夕礼拝

盗んではならない

「盗んではならない」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第20章15節
・ 新約聖書: エフェソの信徒への手紙 第10章25-28節
・ 讃美歌 : 299、441

誰もが知っている戒め
 十戒の第八の戒めは「盗んではならない」です。私たちはこの戒めを、第六の戒め「殺してはならない」と並んで、十戒の中で最も分かりやすい、誰もが納得できる戒めであると感じます。「人のものを盗んではいけない、泥棒してはいけない」ということは、子供の頃から聞かされている人間としての基本的なルールであり、誰もが疑問を抱くことなく受け入れる教えです。そしてだからこそ、誰もが、人のものを自分のものにしてしまったことがある、盗んでしまったことがある、という後ろめたい体験を持っているのではないでしょうか。私にもそういう体験があります。子供の頃、お小遣いが足りなくなって、このままでは毎週買っている漫画の雑誌が買えない、ということになった時、私は教会学校の礼拝の献金をごまかしました。入れたふりをして入れなかったのです。これは人のものではなくて神様のものを盗んでしまったということですから、より重大な罪だと言わなければなりません。それで神様に目をつけられてしまって、牧師にされてしまったのかもしれません。私だけでなく、おそらく誰もがいろいろな形で、自分の「盗み」の罪を自覚させられているのではないでしょうか。「盗んではならない」は、子供も含めて誰もが意識している戒めなのです。

自由と尊厳
 しかし聖書を学んでいきますと、この戒めが本来語っているのは、人のものを盗む、いわゆる泥棒することではなくて、むしろ人そのものを盗むこと、つまり誘拐とか拉致によって人の自由を奪い、奴隷とすることなのだ、ということを教えられます。出エジプト記の21章16節に「人を誘拐する者は、彼を売った場合も、自分の手もとに置いていた場合も、必ず死刑に処せられる」とあります。また申命記24章7節には「同胞であるイスラエルの人々の一人を誘拐して、これを奴隷のように扱うか、人に売るのを見つけたならば、誘拐したその者を殺し、あなたの中から悪を取り除かねばならない」とあります。これらのことが「盗んではならない」という戒めの中心的な意味なのであって、人のものを盗むことの禁止はむしろ最後の第十の戒め「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」において語られているのだ、という説明がなされるのです。なるほど第十の戒めには、手を出してはならない他人の所有物がいくつか並べられています。「他人のものを盗んではいけない」ということはこちらに語られている、というのは分かる気がします。このことが教えているのは、「盗んではならない」という第八の戒めを、人のモノを盗んではいけない、というモノに関する事柄としてではなくて、人間どうしの関係の事柄として、隣人との交わりのあり方を教える戒めとして受け止めるべきだ、ということです。「殺してはならない」という第六の戒めも、「姦淫してはならない」という第七の戒めも、人間関係、隣人との交わりについて語っていました。「盗んではならない」もその流れの中で読まれるべきなのです。人を盗むこと、誘拐や拉致によって奴隷にすることは、隣人の自由を奪い、人間としての尊厳を否定し、その人を人間扱いせずに売買の対象となるモノとして扱ってしまうということです。「盗んではならない」という戒めは、隣人との関係において、人間の自由と尊厳を損ない、踏みにじることを戒めているのです。

奴隷の家から解放された者として
 だとすればこの戒めは、出エジプト記の第20章においてイスラエルの民が置かれている歴史的文脈と深く結びついています。つまりイスラエルの民はつい先ごろまで、エジプトで奴隷とされていたのです。その彼らの苦しみの叫びを聞いて下さった神様が、モーセを遣わし、数々の奇跡を行い、エジプトに災いを下すことによって彼らをエジプトの国、奴隷の家から導き出して下さったのです。彼らを奴隷として支配し、人間としての自由と尊厳を奪っていた者たちに神様が打ち勝って下さり、解放と自由を与えて下さったのです。「盗んではならない」という戒めは、神様によってこの解放を与えられ、自由と尊厳を回復された民の間で、誰かが誰かを奴隷とし、その自由と尊厳を奪うようなことがあってはならない、ということです。奴隷の苦しみからの解放と自由を与えられた者が、他の人を奴隷とし、自由を奪うなどということがあってはならないのです。そもそも十戒は、神様によって奴隷状態から解放され、自由を与えられた民が、その神様の救いの恵みに相応しく生きるための道しるべとして与えられています。その中でも「盗んではならない」という第八の戒めは、神様による解放、自由の恵みに相応しく生きるということに最も直接的に結びつく戒めであると言うことができるのです。

社会の問題への射程
 この戒めが他者の自由と尊厳を奪うことを戒めているということをしっかりわきまえるなら、この戒めがやはり文字通りの「盗み」、暴力に訴える強盗によってであれ、人を騙す詐欺によってであれ、人のものを自分のものにしてしまうことを戒めていることを改めて受け止めることができます。人のものを盗むことがいけないのは、所有権の侵害だ、というようなことであるよりも、それが根本的にはその人の自由と尊厳を否定することだからなのです。
 そしてこのように他の人の自由と尊厳を否定することが「盗み」の本質であるということを見つめることによって、「盗んではならない」という戒めが持っている広い射程が見えてきます。この戒めは、この社会において起っている、人間の自由と尊厳を踏みにじるような様々な出来事、問題と関係しているのです。身代金目当ての誘拐や拉致、監禁、人質事件などは勿論のこと、戦前の日本が朝鮮半島の人々を強制連行によって連れて来て働かせたことや、従軍慰安婦の問題などもそこに関係してきます。それらは強制だったのかそうでなかったのか、という議論がありますが、強制だったにせよ、うまい話でその気にさせたにせよ、人間の尊厳と自由への侵害がそこで起っていたことに変わりはないでしょう。戦前のみでなく現在においても、日本は人身売買における大きな買い手となっているという現実があります。東南アジア諸国から、人身売買によって日本に連れて来られて働かされている女性たちが沢山いるのです。これはまさに日本人が人を盗む罪を犯しているということです。またいわゆる南北問題、豊かな国と貧しい国の格差の問題にもこの「盗み」という視点が必要です。一部の豊かな国に世界の食料の多くが集中し、貧しい国ではなお飢え死にする人々がいるというのは、貧しい国の人々にまわされるべきものを豊かな国の者たちが盗んでいるということです。それは食料というモノの問題ではなくて、人間の尊厳に関わることです。貧しい国の人々の飢えを放置することは、その人々の人間としての自由と尊厳を否定し、踏みにじることなのです。そしてそのような格差は今、日本の国内においても広がってきています。日本人は皆飽食の時代を生きているなどとはもはや言えません。ダイエットを気にしている人がいる一方で、その日の食事にも困っている人が多くなっています。このたびの東日本大震災によってそういう状況にさらに拍車がかかるでしょう。そのような状況の中で、自分たちのことしか考えず、自分の生活が守られればよいという思いで生きることは、「盗んではならない」という戒めに背くことなのです。
 このように、この戒めは、この世、社会がかかえている様々な問題とつながっています。世界の経済や政治の状況は複雑であり、一人一人の力ではどうにもならない構造的な問題が多々ありますが、この戒めを神様からのみ言葉として真剣に聞こうとするなら、私たちはそれらの社会の問題をしっかり見つめて、そこにおいて、人間の自由と尊厳が本当に大切にされるためになすべきことを、それぞれの置かれた場において考え、行なっていくことを求められるのです。

身近な人との関係において
 私たちはそのようにこの戒めの持つ広い射程を見つめ、社会の問題を、しかもグローバルに見つめていく必要があるわけですが、しかしそれだけでなく、私たち一人一人が自分の歩んでいる日々の生活において、そこで出会い、交わりを持つ人々との関わりにおいて、この戒めをしっかり受け止めて生きることもまた大切です。直接出会うことのない世界の人々の自由と尊厳のことを心配しながら、目の前の、自分が具体的に共に生きている隣人の自由を奪い、尊厳を傷つけているのでは意味がないのです。しかし私たちは、関係が近ければ近いほど、親しければ親しいほど、気付かないうちに相手の自由を奪い、支配しようとしてしまうものです。本人は愛しているつもりでおり、相手のためにしているつもりであっても、客観的に見ると相手を支配し、自分の影響下に置こうとしている、ということがあるのです。人を盗まない、つまり人の自由を奪わない、その人の人間としての尊厳、人格を本当に認め、尊重し、生かすというのは、そう簡単なことではありません。身近な人との関係であればあるほど、それはなかなか難しいことなのです。

黄金律
 それでは私たちは「盗んではならない」という戒めを本当に行なっていくためにどうすればよいのでしょうか。「ハイデルベルク信仰問答」がその道を指し示してくれています。ハイデルベルク信仰問答はこの第八の戒めについて二つの問いを掲げています。問110と問111です。問110は「第八戒で、神は何を禁じておられますか」という問いであり、問111は「それでは、この戒めで、神は何を命じておられるのですか」という問いです。この戒めが「禁じていること」と「命じていること」を問う、それは十戒の他の戒めについての説明にも共通している、この信仰問答の特徴です。十戒はそのほとんどが「~してはならない」という禁止の命令となっていますが、それを、何かを禁じるという消極的な事柄としてのみ捉えるのでなく、むしろそこにおいて神が積極的に命じておられることを見出していこうとしているのです。それでは「盗んではならない」という戒めにおいて神が積極的に命じておられることは何でしょうか。問111の答えはこうなっています。「わたしが、自分にでき、またはしてもよい範囲内で、わたしの隣人の利益を促進し、わたしが人にしてもらいたいと思うことをその人に対しても行い、わたしが誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けることです」。これが、「盗んではならない」という戒めによって神が私たちに命じておられることなのです。「盗んではならない」という戒めを本当に行ない、隣人の自由と尊厳を守り、生かしていくために私たちがなすべきことは、「隣人の利益をできる限り促進し、人にしてもらいたいと思うことを人に対しても行う」、ということなのです。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。それは主イエスがマタイ福音書第7章12節でお語りになった、いわゆる「黄金律」と呼ばれる教えです。それが「黄金律」と呼ばれるのは、誰もが最も大切な教えとして納得し受け入れることができる教えだからです。その教えを行っていくことこそが、「盗んではならない」という戒めを守って生きることになるのだ、とハイデルベルク信仰問答は教えてくれているのです。人の自由を奪わず、人間としての尊厳、人格を認め、尊重し、生かしていくというのは簡単なことではない、と先ほど申しましたが、しかしある意味でそれはとても簡単なこと、単純なことでもあるのです。「人にしてもらいたいと思うことを、自分も人に対してする」。そのことに努めていくことによって、私たちは他者の自由を尊重し、その人の尊厳を大切にする生き方をすることができる、つまり「盗んではならない」という戒めを本当に実行することができるのです。

自分の手で働き、困っている人に分け与える
 このように、「盗んではならない」という戒めを本当に行うには、ただ人のものを盗まない、泥棒をしない、という消極的なことだけでは不十分です。積極的になすべきことがあるのです。それを語っているのが、本日共に読んだ新約聖書の箇所、エフェソの信徒への手紙第4章の28節です。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」とあります。これまで盗みを働いていた者は、今からはもう盗んではならない、それはまさにこの戒めが禁じていることです。しかし同時にそこには、「むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」という積極的な勧めがつけ加えられているのです。
 ここでは「労苦して自分の手で正当な収入を得」ることが「盗みを働く」ことと対置されています。つまり、自分の手で働いて収入を得ようとせずに人のものをあてにし、人の世話にばかりなっていることは「盗む」ことに当たる、と言われているのです。聖書は、自分の手で働いて生活することの大切さを教えています。テサロニケの信徒への手紙一の4章11節には、「そして、わたしが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」と教えられています。また同じテサロニケの信徒への手紙二の3章10節には「働きたくない者は、食べてはならない」とも語られています。これらは勿論、家庭を守る働きをしている主婦のことではないし、いろいろな事情で働きたくても働けない人、働く意欲はあるのに仕事を失ってしまった人のことを言っているのでもありません。働こうと思えば働く力も機会もあるのに、自分で自分の生活を賄おうとせず、他人をあてにしてばかりいることです。そのような生き方は「盗んではならない」という戒めに反するのです。しかしそこでさらに示されているのは、自分の手で働き、収入を得て生活を成り立たせるのは何のためか、ということです。それは他人の世話にならずに自分独りで生きていけるようになるためではなくて、「困っている人々に分け与える」ためなのです。盗みを働いていた者に対して勧められているのは、盗みをしないで生きるようになることではなくて、自分の手で困っている人を助ける者となることなのです。つまり、私たちが自分の手で働いて収入を得、誰の世話にもならずに自活しているとしても、自分の得たものを困っている人々に分け与え、困窮の中にある貧しい人々を助けることをしないならば、それはやはり「盗み」を働いているのと同じなのです。このエフェソの信徒への手紙のみ言葉に基づいて、ハイデルベルク信仰問答は、この戒めにおいて神が命じておられるのは「わたしが誠実に働いて、困窮の中にいる貧しい人々を助けることです」と語っているのです。

新しくされて
 エフェソの信徒への手紙第4章の25節以下を朗読しました。そこに付けられている小見出しは「新しい生き方」となっています。それはその前の22~24節を受けてのことです。そこにはこのように語られています。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」。あなたがたは、以前のような生き方をする古い人を脱ぎ捨てて、神にかたどって造られた新しい人を身に着けて、新しい生活を送るのだ、と言われています。その新しい生活の一環として、「労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与える」ことがあるのです。その新しい生き方は何によって与えられるのでしょうか。それが20、21節です。そこには、「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」とあります。つまりあなたがたが新しくされたのは、キリストに聞き、キリストと結び合わされ、キリストにある真理を学んだことによってだというのです。それは言い換えれば、主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けてその救いにあずかった、ということです。イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放され、神様の民として新しく生きる者とされたのと同じように、私たちも、主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けてその救いにあずかることによって、生まれつきの私たちを支配している罪から、神様をも隣人をも、愛するよりもむしろ憎んでしまう方へと私たちを引きずり込もうとする罪の力の支配から解放され、罪を赦されて新しく生きる者とされるのです。その新しさの中で、それまで盗みを働いていた者が、自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与える者へと変えられていくのです。そのようにして、「盗んではならない」という戒めにおいて神様が求めておられることが実現していくのです。

主イエスの十字架と復活によって
 繰り返しお話ししていますように、私たちの信仰において十戒は、主イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずかり、罪を赦され、神の子とされて喜びと感謝の内に歩んでいく信仰者の生活を導く指針です。神様は独り子イエス・キリストの十字架と復活によって私たちの罪を赦して下さり、私たちを罪の奴隷状態から解放して自由を与えて下さいました。神様はこの救いにおいて、私たちの自由と人格をどこまでも重んじて下さっています。そのことは、私たちがこの神様の、主イエス・キリストによる救いを、信じることも信じないこともできるし、主イエスに従っていくこともそれを拒むこともできる自由を与えられていることによって分かります。この自由をどう用いていくかが今私たちに問われているのです。この自由を、自分のためだけに用いて、自分の思い通りにすることばかりを求め、隣人の自由を尊重せず、隣人を人間扱いせずにモノ扱いして自分のために利用するような生き方は、神様が与えて下さった自由の用い方を間違えています。自由は、それを他の人々のために、人にしてもらいたいと思うことを人に対してしていくために、そのようにして困窮の中にある人々を助けるために用いてこそ、本当の自由となるのです。本当の自由は、他の人の自由を守り、人として尊重するために、自分の自由を放棄することの中にこそあるからです。主イエス・キリストが、ご自身の歩みによってそのことを教えて下さいました。今週は受難週、主イエスの十字架の苦しみと死をと覚えつつ歩む週です。そして来週の主の日はイースター、主イエスの復活の記念日です。今週私たちは、神様の独り子であられる主イエスが、神の子としてのご自分の自由を徹底的に放棄して、私たちの代わりに十字架の苦しみと死を引き受けて下さったことによって、私たちを罪の奴隷状態から解放し、自由を与えて下さったことを覚えつつ歩むのです。主イエスが十字架への歩みによって身をもって示して下さったこの本当の自由に生きていくことによって、「盗んではならない」という第八の戒めは、私たちの歩みの中に実を結んでいくのです。そしてその歩みの先には、主イエスを復活させて下さった父なる神様が、永遠の命を約束して下さっているのです。

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