主日礼拝

悔い改めの実

「悔い改めの実」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: ハバクク書 第3章17-19b節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第13章1-9節
・ 讃美歌:4、440、539

ちょうどそのとき
 ルカによる福音書第13章は、「ちょうどそのとき」という言葉で始まっています。ちょうどそのとき、とはどういう時だったのでしょうか。9月の第一主日に12章54節以下を読みました。そこには主イエスがご自分のもとに集まって来た群衆たちに対してお語りになった教えが記されていました。この54節以下で主イエスがお語りになったのは、あなたがたは今、自分の罪が裁かれる裁きの場へと向かっているのだ、ということでした。それを裁くのは勿論神様です。あなたがたの罪を裁く方である神様のみ前に立たなければならない時が来る、そのことをしっかりと見つめて、それに備えていきなさい、と主イエスはお語りになったのです。このことが語られたちょうどその時、何人かの人が来て、あることを告げたのです。

悲惨な出来事
 その人々が告げたのは、「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたこと」でした。これについては少し説明が必要でしょう。先ずピラトですが、この名前は既に3章1節に出てきました。これから語られていく主イエス・キリストの出来事は、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督だった時に起った、と語られていたのです。ピラトはローマ帝国のユダヤ総督です。このピラトのもとで、主イエスは十字架につけられていくのです。そのピラトは、ユダヤ総督としてかなり残虐なことをしたことが記録に残っています。この1節に語られていることは記録には残っていませんが、ピラトならこういうこともしただろう、と多くの人が考えています。「ガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」というのは、文字通りに読めば、ガリラヤ人たちを殺してその血を動物のいけにえの血に混ぜた、ということになりますが、そういうことではなくて、ガリラヤ人たち、それはガリラヤ地方に住むユダヤ人のことですが、その人々が神殿で動物のいけにえをささげて礼拝をしようとしていた時に、その境内でその人々を殺した、ということだと思われます。神殿で殺されたことが、その血がいけにえの血に混ぜられた、と表現されているのです。そのようにして、神様を礼拝しようとしていたガリラヤ人たちが、事もあろうにその礼拝の場で、ピラトによって無惨に殺されてしまった、という出来事が主イエスに伝えられたのです。

神の裁き?
 この人々はどのような思いでこのことを主イエスに伝えたのでしょうか。その思いは、2節から3節における主イエスの答えの言葉から推察することができます。主イエスは「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない」とおっしゃいました。つまりこの出来事を伝えた人々は、礼拝中に殺されてしまうような災難に遭ったこのガリラヤ人たちは、他の多くの人々よりも特別に罪深い者たちで、その罪に対する神様の裁きとしてこのような罰を受けたのだろう、と思っていたのです。この点で、先ほど申しました12章の終わりのところと話がつながります。つまり主イエスが、罪に対する神様の裁きのことを語り、その裁きを覚えて今からしっかりと備えをしておくようにとおっしゃるのを聞いたこの人々が、そういえばまさについ先頃、その神様の裁きを受けて滅ぼされた人たちがいます、ということでこの話をしたのだろうと思われるのです。「ちょうどそのとき」という1節の言葉は12章の終わりのところとのそういう内容的なつながりを言い表しているのです。
 この人々の思いは、もっと一般化して言うと、悲惨な目に遭った人は神様に裁かれたのであって、自分の犯した罪の罰を受けたのだ、ということです。こういう考え方を、因果応報の教え、応報思想と言います。それは、全ての事柄は神様のご支配の下にあるという信仰と共に、物事には必ず原因があって結果があるという、ある合理的な考え方に基づいています。だから、悲惨な出来事、不幸は神様の裁きによることであり、そのような目に遭う人には、それ相応の罪があったに違いない、ということになるのです。ですからここに語られている出来事に即して言えば、神殿で礼拝をささげている最中に殺されてしまったあのガリラヤ人たちは、実は大変罪深い人々だったに違いない、神様に犠牲をささげるという敬虔な行為を装っていても、神様は全てをお見通しで、彼らの隠された罪をあのような仕方でお裁きになったのだ、ということになるのです。これを告げた人々は、主イエスが、あなたがたはいつか神様の裁きの前に立たなければならないのだ、と語られたのを聞いて、「確かに神様は、人間の目には隠されている罪もきちんとお裁きになる方ですね」、という思いでこのことを語ったのです。

応報思想を否定する主イエス
 ところが主イエスは、彼らのこのような思いに対して、「決してそうではない」ときっぱりと否定しておられます。そして4節において、今度は主イエスの方から、やはり最近起ったある出来事を持ち出されたのです。それは、シロアムの塔が倒れて18人の人々が死んだ、という事故のことでした。ヨハネ福音書に「シロアムの池」というのが出て来ます。「シロアム」とはそこのことでしょう。エルサレムの町はもともと水源が不足しており、敵に包囲されるとお手上げだったのですが、ヒゼキヤ王が、城壁の外にあった「ギホンの泉」から「シロアムの池」までのトンネルを掘らせ、水源を確保したのです。その場所にあった塔が倒れて18人が死んだという事故のことは、この箇所にだけ語られており、他の歴史史料には出て来ません。ちょうどこの頃、その事故の記憶が生々しかったということでしょう。こういう事故も、応報思想によれば、そんな不慮の事故で死んだ人々は他の人々よりも罪深い者だったに違いない、ということになるのです。しかし主イエスは、この人々が「エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない」とおっしゃいました。二つの悲惨な事件や事故を取り上げて、このような悲惨な死に方をした人々は特別に罪深い者たちだったという応報思想を否定しておられるのです。
 この応報思想は、人間の心の中に自然にあるものだと思います。私たちは、自然災害や事件、事故のニュースを聞く時、どうしてこんなことが起るのか、なぜこの人々はこのようなことで死ななければならなかったのか、という疑問を抱きます。そしてそこで、その人々が特別に罪深い人々だったからバチが当たったのだ、と説明できるならある意味でほっとします。しかしそのような説明ができないと、納得できず、「神様はなぜこんなひどいことをなさるのか」という疑問ないし抗議の思いを抱きます。そしてそのような苦しみ、悲惨な出来事が自分にふりかかって来た時には、「私がいったいどんな悪いことをしたというのか」という怒りやいらだちを覚えるのです。これらは全て、罪に対する罰という因果応報の関係が成り立っているべきだ、という思いから生じていることです。そうでなければ納得できない、という思いが私たちの中にはあるのです。神様がこの世の全てのことを支配し導いておられる、と信じれば信じるほど、この疑問は深くなると言えるでしょう。
 主イエスは、私たちの中にもあるこのような応報思想に対して、「それは違う」とおっしゃいます。その代表的な箇所が、ヨハネによる福音書の第9章のはじめのところです。生まれつき目が見えない人について、弟子たちが、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねたのに対して主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」とおっしゃったのです。つまり、誰かの罪の結果、罰としてこのような苦しみ、不幸が生じているのではない、そこには因果関係はない、ということです。不幸や悲惨な目に遭っている人がいる時に、あの人は自分の犯した罪の罰を受けているのだとか、先祖の罪のバチが当たったのだなどと考えるべきではない、と主イエスは繰り返し語っておられるのです。

苦しみの原因を求めるのではなく
 それではなぜこんな悲惨な出来事が起るのか、と私たちはさらに問いたくなるわけですが、本日の箇所において主イエスはその答えを語ってはおられません。つまりあのガリラヤ人が殺されたのは何故かとか、シロアムの塔が倒れて死んだ人々はなぜそんな目に遭ったのかということは語られていないのです。主イエスがこの二つの出来事を通して語っておられるのは、「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」ということです。二度繰り返されているこのみ言葉こそ、主イエスがここで語ろうとしていることの中心です。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」、これは私たちの思いを大きく転換させようとするお言葉です。私たちは、悲惨な出来事を見聞きする時に、あるいは自分がその中に陥る時に、「なぜ」と問います。理由や原因を知ろうとするのです。そしてその理由が納得できるとかできないとか言うのです。しかし主イエスは、あるいは聖書全体はと言ってもよいのですが、苦しみの理由や原因を示そうとはしません。それは、納得できる理由を見出すことが、苦しみの解決や救いになるわけではないからです。主イエスが、そして聖書が私たちに教え示して下さるのは、原因や理由ではなくて、その苦しみの中で私たちが歩むべき道、目指すべき方向です。それは具体的には「悔い改める」ということです。

悔い改めるとは
 ただしここで誤解をしないようにしなければなりません。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」というお言葉は、神様に裁かれて滅ぼされないですむためには、あるいは神の裁きによる苦しみから逃れるためには、自分の罪を認めて悔い改めることが必要だ、ということではないのです。もしそうなら、罪を犯す者はその報いとして滅びや苦しみを受け、悔い改める者はその報いとして救われる、ということになり、同じ応報思想を語っていることになります。滅びの原因は罪であるということと、救いの原因は悔い改めであるというのは同じことの裏と表なのです。主イエスがここで言っておられるのはそういうことではありません。主イエスは、苦しみの原因や理由をさぐり、それを取り除くことで救いを得ようとするのではなくて、自分自身の心をしっかりと神様に向け、神様と相対しなさい、と言っておられるのです。悔い改めるとはそういうことです。つまりそれは、それまで神様から顔を背け、あさっての方を向いていた心を、神様の方へと向き変えること、神様と正面から向き合うことです。苦しみの中での救いは、苦しみの原因を探り求めることによってではなくて、神様と本当に向き合うことによってこそ与えられるのです。
 このことは、旧約聖書の「ヨブ記」が語っていることでもあります。今、壮年会において「ヨブ記」を学びつつありますが、ヨブはある日突然苦しみのどん底につき落とされてしまいます。それはヨブが何か罪を犯したからではありません。原因は全く別のところにあるのです。しかしそこに友人たちが現れ、「お前がこのような苦しみに遭っているのは何か罪を犯したからだ。その罪を認めて悔い改めよ。そうすればまた幸せになれる」と言います。つまり、応報思想に基づく悔い改めを勧めるのです。しかしヨブはそれに激しく反発します。この苦しみの原因は自分の罪にあるのではない、神が何の理由もなく自分を苦しめているのだ、と言って、神様に抗議し、神様を断罪していくのです。そのヨブは最後に悔い改めます。しかしそれは自分の苦しみが罪の報いだったと認めてその罪を悔い改めた、ということではありません。主なる神様ご自身が彼の前に現れ、語りかけて下さったことによって、彼は、神様こそが主であり、この世界と自分とを支配しておられる方であることを認めたのです。言い換えれば、自分が主人ではないことを認めたのです。それが悔い改めです。本当に悔い改めるとは、自分の理屈、人間の理屈によって納得できるとかできないとかいうことをやめて、主なる神様のご支配を認め、それに服するようになることです。そういう本当の悔い改めは、したり顔で神様の正しさを説き、苦しみは罪の結果だから悔い改めよと教える友人たちにではなく、神様と正面から向き合い対決していったヨブにこそ起る、ということをヨブ記は語っているのです。主イエスもここで、応報思想における罪の報いとしての滅びをきっぱりと否定し、苦しみの原因を問うのではなくて悔い改めるようにと教えることによって、ヨブのような、神様としっかり向き合うところにこそ与えられる悔い改めを求めておられるのです。

ぶどう園のいちじくのたとえ
 さて、新共同訳聖書は、5節と6節の間に段落を設け、小見出しを置いているので、そこのつながりがはっきりしなくなっていますが、「そして、イエスは次のたとえを話された」と始まる6節以下は5節とつながっています。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と語られた主イエスが、そのみ言葉によって語ろうとしておられることをさらに明確にするために、一つのたとえ話をお語りになったのです。それはぶどう園に植えられた一本のいちじくの木の話です。何故ぶどう園にいちじくの木なのか、ということについて、注解書にはいろいろな説明がなされているし、そのことに象徴的な意味を読み込もうとする向きもあります。しかしこのたとえ話のポイントはそこにはありません。大事なことは、このいちじくの木が、植えられてからもう3年になるけれども、実を実らせたことがない、ということです。ぶどう園の持ち主は、7節にあるように「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ている」のです。しかし「見つけたためしがない」。ここには、この主人が、いちじくの木の実りを期待していることが示されています。ぶどう園の目的はぶどうを栽培してぶどう酒を得ることですが、この主人はそこにいちじくの木をも植え、それが実を実らせることを願っているのです。このいちじくの木の実り、それは主イエスが人々に求めておられる悔い改めを象徴しています。この福音書の3章8節には、洗礼者ヨハネが人々に「悔い改めにふさわしい実を結べ」と語った言葉が記されていました。本当に悔い改めるなら、そこにはそれにふさわしい実りが、目に見える仕方で生じるのです。主イエスも、その悔い改めの実を求め、期待しておられます。しかしこのいちじくの木は、三年待ったけれども一度も実を実らせていない。それは、なかなか悔い改めようとしない頑な私たち人間の姿です。そのようないちじくの木に対して主人は怒り、「だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」と言います。ここに、悔い改めようとしない私たちに対する神様の怒りと裁きが語られています。それは主イエスが12章の終わりで語っておられた、裁判官のもとに連れて行かれ、裁かれて牢に入れられ、最後の一レプトンを返すまでそこから出ることはできない、というのと同じことです。そのような判決を受ける裁きの場へとあなたがたは向かっているのだ、という主イエスの警告がここにもあります。悔い改めて神様こそが主であられることを認めようとしない私たちは、神様の怒りと裁きへの道を歩んでいるのです。

園丁の執り成し
 しかしここには「園丁」が登場します。土地を無駄にふさいでいるこのいちじくを切り倒せと言う主人に対してこの園丁が、「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と言うのです。主人の、つまり神様の怒りと裁きを前にして、切り倒されそうになっているいちじくの木のために執り成しをする園丁、それは、悔い改めようとしない罪人である私たちのために、父なる神様との間に立って執り成しをして下さる主イエス・キリストです。この園丁、主イエスの執り成しのおかげで、私たちはなお切り倒されずに、裁かれて滅ぼされずに歩むことが許されているのです。園丁は、「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と言っています。このいちじくが実を実らせるように、一生懸命世話をしてくれるのです。主イエスが私たちのためにして下さったことはこれ以上です。主イエスは私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。つまりご自分の命を、私たちのための肥やしにして下さったのです。そのようにして、私たちが実を実らせるように、つまり、悔い改めて神様のもとに立ち帰るように、道を開いて下さっているのです。このたとえ話は、神様が、私たちの悔い改めを、忍耐して待っていて下さるお姿を語っていると言うことができます。主イエス・キリストによる救いのみ業の根本には、父なる神様の忍耐のみ心があるのです。この話がぶどう園のいちじくの木の話であることも、それを表していると言えると思います。これがぶどう園のぶどうの木だったら、三年も実を実らせない木をさらに来年まで待つなどということはあり得ません。もうとっくに切り倒されていたでしょう。いちじくの木だからこそ、これだけ待ってもらえるのです。神様は、今も、忍耐してあなたの悔い改めを待っておられる、そのことを主イエスはこのたとえ話で語っておられるのです。
 しかし同時にこのたとえ話は、待つことには限りがあることをも語っています。もう三年待ったのです。来年もなお実を実らせないなら、その時は切り倒される。いよいよその期限が迫ってきているのです。それが、「あなたがたは今、自分の罪が裁かれる裁きの場へと向かっているのだ」という12章の終わりのところの教えです。神様の裁きの前にいつか立たなければならないことを見つめて、そこで裁かれて切り倒されてしまわないように、今のうちにしっかり備えをしなさい、と主イエスは教えておられるのです。

悔い改めに生きる
 その備えとは、悔い改めることです。それは先ほども申しましたように、自分の素行を改めるとか、罪を犯さないように気をつける、というようなことではありません。そういうことは悔い改めの実りとして生じることであって、悔い改めそのものは、神様こそ自分の主人であることを認め、その神様としっかりと向き合うことです。それは決して簡単なことではありません。私たちは、神様と向き合うのではなく、自分のことばかりを見つめています。自分の苦しみや悲しみ、嘆きのみを見つめ、そのために因果応報の教えに捕われ、苦しみの原因を見出してそれを取り除こうと必死になり、その結果神様を恨んだり、あるいは神様がいるのにこんな悲惨なことが起るなんて納得できない、とますます神様からそっぽを向いていくのです。また自分のことばかりを見つめている私たちは、自分と他の人を見比べて、自分を誇り人を蔑んでみたり、劣等感にさいなまれて人を妬んだりと、常に一喜一憂しています。そこには、平安も、喜びも、慰めも、本当には得られないのです。私たちは、この自分のことばかりを見つめている目を、神様の方に向き変えることがなかなか出来ません。まことに頑なな、悔い改めようとしない私たちなのです。しかしそのような私たちのために、神様の独り子であられる主イエス・キリストが人間となって下さり、十字架にかかって死んで、復活して下さいました。この主イエスによって、私たちが悔い改めて神様と向き合って生きる者となるための道が開かれたのです。主イエスが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪を赦して下さる神様の恵みが示されました。本日はこれから聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯にあずかることによって、私たちは、主イエス・キリストが十字架にかかって肉を裂き、血を流して私たちの罪の赦しを成し遂げて下さったことを心と体の全体で味わいます。主イエスのこの恵みに背中を押されて、私たちは悔い改めることができるのです。自分自身から目を離し、神様の方に顔を向けていくことができるのです。そこに見えてくる神様のみ顔は、怒りをもって私たちを裁こうとしておられる厳しい顔ではありません。私たちの悔い改めを忍耐しつつ待っていて下さり、罪を赦し、喜んで迎え入れて下さる父としての愛のみ顔です。私たちは苦しみや悲しみの中で、このみ顔を見失ってしまうようなこともありますけれども、しかしその中でも、神様に向き合って、ヨブのように真剣にそのみ心を求めていく時に、神様ご自身が私たちにみ顔を示して下さり、悔い改めて神様と共に生きる者として下さるのです。そこにこそ、苦しみや悲しみの中にあっても支えられ、慰められ、平安を与えられて生きる道があるのです。

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