「心の貧しい人々」 伝道師 宍戸ハンナ
・ 旧約聖書: 申命記 第8章11-18節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第5章1-3節
・ 讃美歌 : 57、51
宣べ伝え
マタイによる福音書の第5章から7章は、「山上の説教」と呼ばれる箇所です。この「山上の説教」に続く、8章と9章には主イエスの力ある癒しの御業が語られております。これらの5章からの主イエスの「山上の説教」と8、9章の「力ある癒しの御業」までの箇所をちょうど取り囲むように、4章の23節と9章の35節には、ほとんど同じような言葉で次のように書かれております。4章の23節には「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」(4章23節)とあります。9章35節には「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。」とあります。マタイによる福音書はこのような枠の中で、主イエスが「諸会堂で教え、宣べ伝え」た「御国の福音」を5章から7章までの山上の説教の中で、そしてそのしるしとして、「民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」ことを8,9章で語っているのです。主イエスの地上での歩みとは、御国の福音、神様のご支配を宣べ伝え、その現れ、そのしるしとして民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされると言う歩みでした。
山に登られた
本日はこの山上の説教の冒頭部分です。これから新しい神の言葉を語ろうとする、主イエスは自分の周りに押し寄せて来た群衆を見まして、「山」に登りました。山に登ってそこから民衆に神の言葉を伝えようとされるのです。これから語られる主イエスの教えが、マタイによる福音書において「山の上で語られているのです。マタイによる福音書は、主が新しい神の言葉を語る様子を伝えています。山に登り、民衆に神の言葉を伝えるのです。主イエスはなぜ、これらの教えを山に登ってなさったのでしょうか。その方が落ち着くからか、環境が良いからだったのでしょうか。この状況の設定において、旧約の指導者のモーセの姿を思い起こすことができます。「主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。」モーセもまた、神の言葉を授かるために山に登りました。山の上で神様の御心を示されまして、十の戒めを民衆に伝えました。十の戒めとは十戒であります。聖書に記されている当時のユダヤ人の心と生活を規定していたモーセに与えられた律法です。そしてその十戒がイスラエルの生活の根幹となります。今や主イエスは、旧約のモーセを超えるお方として、そのモーセの律法を成就される方として、御国の福音に基づく御言葉を民に伝えようとされるのです。
群衆から離れて弟子たちだけで密かに語られるのではなく、主イエスの周囲に集まってきた群衆に対して語られます。この山上の説教の最後の7章の28節のこうあります。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。」主イエスの周りに集まった群衆は主イエスの教えに驚きを覚えたのです。
腰を下ろされ
そして主イエスが「腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。」主イエスは山の上で腰を下ろされました。この姿勢と言うのは、ユダヤ教の教師であるラビが会堂、シナゴーグで語るときの基本的な姿勢です。教師は教えるときにこのように腰を下ろすのです。主イエスがイスラエルの教師としてこれから、モーセの律法に代わる、それに勝る律法、それを完成する新しい律法について語られるのです。ここで主イエスがモーセとは全く違う律法を語るということではありません。主イエスはモーセに授けられた律法を否定したのではなく、自分が語ることは、律法を捨てることではなく、律法を成就すること、完成することなのだと言われていたのです。新しい言葉で、律法を語り始められるのです。この先の5章17節にこうあります。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」主イエスは律法などなくて良いとは決して言われません。主イエスが腰を下ろして語られるとは、こらから語られることは正式の教えであって、耳を傾けて聞くべき事柄であります。
弟子たち
そして、主イエスの近くに弟子たちが寄ってきました。「そこで、イエスは口を開き、教えられた。」とあります。イエスの元にやって来て、イエスに従った大勢の群衆の中でも、もっとイエスの近くに寄って来ましたのは「弟子たち」でした。この弟子たちとは、主イエスによって、呼び出され、声をかけられ、網を捨てて、舟を置いて主イエスに従った者たちです。主イエスに対して「明確な決断と意思」を持ってついて行った人たちです。主イエスに声をかけられ、招かれ、決断をした人たちであります。主イエスのすぐ近くで、その周りに座っている弟子たちは主イエスの言葉を誰よりもよく聞くことが出来ました。主イエスも彼らに神様への新しい服従、新しい教えを与え、そのように生きるようにと弟子たちを招かれたのです。けれども、その弟子たちの周りに彼らを囲むように大勢の群衆がおりました。群衆もそこで主の言葉を聞いていたのです。マタイによる福音書の7章28節にはこうあります。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。」群衆は主イエスの教えに非常に驚きました。従って、群衆もまた主の言葉を聞いていたのです。山上の説教は主イエスに従う者たちに与えられた教えであります。主イエスに従うところに与えられる新しい生き方が示されているのです。弟子たちはそれを広くこの世に伝えるようにと、先立って選ばれているのです。弟子たちを通してこの世に、この弟子たちの言葉が伝えられていくことを主は望んでおられます。主イエスがいつも弟子たちを近くに置かれたのはそのためです。主イエスは弟子たちだけに秘密の教えを密かに伝えるのではなく、この新しい服従の教えを広くこの世に、語り継ぐために弟子たちを招いたのでありました。弟子たちはそのために選ばれ、そのために主イエスの近くにいることを許されている者たちです。そして、「教会」もまたそうであります。今もそのためにこそ選ばれ、立てられているのです。
貧しい人
本日は最初にあります、3節の「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」という御言葉に聞きたいと思います。原文においては「幸いである、心の貧しい人々は」となります。これはとても強い宣言であり、同時に祝福の言葉です。何と幸いなる者たちよ、あなた方は幸いだと、主イエスが呼びかけておられるのです。では一体誰が、「幸いであると」と呼ばれるのでしょうか。それは「心の貧しい人々」です。心の貧しい人とはどういうことでしょうか。「心」と訳されていることによって、このような誤解が生じます。モノは豊かだが心が育っていないのです。心が育っていない、「心が貧しいということ」や精神的な豊かさを知らず「心の貧しい人」であると考えてしまうのです。
霊において
けれどもマタイによる福音書が「心の貧しい人々」と語るとき、この「心」と訳されている言葉は聖書の他の箇所には「霊」と訳されているものです。元々は「貧しい人々、霊との関わりにおいて」という意味です。「霊において貧しい人」ということです。その際の「霊」というのは、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」とヨハネによる福音書4章24節が述べているように、神様ご自身を意味しますので、神様との関わり、神様との交わりの次元においてということです。
霊において貧しい人とは「神様の御前で、貧しさの中に生きる人間」を指すことになります。神様の御前で貧しさの中にいる人間ということです。貧しさとは、何も持っていない、無一文の状態であります。自分の中には何も持っていない。無一物の状態であります。自分からは何も差し出すことは出来ない状態です。ただ受け取ることしかできない人間です。神様の御前において、自分からは何も差し出すものはなく、ただ受け取ることしか出来ない人間のことです。
「霊において貧しい人間」とはどのような人のことを言うのでしょうか。この「貧しさ」という言葉を主イエスは他の箇所で用いておられたのは、神殿に詣でて、わずかレプトン二枚の銅貨を献げた、貧しいやもめの話であります。マルコによる福音書の12章41節から44節にある話であります。主イエスが境内におられまして、人々の様子を見ておられました。大勢の「豊かな」人々がやって来ました。それぞれに自分で稼ぎを献げものとしていました。けれどもその横で、僅かなレプトン二枚を献げた女性がいました。このレプトンとは、一日の賃金の128分の1と言われておりますから、二枚で64分の1です。本当にごく僅かです。一日の賃金のホンの僅かな金額をこのやもめは献げている。主イエスはその姿をご覧になり、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と祝福されたのです。なぜなら、他の人たちは有り余る中から僅かなものを余ったからといって献げたのです。けれども、このやもめが献げものとして、献げたのは生活費すべてであります。生活のすべてを神様に献げたのであります。この女性は「自分に与えられた全て」を神様に献げているだと、主イエスは教えたのであります。まさに、神様から与えられた私たちの存在そのものを、神様に献げてお返しをし、神様に仕えていくのです。自分の存在のすべてを、生きた供え物として神様に献げているのです。この貧しさを主イエスは祝福されたのです。この女性は何も持たないやもめであります。しかし、与えられたものをすべて神様が与えて下さったものなので、神様にこの自分を献げていこうとしたのです。霊において貧しい者の生き方はそのような生き方であります。
そのような貧しい人間が幸いである、と主イエスは語られるのです。そのように何も持っていない人間は誰から受け取るのでしょうか。神様から受け取るのです。これは決して当たり前のことではありません。本当に私たちは、神様から受け取るしかない存在であると言うことを考えているでしょうか。そのような何も持っていない人間は幸いだと主イエスは語られます。「天の国」はそのような者たちのものであるからです。「天の国」とは「神の国」であり、「神が支配しているところ」という意味の言葉です。その神様が支配しているところでは、神様がすべてのものを与えて下さるお方です。貧しい人々はこの与えて下さる神様から受け取ることによって生きることができるのです。神様を頼りきるそのような人間であります。貧しい人々は、自分からは何も持ってなく、差し出すことができず、神様に頼りきっている人間であります。そのような霊において貧しい者がさいわいである、と主イエスによって祝福されているのです。
私たちは結局、全ては人間が支配しているのだと考え、そのように生きております。自分は何かを自分の力で獲得して、持っていると思っています。自分の持っているものを、ひたすら増やすことだけを考え、それにしがみついております。神様から本当に良いものを受け取るということをせず、神様以外のものから何かを得ようとしています。神様ではなく、神様以外の他のものに頼ろうしているのです。
神の乞食
宗教改革者のルターがこの世の生涯を終えた時に語った有名な言葉があります。彼は六十二歳でその波乱に富んだ一生を閉じましたが、そのわずか二日前に机の上に短い文章を書いてそれを次のような言葉で結んでいます。「われわれは乞食だ。それは本当だ。」こう言ったと伝えられています。結局自分は神の乞食であった、自分の一生はそうであったと言うのです。本当にそうなのだと振り返って改めて述べているのです。乞食とは物乞いをしてでしか生きられない人です。自分は神様に依り頼み、神様からの恵みをただ受け取ってだけ、天の国、神様の支配に入る他ない人間だと述べたのです。このルターと言う人は、勇気をもって95か条の提題を貼り出し、宗教改革者として活躍しました。そのような人物が。自分には誇れるものは何一つない、全く無一文の人間だとしたのです。ただ神様の恵みに依り頼み、神様のものとされているからこそ、その恵みによって生かされているのです。神様に物乞いをするしかない、自分の生涯であったと、自分の生涯を振り返ったのです。霊において貧しい人はこういう人であります。
私たちはこの主イエスの「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」という御言葉を弟子たちと一緒に聞いております。私たちはどうでしょうか。神様の御前において、神様に頼らず自分を頼っております。神様の御前に頼るしかない私たちでありながら、まだまだ自分の力で出来ると考えてしまうのではないでしょうか。その姿こそ私たちの姿です。私たちの罪の姿ではないでしょうか。私たちの生きる社会は、人々の前で何かを成し遂げ、多くの事を与えることが出来る人間こそ有能であり、貴重な存在となります。周りからも大事にされます。神様の支配される「天の国」ではそうではありません。自分は何も持っていない、何も差し出せない。だから、神様あなたに頼り、あなたの御手から受け取る人間とさせてください、とそう祈る人が祝福され、さいわいであります。
神様はただ受け取るしか出来ない私たちに独り子主イエス・キリストをお与えくださりました。自分の貧しさにさえ気がつかない私たちに救い主をお与えくださいました。主イエス・キリストは十字架において誰よりも貧しいお姿となられ、私たちのために十字架にかかり復活されました。主イエスが語られる御言葉に耳を傾けつつ、与えられた1週間を歩んでまいりましょう。