夕礼拝

必要な糧

「必要な糧」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第126編5-6節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章11節
・ 讃美歌 : 402、544

神との交わりに生きる私たちの祈り
 私たちはただ今、夕礼拝において、主イエス・キリストが「このように祈りなさい」と教えて下さった「主の祈り」の御言葉に聞いております。本日はその第四の祈り、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りについて共にお聴きしたいと思います。この祈りから「主の祈り」は後半部分に入ります。「主の祈り」は全部で六つの祈り求めからなっています。最初の三つは「御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が行われますように」ということでした。これは神様の御名、神様の御国、神様の御心を求める祈りです。それに対して、この第四の祈りから始まる後半の三つの祈りは、「わたしたち」のことについての祈りです。主の祈りはそのように前半と後半に分けることができます。しかしそこで注意をしたいことは、前半は「神のため」の祈りで後半」は「わたしちのため」祈り」であると分けてしまうことです。そうであると、前半の「神様のための祈り」と自分たちのこととが関係がない祈りのようになってしまいます。後半から初めて自分たちの生活に関わることが始まる、と思ってしまいます。そうではないでしょう。前半の「神様のための祈り」とは、神様の御名が崇められること、神様の御国が来ること、神様の御心が行われることを祈り求めることです。そして、私たちはこのように神のことを祈ることにより、神様のご支配の中で生きる幸いと祝福が与えられるということです。そのような意味では前半の「神様のために祈る」ということを通して「私たちのための祈り」であると言えます。それは後半の祈りにおいても同じです。「私たちのための祈り」も、私たちのことだけを祈るのではなく、神様を御名、御心、御国を祈り求めつつ、そこで私たちのことを祈っているのです。つまり主の祈りは、前半は「神様のための祈り」で後半は「私たち、人間のための祈り」とはっきりと区別はできないのです。主の祈りとは神様との交わりに生きる私たちの祈りなのです。そして、主イエス御自身が教えて下さった祈りなのです。前半の祈りは、祈る対象である神様に焦点を合わせた祈り、後半はその交わりに生きる私たちに焦点を合わせた祈りであります。

私たちの祈りの冒頭に
 神様との交わりに生きる私たちに焦点を合わせた祈りの冒頭が本日与えられました箇所です。後半の最初の祈りが「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りです。この日毎の糧、すなわち食物を求める祈りだということになります。「糧」という言葉は文字通りには「パン」です。主イエスは、私たちの祈りの始めの事柄について、私たちが生きていくのに必要な糧、パンを、神様が与えて下さるように祈ること教えられました。この「糧」とは、「パン」であると言います。ここでの「パン」とは主イエスの生きておられた地域においては、主食となっていたものです。ここで祈り求めるのは、副食ではなく、「主食」であると言うことです。主食であるというのは、私たちの肉体的な生活を支える、最も基本的な食べ物、ということです。私たちの生活であるならば、「米」と言うことでしょう。しかし、最近は必ずしも「米」が主食ではないかもしれませんので、「パン」とそのままでも良いと思います。どちらせよ、まず、それさえあれば、今日この日の生活は支えられるという最低の条件を満たすものということです。その「パン」を与えて下さい、という祈りなのです。私たちはこの「パン」を求める祈りに入ることによって、具体的な事柄の祈りになるので少し安心するのではないでしょうか。
「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」という祈りは、それまでの前半の3つの祈りより分かりやすいと思うのではないでしょうか。神様の御名、御国、御心を求める祈りとは少し分かりにくい祈りであると思われるのではないでしょうか。それに比べて、この「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」と言う祈りは私たちの生活の事柄であるし、この祈りならば素直にうなずけると思われるのではないでしょうか。このような思いと言うのは正直なものであり、その通りであると思います。しかし、果たして本当にそうでしょうか。
さて、なぜここで主イエスは私たちにこのように「パン」について祈りをすることを求められたのでしょうか。主イエスは、罪や試みをめぐる祈りに先立って、なぜこのように肉体的な食べ物をめぐる祈りをさせようとしているのでしょうか。食べ物のことを口にし、お腹が空いたから早く食べさせてくれなどと言うことは卑しいことのように思われます。そのように卑しい祈りだと言われかねない祈りを、なぜここに置かれているのでしょうか。なぜ「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るのでしょうか。最も普通の答えは、「パン」がなかったら生きていかれないからです。日毎の食物がなければ飢えてしまい、死んでしまうのです。それ程に大切なものだからです。私たちは日々の食糧を得るために働くと言っても過言ではないと思います。そのための「パン」を与えて下さいと、神様に祈るのです。

本当の糧
 けれども現在の私たちには、この「パンを与えて下さい」という祈りを切実に祈ることは難しいことではないでしょうか。私たちは別に神様にお願いしなくても、食べ物に困ることはないと思われるかもしれません。私たちはスーパーやコンビニに行けば、選ぶのに困るほどの食物が並べられているのを見ます。レストランに行けば何でも好きなものを食べられるのです。そのような環境の中で、食事を神様に願い求め、この食事は神様から与えられたものだと感謝して食べるということはなかなか実感しにくいことかもしれません。けれども、主イエスの時代はそうではありませんでした。まさに、その日の食べ物のために必死で働かなければならない人が沢山いたのです。その中で、「今日の糧」を神様に祈り求める、そしてようやく食事にありつくことができたなら、神様の恵みを感謝するというのが実感だったのでしょう。この祈りは、そのような状況の中で教えられたのです。それではこの祈りは私たちのような状況においてはもう意味を失っているかというと、決してそんなことはありません。私たちは、飽食の時代と言われる状況の中で、しかし本当の糧を得ることができずにいる、それによってこそ生きていくことができ、元気が与えられ、生活を維持していくことができる本当の糧、パン、主食に飢えているのではないでしょうか。私たちの魂を本当に養い、育て、力を与える主食は、食べ物が満たされれば得られるというものではありません。それはいつの時代にも、どんな状況の中においても、神様に祈り求めていかなければならないものなのです。神様から与えられる糧なくしては、私たちは飢え死にしてしまいます。有り余るほどの食物の中で、魂が飢え死にしてしまうのです。あるいはこういうことも考えなければなりません。食物が豊かにあっても、それを食べることができるのは健康だからです。健康が衰えていけば、年老いていけば、だんだんに食事もとれなくなっていく、その意味での糧を得ることができなくなっていくのです。その時に、私たちを本当に生かし、養っている糧が何であるのかがはっきりしてきます。食物という糧によってしか養われていない人は、それがとれなくなる時に全てを失うのです。自分を養い、力を与えてくれるものが何もなくなってしまうのです。しかし魂を養う糧を得ている人は、なおそこで、豊かに養われ、力づけられていくことができるのです。私たちが本当に元気に、力強く生きていくことができるための本当の糧は別のものなのです。

神の言葉
 本日の「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りは、そのような魂の糧、私たちを本当に生かす糧を求める祈りであると言うことができます。主イエスはその糧を、天の父なる神様に祈り求めるようにと教えて下さったのです。この祈りが、私たちの、自分のための祈りの冒頭に置かれる必要があるのです。私たちの生活は、人生は、全て神様が与えて下さる糧によってこそ支えられ、養われています。神様によって養われて生きる、神様から糧をいただき、それによって生きるということなのです。神様との交わりに生きるために、私たちはまず、神様が私たちを養って下さることを覚え、神様が与えて下さる糧を求めていかなければならないのです。ここでの糧、パンとはただ空腹を満たすものだけをさしているのでしょうか。私たちを本当に生かす糧とは、このように食物のことだけなのでしょうか。私たちを本当に生かす糧とは、何でしょうか。主イエスの御言葉からそのことを見てみたいと思います。
 主イエスは荒れ野で誘惑に遭われました。四十日間、昼も夜も断食した後のことです。主は空腹を覚えられました。そこで主イエスはまず、パンの誘惑に遭われました。誘惑する者が来て、主イエスに「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」と言ったのです。パンのことが第一に出てきました。主イエスのお答えはこうです。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』というのです。この主イエスの御言葉は旧約聖書の申命記第8章2-3節に書いてあるものです。お読みします。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」(申命記第8章2―3節)この箇所を読みますと、主イエスの誘惑でのお答えは、神が荒野でイスラエルにマナ、即ちパンをお与えになったことかつながっております。主なる神様はイスラエルを飢えから救おうとされたには違いはありませんが、本当の目的は「人はパンだけで生きるのではなく、主なる神の口から出るすべての言葉によって生きることを教えることでありました。これは体のためのパンであると共に、魂のためのパンでありました。魂のためのパンとは特別なことではありません。パンを与えられて、自分たちは神様によって造られ、神によって養われ、支えられている者であることを信じるようになることこそ、魂のもっとも大切なパンであるのです。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」という祈りは、神の言葉をも求める祈りであります。この祈りはただパンだけを求める祈りではありません。パンと共に信仰の糧をも求めている祈りなのです。祈りの文字だけから言えば、パンだけを求めています。しかし、そうであれば毎日食べることに困っていない者にとっては、この祈りはあまり切実には感じられないでありましょう。この祈りの大事なことはパンそのものよりも、あるいはパン以外の食物を求めるよりも、神様に支えられて生きているということが重要であるのです。この祈りを祈ることによって、自分は神様に支えられていることを一層知るということです。単なるパンの話ではありません。神様との関係にある信仰の問題です。主イエスは度々、人々と食事をされました。それも好んで、罪人や徴税人との食事をされました。それはただの食事ではありません。主イエスは彼らにパンを与えながら、救いの命をお与えになろうとしておられたのです。主の祈りにおいて求めるパンは、ただ空腹を満たすパンだけでなく、主イエスから与えられるパンであります。それによって与えられる命を求めることであります。元々パンを求めるのは命のためであります。糧とは命に関わるすべてのことです。主イエスから与えられるパンとは、主イエスそのものであると言えます。主イエスは言われました。ヨハネによる6章35節の主のお言葉です。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」主イエスは御自身が「命のパン」であるとおっしゃいました。また、33、34節では「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」とあります。主イエスが命のパンとして、本当の糧としてこの世に来られ、十字架にかかられた。十字架において人間の罪を贖うために御自身をささげられたのです。神の独り子である主イエスが「命のパン」であられるということは、神がその御自身を私たちに与えて下さった、祝福して下さったということです。神様のもの、神の独り子イエス・キリストということです。神様のものを私たちのために与えて下さったのです。私たちがこの主の祈りの豊かさをより知るのは、生活の中でこの祈りを祈ることではないでしょうか。「天の父よ、今日の私たちの必要な糧をお与え下さい」と祈るのです。目の前にあるパンを見ながら、自分が働いて稼いだのだと言うのではありません。このパンを得るために今日も働いたことが無意味になるものではありません。食べ物と共に、それを得るために働くこともまた神様の祝福のうちに置かれているのです。そのような意味で私たちはパンのみならず、それと共に日毎の労働、働き、私たちの小さな業もまた、神の祝福のうちに置くのです。私たちの全てを、全存在を神の祝福の内に置くのです。パンを得るための労働も神様が喜んで下さる。労働をも神様が与えて下さる、祝福して下さる。私たちの全てを神が備えて下さるのです。日毎の糧を求める祈り「今日与えて下さい」も、この神の祝福の元に置かれています。

神の祝福の内に
 神の祝福の中におかれている、ということは、私たちが神様から与えられる本当の糧によって養われ、生かされるということです。神の祝福の中にあるということは、神様から与えられる糧よって養われていくということです。6章25節以下で主イエスは言われます「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」とあります。そのように、明日のことを思い悩むことなく生きることができるのは、明日の糧を与えて下さいと神様に祈りつつ生きることによってなのです。自分の人生の一歩先を神様に委ねて、明日のことを思い悩むことなく生きていくのです。既に神は独り子イエス・キリストをお与えくださり、十字架において救いに御業を示して下さっているのです。私たちはその出来事に身を委ねつつ歩むのです。

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