夕礼拝

主イエスの後に従う

「主イエスの後に従う」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第86編11-17節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第1章16―20節
・ 讃美歌 ; 214、531

 
はじめに
主イエスはご自身の宣教を始められます。先週は、宣教を始めるにあたって主イエスが語られた、第一声を聞きました。「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」。この声に続いて、今日から、主イエスは主の道を歩み始めるのです。その歩みの最初に主イエスがなされたのはシモン、(後のペトロ)、アンデレ、ヤコブ、ヨハネと言った、四人の弟子を召されるということでした。主イエスの宣教の第一幕は、主イエスが、人々に声をかけ、声をかけられた人々がその呼びかけに答えて、主イエスの後に従ったという出来事なのです。

ご覧になるイエス
「イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師だった」。 主イエスが、ガリラヤ湖のほとりを歩かれている時でした、そこには、漁師たちが漁をしている、いつもと同じ光景が繰り広げられていました。主イエスは、人々の周囲のことには、目もくれずに網を何度も何度も湖に向かって打っているその姿を見つめられるのです。
この箇所は、よく読んでみると面白い表現がなされています。「網を打っているのをご覧になった。」ということが述べられ、付け加えるように、「彼らは漁師だった。」ということが言われているのです。原文を読んでみますと、ここに「なぜなら」という言葉が出てきます。「湖で網を打っているのをご覧になった。なぜなら彼らは漁師だったから。」というような文章なのです。漁師であることは網を打っていることに理由として付け加えられているのです。主イエスは「漁師」ということに注目したのではありません。何よりも先に、主の目に飛び込んできたのは「網を打っている姿」なのです。
主イエスが宣教の初めにご覧になったのは、ただ、自分の知恵と力を駆使して、日々の糧を得ることに夢中になっている人々の姿でした。生きていくことに必死になり、主イエスがそばを歩いていることに気づかない人々の姿、主イエスが近づいていることに目も向けず、網の手入れに夢中になっている人々の姿でした。
「網」というのは、私たちの生きる手段です。私たちは、しばしば「網」のことだけにかかずらうのです。功利主義的価値観が支配する現代社会にあっては、得にそうであると言えるでしょう。しかし、そのような中で、主イエスがそばに来られていることに気づかないことがある。神の支配がこの世に到来していることに気づかないことがあるのです。主は、その姿をじっとご覧になるのです。

声をかける
そして、そのような者たちに、主イエスは声をかけるのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。最初に声をかけたのは、主イエスでした。福音書を読み進めて行きますと、主イエスに声をかける人々が出てきます。主イエスを求めて、叫び声を上げる人がいます。しかし、主の業の最初において、声をかけられたのは、人々ではなく主イエスなのです。この時、ガリラヤ湖の漁師たちが主イエスを必要としていたのではありません。イエスに声をかけるどころか、目を向けることすらなく、湖に向かって網を打っていたのです。しかし、主イエスは、そのようなものたちを呼び求められたのです。 私たちは、ともすると、自分自身が主イエスを求めていると思うかもしれません。自分の求めによって聖書を読み始めたし、教会に行き始めたと思うかもしれません。洗礼を受けるという決断を下したのは自分の意志であるし、信仰を持ち、神の民に加えられたということには、自分の選択と決断があると思うかもしれません。確かにそういうことも言えるでしょう。けれども、その根底において、主イエスが先ず私たちを求められ、声をかけられるのです。その主の呼びかけから、神の業が始まっているのです。
しかも、この弟子の召命は、主イエスがなされた最初の御業でした。主イエスは何をするよりも先に弟子となる人々を求められたのです。私たちは自分が生きていくための業に熱心になるあまりに、主イエスを求めていないかもしれません。しかし、主イエスはそうではない、ご自身の業、この世にあって、神の御旨をなそうとする時、最初に私たちを求められているのです。

「人間をとる」漁師
なぜ、主は、人々を求められたのでしょうか。一度だけではありません。シモンとアンデレを弟子にした後、ヤコブとヨハネを見るなり、直ぐに、もう一度、弟子を招いているのです。それは、この主の業が、私たちと無関係に行われるのではないことを示しています。私たちの思いを変え、弟子とすることで、御業を行われるのです。私たちの日常のただ中で、私たちを召し出し、宣教を行われるということを示しているのです。
主イエスは、この時、「人間をとる漁師にしよう」と言われています。ここで注目したいのは、彼らは「漁師」として召されているということです。彼らは、そもそも魚をとる漁師でした。その日を生きるための魚を獲るためだけに網を打ち続けていた人でした。彼らは、それまでの日々と同じように、湖に網を投げていたのです。しかし、その彼らの日常のただ中で、主の声を聞くのです。そして、彼らは「人間をとる」漁師へと召されるのです。「人間をとる」と言うと、聞こえが悪いですが、ここで言われているのは、人々を主イエスの支配の下に招くものとなるということです。主の後に従うことによって、自分が招かれたように、人々を招くということです。それは、この世で始まっている神の国を、その歩みを通して人々に示す歩みをなすということです。キリスト者としての歩みとは、まさに、このようなものです。世の業の中にあって、神の御心がなることを願い、そのために歩むのです。そのような者の歩みは、自然と、世に神の国を示すものとなります。私たちがそのような歩みをなす時、決して自分一人で歩いているのではなく、先を歩まれている主イエスの後を歩んでいるからです。

すぐに従う
 この声を聞いたときに、「二人はすぐに網を捨てて従った」とあります。
しかし、これは、私たちとって非常に不可解な話です。果たして、大の大人が、唐突に「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」と言われて、すぐについて行くなどということがあるのでしょうか。私たちが、この箇所を呼んで不可解に思うことの一つの理由は、「すぐに」従ったという、出来後の唐突さにあるのではないでしょうか。 聖書には、ここでの漁師たちのことについて何も書かれていません。「この人に従おう」という決断に至るまでに、どのような心の動きがあったのかが記されていないのです。主イエスのお姿に何か引きつけられるような魅力があったとか、今の生活を続けるよりも、この人について行く方が良い人生が遅れると感じたとか、そういうことが記されていないのです。ただ、声をかけられて、「すぐに」従ったということだけなのです。私たちの人間の目から見ればこの時の弟子たちの態度は愚かしいことのように思えるのです。しかし、この「すぐに」、従うということにこそ、主に従うことの「真っ直ぐ」さが現されているように思います。
私たちは「すぐに」従うということをしないことがあります。「真っ直ぐ」ではないのです。主の業をなすのに、自分の中であれこれと言い訳を考える。又、洗礼を受けるのに様々な条件を付けたり、動機を求めたりするのです。しかし、主に従うということにおいては、この「すぐに」ということが重要なのです。ここに、主に呼ばれたものの応答ということが示されています。

後についていく
従うというのは、後について行くということです。この後、主イエスは、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのをご覧になり、すぐに彼らを呼びます。それに対して、この二人は「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」とあります。丁度、カモの雛たちが先を歩く親の後に無我夢中でついて行くように、漁師たちは、主イエスの後について行ったのです。従った漁師たちの動機は問題ではない。もし人々に動機があるとするならば、主イエスに「呼ばれた」ということだけなのです。
もしかすると、私たちは、自分の事情を考えることに夢中になり、自分の中に動機を見つけようとしてしまうかもしれません。自分の中で、様々な思いを巡らす。従って行くことが果たして自分にとって損なのか得なのかを考える。しかし、そのようにして、自分がついて行くべき方かどうかを判断する中で、自分自身が主になってしまうのです。そのような思いにのみ縛られていたのであれば、決して主の後に従っているとは言えないのです。
伝道者が常に問われるのは、「召命」ということです。これは、まさに「主に呼ばれた」ということであります。もちろん献身するに至るのには、それぞれに、様々な動機があることでしょう。しかし、伝道者になる根本的な理由は、主から「呼ばれた」ということにつきるのです。ですから、皆その事を問われ、祈り求めるのです。 しかし、これは、牧師になるものについてだけ言えることではありません。例えば、求道者の方が、キリスト者となる時に問われることです。キリスト者とされた人が、主の業のために教会の奉仕をなそうとする時に問われることであります。私たちが、世で、キリストを証しようとする時に問われることです。私たちが主の後に従う時、いつでもこのこと、「主に声をかけられた」ということ、そのことを、私たちではなく、主が望んでいるということが決定的に重要なのです。

網をすてて
 ここで、もう一つ注目すべきことは、網を捨てて従ったということです。ここにも主の後に従うということが現れていると思うのです。漁師たちにとって網とは、自分の生活を支えるために欠かせない道具でした。この世で、自分の力で生きていこうとする時、不可欠なものです。それを捨てるのです。
網だけではありません。二度目に声をかけられた、ヤコブとヨハネは、父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して去って行くのです。最も近い存在、自分育てて来てくれた父親を残して去って行くのです。ヤコブとヨハネには雇い人がいたことも記されています。雇い人を残していくことは、時に、家族を残していくことよりも、気が引けることかもしれません。人を雇うということは、自分のなすことが、自分と家族だけではなく、その人と、その家族のことにまで影響するということです。しかし、それらを考える間もなく、今までの歩みを捨て去るようにしてついて行くのです。
ここでは、繰り返し、捨てるということが言われているのです。私たちは、様々なものを持ったまま、主に従えると思うのであれば、それは誤りです。主に従う時には、必ず「捨てる」ということが伴うのです。主の後に従うという時に、自分自身が持っていた様々なものを所持し続けるとするならば、それは、自分の業の延長で主の業に励むことになるでしょう。
もちろん、聖書は、私たちに、自分の親やのことや、この世の務めのことに無責任になり、それらを放棄して隠遁生活を送ることを奨励しているのではありません。この世で生きていく限り、それらのことは私たちがいつも取り組まなくてはいけないことです。 しかし、主に従うことにおいて、それが関心事になってはならないのです。しばしば、私たちの歩みは、網を打つことにだけ関心を寄せ、その手入れにかかずらうということになってしまいやすいのです。しかし、主の業をなそうとする時、主に従う歩みをなそうとする時、それらを捨てることになるのです。

十字架の主に召されて
網を捨てるということは、私たちには、非常に難しいことのように思います。しかし、この御言葉によって、私たちが自分の力で必死になってこの世のしがらみを断ち切ろうとするのであれば、それは間違いです。それは、福音を律法として読んでいることになるでしょう。
弟子たちが、すぐにしたがった時、網を持って行こうとか、残していこうとか、父や雇い人をおいていこうとか、いちいち、考えなかったでしょう。主に声をかけられ、すぐに従った時、それらのものは捨てられていたのではないでしょうか。主イエスによって求められているということにおいてのみ、私たちは可能なのです。
この後、主の後を歩んだ弟子たちの歩みは、決して十分主に従ったと言えるようなものではありませんでした。後に弟子のペトロは、何もかも捨てて主に従ってきた歩みの効果を計算して自らを賞賛しているかに見える言葉を発します。イエスがご自身の道の行く先に十字架を示された時に、それをとがめるのです。弟子たちの歩みは主の道が進めば進む程、どんどん主の道から、それていったような歩みであったとさえ言えるのです。そして、この道の最後において十字架においては、誰も、主と共にいなかったのです。
しかし、主イエスは、そのようにしてしか従い得ない弟子たちのために、十字架に赴かれたのです。そこで、この方が命を捨てて、すべてを捧げて下さっているのです。主イエスお一人で、十字架においてすべてを捧げて下さった方なのです。
そのような主イエスの招きだからこそ、私たちはこの道を生きることが出来るのです。主イエスがそのような私たちを真っ直ぐに見つめられている。そして、招いておられるのです。

おわりに
私たちの歩みは日々、必死に網を打っているようなものかもしれません。しかし、主イエスはそのような私たちをご覧になり、呼びかけて下さっているのです。すべてを捨てて下さった方が、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と語っておられる。私たちを求めているのです。ですから、私たちはこの声に応えて、この方と共に、この方の後を歩むのです。私たちは、自分を豊かにするためだけにあくせくするのではありません。自分の力で、神の国を実現しようとするのではありません。例え、十分に従い得ないものでも、そのようなものを召して下さる方、そのもののために全てを捧げて下さった方の後に従うことにおいて、主の業に励むものとなるのです。

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