主日礼拝

命に至る水

「命に至る水」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第49章7-13節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第4章1-26節
・ 讃美歌:8、155、531

水分補給と心の渇き
 このごろは、少し暑くなると、「熱中症予防のために水分を十分にとってください」などと天気予報でも言います。こういうことは以前はありませんでした。私が子供だった頃は、むしろ逆に、「運動の時は水を飲むな。水を飲むとよけい疲れる」などと言われており、「すぐに水を飲みたがるやつは根性が足りない」、などとも言われていました。今から思えは、全く根拠のない、ずいぶん乱暴なことがまかり通っていたものだと思います。世間の常識も時代と共に変わっていくのだということを実感させられます。「水分をとる」ことについてのこのような常識の変化は、医学的知識の進歩のみによることではないように思います。その背後には一つには、温暖化をはじめとする気候変動による水不足、水資源の枯渇への危機感、不安があるのではないでしょうか。「湯水のごとく」という言葉があるように、日本では水は無尽蔵でありタダであると思っていたのが、そうではなくなってきていることを誰もが感じているのです。また世界への視野が広がってきたことによって、清潔な水が確保できずに健康を害している人々が沢山いることも分かってきました。「きれいな飲み水は貴重だ」という感覚は以前よりも格段と高くなっているのです。
 そのような水資源に対する危機感の高まりとあいまって、現代を生きる私たちが深く感じているのが、心の渇きです。日々の生活において、心の潤いが失われ、気持ちに瑞々しさがなくなり、カサカサに乾いた、干涸びたような思いで毎日を送っている、と感じることが多くなっています。化粧品の宣伝は軒並み「保湿効果」を謳っています。お肌がカサカサになるのを防ぐというのです。しかしそのお肌の奥にある心がカサカサに乾いてしまっているなら、表面に何を塗ってみても効果は見込めないのではないでしょうか。心のカサカサがお肌にも現れて来るのです。「水分補給」にやたらにこだわるようになった今の風潮の背後には、この心の渇きという現実があるように思うのです。

命の水の泉
 本日皆さんとご一緒に読む聖書の箇所は、新約聖書ヨハネによる福音書第4章です。1~26節という少し長い部分を読んでいただきましたが、その中心は14節です。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが 与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。本日のお話の題「命に至る水」もここから取りました。「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」ような水、つまり一時渇きを癒すコップ一杯の水ではなくて、常に新鮮な水が湧き出す泉をあなたがたに与える、とイエス・キリストが語っておられるのです。私たちが今求めているのはこのような泉ではないでしょうか。私たちを内面から常に潤し、瑞々しさを保ってくれる、そんな泉を心の内に持つことができたらどんなによいだろうか、と思うのです。

ヤコブの井戸で
 「命に至る水のわき出る泉」のことをもっとよく知るために、この第4章の話を見ていきたいと思います。イエス・キリストは今、5節にあるように、シカルというサマリアの町に来ています。その町の近くに「ヤコブの井戸」があり、イエスは旅に疲れてその井戸のそばに座っておられたのです。正午ごろのことである、と6節にあります。するとそこに、一人のサマリアの女が水をくみに来ました。イエスは彼女に「水を飲ませてください」と言いました。この地域の井戸は、私たちが以前知っていたような手動式ポンプのついたものでも、あるいはつるべのあるものでもなくて、汲むための器を持って来なければ水を飲むことができないものでした。それゆえにイエスは彼女に「水を飲ませてください」と頼んだのです。しかしそれを聞いた彼女は驚きました。9節には彼女が「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言ったとあり、その理由として「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」とあります。これは歴史的ないきさつによることで、細かく説明していると長くなるので省略しますが、要するにユダヤ人とサマリア人とは犬猿の仲であり、交際しない、口もきかない、ましてものを頼んだりはしない、というのが普通だったのです。それゆえに彼女はイエスが自分に水を飲ませてほしいと頼んだことに驚いたわけです。イエスは驚く彼女にこう言いました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。謎のような言葉ですが、要するに、「本当ならあなたの方がわたしに水を求め、わたしが水を与えるのだ」ということです。イエスのこの言葉によって、彼女の心は騒ぎ出しました。この人は水を求めているただの旅人ではない、と感じ始めたのです。それは彼女が11節で「主よ」と語りかけたことに示されています。しかし彼女はイエスが水を与えるということの意味が分かりません。だから「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」と尋ねたのです。それに対する主イエスの答えが、13、14節です。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし」と先ほどの14節に続きます。「井戸の水は飲めば一時渇きを癒すがしばらくすればまた渇きを覚えていく。しかし私が与える水は、その人の内で泉となり、常に新たに水が湧き出すのだ。だからその水を飲む者はもはや渇きを覚えることがないのだ」と主イエスはおっしゃったのです。

とんちんかんな願い
 しかし彼女はそのお言葉の意味が分かりません。聞き取ったのは、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」ということだけでした。だから「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもよいように、その水をください」と言ったのです。彼女が考えているのはあくまでも飲み水です。「一度飲めばもう渇くことがない水があれば便利だ。そうすれば毎日この井戸まで水を汲みに来なくてすむ。その水が欲しい」と思ったのです。これは、イエス・キリストが語っておられることを理解していないとんちんかんな求めです。しかしこれと同じことを私たちもするのではないでしょうか。私たちは今こうして教会の礼拝に集っています。ここへ来た動機やきっかけはそれぞれ様々でしょうが、共通しているのは、神様の恵みあるいは救いを求める思いを持ってここへ来た、ということでしょう。そんなものがあるのかどうかも分からないがもしあるなら、という人も含めて、私たちは皆、神様による恵み、救いを求めてこの場へと集まっているのです。しかし私たちが、「これが神様の恵み、救いだ」と思っていることと、神様が、また救い主イエス・キリストが私たちに与えようとしておられる恵み、救いとが食い違っていることもしばしばです。私たちは多くの場合この女性のように、苦しみから逃れ、自分の生活がより楽になり、便利になることを「恵み、救い」として求めています。そしてそういうものが得られないと、「教会に来ても恵みも救いも得られない」と思ってしまいます。しかそれは私たちがこの女性と同じように、とんちんかんな求めをしているからです。つまり大事なことは、「神様の恵みや救い」の内容を自分で「このようなものだ」と決めてかかるのでなく、神様が私たちにどのような恵み、救いを与えようとしておられるのかをまずはしっかりと聞き取っていくことなのです。

愛への渇き
 主イエスはこのとんちんかんな求めに対して、全く別のことを語り始めます。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言ったのです。彼女は「わたしには夫はいません」と答えます。すると主イエスは「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」と言われたのです。この会話によって、この女性のこれまでの歩みが明らかにされています。彼女は、次々に五人の男と結婚しては離婚してきたのです。そして今、正式な結婚関係にないままで、六人目の男と同棲している。ここに、彼女の根本的な渇きが示されていると言えるでしょう。彼女は、愛に飢え渇いているのです。真実に愛し、愛されることを誰よりも強く願い求めてきたのです。その願いのゆえに、彼女は次々に相手を裏切り、あるいは裏切られ、相手を傷付け、自分も傷付くという体験を繰り返してきました。切に求めている愛はついに見出すことができず、罪と、罪のもたらす悲しみばかりが彼女の人生に積み重なっていったのです。そして今、一人の男と共に暮らしながら「私には夫はいません」と言うしかない生活をしている。そこに、彼女の深い渇きが、カサカサに干涸びてしまった心の有り様が伺えるのです。そしてこのような歩みの結果、彼女は世間の人々から軽蔑され、白い目で見られ、仲間はずれにされています。正午ごろという真っ昼間に水を汲みに来たことにそれが現れています。普通水を汲みに来る時間は朝か夕方です。真昼の炎天下には来ないのです。彼女がそのような時間に来たのは、人目を避けるため、人と顔を合わせたくないからです。そこにも、彼女のかかえている深い悲しみが現れています。彼女は、求めていた愛を得ることができず、隣人とのよい関係をも失い、深い孤独の内に、乾いた心をかかえて生きているのです。

イエス・キリストとの出会い
 主イエス・キリストは、彼女の渇きを、悲しみを全てご存知でした。それを知っているがゆえに敢えて「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言ったのです。彼女が一番触れて欲しくないと思っていること、心の傷として抱えていること、要するに痛いところに敢えて手を触れておられるのです。それは、そのことによってこそ、彼女と本当に出会い、関わることができるからです。本当に出会い、関わることによってこそ、命に至る水、生きた水を与えることができるからです。主イエス・キリストはそのようにして私たち一人一人と出会おうとしておられます。主イエスは私たちの最も痛いところ、人には決して見せたくないと思い、必死で覆い隠している、その根本的な問題、罪において私たちと出会おうとなさるのです。私たちがそれを避け、上っ面の、自分を装うことができる所でのみ主イエスと関わろうとするなら、主イエスが与える生きた水、命に至る水を得ることはできません。私たちの内で泉となる、命に至る水は、私たちの最も深い罪と、それによる深い苦しみ悲しみ、渇きの中でこそ与えられるのです。

礼拝への渇き
 自分が隠し持っている最も深い問題、苦しみ、渇きを主イエスによって示されたこの女性は、毎日水を汲みに来なくてすむように、という上っ面の求めを忘れ、本当に大事な、根本的な事柄に目を向けていきました。その時彼女はこのように語り始めたのです。19、20節です。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。彼女は神様を礼拝することについて話し出したのです。神様のみ前に出て祈り、賛美する礼拝はどこでこそなされるべきなのか、ということです。私たちはこれをまことに唐突に感じます。しかし、五人の男を次々に替え、欲望の赴くままに生きてきたこの女性の心の奥底には、礼拝への願いが、神様を心から信じてみ前に膝まづき、祈り、み言葉を聞き、神様の恵みによって生かされて歩みたい、という願いが隠されていたのです。それは私たちも同じだと思います。私たちが抱えている様々な問題、苦しみ、悲しみ、罪の根本には、私たち自身も気づいていない、神様との関係の破れがあるのです。そこが整えられなければ、問題の根本的な解決はないのです。そのことをアウグスティヌスという人が『告白』という本の中でこのように語っています。「あなたは(神は)私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです」。このアウグスティヌスは若い頃、自分の欲望の赴くままに生きていました。二十歳前の学生時代にある女性と同棲し、子供も生まれたのです。しかし結局その人とは別れざるを得ませんでした。彼の人生はこのサマリアの女と重なります。彼もまた、深い渇きの中で生きてきたのです。その渇きは、神様との関係を整えられることによって、つまり神様を礼拝する者となることによってこそ癒され、生きた水によって潤されていったのです。

正しい礼拝?
 このサマリアの女性が語ったのは、礼拝すべき場所はどこなのか、ということです。「自分たちの先祖はこの山で礼拝したが、あなたがたはエルサレムこそ礼拝すべき場所だと言っている」とあります。これがサマリア人とユダヤ人の対立です。それぞれに礼拝すべき場所を定め、こちらの礼拝こそ正しい礼拝だ、と主張して対立していたのです。これを私たちに当てはめて言えば、世の中にはいろいろな宗教があり、キリスト教もその一つだ。いったいどの宗教が正しい宗教なのか、本当に神様を礼拝することができるのはどの宗教なのだろうか、という問題に置き換えることができます。神様を礼拝することを真剣に求めるようになると、誰でもそういう問いに直面します。なぜ教会であってお寺ではないのか、という問いです。ここで主イエスが語っておられることはちょっと複雑です。22節には「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ」とあります。これは明らかに、サマリア人の礼拝ではなく、ユダヤ人の礼拝においてこそ本当に神様を礼拝することができる、ということです。これを私たちの問いにあてはめるならば、「どの宗教でもよいのだ。宗教の違いは登る道の違いであって、どこから登っても頂上は同じだ」という考えは間違いだということです。何を信じるか、どのような礼拝をするかは、同じ山における登る道の違いではなくて、山そのものの違いなのです。だから宗教はどれでもよいわけではない。本当に神様を礼拝することができ、命の水をいただくことができる宗教、礼拝を私たちは慎重に吟味して選ばなければならないのです。

神が与えて下さる礼拝
 しかしここで主イエスが言っておられるのはそのことだけではないし、むしろ中心はもう一つのことにあります。それは21節の「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」ということです。「この山でもエルサレムでもない所で」の礼拝が与えられる、それは、お寺でも教会でもない第三の場所での礼拝、ということではありません。その礼拝のことが23、24節ではこのように語られています。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」。この山でもエルサレムでもない所での礼拝は、霊と真理とをもってなされる礼拝です。「霊と真理をもって」とは「形だけではなくまごころからの」という意味ではありません。この「霊」は神様の霊であり、真理は神様の恵みの真理です。ですから「この山でもエルサレムでもない所で、霊と真理とをもって礼拝する」というのは、人間が自分の思いで営んでいく礼拝ではなく、神様がご自身の霊の働きと恵みとによって与えて下さる礼拝、ということなのです。それこそが、父なる神様が求めておられる礼拝なのだと主イエスは言っておられるのです。つまり、まことの礼拝は、人間がいろいろ工夫して築き、そしてあちらの礼拝よりこちらの礼拝の方が本物だぞと主張していくようなものではないし、また私たちが自分の判断基準であちらの礼拝とこちらの礼拝を比較して本物はどちらか、と判定するようなものでもないのです。まことの礼拝は、神様ご自身によって与えられるのです。

救い主キリストによって
 25節のサマリアの女性の言葉はこの流れの中でこそ理解できます。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」。「一切のことを知らせる」とは、ここではまことの礼拝についてです。まことの礼拝とは何であるかを告げ知らせ、それを与えて下さるのが「キリストと呼ばれるメシア」つまり救い主なのです。救い主キリストが来て下さることによってこそ、神様を心から信じてみ前に膝まづき、祈り、み言葉を聞くまことの礼拝が与えられ、私たちの内で命に至る水がこんこんと湧き出す泉となる生きた水が与えられるのです。彼女は、その救い主の到来を待っています。彼女の、そして私たちの渇きの根本には、この救い主キリストを求める渇きがあるのです。私たちは、自分ではそのことに気付いていないかもしれませんが、神様を信じて礼拝し、祈り、神様とよい関係をもって生きることを心の奥底において求めています。つまりまことの礼拝をこそ渇き求めています。そしてそれは、私たちにまことの礼拝を与えて下さる救い主との出会いをこそ渇き求めているということなのです。
 主イエスはこの女性に、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」とおっしゃいました。私こそが、あなたにまことの礼拝を与える救い主、あなたの中で泉となる命の水を与える者だと宣言なさったのです。聖書が私たちに告げているのはこのことです。主イエス・キリストは、私たちと神様との関係を回復して下さる救い主として、つまり私たちの罪を赦し、心から神様を礼拝して生きる者として下さる方としてこの世に来られました。主イエスは私たちの一番痛い所、触れて欲しくないと思っている罪において私たちと出会おうとなさいます。しかしそれは私たちを責め、裁くためではありません。主イエスはその私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そのようにして私たちの罪を赦し、神様とのよい関係を回復して下さるのです。この主イエス・キリストとの出会いを、私たちは教会の礼拝において与えられます。主イエスはそこで私たちの一番深い所における罪と、それによる心の傷、苦しみ悲しみに触れ、そこに、癒しを、罪の赦しを与え、命の水によって私たちを潤し、安らぎを与えて下さるのです。この命の水は、一度飲めばもうここへ来なくてもよくなるような水ではありません。むしろ私たちは毎週の礼拝において、救い主イエス・キリストと出会い、命の水であるみ言葉を新たにいただき、それによって潤され、新しく生かされていくのです。主イエス・キリストの父なる神様を礼拝する者となることによってこそ、常に新鮮な水が湧き出す泉を心の内に持って生きることができるのです。

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