいと祈り求めるのがこの祈りなのです。
主と共に
主イエス・キリストは私たちに、このような試み、誘惑に遭わせず、悪い者から救ってくださるように神様に祈り求めることを、教えて下さいました。それは、主イエスが、私たちの弱さ、私たちの信仰の脆さ、不確かさをよくご存じだったからです。そのために心を配って下さるお方なのです。試み、誘惑に打ち勝つ力を与えて下さいと祈るように教えられているのではありません。「遭わせず」とは、できればそこから逃げたい、戦わないで済ませたいということです。主イエスは私たちの弱さを配慮して、このように祈ることを教えられました。しかしそう祈ったからといって、それで私たちの歩みから、試みが、誘惑がなくなってしまうことはありません。この祈りさえ祈っていれば、試み、誘惑に遭わずにすむ、ということではないでしょう。私たちが神様を信じ、主イエスに従って生きていこうとする時に、そこには必ず様々な試みが、誘惑があります。それならば、この祈りを祈る意味はどこにあるのでしょうか。私たちが試み、誘惑にさらされつつ生きるその歩みに、主イエス・キリストが共にいて下さるため、ということなのです。主イエスが共にいて下さるとはどういうことでしょうか。コリントの信徒への手紙一の第10章13節にこうあります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」主イエスが共にいて下さるとはこのように試練と共に耐えられる、逃れる道をも備えていて下さるということです。主が共にいて下さることとは、主イエスが道を指し示して下さるといことです。
主が祈られ、歩まれた道
主イエスはいよいよ十字架の苦しみと死とに向かおうとしておられた時、ゲッセマネで、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。それは、迫って来ている苦しみと死とを受けないですむようにして下さいということです。主イエスの、神の子としての、父なる神様に従っていく者としての真価が問われるような場面であったのです。その試みを前にして主イエスも、「試みに遭わせないで下さい」と神様に祈られました。主の祈りは、主イエスが私たちのために教えて下さった祈りであるだけではなく、主イエスご自身の祈りでもあるのです。私たちは、主イエスご自身が祈られたその祈りを、主イエスと共に祈っていくのです。そして主イエスは、このように祈りつつ、しかし父なる神様のご計画に従って、十字架の苦しみと死とへの道を歩み通されたのです。つまり試み、誘惑に打ち勝ち、父なる神様への信仰を、服従を貫かれたのです。そのことを通して、私たちの救いが実現しました。私たちの救いは、主イエスが試み、誘惑に打ち勝って神様への服従を貫いて下さったのです。
主の祈りを教えられ、それを祈りつつ私たちは信仰の生活を歩みます。しかし、そこには様々な試み、誘惑があります。私たちを神様から引き離し、その恵みを見えなくさせ、神様を信じることが束縛であり、信じないところにこそ自由があるかのように思わせようとする力が働きます。私たちは弱い者であるがゆえに、自分の力で試みに打ち勝てる者ではありません。そのような私たちのために、主イエス・キリストは独り、試みに打ち勝って十字架の死への道を歩み通して下さったのです。試みに負けてしまう私たちが、この主イエスの十字架の死によって、赦され、信仰者として立てられていくのです。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という祈りは、私たちが試みに満ちたこの世を、この主イエス・キリストと共に歩んでいくための祈りです。主イエスが教えて下さり、主イエスご自身も祈りつつ歩まれたこの祈りを、私たちも共に祈りつつ歩むことによって、私たちの信仰の歩みが、主イエス・キリストと共なる、主イエスに支えられた歩みとなるのです。この祈りを祈ることなしに生きるならば、私たちは、様々な試み、誘惑と自分一人で戦っていくことになります。勝ち目のない戦いです。アダムとエバも、蛇の誘惑に負けてしまいました。人間の現実であります。主イエスはただ一人、試み、誘惑を退けて、父なる神様のみ心に従い通されました。この主イエスが共にいて支え導いて下さることを祈り求めつつ生きることによって、私たちは、試み、誘惑と戦っていくことができます。また、その戦いに敗れてしまうことがあっても、もう一度神様のもとに立ち返ることができるのです。私たちは弱い者ですから、試みを受けることによって神様の恵みを見失ってしまうことがあります。神様を信じて生きることが不自由な束縛された人生であるように思ってしまうことがあります。しかしそのような私たちのために、そのような私たちに代わって十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストにこそ、神様の恵みは確かにあるのです。この主イエスの父なる神様のもとでこそ、私たちは本当にまことの自由な人生を生きることができるのです。