夕礼拝

大いなる者

「大いなる者」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第58章1-12節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章17-20節
・ 讃美歌 : 412、204

はじめに
 現在、夕礼拝において、「山上の説教」を読み進め、主イエスの御言葉に聞いています。本日は5章17~20節を通して共に神様の御言葉に聞きたいと思います。前回は13~16節を共にお読みました。そこでは、「あなたがたは地の塩、世の光である」という主の御言葉が語られていました。地の塩、世の光は、この世によい味をつけ、明るく照らすという働きがあります。16節の言葉で言えば、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」ということです。主イエスを信じ、従っていくキリスト者は、人々の前で「立派な行い」をしていくのだと主は語っております。本日の箇所もその、「立派な行い」ということについて語っております。ユダヤの人たちにとって、「立派な行い」とは、律法の教えを忠実に守って生きることでした。「律法や預言者」という言い方がここに出てきますが、これは、私たちの言葉で言えば旧約聖書のことです。旧約聖書は、その最初の5つの書物が「律法」、そしてイスラエルの歴史や預言者たちの教えを記した部分が「預言者」、それ以外が「その他」という三つの部分に分けられるということが、この当時既に定着していました。律法と預言者というのは旧約聖書の主要部分なのです。旧約聖書に語られていることに従って生きること、特に律法を守って生きることこそ、神様の前に正しい、立派な行いであると誰もが思っていたのです。主イエスは人々がそのような考えを持つ中で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためだ」とお語りになりました。

律法学者とファリサイ派
 当時、「律法学者やファリサイ派の人々」は律法の教えに精通し、それを完璧に守っている、つまり立派な行いに生きている者の代表と思われていました。律法学者やファリサイ派は旧約聖書の律法を日夜学び、それをきちんと守り行っていくためにはどのように生活すべきかを研究し、そしてそれを実践すると共に人々に教えていたのです。「立派な行いをしなさい」ということは、あの律法学者やファリサイ派の人々のようになりなさいということだろう、と誰もが思っておりました。ところが主イエスは20節で「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。「義」とは、正しさ、正しい行いという意味です。あなたがたの正しさが、あの律法学者やファリサイ派の人々よりもまさっていなければ、天の国に入ることができない、神様の救いにあずかることができない、と主イエスは言われたのです。律法学者やファリサイ派の人々以上の、正しいこと、立派なことをしなければならない、これは大変なことだ、いったいどうしたらよいと言うのだろうか、と人々は思ったでしょう。21節から5章の終わりまでは、律法のいろいろな教えをとりあげて、「このように命じられている。しかし、わたしは言っておく…」という形で、主イエスの教えが語られていきます。そこに、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義の姿が教えられていくのです。そして、本日の箇所より語られている事柄は、主イエスを信じ、従っていく信仰者が、地の塩、世の光として、人々の前で示すべき「立派な行い」とはどのようなものか、ということが語られています。主イエスはここで私たちに信仰者は立派な行いをする、そのことを求めておられます。立派な行いということは難しい事柄です。聖書や教会の教えを知らない世間の人々は、信仰者、特にクリスチャンはいわゆる立派な行いをする人だと思っている傾向があると思います。自分はそんな立派な人にはなれないから信仰者にはなれない、と言う人もいます。もう一方では、クリスチャンなんて、立派な行いをしている者のふりをしている偽善者だ、と思っている人もいます。そういう世間の味方に対して私たちは、クリスチャンは決して立派な人間ではないし、立派な行いができなければクリスチャンになれないなんていうことはない。私たちは自分が立派な人だなどとは思っていない。むしろ自分が罪人であり、その罪を主イエス・キリストによって赦していただいたのであって、赦された恵みへの感謝に生きているのだ、と言います。聖書の教える救いとは、私たちが立派な行いをする正しい人になることによって得られるものではなくて、主イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかり、身代わりになって死んで下さったことによって、恵みとして与えられるのです。だから私たちは罪人であるままで、その救いにあずかるのです。それがキリストの福音、喜びの知らせです。人は律法の行いによっては義とされない、キリストにおける神の恵みによってのみ義とされるのです。そのことを信じるのが私たちの信仰です。そのことを前提としつつ、主イエスはここで私たちに、信仰者として立派な行いをせよ、と命じておられるのです。主イエス・キリストによる救いにあずかって生きる信仰者は、よい行い、立派な行いをしないで良いというのではありません。むしろそれを熱心に追い求めるのです。信仰者としての生活を整えようとするのです。そのことをおざなりにしてしまってはならないのです。主イエスの18節の御言葉はそのことを示しています。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」とあります。律法を、十戒をしっかりと守り行うことは、主イエスを信じる信仰者たちにも求められているのです。けれども主イエスがここで語っておられることは、クリスチャンも律法、十戒をしっかり守って歩みなさい、という命令ではありません。主イエスは「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。主イエスは律法をただ廃止しない、と言われたのではなく、それを「完成する」と言われたのです。それはどういうことを意味しているのでしょうか。主イエスが来られたことによってもたらされた律法の完成とはどのようなことなのでしょうか。「完成する」と訳されている言葉は、前の口語訳聖書では「成就する」となっていました。「わたしは律法を成就するために来た」とも読めるのです。「完成する」というと、未完成なものに手を加えて完成する、という感じになりますが、「成就する」というと、律法の目指しているところを実現するという意味になります。この言葉はむしろそのように理解した方が良いと思います。主イエスは、より完成された律法をお定めになるためではなくて、律法が目指していたものを実現なさるために来られたのです。

主イェスの戒め
 それでは主イエスはどのようにして、律法が目指していたものを実現なさったのでしょうか。主イエスは数多くの律法の全体を二つの愛の戒めに要約されました。心から神を愛すること、そして隣人を自分のように愛することです。律法の目指していたものとは私たち人間が、神様の救いにあずかった者として、神様の民として神を礼拝し、愛する者として生きることです。自分を愛して下さる神を覚えることがなければ、神様の前に打ち砕かれることがなければ、隣人を愛するということなどできないでしょう。神様が自分に与えて下さる隣人と共に生きることもできないでしょう。この二つの愛の戒めは相互に関連し合っています。この二つの愛の戒めこそ律法の成就であり、完成です。この主イエス・キリストの教えが始めの頃の教会から大きな意味を持ちました。使徒パウロの伝える言葉の中にこのようなものがあります。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙第6章2節)互いに重荷を担うことこそ、キリストの律法を全うすることになると、完成させる、成就させることになるというのです。私たちは自分だけでは担い切れない、人間の力だけでは背負いきれない重荷を背負っています。私たちの人間関係においても一方だけが重荷を持っているのではありません。お互いに重荷を持っています。時に、お互いが相手に対して重荷になってしまう場合もあります。そのような中で、互いの重荷を担うことは愛の業であり、教会の交わりではないでしょうか。重荷を互いに押し付けるのではなく、一方に重荷を押し付けるのではなく、共に互いに自分から歩み寄って、相手の重荷を担おうとする、これが聖書の示す愛の業です。この愛の業を担う者が律法を全うするのです。けれども、私たちにはとてもそのようなことなど出来ないと呟くのではないでしょうか。そのようなこと分かっているけれども、できないと思われるでしょう。

主イェスこそ
 そのように呟き、嘆く前に私たちは主イエス・キリストこそこの人間の重荷を背負って下さったことを覚えたいと思います。17節の最初は「わたしが来た」とあります。そして、この方が十字架において命をささげ、復活されました。律法の成就、完成とは、主イエスの十字架の死と復活において成し遂げられました。 この主イエスの身代わりの死によって、私たちの罪が赦されたのです。 父なる神様は主イエスを死者の中から復活させ、新しい命を与えて下さいました。主イエスによる罪の赦しを与えられた者が、神様と共に新しく生かされ、死にも勝利する恵みの内に置かれることがこの復活によって示されたのです。この主イエスの十字架の死と復活によって、律法の目指すこと、私たち人間が、神様の救いにあずかった者として、神様の恵みの下で、神様の民として生きることが実現したのです。主イエスはこのことのためにこの世に来られました。律法と預言者が差し示し、実現しようとしてきたことが、神様の独り子主イエスの十字架と復活において成し遂げられたのです。主イエスによって実現しているこの恵みの下で、このイエス・キリストの出来事を信じ、神様の民として生きることこそが、律法の完成にあずかることです。主イエス・キリストを信じる信仰者として私たちがなすべきよい行い、立派な行いとは、このことです。私たちは、信仰者として励むよい行いの基準は、ここにこそ求めなければならないのです。クリスチャンはよい行いに励む、この世の価値基準で測る私たちのなすよい行いを決めるのではありません。私たちのなすよい行いのあり方を決めるのは私たちではないのです。主イエス・キリストが、そのご生涯と、十字架の死と復活によって成し遂げて下さった律法の成就、完成、それこそが、私たちのなすよい行いを決める基準です。私たちは喜びをもって、この主イエスを受けいれていくのです。一つ前の16節では「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とあります。私たちのよい行いが、天の父なる神様への信仰と讃美を生んでいく、そのようなよい行いをこそ主は求めておられるのです。その行いとは、独り子主イエスの十字架と復活によって、神様が私たちの罪を赦して下さった、その恵みの内に、神様の民として生きる者の行いです。神様は「天の父」とあがめる。その喜びの中を私たち感謝して生きる姿を見る人々の中に、私たちの天の父をあがめる思いが与えられていくのです。

主イェスの義によって
 私たちに求められているのは、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現した神様の恵みによって生きることです。「あなたがたの義が、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」というみ言葉が語っているのもそのことです。律法学者やファリサイ派の人々は、自分が律法をどれだけしっかりと、忠実に守っているか、ということを、自分の救いの拠り所としているのです。その自分の義、自分の正しさを立てようとしているのです。しかし主イエス・キリストを信じる信仰者は、そういう自分の義、自分の正しさを拠り所として生きるのではないのです。私たちを支えている義は、主イエス・キリストの十字架と復活によって神様が与えて下さった義です。それは、人間が努力してうち立てるどんな義にもまさる、神の義です。その神の義をいただき、それによって生かされ支えられて歩むことこそ、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる、主イエスを信じる信仰者の義なる生活なのです。この神様から与えられる義によらなければ、天の国に入ることは決してできないのです。天の国とは、神様の恵みのご支配です。そこに入るとは、その恵みのご支配の下に生きる者となることです。それが、救いにあずかることです。この天の国、救いに私たちはどのようにして入ることができるのか。それは、私たちが自分で正しい者、義なる者になることによってではなかったのです。この天の国を与えられる人については、あの八つの幸いの教えの最初と最後に語られていました。「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」「義のために迫害されている人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」。心の貧しい人というのは、自分の中に豊かさ、正しさ、誇るべきものを何も持っていない、自分の義において徹底的に貧しい者です。そういう人は、神様が与えて下さる義によりすがるしかないのです。義のために迫害される人も、自分の義を人々に理解してもらえない、認めてもらえないという現実の中で、人間にではなく、ただ神様に支えを求めるしかないのです。天の国、神様の恵みのご支配は、そのような者にこそ与えられるのです。律法学者やファリサイ派の人々の義では、天の国に入ることができない。それは、彼らの義がまだ足りないからではありません。彼らは、自分の義を立てることに夢中で、神様からの義、主イエス・キリストによって与えられる義を求めようとしていないからなのです。
 私たちのよい行いによって救いを得るために、地の塩、世の光として、よい行いに励むのではありません。私たちがよい行いに励むのは、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた、罪の赦しと死への勝利の恵み、その神様からの義にあずかり、父なる神様の子として生きることを許された者として、その恵みに応えて生きるためです。自分の義を立てるのではなく、神様の義によって生かされて歩むのです。

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