夕礼拝

安心して求めなさい

「安心して求めなさい」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 創世記、第18章 1節-8節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第11章 5節-13節
・ 讃美歌 ; 460(1-4節)、493

 
1 これまで五回にわたって、主の祈りの一つ一つを、ご一緒にじっくりと味わってまいりました。そもそもこの主の祈りは、弟子の一人が主イエスに祈りを教えてもらいたいと願い出たことにより、主イエスご自身が口ずから、弟子たちに教えてくださった祈りであります。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)。この弟子の申し出は、よく洗礼者ヨハネの周りに集まった弟子集団とは別の弟子の集まりを形づくろうとする意図の下に語られた、と考えられているようです。けれどもそういう願いをこの弟子の内に引き起こしたのは、何よりも主イエスご自身の祈りの姿であったのです。主イエスがある所で祈っておられた。お一人で祈っておられるお姿、そのお姿の中には、他のどの祈りの集団にも見られない、独特な雰囲気が醸し出されていたのです。それがいったい何なのか弟子たちにはまだ分からない。けれども確かに今まで見たことのない独特な祈りの世界がそこには広がっている、そのことを感じ取ったのです。いやそれがビンビンと伝わってきたのです。どのような祈りがなされているか、それはその信仰の集いの特徴を一番はっきりと映し出したに違いありません。教会はその長い歩みの中で、こういう表現を生み出してきました。「祈りの法則は信仰の法則である」。どのような祈りが神に捧げられるか。それはその集いの信仰の心を最もはっきりと映し出したのです。そこで捧げられる祈りが、人を裁き、まだ他人よりはましである自分の存在を感謝する、独りよがりの祈りなのか、それとも神の前に真実の悔い改めに生きる祈りなのか。感謝と讃美が全面に出てくる祈りなのか、それとも自分は駄目だ駄目だと責めてばかりで、それを悔い改めと取り違え、いつまでも赦しの恵みに立てずにいる、そんな祈りなのか。ある教会の礼拝に出席し、そこで捧げられる祈りに心を重ね合わせる。その時、その教会の信仰の姿勢、信仰の心が伝わってくるのです。その教会がどのような信仰に生きているかが最もはっきりと分かるのです。この当時だって、いろいろな信仰集団が存在したであろうけれども、それぞれの集団の信仰の心は、そこで捧げられる祈りに端的に現れ出たはずです。だからこそ、主イエスから祈りを教えていただく時、そこには今までにはなかった独特な祈りの集団、信仰の集いが生まれるであろうことが弟子たちにも伝わったのであります。

2 主の祈りを口ずから弟子たちに授けた後、主イエスはその祈りの心を、弟子たちに説き明かし始めるのです。これらの祈りを祈る時、どのような心をもって祈るべきであるか、そのような信仰の姿勢をもって心を神に向けるべきか、お語りになりました。そこに主イエスを中心にして生まれる新たな祈りの共同体の特徴が表れ出るのです。
 主イエスがまずお語りになったのは、真夜中に友人の家に出かけていく話です。しかも出かけていくのは誰か架空の人物ではない。「あなたがたのうちのだれか」です。弟子たち、また私たちの視点から言うなら、「わたしたちのうちのだれか」です。弟子たちも私たちも、今自分のこととして問いかけを与えられている。旅行中の友達が夜中に突然訪ねてきた。日中の日差しは大変厳しい地方ですから、旅人が夜のうちに移動していくということは、当時よくあったことのようです。ところがよりにもよってその日には、この突然のお客を迎えるために何の用意もない。出すことのできる食べ物が何も蓄えられていない。ちょうど切らしている。何とかしなければならない。そこで友達の家に助けてもらいに出かけていくわけです。
 そこまでする必要があるのだろうか、私たちは思うかもしれません。けれども、この地方では旅人をもてなすことがとても大事なこととされていたのです。先ほど読まれた旧約聖書18章には、三人の客の姿をして、主がアブラハムのもとを訪ねた出来事が語られていました。この客を認めたアブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して言うのです、「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから」(2-3節)。そしてアブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させるとともに、自分は料理を運び、客が木陰で食事をしている間中、そばに立って給仕をしたのです。ふいに訪ねてきた旅人を心からおもてなしする。それは旧約聖書の時代から大切にされてきている伝統でありました。
 ですから、旅人が訪ねてきたのに何も出すものがない、ということは大変なことだったのです。あってはならないことだったはずです。緊急事態であったのです。だからこそこの人、つまり「わたしたちのうちのある人」は友の家を訪ねてパンを三つ貸してください、と願い出たわけです。もしここで、旅の途上に立ち寄った友人をもてなすことができなければ、この人は当然なすべき奉仕を行うことに失敗した人物、なすべき愛の業に生きることのできない人間であり、恥じるべきである。そういう非難や攻撃を周囲の人々から受けることになるのです。その意味では、この人が助けを求めてパンを分けてくれと友達の家に願いに来ているのは、なにより自分自身のためです。自分自身が愛に生き得ない恥をさらし、人々から冷たい目で見られることがないように、助けを求めに来たのであります。

3 ところが助けを求めた先の友人の反応は、実に冷ややかなものでした。「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません」(7節)。この家の扉には重いかんぬきか何かがかけてあって、もう一度扉を開くことは面倒であったのでしょう。また仕切られた部屋などはなく、一つのところで家族皆が寝起きを共にしていたわけですから、無理をして起きれば子供たちの目も覚ましてしまいます。だからあなたを助けることは今日はご免こうむります、というわけです。ところがこの人はそれで引き下がらず、しつように「お願いだから、頼むから、パンを分けてくれ。どうか助けてください」と願い続けたのです。ドンドン、ドンドン、と家の扉をたたきながら叫び続ける友の声を聞きながら、この友人は寝床の中でつらつら考えたのではないでしょうか。「あんなに一生懸命に願っているのに、このまま放っておいていいものだろうか。このままではうるさくてかなわないではないか。それにどうだろう。今この友を見捨てて助けなければ、友が旅人をもてなすことができず、恥をかくことはもちろんだけれども、そういうところにまで追い込んでしまったこの自分もまた、助けるべき時に友を助けなかったかどで、この町で恥をかくことになりはしないか」。この友人は寝床の中で、今お願いに来ている友が恥をかくことは、とりもなおさず自分自身も同じくらいの恥をかくことになる、そのことに気づいたのであります。友の恥と自分自身の恥とは密接不可分に結びついていることに思い当たったのです。8節にある、「しつように」という言葉は、その意味で大切な言葉です。この言葉のもともとの意味は「恥知らず」という意味です。それは一方では、真夜中に友達を訪ね、「恥知らず」にも家の扉をたたき続けて、助けを求める人の姿を描く言葉です。けれども他方では、この言葉は今寝床の中でどうしようかと思いを巡らせている家の中にいる友人の心をも描き出しているのです。今、懸命に自分に願い出てきているこの友を見捨てる、そんな「恥知らず」なことはできない、この友はそう思うに至るのです。だからこそ、起きて来て、友人が必要なものを何でも与えたのです。自分の友が恥をかくことは、とりもなおさず自分自身が恥をかくことだ、それほどお互いの利害関心が結び合っている、ということが、ここに明らかになるのです。

4 主イエスはこのたとえ話をもって何をお語りになろうとしたのでありましょうか。私たち人間の間の友人関係においてさえ、「しつように」、「恥知らず」に助けを求めるなら、相手はその願いを拒むような、そんな恥さらしな真似はできない、という心で、その願いを受け入れてくれるわけです。だとしたら、天の父なる神であるなら、なおさらのこと出し惜しみすることもなく、また夜中に起き出すことを厭うこともせず、喜んでその願いを聞き届けてくださるに違いないのです。私たちは祈りの中でも神に対して遠慮がちになります。神に向かってこんなことを祈ってよいのだろうか。世界をお造りになり、保ち、導いておられるお方に向かって、この私の日常生活の中のほんの小さな出来事について、このちっぽけな私の心の隅に気にかかっていることについて、滅多やたらなことは申し述べてはいけないのではないか、そんな思いにとらえられてしまいます。けれども、今友達の家に頼み込みに行っているこの人が、訪ねた時間は真夜中であります。しかも閉まっている戸を開けて、子供が起きて泣き出してしまうかもしれないところを、迷惑を承知で訪ねてきているわけです。それが私の教える祈りの心だ。主の祈りを祈る時の心なのだ、と主はおっしゃる。実に不思議な、いや驚くべき祈りの心です。
 主イエスによれば、人間の間の友人関係においてだってしつように頼むなら、最終的には願いは聞き入れられる。だとしたら、寛大で慈悲深い神は、この友人以上に、喜んで、ためらうこともなく、願いを聞き入れてくださるのです。父なる神はそれほどに気前のよいお方なのです。私たちの恥を人事のように傍観していられない。その恥をご自身の恥としてくださる。何とかしなければ、と心を砕いてくださる。そうしなければ神の栄光が傷つけられる、神が神であることができなくなる、そういわんばかりの真剣さをもって私たちの危機を受け止めてくださる。それが父なる神なのです。一人の友の家で起こった出来事、世界全体から見れば小さな小さな出来事であるかもしれないが、当人にとっては緊急時、一大事であるような出来事、その出来事を本人と同じ重み、同じ真剣みをもって受け止めてくださる、そういうお方なのです。父なる神は、安心して私たちが助けを願い求めることのできる友人のようなお方、いや、それ以上に気前のよい、寛大なお方なのです。

5 同じことが、今度は人間の父親の姿を通して描き出されます。魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親、卵を欲しがる子供にさそりを与える父親、これらはいずれも考えられないこと、あり得ない間違いです。魚は蛇とうろこの状態が似ているだとか、さそりは丸まった形が卵と似ているだとか、与える物を間違えてしまう理由が説明されたりもいたしますが、基本的にはありえない過ちです。役に立たない物、意味のない物を与えるというばかりか、毒を持ち、子供に危害を加えかねないような生き物を与える、そんな悪意をもって子供に接する親はいないからです。もっとも最近は親による子供の虐待が目立つようになり、およそ子供が望まないような仕打ちをする父親があることも事実です。その意味で、人間の父親はいつも最もふさわしい形で、子供に良い物を与えることができるわけではありません。そこにはブレがあるのです。いつも子供に与えるべき最もふさわしいものを見極め、それを最もふさわしい形で与える、ということがなかなか人間の親にはできません。私も父親になったばかりですが、泣いている赤ん坊が今、どうして泣いているのか、何をしてほしいと願っているのか、それをいつでも敏感に感じ取り、最もふさわしい形でそれを与えることの難しさを思います。それでも赤ん坊のうちは、お乳を飲むこと、おむつを替えること、抱いてあげることなど、求められていることの検討はまだつけやすいかもしれませんが、だんだん大きくなってくれば、子供が言葉で求めている物をそのまま与えては本当に良い物を与えることにはならない。よくよく考えて本当に子供のためになる良い物とは何か、それをどんな形であげたらよいか、悩みも深くなるかもしれません。ただ、とにもかくにも、いろいろ失敗はあるかもしれないが、本当の意味で良い物を子供に与えようと人間の親が苦心するのは確かです。神の前に「悪い者」である私たちでさえ、自分の子供にはそのような善意をもって向き合うのだとすれば、まして善きお方であられる天の父が私たちに向き合ってくださるその御心はどれほど慈しみ深いものであるだろうか、と主は私たちに語りかけられるのです。先に私たちは祈る時に、こんなことを祈るのは神様に対して失礼なのではないかとか、世界全体から見たら、えらくちっぽけなものに見えるかもしれないようなことを祈っても、ちゃんと聞いていただけるのだろうかとか、そういう心配をする必要はない、という祈りの心を示されました。それに加えて、今ここに示されているのは、私たちは神に祈る時に、ビクビクしながら祈ることはない、恐れながら祈らなくてよい、安心して神に求めてよいということです。祈りにおいて、安心して神に近づいていく、善意をもって向き合ってもらえると期待して御許に心を寄せる。そうしたら思いも寄らなかったひどい仕打ちを受けてほうほうの体で逃げ帰ってくる、そんなことはあり得ない。そういう間違えた物を与えてしまうようなブレは神にはない。必ず天の父は良い物を与え、その祈りに応えてくださるのです。主の祈りにより形づくられた主イエスの祈りの共同体は、それまでのどの群れにもない親しさで神に父よ、と呼びかけ、心のうちにあるものを包み隠さず御許にもっていくことができる、喜びの共同体、感謝の共同体なのです。

6 しかも私たちがそのように求めている良い物とは、実は聖霊にほかならないのだ、と主はお語りになる。聖霊を与えられるということは、神と共に歩むようになるということです。神は、私たちが祈りにおいて遠慮すべきようなお方ではない。「そんなことを祈るもんじゃない!」と怒鳴られ、手痛いひどい仕打ちを受けるのではないかとビクビクしつつ、聞こえないような声で祈るものでもない。神に願いたいこと、訴えたいこと、聞いていただきたいことを安心して神の御前に差し出してよいのです。目の前に確かにこの祈りを聴いてくださっている主なる神がおられる。聖霊はそのことを私たちに教えてくださるのです。感じさせてくださるのです。私たちを祈りにおいて大胆にさせてくださるお方、それが聖霊なのです。私たち自身の祈りにおける熱心さ、それはあやしいものです。先週一週間を振り返っても、私たちはどれだけ真実の祈りに生き得たでしょうか。あの人のように、神に面倒をかけることを承知の上で、なおもしつように頼み続けるような祈りに徹することができたでしょうか。むしろどこかで祈っても祈らなくても、身の周りの事態に大した変化はないのではないか、などと醒めた心で祈ることもおろそかにしてきたのではないでしょうか。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(9-10節)。私たちはこの御言葉を、すべては私たち人間の努力如何にかかっているのだ、などという思いで受け止めることはもはやいたしません。そうではない。すべてに先立ち、神が慈しみ深き御心をもって私たちに身を向けてくださっている。良い物を与えようと心待ちにしてくださっている。だからこそ私たちは安心して求めることができるのです。いわば神が慈しみをもって私たちに向き合ってくださっていることが、私たちから大胆な祈りを引き出してくださるのです。神が聖霊において導き先導してくださるからこそ、私たちは大胆に祈ることができるのです。父なる神が与えようと欲しておられるからこそ、どんなことでも求めることができます。父なる神が出会ってくださるからこそ、私たちは安心して探すことができます。父なる神が必ず開けてくださるとの信頼に生きることができるから、安心して門をたたくことができるのです。私たちが今与えられているこれほどの深い信頼関係、それは私たちが神の子とされているがゆえに与えられている関係です。この祈りの心を教えてくださった主イエスは、私たちがこの心に生き、祈る者とされるために、十字架におかかりになったのです。本来祈ることなどできない、また助けを求める訪問者に愛のもてなしをするに足る準備をも欠いているのが私たちです。それゆえに恥を知るべき存在であるのが私たちです。けれども、その私たちが真実に祈りに生きるように、なお愛の労苦に生きる望みを新たにするように、神の子として歩むために、あの恥を福音に生きる喜びに転ずるために、主イエスは私たちの祈りへの不信仰、愛の薄さ、怒りと反逆の子としての歩み、受けるべき恥の責任を、神の御前に代わって負ってくださったのです。あの友のように、子供を夜中に起こすことを厭うようなどころの話ではない。起こすどころか、独り子を十字架にかけて失ってまで、私たちを愛し抜き、神の子としてご自身のもとに取り戻そうとされる、それが父なる神なのです。聖霊がこのことを教え、神の慈しみ深さを目の当たりにさせてくださるからこそ、私たちは祈りにおいて、安心して求めることができるのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、あなたはこの御子キリストの十字架の故に、今私共の父ともなってくださり、「父よ」と主と同じ言葉でもってあなたに呼びかける幸いを与えてくださっております。どうかこの与えられている恵みをいよいよ深くわきまえ、その恵みに堅く立ち、この恵みに真実に生きることができますように。あなたが与え、見出させ、開けてくださいますから、私共は安心して祈り求めることができます。私共の恥をあなたはご自身の恥として受け止められ、独り子を与えるまでに私たちを顧みてくださいます。どうか私共が主の祈りを祈るとき、またここから出発してあらゆる祈りに生きるとき、慈しみの眼差しをもってこの祈りを目の前で聴いてくださっているあなたがおられることに、何よりの安心を見出すことができますように。それゆえに、聖霊によって大胆に祈り求める心に生きることができますように。今から与る聖餐を通して、この恵みに生きる喜びをここに新たにさせてください。 御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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