夕礼拝

不正にまみれた富

説教題「不正にまみれた富」 副牧師 川嶋章弘

歴代誌上 第29章10-19節
ルカによる福音書 第16章1-13節

私たち自身について語られている
 ルカによる福音書を読み進めて、本日から16章に入ります。本日は1-13節を読んでいきますが、この箇所は、私たちにとって不可解で、つまずきを覚える箇所であると思います。8節に「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」とあり、9節に「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい」とあり、あるいは11節に「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」とあります。なぜ不正な管理人がほめられるのか、不正にまみれた富とはなにか、そしてなぜ不正にまみれた富で友だちを作れ、あるいは不正にまみれた富に忠実であれと言われているのか、と疑問が次々と浮かんできます。なぜ主イエスがこのようなことをおっしゃるのかが分からなくて戸惑わずにはいられないのです。
 しかしだからと言って、この箇所を読み飛ばすわけにはいきません。冒頭1節に「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」とあります。15章で主イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者たちに向かって三つのたとえを語られました。もちろんそこには弟子たちもいたはずですが、どこか他人事のように聞いていたかもしれません。しかしたとえを話し終えると、主イエスは自分の弟子たちに向かって語り始めたのです。主イエスの弟子として、主イエスに従って生きようとしている人たちに向かって、それゆえ私たちキリスト者に向かってお語りになっているのです。ですから私たちはこの箇所を私たち自身について語られていることとして聞いていくのです。

不正な管理人が直面した状況
 さて主イエスがお語りになった、いわゆる「『不正な管理人』のたとえ」はこのような話です。ある金持ちに雇われている一人の管理人がいました。彼の仕事は、金持ちである主人の財産を管理することでした。ところが彼は不正をして、主人の財産を無駄遣いしていたのです。具体的にどのような不正を行ったかは分かりませんが、主人の財産を横領していたのではないでしょうか。ところがそのことに気づいた人が、彼の不正を主人に告げ口しました。今で言うところの内部告発でしょうか。主人は管理人を呼びつけて言いました。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」。主人は管理人に会計報告の提出を求めました。会計報告が提出されれば、管理人の不正は明らかとなり、管理人は解雇されるのです。ただ幸いなことに、管理人には会計報告を提出するまで若干の猶予がありました。つまり解雇まで少し時間があったのです。会計報告を提出する日、自分の不正が明らかになる日、そして自分が解雇される日は、もうすぐそこまで近づいている。しかしまだ少しだけ時間が残されている。管理人はそのような状況に置かれたのです。決定的な日が確実に近づいている中で、残された時間をどう過ごすかという状況に直面していたのです。

管理人はなにをしたのか
 管理人はこう考えました。「どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」。彼は残されている時間に自分がなにをなすべきかを必死に考えたに違いありません。また彼は自分のことをよく弁えてもいました。財産管理の仕事を解雇された後、転職して肉体労働の仕事をする力は自分にはないと分かっていたし、かといって物乞いをして生きるのは、自分のプライドが許さないことも分かっていました。私たちは、管理人は不正をして解雇されるのだから、肉体労働はできないなどと言える立場ではないし、場合によっては甘んじて物乞いをして生きるべきではないか、と思います。しかしこの管理人は、良く言えば諦めませんでした。決定的な日が近づく中で、頭をフル回転させて知恵を絞って、なんとかして肉体労働も物乞いもしなくて良い方法を探したのです。そして管理の仕事を解雇されても、自分を家に迎えてくれるような人たちを作れば良い、という考えに至ったのです。そのために彼は、主人に借りのある者を一人ひとり呼びました。借りというのは、借金のことです。正確にはお金を借りたとは限らないので、負債と言ったほうが良いのかもしれませんが、分かりやすいので借金としておきます。管理人が最初の人に、主人にいくら借金があるのか尋ねると、その人は「油百バトス」と答えました。すると管理人は借金の証文を渡して、五十バトスに書き直させました。証文を書き変えて借金を半分にしたのです。別の人に同じように尋ねると、その人は「小麦百コロス」と答えました。すると管理人は同じように借金の証文を渡して、八十コロスに書き直させました。この人の場合は借金を二割減らしたのです。「バトス」や「コロス」という単位については、聖書の後ろにある付録の「度量衡および通貨」を見ると分かります。それによれば「バトス」とは約23リットル、「コロス」は約230リットルとありますから、油百バトスとは約2,300リットル、小麦百コロスとは約230,000リットルということになり、いずれもすごい量であることが分かります。このことから、借金していた人たちと主人の関係が個人的な関係ではなく、大規模なビジネスにおける関係であったと想像できます。この人たちはビジネスにおける大きな借金、負債を抱えていたのです。それは、この管理人が大規模ビジネスの大きな借金の証文を自由に扱える大きな権限を主人から与えられていた、ということでもあります。それほど主人から信頼されていたにもかかわらず、管理人はその信頼を裏切って不正をしていたのです。借り手にとっては負債が二割ないし半分減れば、負担が大きく減ることになりますが、貸し手である主人にとっては逆に大きな損害を被ることになるのです。

私たちのつまずきの最大の原因
 だから私たちは、8節前半で「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」と言われていることを不思議に思います。大きな損害を被ることになる主人が、管理人を褒めることがあるのだろうかと思うのです。そのために主イエスの譬え話は7節で終わっていて、8節は主イエスご自身の言葉であると考える人もいます。「主人」と訳されている言葉は、「主イエス」の「主」と同じ言葉であるため、「主が、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」と読むことができるからです。8節は、譬え話の主人の言葉ではなく、譬え話に対する主イエスの言葉であると考えるのです。主人の言葉なのか主イエスの言葉なのか、どちらなのかははっきりしません。ただどちらに訳したとしても、主イエスご自身がこの不正な管理人のやり方を抜け目のない、賢いやり方である、とお褒めになっているのは確かです。そして私たちのつまずきの最大の原因は、主イエスが不正な管理人のやり方を肯定されていることにこそあるのではないでしょうか。

時を見極める賢さ
 私たちには管理人が不正に不正を重ねただけのように思えます。不正に証文を改ざんして、主人に借金をしていた人たちに恩を売っておけば、自分が解雇されたときに、その恩を売った人たちが自分を家に迎え入れてくれるだろうと考えたのです。そんな考えが褒められて良いのだろうかと思わずにはいられません。いったい主イエスがお褒めになり肯定された、不正な管理人の抜け目のないやり方とは何を指しているのでしょうか。その手掛かりは、8節後半の「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」にあります。「光の子ら」とは、主イエスの弟子たちのことであり、主イエスを信じている人、つまり私たちキリスト者のことです。一方、「この世の子ら」とは、主イエスを信じていない人たちのことでしょう。つまり主イエスを信じていない人たちのほうが、主イエスを信じている人たちより賢くふるまっている、と言われているのです。この賢さは、「抜け目のない」と言われているように、知識があるとか頭が良いというより、見極めができる、判断ができるということです。「自分の仲間に対して」と訳されていますが、「自分の時代(の者たち)に対して」とも訳せます。この福音書の11章29節で「今の時代の者たちはよこしまだ」と言われていましたが、この「時代の者たち」が「仲間」と訳されている言葉です。つまり主イエスを信じていない世の人たちは、「自分の時代(の者たち)に対して」賢くふるまっている、と言われているのです。自分の時代に対して賢くふるまえるのは、自分の時代がどんな時代かを見極めているから、判断できているからです。あの管理人は、まさに自分が置かれている状況、自分が置かれている時を見極めていました。解雇される決定的な日が確実に近づいている、しかしまだ時間が残されていることを見極めていたのです。そして残された時間の中で、頭をフル回転させ自分がなにをなすべきかを考え、判断したのです。その動機は、自己保身のためであったと言えるでしょう。その方法は、不正なやり方であったのも間違いありません。しかし主イエスがお褒めになり肯定されたのは、その動機でも方法でもなく、自分が置かれている時を見極め、自分がなにをなすべきかを必死に考え、判断したことです。恩を売るためには不正をしても良いとか、私文書改ざんや偽造をしても良いとか、そういうことではありません。たとえ自分の保身のためであっても、自分の利益のためであっても、今という時を見極め、自分がすべきことを必死に考える、その賢さを肯定されたのです。主イエスを信じていない世の人たちは自分の時代を見極め、自分の利益を大きくするために賢くふるまっているのです。それに対して、主イエスを信じている光の子である私たちキリスト者は、自分の生きている時代を見極めていないし、見極めて自分がなにをなすべきかを必死に考えていない、と主イエスは言われているのです。

救いの実現と完成の間の時
 この主イエスのお言葉は、弟子たちに大きなショックを与えたに違いありません。さっきまで主イエスはたとえを通して、ファリサイ派の人々や律法学者たちに厳しい眼差しを向けておられたのです。それが、今や自分たちに向けられている。しかも「あなたがたは賢くない、時代が見極められていない、判断できていない」と言われたのです。この厳しい眼差しが私たちにも向けられています。主イエスは私たちにも、「あなたがたは賢くない、時代が見極められていない、判断できていない」と言われるのです。それは、私たちキリスト者が、この時代の世界の問題に関心を持っていない、今がどのような時代かを考えていない、ということではありません。もちろん私たちが今の時代の問題に向き合っていくのは大切なことです。しかしそのことによって、私たちは本当に時代を見極められるわけではありません。私たちが見極めるべき時代とは、主イエスを信じていない世の人たちが見極めている時代とは異なるからです。私たちが見極めるべきなのは、今という時が、世の終わりの裁きが間近に迫っている時、それゆえに救いの完成が間近に迫っている時である、ということです。今という時が、キリストの十字架と復活による救いの実現と、キリストの再臨による救いの完成の間の時であることを見極めて生きることが、賢く生きることにほかならないのです。

残されている時間になにをなすべきか
 主人が管理人に大きなビジネスを左右できるほどの権限を与え、自分の財産を預けていたように、神様は私たちにまことに大きな権限を与え、多くのものを預けてくださっています。創世記1章で神様は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と言われました。それは、人間がほかの被造物を好き勝手にして良いということではなく、神様の御心に沿って被造物を管理する務めを、そしてそのための力を人間に与えてくださったということです。ですからそこには大きな責任が伴うのです。しかし私たちは管理人と同じように、そしてあの放蕩息子と同じように、その責任を放棄して、神様から預けられたものを無駄遣いしてしまっているのです。私たちにとって決定的な時、世の終わりの裁きの時、救いの完成の時は近づいています。しかしまだ時間が残されている。キリストの十字架と復活による救いの実現と、キリストの再臨による救いの完成の間を生きるとは、「世の終わりは近づいているけれど、まだ時間が残されている」ことを見極めて生きることです。残されている時間に、救いの完成までの時間になにをなすべきかを、私たちは頭をフル回転させて考えていくのです。それこそ主イエスが私たちに求めておられる賢さなのです。

不正にまみれた富
 世の終わりを見つめ、今という時を賢く生きるとは、具体的にはどのように生きることなのでしょうか。主イエスはこのように言われます。「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。「富」と訳された言葉は、ギリシャ語ではマモンという言葉です。この言葉の語源ははっきりしませんが、おそらく「人が信頼を置くもの」という言葉に由来しています。ですからここで言われている「富」とは、お金だけでなく、私たちが信頼を置くものすべてを意味しているのです。なによりもまずお金に代表される財産のことであるでしょう。しかしそれだけでなく、自分の能力や地位、資格や経験なども含めることができると思います。それらすべてをマモン、「富」と呼んでいるのです。しかし単に「富」と言われているのではなく、「不正にまみれた富」と言われています。そう言われると、「不正にまみれた富」と「不正にまみれていない富」があるように思いますが、そうではありません。あらゆる世の富のことを「不正にまみれた富」と言っているのです。それは、富そのものが悪である、ということではありません。お金や財産を持つべきではないとか、能力や地位など役に立たないということではないのです。管理人が主人から財産を預けられていたように、私たちも神様からお金や財産、能力や地位を預けられています。これらは本来私たちのものではなく、神様が私たちに与えてくださったものであり、決して悪いものではなく良いものです。ところが神様がこれらの富を与えてくださったことを忘れ、自分のものであると勘違いすることによって、私たちは本来良いものである富を、「不正にまみれた富」としてしまっているのです。別の言い方をすれば私たちの罪によって、富は不正にまみれたものとなっているのです。それが今という時の現実です。主イエス・キリストの十字架と復活によって救いは実現し、罪の力に対して勝利しました。しかし救いの完成に至るまでの間は、つまり私たちが生きている今という時は、なお罪の力が残っているのです。私たちが清く正しく生きれば、不正にまみれた富がクリーンな富になるということではありません。私たちが自分の力で罪の力をなんとかできるわけではないからです。救いの実現と完成の間においては、神様から与えられた本来良いものである富が、なお罪の力によって「不正にまみれた富」となっているのです。

神から預けられているものを神のために用いる
 罪の力が完全に滅ぼされるまでは、つまり救いが完成するまでは、「不正にまみれた富」であるしかないならば、私たちはこの「不正にまみれた富」とどのように関わっていけば良いのでしょうか。自分のものだから好きなようにして良いのだと開き直るのでしょうか。そうではないはずです。なぜなら私たちは主イエス・キリストの十字架と復活によってすでに救われているからです。なお救いの完成は世の終わりを待たなくてはならないとしても私たちはすでに救われているのです。神様から与えられたものを自分勝手に無駄遣いしていた私たちのために、神様が独り子を十字架に架けてくださった、その神様の愛を知っているのです。だから私たちは、10節で「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」と言われ、11節で「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」と言われているように、「ごく小さな事」に、つまり「不正にまみれた富」に忠実に生きるのです。それは、私たちが地上の生涯において、神様が私たちに預けてくださっている富を正しく管理して生きることにほかなりません。12節では「他人のものについて忠実でなければ」と言われています。自分の富、自分の持っているお金や財産、能力や地位は、神様から預けられたものであるということを弁えて、それを神様のために用いていくのです。主イエスによって救われ、神様の愛を知らされている私たちは、救いの完成までの間、「不正にまみれた富」を神様のために用いていきます。このことこそ、今という時を見極めて私たちがなすべきことなのです。13節の終わりで「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われているのもこのことを見つめています。神と富とに仕えることができないとは、神に仕えるなら富を用いてはならないということではありません。そうではなく富が神様から預けられているものだと弁え、その富を神様のために用いるならば、私たちは神様に仕え、富に仕えることなく、富を用いていることになるのです。

神と隣人とのために用いる
 神様に仕えて、神様のために「不正にまみれた富」を用いる。具体的には、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とあるように、友達を作るために用います。言い換えるならば、隣人と関わっていくために、隣人と交わりを持つために、自分に与えられているものを用いていくのです。自分の持っているものを自分のために用いるのではなく、隣人のために用いていきます。自分のお金や財産、能力や地位を自分のためではなく、ほかの人のために、世の人々のために用いていくことが、神様のために用いることになるのです。神様はそのように生きる私たちを、世の終わりに「永遠の住まいに迎え入れて」くださり、私たちに「本当に価値あるもの」を与えてくださる、と約束してくださっています。私たちキリスト者は賢くあらねばなりません。今という時を見極めなくてはなりません。そして今なすべきことを判断しなくてはなりません。救いの完成は近づいています。それまでの間、私たちは神様が預けてくださっているものを忠実に管理し、神様のために、それゆえに隣人のために用いていくのです。神様は私たち一人ひとりに、まことに大きなものを預けてくださっています。主イエス・キリストの十字架に示された神様の愛に生かされている私たちは、感謝と喜びと責任をもって、神様から預けられているものを、神様と隣人のために用いていくのです。

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