夕礼拝

三つの誘惑

「三つの誘惑」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第91編1-16節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第4章1-13節
・ 讃美歌:142、377、79

聖霊に導かれて
 イエスが洗礼を受けると聖霊が降り、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた、と3章21、22節に記されていました。ルカによる福音書はイエスの洗礼と本日の箇所との間に系図を挟んでいますが、物語としては本日の箇所はイエスの洗礼に続いていると言えるでしょう。そのことは、4章1節で「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」とあることから分かります。「ヨルダン川からお帰りになった」とありますが、ルカはマタイやマルコとは異なり、イエスの洗礼がヨルダン川における出来事であったとは記していません。ルカがヨルダン川について述べているのは、イエスの洗礼の記事よりさらに遡った3章3節で、「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とありました。したがってルカによる福音書の読み手は、つまり私たちは4章1節に「ヨルダン川からお帰りになった」と記されていることによって初めて、イエスが洗礼を受けたのがヨルダン川であったことを知らされます。そして聖霊に満ちてイエスがヨルダン川から帰ってきたことが1節で語られているのです。このように、イエスの洗礼と本日の箇所は物語として結びついているのです。
 聖霊に満ちてヨルダン川から帰ってきたイエスは、「荒れ野の中を“霊”によって引き回され」たとあります。この「霊」とは聖霊のことです。ですから「荒れ野の中を聖霊によって引き回された」ことになりますが、これではイエスが聖霊に取り憑かれて荒れ野の中を引きずり回されたような印象を受けます。もちろん聖霊なる神さまが取り憑くというのはまったくふさわしくない表現ですが、むしろここでは「引きずり回される」という訳が誤解を生んでいると言えるでしょう。この「引きずり回される」と訳されている言葉は、普通に訳せば「導く」となります。つまりここで言われているのは、イエスは聖霊によって荒れ野に導かれたということなのです。

試みを受ける
 その荒れ野において、イエスは四十日間悪魔から誘惑を受けた、と語られています。そこでまず、なぜ四十日なのかという疑問が生じます。一つには、旧約聖書で、モーセが、主なる神さまと共に四十日四十夜、シナイ山の頂きに留まり、パンも食べず、水も飲まず、十の戒めからなる契約の言葉、つまり十戒を板に書き記したこと、あるいは預言者エリヤが、四十日四十夜歩き続けて神の山ホレブに着いたことが背景にあるかもしれません。しかしなによりこの箇所の背後にあるのは、エジプトを脱出した後、イスラエルの民が過ごした荒れ野の四十年だと言えます。四十日と四十年では天と地ほどの開きがありますが、イスラエルの民が荒れ野で四十年間過ごすことになった理由を、民数記は次のように語っています。「あの土地を偵察した四十日という日数に応じて、一日を一年とする四十年間、お前たちの罪を負わねばならない」。もちろんイエスには罪がありませんから、罪のゆえに四十年間荒れ野を放浪したイスラエルの民と四十日間荒れ野で悪魔から誘惑を受けたイエスが同じというわけではありません。ただこの箇所で、ルカはイスラエルの民の荒れ野の四十年の物語を読み手が知っていることを前提として語っているのです。
 いずれにしてもイエスは荒れ野で四十日間悪魔から誘惑を受けました。ここで「誘惑」と訳されている言葉は「試み」とも訳せます。「誘惑」は「惑わして誘い込むこと」を意味しますが、ここでイエスが悪魔から受けたのはそのような「誘惑」というよりも、「試み」であったと言えるでしょう。口語訳と聖書協会共同訳も「誘惑」ではなく「試み」と訳しています。つまりこの箇所はイエスが悪魔から三つの「試み」を受けたことが語られているのです。

問われていることは何か
 さて、一つ一つの「試み」について目を向ける前に、そもそもなぜイエスは悪魔から「試み」を受けなくてはならなかったのでしょうか。イエスが悪魔から三つの試みを受けるこの物語は、イエスの洗礼に続いていると申しました。それは、単に物語として続いているだけでなく、イエスが聖霊を受け、天から「あなたはわたしの愛する子」と言われたことと、この悪魔の「試み」は切り離すことのできないこととして起こっているのです。なぜなら悪魔の「試み」は、イエスが本当に「神の子」であるかどうかを試すことだからです。本物の「神の子」なら、そのことを証明してみせろと、悪魔は三つの試みをイエスに突きつけたのです。ですからここで繰り広げられているのは、悪魔と神の独り子イエスの戦いです。悪魔がイエスを試み、それに対してイエスが答える、それが三度繰り返されているのです。神さまから「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言されたイエスは、「神の子」としてこの三つの試みを受けられたのです。悪魔と神の独り子の戦いである以上、神の独り子ではない私たちは、この戦いと直接の関係があるとは言えません。悪魔が試したのはあくまで神の子イエスであって、私たちではないからです。
 しかしだからといって、悪魔と神の子イエスの戦いが私たちとまったく関係がないというわけではありません。なぜならここで悪魔の試みを受けている神の子は、私たちを救うために「まことの人」となってくださった方だからです。そのことをイエスの洗礼と本日の物語との間に挟まれた系図が示していました。神さまから「神の子」と宣言されたイエスが、その直後の系図において、ヨセフの子として、遡ってアダムの子として、つまり「まことの人」として記されていたからです。イエスの洗礼とそれに続く系図は、イエスが神の子であり、その神の子が「まことの人」となってくださったことを告げていたのです。そしてそれは、私たちを救うためにほかなりません。ですから、悪魔の試みにおいて問われているのは、イエスが本物の「神の子」であるかということに留まりません。私たちを救うために「まことの人」となってくださった御子主イエスによる救いが問われているのです。私たちを救うために主イエスはなにをなされようとしているのか。なにが私たちの救いなのか。そのことが問われているのです。それだけではありません。私たちもまた自分たちがいったいどのような救いを得ているのかが問われています。悪魔の問いを退け、そこで明らかにされる主イエスの救いを私たち自身の救いとしているかが問われているのです。

人はパンだけで生きるものではない
 2節にイエスは四十日間、「何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」とあります。人となってくださったイエスは、私たちと同じようにお腹が減ったのです。そのイエスに悪魔は言いました。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」悪魔は「あなたが神の子ならば」と言います。あなたが本物の神の子ならば、この石をパンになるよう命じることができるはずだ。そのことによって神の子であることを証明してみせてみろ、と言うのです。それに対してイエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになりました。これは旧約聖書申命記8章3節のみ言葉ですが、2節から見てみますと次のようにあります。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」このように「人はパンだけで生きるのではない」とは、イスラエルの民の荒れ野の四十年を振り返る中で語られたみ言葉です。イエスは荒れ野での四十日間を終えて、悪魔の試みに対してこのみ言葉によって答えたのです。申命記8章3節では「人はパンだけで生きるものではなく」に続いて、「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」とあり、マタイによる福音書では、イエスがそのことを語っています。しかしルカでは「人はパンだけで生きるものではない」とだけ語られているのです。では人は何によって生きたら良いのか、ルカは積極的なメッセージを語っていません。しかしここで示されているのは、主イエスによる救いは、私たちの飢えに対してパンを与えることではないということです。私たちの世界は、一方で深刻な飢えや渇きを抱えています。そのことに目を向けるならば、「人はパンだけで生きるものではない」と軽々しく言えないように思えます。今日一日を生きるための食べ物を得るために労苦している者たちが大勢いるからです。けれども「人はパンだけで生きるものではない」という主イエスのお言葉は、飢えや渇きはどうでもいい、ということではありません。主イエスが弟子たちに祈りを教えられたとき、「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と祈るように言われたことを忘れてはなりません。他方で、私たちの社会はあり余るほどの食べ物で溢れています。食べ物が豊かであれば幸せだという錯覚が広がり、食べ物だけが生きがいとなっているように思えます。このような両極端な現実の中で、「人はパンだけで生きるものではない」という主イエスのお言葉が告げているのは、私たちの飢えや渇き、その欲求を満たすことが私たちの救いではないということです。私たちはお腹が減るだけで、イライラして怒りを感じたり、力が入らなくて弱さを感じたりします。それでもそれを解消することが私たちの救いではありません。お腹が減ったら食べ物が与えられるのが私たちの救いであれば、それはとても分かりやすいように思えます。けれども私たちを本当に幸せにし、満たし、自由にするのは、主イエスによる罪の赦し以外にはありません。私たちは罪の支配から解き放たれることによってのみ、真の幸いと自由を与えられるのです。

主を礼拝し、主に仕える
 次に「悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せ」て、イエスに言いました。「この国国の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」それに対してイエスは「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」とお答えになりました。これは申命記6章13節の「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」によるみ言葉です。この悪魔の言葉の中で、「この国国の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ」という言葉は、マタイにはなく、ルカだけのものです。ですからここにルカの告げたいことがあり、それは、すべての国のあらゆる権力と栄光を手に入れる誘惑、そのような政治的な誘惑をイエスは受けられたのだ、ということです。そのことが語られていないわけではないでしょう。主イエスが政治的なメシアであるという期待を持っていた人たちは大勢いました。そのような期待に囲まれて、イエスは公のご生涯を歩まれて行くことになります。しかしこの第二の試みにおいて、なによりも見つめられているのは、イエスのお答えにある「主を拝み、主に仕える」ことです。それは、イエスが語った申命記6章13節のみ言葉が、ただお一人の神さま、唯一の神だけを神とし、ほかのいかなる神々を神としない、という文脈の中で語られていることからも分かります。「主を畏れる」とは神を神として敬うことであり、それは、主なる神さまだけを礼拝し、主なる神さまだけに仕えることです。イエスは、第二の試みにおいて、主なる神さまではないものを礼拝することを退けられたのです。主イエスの救いに与った者たちは、毎週の礼拝でこのただお一人の神さまを礼拝し、またそれぞれの人生において感謝と喜びを持って神さまに仕えて歩む者へと招かれています。それは、まことに小さな者である私たちが、神さまの大きな愛によって救われた、そのことにお応えすることへの招きです。そのような招きに入れられているにもかかわらず、私たちは神でないものを神とし、神でないものに仕えてしまうことがあります。私たちは悪魔を礼拝することなどないと思っています。しかし悪魔を礼拝するとは、いわゆる悪魔崇拝のようなことではなく、神さまから離れさせようとする力に屈することであり、そのことによって神さまでないものに仕えるようになるのです。それは、富や名誉や地位かもしれません。しかし神さまから離れてしまうことでなにより自分自身に仕えようとするのではないでしょうか。神さまが私たちになにを求めておられるかに目を向けるのではなく、私たち自身が求めていることばかりに心を占領されてしまうのです。けれども主イエスによる救いは、自分自身を主人とし、神さまとも隣人とも交わらない、独りよがりな人生から私たちを解き放ち、神さまを主人とし、神さまと隣人との豊かな交わりの中を歩む人生を私たちに与えてくださったのです。

み言葉による試み
 悪魔の第一、第二の試みに対して、主イエスは聖書のみ言葉によってお答えになり、その試みを退けられました。この第一、第二の試みと、次の第三の試みの大きな違いは、悪魔が聖書のみ言葉によってイエスを試みた、ということです。悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせると言いました。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」そして悪魔は、聖書に次のように書いてあるではないかと言うのです。「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。」「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。」そのように聖書に書いてあるのだから「神の子なら、ここから飛び降りてみろ」と言うのです。あなたが神の子ならば、飛び降りても神が天使たちに命令してあなたを守るだろう、ということです。悪魔は聖書のみ言葉によってイエスを試みました。これは実に巧みな試みだと言えるでしょう。今まで聖書のみ言葉によって悪魔の試みを退けてきたイエスに対して、今度は悪魔が聖書のみ言葉を使ってイエスを試みたからです。悪魔が使った聖書のみ言葉は、本日の旧約箇所として読まれた詩編91編の11、12節です。しかし悪魔は91編11節のみ言葉の一部をあえて省いて使っています。91編11節には「主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる」とありますが、悪魔は「あなたの道のどこにおいても」という言葉を省いて、「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる」と書いてあるではないか、だから飛び降りてみろ、と言ったのです。詩編91編は、神さまへの全幅の信頼を唱っています。心の底から神さまに信頼し、神さまへの信頼の確信を祈っているのです。3-6節では次のように祈られています。「神はあなたを救い出してくださる 仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い 翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。夜、脅かすものをも 昼、飛んで来る矢をも、恐れることはない。暗黒の中を行く疫病も 真昼に襲う病魔も」。この祈りにおいて悪魔が省いた11節の「あなたの道のどこにおいても」という言葉は、あなたの人生のどの場面においても、という意味です。ですから11節は人生のどんなときも神さまが守ってくださることへの信頼を祈っているのです。しかし悪魔はこの言葉を省くことで、神さまが守ってくださると書いてあるのだから飛び降りてみたら良い、そのようなチャレンジをしてみたら良い、と言ったのです。

主を試してはならない
 その悪魔の試みに対して、イエスは言われました。「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている。」「あなたの神である主を試してはならない」は申命記6章16節のみ言葉です。み言葉による悪魔の試みに対して、イエスは第一、第二の試みと同じように、み言葉によって、その試みを退けたのです。申命記6章16節のみ言葉の背景にも、イスラエルの荒れ野の40年があります。16節には「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」とあり、「マサにいたときにした」とは、荒れ野で飲み水がなかったとき、イスラエルの民が「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い主を試したことを指しています。悪魔は詩編91編のみ言葉によって試み、主イエスは申命記6章のみ言葉によってその試みを退けました。しかしそれは、主イエスが詩編91編のみ言葉に対して申命記6章のみ言葉によって打ち克った、ということでは決してありません。先ほど申したように、詩編91編は神への絶対的な信頼を語っています。そして神を絶対的に信頼することと神を試すことは、まったく反対のことです。神への絶対的な信頼を持っているならば、神を試すことなどありません。神への信頼が揺らぐからこそ神を試してしまうのです。悪魔は、神を試すこととは反対のことを語っているみ言葉によって、イエスに神を試すようにと言ったのです。ですから悪魔は、意図的にみ言葉を捻じ曲げ、悪用して、イエスを試みたと言えるでしょう。その悪魔の意図的なみ言葉の悪用をイエスは申命記6章のみ言葉によって正したのです。言い換えるならば、申命記6章のみ言葉によって、詩編91編のみ言葉が本当に告げていることを明らかにしたのです。主を試さないことと主に心から信頼することは、根本的には同じことです。詩編91編も申命記6章も根本的には同じことを告げているのです。
 私たちはしばしば神さまを試そうとします。荒れ野でイスラエルの民が「主は我々の間におられるのかどうか」と言ったように、神さまは私を本当に愛してくださっているのだろうか、本当に私と共にいてくださるのだろうか、本当に私を守っていてくださるのだろうか、本当に良いものを必要なものを私に与えてくださっているのだろうか、そのように繰り返し神さまを疑い、神さまを試そうとするのです。そのような自分の弱さに、醜さに、私たちは日々直面しているに違いありません。けれどもそこで私たちはうなだれなくて良いのです。うなだれるのではなくて、主イエスによる救いを仰ぎ見るのです。主イエスによる救いにこそ、神さまの私たちへの愛が表れているからです。神さまの愛によって救われ、その愛によって、今、私たちは生かされています。神さまの愛を疑い、神さまを試すのではなく、神さまの愛に心から信頼して歩む恵みの中に私たちはすでに入れられているのです。

救いが成し遂げられる時に目を向けて
 13節に「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」とあります。その「時」とはいつでしょうか。ルカによる福音書22章3節に「しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った」とあります。この時、悪魔はユダの中に入り、そのユダの裏切りによって主イエスは引き渡され、十字架に架けられたのです。公の生涯の初めに、主イエスは悪魔の試みを退けることによって、ご自分が神の子であることを明らかにされただけでなく、ご自分が成し遂げようとしている救いを示されました。それによって悪魔は「時が来るまでイエスを離れた」のです。しかし主イエスによる救いは荒れ野の40日間において成し遂げられたのではありません。時が来て、悪魔がユダに入り、神の子イエスが十字架で死なれたそのとき、主イエスによる救いは成し遂げられたのです。神の子イエスの死によって、悪魔が完全に勝利したかのように思えたところで、私たちへの神の愛は極みに達し、神の恵みが満ち溢れたのです。私たちはイエスが荒れ野で悪魔から三つの試みを受けた物語を通して、この主イエスによる救いに目を向けることへと招かれているのです。

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