夕礼拝

覚えていないのか

「覚えていないのか」 副牧師 乾元美

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第5章20-25節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第8章1-21節
・ 讃美歌:57、459

<同じ話?>  
 今日の聖書箇所では、主イエスが四千人の人々を、七つのパンと小さな魚で満腹にさせて下さいました。そして、残ったパン屑を集めると七籠になった、とあります。
 あら?前にも同じ話があったのでは?と気づく方がおられるかも知れません。マルコ福音書の6:30~43に、ほとんど同じような出来事が語られていました。
 6章では、主イエスが五千人の人々を、五つのパンと二匹の魚で満腹させて下さいました。そして、残ったパン屑を集めると十二の籠に一杯になったのでした。

 どうして、こんなに似ているのでしょうか。五千人が満たされる話は、四つのすべての福音書に記されていますが、今回の四千人が満たされる話は、マルコとマタイにしか載っていません。同じ一つの物語が語りなおされただけだ、という人もいます。でも、よく読んでみますと、二つの物語は似ているけれど、色々と異なっている点があるのです。マルコ福音書が、これらを二つの別の出来事として語っているのは、意味あることだと考えられます。

<違い>
 では、この二つの物語はどのような違いがあるのでしょうか。五千人の物語から、四千人の物語に至るまで、どのように展開しているのでしょうか。

 まず、6章の、主イエスに養われた五千人の人々は、皆ユダヤ人でした。ユダヤ人とは、イスラエルの民であり、神の救いのご計画のために選ばれた、神の民です。神は、世界のすべての人を救おうとしておられますが、そのご計画は、この選ばれた民を通して実現していきます。ですから、主イエスはユダヤ人として、この民の中からお生まれになったのです。
 主イエスのパンの奇跡は、まずこのユダヤ人に対して、行なわれました。そして、この出来事を通して、主イエスはご自分によって神の国が実現すること、神が人々を豊かに養って下さる恵みのご支配が実現することを示されたのです。
 この時、残ったパン屑を集めると十二籠になった、というのは、イスラエルの十二部族を表していると考えられます。主イエスによって、神の救いが実現し、御自分のもとで新しいイスラエルの民が興されていくことを示されたのです。

 その五千人のパンの奇跡の後、主イエスはファリサイ派の人々と論争をなさいました。それは7:1以下に語られています。ファリサイ派とはユダヤ人の指導者で、神の律法を守ることを大切にしている人々です。しかし、彼らは、神が救いを実現するために遣わされた主イエスを受け入れようとしませんでした。それに、規則を守ることに熱心なあまり、人を裁いたり、また律法を自分に都合よく解釈したりしていたので、彼らは主イエスに、「あなたたちは律法の根本にある神の御心を忘れてしまっている、神の言葉をないがしろにしている」と厳しく指摘されたのでした。神の民であるはずの者が、神のご計画を受け入れず、御心から遠ざかっていたのです。

 そこから更に、主イエスはユダヤ人の地域を離れて、異邦人の地へ行かれました。そして主イエスの力ある業は、シリア・フェニキアの女、またデカポリス地方の耳が聞こえず舌が回らない人の癒しと、異邦人にも現されていきました。

 そうしてとうとう、今日の、四千人が七つのパンで満たされる話に至ったのです。この四千人がパンで養われた場所は、異邦人が住む地域です。8:1には「そのころ」とありますが、それは、前のページの7:31に書かれている、「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた」、「そのころ」、ということでしょう。
 五千人の物語の場所も同じガリラヤ湖ではありましたが、それはユダヤ人が住む地域に面しているところでした。今回は異邦人の地において、四千人が七つのパンと小さな魚で満たされる、奇跡の業が行なわれたのです。

 これらのことは、神の恵みのご支配が、神の救いが、ユダヤ人から異邦人へと広がっていくことを指し示しています。異邦人も、主イエスのパンで満たされた。主イエスの食卓に招かれた。異邦人も、主イエスによって、ユダヤ人と同じように救いに与り、恵みを受けることが出来るのです。
 今日の箇所で、8節に「人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった」とあります。七という数字は完全数であり、これは、世界のすべての人々に恵みが行き渡ることを示していると言えます。それが、神のご計画です。
 主イエスは、ユダヤ人だけでなく、世界のすべての人を罪から救い、新しい命を与え、養って下さるために、神が遣わして下さった「救い主」なのです。ですから、今わたしたちもこの神さまのご計画のうちにあって、こんなに後の時代でも、遠く離れた日本にいても、主イエスのもとに集い、主の食卓にあずかり、その恵みを受けることができるのです。

<憐れみ>  
 そして、この二つ物語で一貫して語られているのは、この恵みを与えて下さる根拠が、神のわたしたちに対する「憐み」にある、ということです。  

 まず、主イエスが五千人にパンを与えて下さろうとしたとき、6:34~にはこのように語られていました。  
 「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」  
 羊は弱く、自分で食べ物や水を探すことも出来ず、羊飼いが導き、守り、養ってくれなければ死んでしまうような存在です。主イエスは人々を見て、そんな羊のように「なんと憐れなのか」と思って下さった。この「憐れ」と言う言葉は、内臓が痛むほどの感情を指します。そんな思いで主イエスは人々を見つめ、神の国について教えて下さったのです。それは主イエスが良い羊飼いとなって愛と恵みによって人々を支配し、養い、導いて下さる、そのことを信じなさい、ということです。
 わたしが、あなたたちに命を与え、あなたたちを守り、あなたたちを養おう。わたしに従いなさい。わたしの守りの中にいなさい。
 自分の命を捨ててでも、羊を守る、そのような良い羊飼いこそ、主イエスという方です。

 そして、今日のところでも、主イエスは8:2で「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない」と言っておられます。この「かわいそう」という言葉も、先ほどの「深く憐れみ」と同じ単語が使われています。
 主イエスは、ユダヤ人でも、異邦人でも、すべての者に対して、この憐みのまなざしを向けて下さっています。愛して下さっているのです。
 神の国、神の救いは、わたしたちが、何かその救いを受けるに値する者だとか、努力をしたとか、正しい者だとか、そんな理由で与えられるのではありません。ただ、飢え、迷い、死にかけている、そんなわたしたちを心から、内臓が痛むほどに憐れに思って下さる、その神の憐れみによって、主イエスの救いの恵みは与えられるのです。

<悟らない弟子たち>  
 さて、もう一つ一貫しているのは、主イエスの最も近くにおり、何度も恵みを与えて下さる神の力を目撃していながら、何も理解することができない、弟子たちの姿です。五千人が五つのパンで養われ、四千人が七つのパンで養われ、これだけの大きな神の御業を繰り返し体験していながら、その後、14節以下では、自分たちの食事のパンのことでもめていた弟子たちが、主イエスの言葉を理解せず、「まだ分からないのか。悟らないのか」と、言われてしまっています。  
 これらの箇所には、絶えず注がれる神の深い憐れみと、何度恵みを与えられても忘れてしまう弟子たちの無理解が強調されているのです。  

<ファリサイ派>  
 でも、この弟子たちが無理解を示す場面の前に、その直前に書かれている、ファリサイ派の人々と主イエスのやり取りを見ておきたいと思います。  
 四千人が主イエスに満たしていただいた後、「ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」とあります。  

 これまで、主イエスが神の御子であることを示す教えや、神の権威による業は、数多く行なわれてきました。それは神のご支配、主イエスが持っておられる神の権威を示すものとして、人々に与えられてきたものです。主イエスにおいて、救いが実現する。神の恵みのご支配が到来する。病の癒しや、悪霊を追い出す業、数々の奇跡は、その証しであり、しるしでした。主イエスは苦しみや、病、悪霊、そして罪に支配されていた人々を解放し、神の恵みのご支配が実現することを示して下さったのです。  

 しかし、それらの癒しや、奇跡そのものが、神の救いなのではありません。主イエスが与えようとしておられる救いは、すべての人を罪から解放し、新しい命を与えて下さり、人の存在そのものの本当の苦しみ、悲しみから解放して下さる救いです。そのような神のご支配は、主イエスがすべての人の罪を背負い、すべての人が受けるべき神の怒りの杯、裁きを受けて、十字架で死んで下さることによって、実現するのです。その、十字架の死。そして、三日目に神が主イエスを死者の中から復活させて下さること。このことこそ、まことの神の国の始まりであり、救いの実現であり、神が救いのご計画を成し遂げて下さったということを示す出来事なのです。この救いを信じなさい、と言われているのです。  

 しかし、この時、ファリサイ派の人々は「イエスを試そう」としました。試すために「天からのしるし」が欲しいと言ったのです。彼らもまた確かに、神が約束された「救い主」が来て、救いを実現してくれることを願っていました。  
 でも彼らは、主イエスに対しては良い感情を持っていませんでした。この方が、神から遣わされた方だということを受け容れたくなかったのです。
 自分たちのことを、神の御心が分かっていないと言って批判してくるし、大事なことは命を救うことだと言って、律法の大事な規則を破ったりする。でも、多くの人々が彼の教えを聞いて喜んでいる。そんな主イエスを、ファリサイ派の人々は、普段は仲の悪いヘロデ派の人と組んででも殺したいと思うほどになっていました。

 それで、彼らは主イエスに、「天からのしるし」を求めて、自分たちを納得させるものを見せられるかどうか、試してやろうと思ったのです。
 自分たちが受け入れるに足る「しるし」を見せることが出来たなら、救い主と認めてやっても良い。でも、それが出来ないなら、救い主と認めることは出来ない。そのような考えなのです。神を試す、とても傲慢な考えです。神の御心を思うのではなく、自分たちの思いが実現することを求めているのです。

 主イエスは、心の中で深く嘆いて言われました。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」そうして、彼らをそのままにして、舟に乗って向こう岸へ行ってしまわれました。

 主イエスは、試そうとする者に、「決してしるしは与えられない」と仰いました。もし、しるしを見せようと思えば、何でもお出来になったでしょう。これまでも、湖の上を歩かれたり、難しい病を癒されたり、人々が驚くことをなさってきました。でも、それは人をびっくりさせて、すごいだろう、と言ってご自分を信じさせることが目的なのではないのです。その証拠に、主イエスはそれらの業を目撃した人々に、誰にも言わないようにと注意してこられました。

 主イエスが「信じなさい」と仰るのは、主イエスがわたしたちに代わって十字架に架かり、罪の赦しのために死んで下さる、ということです。そのようにして、わたしたちが、罪から解放されて、神のご支配のもとで生きる者とされる、ということを信じるのです。
 この救いは、人が自分の思うように手にしたり、納得してモノにしたり、つかみ取ったりできるものではありません。これは、人の思いも、想像も超えた、神の御業なのであり、ひたすら、身を低くして受け取るだけのものです。神が与えてくださる時に、神のなさる仕方によって、与えられるのを待つべきものです。
 しかし、ファリサイ派も、わたしたちも、何とかその救いの確かさを、今すぐに分かる形で得たいと願います。手ごたえが欲しいし、自分の中の確信が欲しいのです。
 そして、わたしたちがどういう確信を求めているかといえば、それは自分の願望が叶うことであり、自分が穏やかになって満足できることです。神の恵みが、自分の思いや願いに適った仕方で与えられるなら、わたしは救いを確信しよう。神は、わたしの神になっても良い。それが出来ないなら、わたしの神ではない、ということです。
 しかし、これはむしろ、人が神を従わせようとしています。自分が主人になろうとしている中で、イエスを主として神のご支配を受け入れることは出来ません。
 ですから、主イエスはこのような願いは退けられます。主イエスを「試そう」とする者には、決してしるしは与えられない、と言われるのです。

 12節に「イエスは、心の中で深く嘆いて言われた」とあります。この「深く嘆く」は「呻く」と訳されることもある言葉です。人々の不信仰のために、主イエスは嘆き、呻いておられます。こうした者のことをも、主イエスは憐れんでおられるのです。そして、彼らをも救うために、執り成すために、主イエスは十字架の道を歩んで行かれるのです。

<パン種のような思い>  
 この、ファリサイ派とのやり取りの後、主イエスと弟子たちとのやり取りが14節以下に語られているのです。「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」とあります。少なくても主イエスの一行は十三人いるのですから、次の食事はどうするんだ、ということになります。どうしてこうなったのか、誰のせいだ、これのせいだと、騒いでいたかも知れません。  

 そこで、主イエスが仰いました。「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい。」
 パン種は小さくても膨らむことから、悪い影響力が広がることを意味しています。
 ファリサイ派は神の御心を忘れて、律法主義に陥り、偽善的になり、今しがた語られたように神を試すような思いに捕らわれていました。ヘロデは、ローマの下でユダヤの地域を治めていた領主ですが、現実主義者であり、ローマには媚を売り、ユダヤ人にも迎合し、自分の権力のために、神の御前に立つのではなく、人の顔色ばかりを窺うような生き方をしていました。  
 どちらも、神の恵みを覚えず、自分の力に、あるいは世の力に頼って生きようとしていた者たちです。神の恵みに信頼していないのです。これらの思いは、パン種のように、どれだけ小さくても、心に入り込むとそれが膨れてすっかりその人を支配してしまいます。すると、神の恵みではなく、自分の正しさや、世の権力に頼って、自分を支えようとしていくことになるのです。

 主イエスは、弟子たちがパンがなくて慌てている時、あえてユーモアを交えて、教えを語って下さったのではないでしょうか。そのようなことに捉われなくてよい。パンが足りないことなど、大きな問題ではない。むしろ、今しがたのファリサイ派のような思いに捕らわれないようにしていなさい。そのパン種はむしろ増えてしまうと大変ですよ…。  

 それを言われた弟子たちは、どうしたでしょうか。16節にあるように、主イエスがこんなことを言われたのは、自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた、とあります。わたしたちがパンを忘れてしまったから、イエスさまがあんなことを仰った。パンにために叱られてしまった。そんな風に捉えたのです。とってもとんちんかんな反応です。  

 この弟子たちも、今や自分のパンの失敗に心を奪われて、それが膨らんでしまい、主イエスの御言葉が、自分たちを責める言葉にしか聞こえていないのです。悪意や利己的な思いでなくても、わたしたちの心はすぐに神以外の何かに支配されてしまいます。
 そして、人の目や耳には、すぐに「自分の思い」というフィルターがかかります。自分の失敗に捕らわれていると、何を見ても、何を言われても、もう責められているようにしか思えないのです。
 神の恵みが見えなくなると、本当は慰めを語っている御言葉も、裁きの言葉にしか聞こえなくなるのです。     

 でも、主イエスはそんなことを仰ったのではありませんでした。主イエスは、五千人を五つのパンで、四千人を七つのパンで養う方です。パンが無いからと言って、弟子たちを責めるようなお方ではありません。
 それに、主イエスは、ファリサイ派には、神を試すようなしるしなど一切与えられない、と言われましたが、御自分に従ってきた弟子たちには、力強い御力を示し、豊かな恵みをむしろたくさん見せてきて下さったのです。弟子たちは、主イエスのもとで、必要が満たされ、豊かに与えられていくことを目撃してきたのです。神の国の教えを聞いてきたのです。
 それなのに、そのことをすっかり忘れてしまって、小さな失敗に捕らわれている。心が頑なになり、彼らまで主イエスの恵みを忘れ、教えを聞くことが出来なくなっている。そのことを注意されたのです。

<覚えていないのか>  
 主イエスは、言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」そうして、恵みの出来事を思い起こさせられます。
 「わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは「十二です」と答えます。
 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは「七つです」と答えます。  
 弟子たちは主イエスの御業を覚えていたのです。でも、それが主イエスの憐れみの御業であり、この方こそが弟子たちと共にいるのだということを、忘れていたのです。
 内臓が痛むほどの思いで人々を心にかけて下さり、神を試す者にしるしは与えられない、とはっきり言いながら、苦しむ人々、飢えた人々のためには惜しみなく力ある業を行なって下さる。そして、ご自分の命を捨ててでも、憐れな羊を救い出し、守り、養って下さる。そのような方のもとにいることを、弟子たちは忘れていたのです。  

 弟子たちもわたしたちも、常に神のご支配の内に生かされているのであり、主イエスにこそ、神にこそ頼るべきであること。パンの一つも、今日一日生きる命も、神が与えて下さるものであり、神が養って下さっていることを、悟らなければなりません。神がいつも共にいて下さることを、覚えていなければなりません。  
 わたしたちは、自分の過ちや、不信仰や、困った事態に陥ると、すぐにそのことに捉われ、目も耳も利かなくなり、恵みのために語られている御言葉さえ、歪めてしまい、受け入れることが出来なくなるような者です。
 しかし、主イエスは、内臓を痛めるほどの思いでわたしたちを憐れみ、そのようなわたしたちの目を開いて神の恵みを見る者とし、耳を開いて福音を聴く者として下さるために、十字架の苦しみを受け、死んで下さったのです。ご自分の体を裂いてでも、わたしたちに神と共に生きる命を与えて下さったのです。そして、父なる神は主イエスを復活させ、救いの御業が実現したことを、今やはっきりと示して下さっているのです。

 「まだ、悟らないのか」。「覚えていないのか」。あなたをわたしがこんなに愛していることを、悟らないのか。救いが与えられていることを、覚えていないのか。
 主イエスの十字架と復活のもとで、わたしたちには神の限りない愛と憐れみが注がれ、主にある命を与えられているのです。わたしたちの本当の救いは、わたしたちの願いが叶うことではなくて、わたしたちの命をつくり、愛して下さる神と共に生きることなのです。  
 わたしたちは、十字架と復活の御業を成し遂げられた、この主イエスと共にいます。わたしたちのかたくなな心を開いて、神の恵みの中に生かされていることを覚えるなら、わたしたちは、ファリサイ派やヘロデのパン種から解放されて、神の御許で、まことに自由に、安心して、恵みを一つ一つ数えつつ、感謝して日々を歩むことが出来るのです。

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