夕礼拝

わたしが行って

「わたしが行って」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第55章8-11節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第8章5-13節
・ 讃美歌 : 202、467

主イエスに近づいて
 本日は共にマタイによる福音書第8章5節から13節をお読みしたいと思います。マタイによる福音書の第8章と9章とは、主イエスの御業、特に主イエスが病気を癒したり、悪霊を追い出すという御業が語られております。本日の箇所は、小見出しにもありますように「百人隊長の僕をいやす」という主イエスの御業が語られております。5節をお読みしますと「さて、イエスがカファルナウムに入られると」とあります。カファルナウムの町とは主イエスがガリラヤにおける伝道の根拠地としておられた場所です。14節以下にあるように、カファルナウムには弟子のペトロの家があり、主イエスはその家を定宿としておられました。主イエスは7章までの「山上の説教」を語り終えられて、山を降りられカファルナウムにあるペトロの家へと帰って来られました。そこにある「一人の百人隊長が近づいて来て懇願し」たのです。百人隊長とは、ローマの軍隊において、百人の部隊を率いる下級将校です。今はパレスチナと呼ばれるこの地には、ローマ帝国の軍隊が常駐していました。実質上はローマがこの地域を支配していたのです。その部隊がガリラヤのカファルナウムにもいました。その百人隊長であるこの人は、当然ユダヤ人ではなく、異邦人です。ただ、ローマ人であったとは限りません。ローマは、帝国に組み入れていった各地の人々を軍隊に取り込んでいきましたので、ローマ以外の地の出身者である可能性も強いのです。しかしいずれにしても異邦人であることは確かです。その百人隊長が、主イエスのもとに近づいて来たのです。本日の箇所の前の場面では重い皮膚病を患っている人が「イエスに近寄り」とありましたが、それと同じ言葉がここに用いられています。皮膚病を患っている人が、主イエスに近づいたのです。主イエスと、その背後には従って来ている多くの群衆がいるとありますから、そこに近寄ることは大変なことなのです。この百人隊長が主イエスに近づいて来たことも、別の意味で大変なこと、驚くべきことであると言えるでしょう。百人隊長は主イエスに近づき、更に主イエスに懇願したのです。百人隊長は「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言いました。百人隊長は主イエスに、自分の僕の救い、癒しを願いました。異邦人が、しかもユダヤ人たちを今支配しているローマの軍人が、つまりユダヤ人たちにしてみれば、自分たちを支配し、自由を奪っている敵の一人が、ユダヤ人である主イエスにこのように救いを求めることは普通はあり得ないことなのです。驚くべきことであったのです。重い皮膚病を患っている人が主イエスに近寄っていったことも、この百人隊長が主イエスに近づいていったことも、どちらも驚くべき出来事だったのです。

7節の訳し方
 主イエスは、彼の懇願を聞いて、7節ですが「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。しかしこの言葉は、このように訳すのがよいのか、議論があるとことです。別の解釈の仕方をするとこの箇所は、「わたしが行って彼をいやすのか」という疑問文にもとれるのです。そうするとこの部分は、「わたしに行ってあなたの僕を癒せと言うのか」という意味になります。その意味は「そんなことはできない」という拒絶の言葉に取れるのです。主イエスは「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われたのか、または「そんなことはできない、しない」と拒絶されたのか、ということでは正反対の読み方になります。このことは、文法上からのみ言われていることではありません。この話を、この同じマタイによる福音書の15章21節以下の話と重ね合わせて読む時に、「わたしに行ってあなたの僕を癒せと言うのか」という拒絶の言葉として読む必然性が見えてくるのです。15章21節以下には、主イエスがティルスとシドンの地方に行かれた時のことが語られています。そこで一人のカナンの女が、悪霊に苦しめられている自分の娘の癒しを主イエスに願ったのです。カナンの女とは、つまり異邦人のことです。その女の願いを聞いた時、主イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言いました。つまりこの女の願いを拒絶されたのです。イスラエルの家、つまりユダヤ人のために自分は遣わされているのであって、異邦人に救いを与えるのは私の任務ではない、ということです。さらに主イエスは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われました。ユダヤ人は子供たちであるのに対して、異邦人は小犬だというのです。主イエスがそのように異邦人からの救いの願いをある意味で大変冷たく拒絶されたことと合わせて考えるならば、同じ異邦人の願いを、この8章において「わたしが行っていやしてあげよう」と言われたとは考えにくいのです。ここでは「わたしに行っていやせと言うのか、そんなことはできない」という意味にとった方がよいのではないかと思うのです。

一言
 また、この7節の読み方によって、8節の百人隊長の言葉の持つ意味が変わります。百人隊長は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言いました。7節の主イエスのお言葉を、「わたしが行っていやしてあげよう」とするならば、この言葉は「いいえそれには及びません。ひと言お言葉さえ下されば十分です」という意味になります。それはこの百人隊長の自己卑下、謙遜の言葉ということになるでしょう。「イエス様にわざわざ来ていただくなんてもったいない、わたしはそんなことに相応しい者ではありません」ということです。このことは彼が特別謙虚な人だったと言うよりも、異邦人としての自分の立場をわきまえていたということです。当時ユダヤ人は異邦人の家に入ることすらも避けていたのです。彼はそのことを知っているから、主イエスが「わたしが行っていやしてあげよう」と言って下さったけれども、遠慮して、「お言葉だけで結構です」と言った、それが第一の読み方です。しかし第二の、「わたしに行っていやせと言うのか」という拒絶の言葉として7節を読む方をとるならば、この百人隊長の言葉の意味は変わってきます。その場合にはこういう意味になるのです。「主よ、おっしゃる通り、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。異邦人である私があなたの救いを求めることなど分を超えたことであるとわきまえています。しかしせめて、あなたのお言葉をいただけないでしょうか。それだけで、私の僕は癒されると信じています」。百人隊長の言葉をそのように読んでいきますと、先ほどの15章のカナンの女の話とさらに重なってくるのです。主イエスに「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われた彼女は、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言ったのです。彼女は主イエスに犬呼ばわりされてしまったのです。お前たち異邦人は犬と同じだ、人間様のための救いを犬に与えるわけにはいかない、と言われたのです。「犬とは何だ、馬鹿にするな、もう頼まない」と怒って去って行っても不思議はありません。しかし彼女はそうではなくて、「ごもっともです、私は確かに犬のような者です、あなたの救いに相応しい者ではありません。しかしその犬が、主人の食卓のパン屑で養われるように、あなたの恵みのおこぼれに預かりたいのです」と願ったのです。百人隊長の言葉も、このことと同じ意味のことを言っていると読むことができるのではないでしょうか。この百人隊長も、あのカナンの女も、異邦人であるゆえに、主イエスの拒絶を受けたのです。主イエスから、おまえに与える救いはない、と言われました。しかし彼らはそれであきらめなかったのです。それは、あきらめずに執拗に求め続けた、ということではありません。彼らは、主イエスのお言葉を受け入れたのです。「おっしゃる通り、私はあなたの救いを受けるに相応しい者ではありません」と認めたのです。その上で、「しかしせめて、お言葉を下さい、あなたの救いのおこぼれにでもあずからせて下さい、そうすれば私は救われます」と願ったのです。主イエスはこの百人隊長の願い、思いを受け止められました。主イエスは百人隊長に「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われました。そして13節では、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言って下さったのです。主イエスは彼らの中に、まことの信仰を見て下さったのです。そして彼らに救いが、癒しが与えられました。

主イエスによって
 また百人隊長は自分の僕の癒しを願っていますが、この「僕」という言葉は、「子供」とも訳せるのです。百人隊長の「主よ、わたしの僕」とはカナンの女と同様に、自分の子供の癒しを求めて主イエスのもとに来たのかもしれません。そして信仰によって、彼らは救いにあずかったのです。主イエスの思いもそこにあったと言えるでしょう。異邦人の救いの願いを冷たく拒絶される主イエスの姿に私たちは戸惑いを覚えます。イエス様は人を区別なさらず、誰でも受け入れて下さる方ではないのか、と思います。「わたしが行っていやしてあげよう」という訳の方が好まれるのはそういう思いからでしょう。しかしあのカナンの女の話からもわかるように、主イエスの拒絶はそれが最終的なご意志ではないのです。むしろ主イエスは拒絶によって、カナンの女の信仰の言葉を導き出しておられると言えます。

御言葉によって
 この百人隊長は主イエスに、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言いました。普通、病の癒しは、その人に手を触れることによって行われるのです。前の場面の重い皮膚病の人の癒しも、この後のペトロのしゅうとめの癒しもそのようにして行われています。しかし本日のこの癒しは、主イエスのみ言葉のみによる癒しです。主イエスは癒された人と会ってはおりません。同じ空間にいたこともありません。そういう中で、主イエスの言葉のみによる癒しが行われたのです。それが、この癒しの出来事の特徴です。そしてそれは、この百人隊長の信仰によることだったのです。13節に、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」という主イエスのお言葉があります。そして、「ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」とあります。主イエスの一言で病気が治りました。その一言とは、「あなたが信じたとおりになるように」というものでした。つまりこの癒しは、百人隊長の信仰によってもたらされたのです。彼がどう信じたかが、何が起ったかを決めたのです。ですからこういうことが言えるのではないでしょうか。例えばもしも彼が、イエス様にお願いすれば、僕の病気が少しはよくなり、苦しみが緩和されるのでは、と信じていたならば、その通りになった。つまり、僕の病気は完全には治らず、症状が少し緩和されるだけだった、ということです。どう信じているかによって、与えられる恵みは変わってくるのです。彼は、そんな中途半端な癒しを信じていたのではありませんでした。「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」。それは、主イエスの一言で、僕の病気が完全に治る、全く健康になる、ということです。彼はそう信じていた。それゆえにその通りのことが起ったのです。

人間の信仰心ではなく
 そのように考えてきますと、この話は、イエス様は病気を癒し、苦しみを取り除く力を持っておられるということを、疑うことなく信じる者には、その信じた通りの救いが、恵みが与えられる、ということを教えていることになります。しかし、そのような読み方は大変危険です。信じれば病気が治る、治らないのはあなたがまだ本当に信じていないからだ、心の中に疑いが残っているからだ、ということになってしまいます。そうであれば、人を意のままにあやつろうとすることが起こります。そのような論理においては、人間の信じる信仰心が問題となるのです。人間の側の事柄になってしまうのです。どれだけ純粋に、一点の疑いもなく信じているか否かというものになってしまいます。しかし本日のこの癒しの物語において示されている事柄はそのような信じる側の人間の心ではありません。ここで主イエスの権威が示されているのです。百人隊長が、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と言った時、この百人隊長は主イエスの権威、力を見ているのです。そのことが9節に語られていきます。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします」。彼は軍人として、権威の下に生きています。権威とは何であるかを知っています。軍隊は、上官の命令は絶対という世界です。上官が「行け」といえば部下は行き、「来い」と言えば来る、上官が「これをしろ」と命じれば部下はその通りにするのです。それが成り立たなくなったら、軍隊は崩壊してしまうのです。百人隊長は主イエスの言葉が、この世界において、軍隊における上官の命令のような権威を持っていることを信じています。だから主イエスが一言おっしゃれば、その通りになる、僕の病気も癒されると信じているのです。主イエスの言葉にはそのような権威と力があるということを百人隊長は信じているのです。主イエスが語られたことは必ず実現するということを百人隊長は見ているのです。

御言葉の権威と力
 百人隊長は主イエスのお言葉に、権威と力とがあることを信じました。主イエスのみ言葉を切に求めていたのです。主イエスはその彼の思いを受け止められました。そして「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言って下さったのです。まことの信仰とは、主イエスの語られる御言葉の権威を信じ、その権威あるみ言葉を求めていくことです。主イエスが言われた「あなたが信じたとおりになるように」という百人隊長の信仰とは、「イエス様にお願いすれば、病気も必ず治るに違いない」という彼の確信ではありません。人間の側の確信ではないのです。この百人隊長が、主イエスのみ言葉にこそ権威があり、力があることを信じ、その御言葉を求めたということなのです。その信仰の通りに、恵みが、救いのみ業が与えられたのです。私たちが神様の救いのみ業にあずかるのは、このような信仰によってです。11、12節にはこう語られています。「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」。「天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く」とは神様の救いにあずかるということです。この神様の救いの恵みは、主イエスのみ言葉の権威を信じ、それを求め、それに従おうとすることによって与えられます。東や西から大勢の人が来て、つまりこの百人隊長のような異邦人たちが来て、この信仰のゆえに、救いにあずかるのです。しかし「御国の子ら」、つまりもともと神様の民とされていたはずのユダヤ人たち、イスラエルの民は、その救いに入ることができないとあります。それは、主イエスのみ言葉の権威を信じ、それに従おうとしないからです。私たちの救いと滅びとは、この百人隊長のような、主イエスのみ言葉の権威を信じ、その御言葉をこそ求めていくという信仰に生きることができるかどうかにかかっているのです。

群衆に対して
 10節から12節にかけての主イエスのお言葉は、「従っていた人々に」向かって語られたと10節にあります。主イエスに従っていた多くの人々のことが語られています。「ここにも」とはこの前の場面の重い皮膚病の人の癒しも同じように、主イエスに従っていた大勢の群衆の前でなされたからです。本日の百人隊長の僕の癒しも、主イエスに従っていた多くの人々の前で行われました。その人々に対して、この百人隊長の信仰が、つまり主イエスのみ言葉の権威を信じ、その御言葉をこそ求め、それに従おうとする信仰が示されたのです。主イエスはこの百人隊長の信仰を受け止め、この信仰においてこそ、神様の救いにあずかることができるのだ、と語られたのです。同じマタイによる福音書7章28節以下には主イエスの語られた「山上の説教」を聞いた群衆の反応を語っています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」山上の説教を聞いた群衆たちが、「驚いた」とあります。主イエスが、律法学者のようにではなく「権威ある者」としてお語りになったから「驚いた」のです。律法学者たちは、律法に基づいて、その解釈を語ります。権威は律法にあり、彼らにはないのです。しかし主イエスは、権威ある者として、つまり神様から遣わされた独り子として、律法を完成させる者としてお語りになりました。そこに、律法学者たちとの根本的な違いがありました。人々はその主イエスの語られる御言葉に驚いたのです。この人々とは、山を下りて来られた主イエスに従ってきた群衆たちです。そして今、百人隊長の信仰の言葉を聞き、それに対する主イエスのお言葉を聞いているのもこの群衆たちなのです。群集は主イエスのみ言葉の権威に驚きつつ、従ってきています。そして一方には、主イエスのみ言葉の権威を信じ、そこにこそ自分の救いがあると信じ、その御言葉を求めている百人隊長がおります。主イエスの救いに本当にあずかることができたのは、この百人隊長の方だったのです。主イエスの権威に驚いているだけでは、その権威によってもたらされる救いにあずかることはできない、ということです。私たちは、山上の説教はその1つ1つが私たちに驚きをもたらす主イエスの御言葉でした。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という御言葉は私たちを驚かせます。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」という御言葉も驚きです。山上の説教を読むことは、そのような驚きの連続だったのです。私たちに求められていることは、驚くということ以上に主イエスの御言葉にこそ、私たちを救う権威と力があると信じることです。主イエスの御言葉を求めていく時に救いが私たちに与えられていくのです。百人隊長は自分が異邦人であること認め、自分が神様の選びから漏れている人間であるということを知っておりました。神の恵みにあずかる資格はない人間だとしたのです。しかし、自分はただあなたの御言葉、主イエスの言葉だけが欲しいと求めたのです。驚きを覚える以上に、主イエスにより頼んだのです。

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