主日礼拝

本当に必要なこと

「本当に必要なこと」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第130編1-8節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第10章38-42節
・ 讃美歌:54、160、458

この話はなぜここに?
 本日ご一緒に読む、ルカによる福音書第10章38節以下には、マルタとマリアという姉妹が登場します。この人たちは、ルカによる福音書においてはここにのみ登場するのですが、ヨハネによる福音書においては、11章と12章に出てくる、大変重要な登場人物です。ヨハネによる福音書の第11章というのは、有名な「ラザロの復活」の場面ですが、そこで主イエスによって復活させられたラザロの姉妹たちとしてマルタとマリアが登場するのです。つまり、年齢の関係は分かりませんが、ラザロとマルタとマリアは兄弟姉妹で、共に暮らしていたようです。ヨハネ福音書によれば、その場所はベタニアという所です。ベタニアはエルサレムの近くの村で、マルコ福音書によれば、エルサレムに来られた主イエスは夜はベタニアに泊まっておられたとありますから、エルサレムのすぐそばだったわけです。おそらく主イエスが泊まっておられたのはこのラザロ、マルタ、マリアの家だったのだろうと想像されます。ヨハネやマルコ福音書からそのようなことが分かってくるのですが、ルカは、それらのことを一切語っていません。38節には「ある村」とだけあって、ベタニアという地名は出て来ないのです。それには理由があります。つまり本日の話がベタニアでのことだとすると、主イエスはもうエルサレムのすぐ近くに来ておられることになります。ルカは9章51節で、それまでガリラヤ地方で活動しておられた主イエスがエルサレムへと向かう決意を固めて出発されたことを語っています。今、主イエスと弟子たちはエルサレムへの旅の途中なのです。ルカ福音書において主イエスがエルサレムに入られたことは19章に語られています。そこまでは、ガリラヤからエルサレムへの旅路として語られているのです。主イエスの活動をそのように語っているルカにとっては、この10章の段階でベタニアに来られたとなるともう旅が終わってしまい、構想が崩れてしまいます。それでルカはベタニアという地名を出さずに「ある村」とだけ言っているのです。マルタとマリアがベタニアの住人であることをルカが知っていたとすればそういうことになります。あるいはそれを全く知らずに、主イエスにまつわる一つの話として伝え聞いたのかもしれません。いずれにしても大事なことは、ルカがこの話を10章のこの位置で、つまり主イエスのエルサレムへの旅が始まった直後のところで語ろうと思ったということです。それはなぜなのか、ルカはどうしてこの話をここで語るのが相応しいと考えたのか、そのことを考えていくことが、本日の箇所を読んでいく上で大事な鍵となるのです。

主イエスを迎え入れる
 ルカがこの話を、9章51節から始まっているエルサレムへの旅路の中に位置づけていることは、38節の「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」という言い方から分かります。主イエスと弟子たちは、旅の途上である村に入ったのです。さて主イエスは旅立つに際して、9章52節にあったように、弟子たちを先に使いの者として派遣なさいました。派遣された弟子たちは後から来られる主イエスのために準備をしたのです。それは単に寝泊まりする場所を準備したということではありません。10章の1節以下には、主イエスが七十二人の弟子たちを二人ずつ組にして、御自分が行くつもりの町や村に先にお遣わしになったことが語られています。「ほかに七十二人を」とあるように、9章52節で先に使いの者として派遣された人々の他にこの人々が遣わされたのです。彼らに与えられた使命は、9節によれば、病人をいやし、「神の国はあなたがたに近づいた」と告げることです。それは主イエスご自身が語り、行なっておられることです。主イエスの到来によって神の国が、つまり神様の恵みのご支配がいよいよ実現しようとしている、その神様のご支配の印として病人の癒しや悪霊の追放が行われていたのです。主イエスに派遣された弟子たちも同じことを告げ、行なっていきました。つまり神の国の福音を宣べ伝え、その印として病人を癒したのです。それこそが、後から来られる主イエスのための準備です。弟子たちのそういう準備によって、彼らが派遣された町や村において、神の国が近づいていることを信じ、主イエスと弟子たちを迎え入れる人が出て来ます。そのことが、この「ある村」においても起ったのです。「すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」とあります。なにげなく書かれていますが、「イエスを家に迎え入れた」というのは重大なことです。8節以下には、先ほどの七十二人に対して、「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」とありました。つまり主イエスの一行を迎え入れるとは、その人々をもてなし、生活の世話をし、そして自分の家を、神の国の福音がその町で宣べ伝えられるための拠点とする、ということなのです。そして10節以下には、「町に入っても、迎え入れられなければ」という場合のことが語られています。誰も彼らの一行を迎え入れようとしない、つまり主イエスによる神の国の到来の福音を受け入れず、その福音が宣べ伝えられていくために奉仕しようとする者が一人もいない、ということもあり得るのです。そういう現実もある中で、この村においては、マルタという女が主イエスと弟子たちを自分の家に迎え入れたのです。おそらく彼女は、この村に先に遣わされて来た弟子たちの語ることを聞いて、主イエスを迎え入れようと思ったのでしょう。ですから彼女が主イエスを迎え入れたのはたまたま偶然ではありません。そこには既に、主イエスを信じ、仕えようという彼女の信仰の決意があるのです。ルカはこの話をこういう文脈の中で語ることによって、エルサレムへと向けて出発し、旅路を歩んでおられる主イエスを自分の家に迎え入れ、もてなしをし、主イエスによる神の国の到来を告げる福音を自分も信じ、その福音の伝道のために奉仕する信仰者の姿を描いているのです。

マルタの信仰の決断
 このことが、本日の箇所を読むための大事な前提となります。つまりここにはマルタとマリアという姉妹が登場し、二人の姿が対照的に描かれていき、そして42節に「マリアは良い方を選んだ」とあるように、マルタよりもマリアの方が良い、相応しいと主イエスによって褒められたという話になっています。しかしそれは、マリアこそが信仰者でマルタはそうではない、ということではないのです。主イエスを家に迎え入れたのはマルタである、とはっきり書かれています。それは今申しましたように、マルタが主イエスに従い仕える信仰者となったということです。マルタは、主イエスと弟子たちの一行を自分の家に迎え入れるという大いなる信仰の決断をしたのです。その後、「彼女にはマリアという姉妹がいた」と、おそらく妹であるマリアが登場します。マリアも主イエスを信じる者となるわけですが、それは姉であるマルタの信仰の決断が先にあったからだと言えるでしょう。つまりマリアはマルタによって導かれて信仰者となった、と考えるべきだと思います。

対照的な姿
 さてこのように同じ信仰者であるマルタとマリアの姉妹の間に、ある違いが生じました。39節にあるように、マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていたのです。それに対してマルタは40節「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」のです。マルタとマリアの話のポイントは、この対照的な姿にあります。そして私たちはそこから、いろいろなことを読み取ろうとします。と言うよりも、自分たちが感じていることをこの話に読み込もうとします。教会の、特にご婦人方の間でよく語られるのは、「私はマリア・タイプだ」とか「私はマルタ・タイプだ」というようなことです。その場合の「マリア・タイプ」というのは、静かに礼拝を守り、み言葉を聞き、祈るという信仰生活が自分には合っているしその方が好ましいと感じているという人であり、「マルタ・タイプ」というのは、それよりもむしろ活発に体を動かしていろいろな奉仕をする、例えば愛餐会のための食事作りとか、バザーのための手芸品造りとか、あるいは会堂のお掃除とか、また教会の外におけるいろいろな奉仕活動に加わって活動するとか、そういうことに喜びを感じ、充実を覚える、静かにお話を聞いているのはちょっと苦手、みたいなタイプであると言えるでしょう。それは女性だけの話ではなくて、男性も含めて、マルタとマリアのどちらに親近感を覚え、自分に近いものを感じるか、ということを私たちはここからよく考えるのです。そして自分がどちらのタイプかというだけではなく、礼拝中はマリアに徹し、終わったとたんにマルタに変身するのだ、という思いを持っている人もいるでしょう。つまり時と場合によってマルタとマリアを使い分けながら信仰生活を送っている、という思いを持っている人も多いのではないでしょうか。これらのことは皆、先ほど申しましたように、私たちが自分の体験や感覚をこの話に読み込んでいるということです。しかし私たちがしなければならないのは、自分の感覚を聖書に読み込むのではなくて、聖書が語っていることを読み取ることです。マルタとマリアの対照的な姿から私たちは何を読み取ることができるのでしょうか。

ディアコニア
 マルタが主イエスと弟子たちを家に迎え入れて、いろいろのもてなしをしていたというのは、先ほどの8節にあった、「迎え入れられたら、出される物を食べ」ということの実現です。つまり迎え入れるとは、食事を出すことをはじめいろいろのもてなしをすることです。そういう意味でマルタがしていることは、神の国の福音を宣べ伝えている主イエスと弟子たちに仕え、その歩みを支えるという信仰の行為です。マルタは決して、自分の料理の腕前を披露しようとしているわけではないし、ちゃんともてなさないと恥をかくと思っているのでもないのです。彼女がせわしく立ち働いているのは信仰によってです。マルタの姿は、信仰者が主イエスに仕えている姿なのです。そのことは、「もてなし」という言葉からも分かります。これは原文においては「ディアコニア」という言葉です。「奉仕」という意味ですが、これは毎年の教会総会の資料の冒頭に掲げられている私たちの教会の「宣教基本方針」の中に出てくる唯一のギリシャ語の言葉です。その「方針」の5、「執事に関して」という所に「キリストの愛の業に倣う奉仕(ディアコニア)を整える執事のつとめ」とあります。私たちの教会は長老教会です。長老教会は、教会の信仰と教理をしっかり守り、御言葉によって常に改革される教会として歩むことと並んで、キリストの愛の業に倣う奉仕(ディアコニア)に生きることを大切にしてきました。そのために、長老と執事という二つの務めを立ててきたのです。教会の信仰と教理を守り、御言葉によって常に改革される教会を整えることが、牧師も含めた長老の務めです。そしてキリストの愛の業に倣う奉仕を整え、教会に連なる人々がそれぞれの賜物を生かしてディアコニア(奉仕)に生きることができるようにすることを担うのが、ディアコノスつまり執事の務めです。マルタがしているのはこのディアコニア、つまり主イエスに従う信仰者にとって大切な信仰の業としての奉仕なのです。ですから、このマルタとマリアの姿は、自分はどちらのタイプだとか、どちらの方が自分の好みに合うなどというふうに読むべきものではありません。これはどちらも、主イエスに従い仕えていく信仰者が大切にすべきあり方なのです。

心を乱している
 しかし、このどちらも大切な信仰のあり方の間で問題が生じています。マルタがマリアのことで主イエスに文句を言ったのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。マルタは、主イエスの足もとに座ってその話に聞き入っているマリアに対して、「何も手伝わず、私だけにもてなしを、つまりディアコニアを押し付けている」という不満を抱いたのです。このマルタに対して主イエスはお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。主イエスはこのお言葉によってマルタに何を語ろうとしておられるのでしょうか。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」。これは前の口語訳聖書では「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている」となっていました。主イエスはマルタが思いわずらいに陥り、心を乱していると言っておられるのです。そのことは口語訳における40節の言葉にも現れています。「ところが、マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし」というのが口語訳です。もてなし、接待、ディアコニアの業の中で、マルタの心は乱れ、とりみだしてしまっているのです。心が乱れるとどうなるか、自分のしている働き、奉仕、ディアコニアを喜んでできなくなるのです。そして、人のことを非難するようになるのです。「自分はこんなにしているのに、あの人は何もしない。手伝おうとしない。そんなことでいいのか」という思いに支配されていくのです。自分のしている奉仕を喜べないことと、人を非難することは表裏一体、表と裏の関係です。自分に与えられた奉仕を喜んでしている人は、人のことを非難することはありません。人への批判や攻撃は、自分自身が喜んでいないから生じるのです。マルタはそのような思いわずらい、心の乱れに陥ったのです。そのように心が乱れてしまうと、彼女がせっかく主イエスと弟子たちを家に迎え入れるという信仰の決断をし、奉仕している信仰の業が歪んだものになってしまいます。彼女はこの奉仕、ディアコニアを、誰かから強制されたのではありません。自分の意志でそれを引き受け、喜びをもってそれを担ったのです。信仰における奉仕、ディアコニアとはそのように、喜んで、自発的に行なうものです。ところが私たちは時として心を乱し、その喜びを見失って、自分だけが何か重荷を背負わされているように感じてしまうことがあります。心を乱しているマルタの姿は、私たちの信仰の生活の中でも時として起るそのような事態を表しているのです。

酷な言葉?
 このように心を乱してしまっているマルタに主イエスがお語りになった言葉が42節です。「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。私たちはこのお言葉を読む時、これはマルタには気の毒な、酷な言葉ではないか、と思うのではないでしょうか。マルタは今見てきたように、主イエスを迎え入れ、いっしょうけんめい奉仕しているのです。信仰の業を頑張ってしているのです。しかし同じ主イエスを信じ従っているはずの妹が手伝ってくれない、自分だけが忙しく立ち働いている、という現実の中で心を乱しているのです。そのマルタに対して、これでは「あなたのしている奉仕は本当に必要なことではない。しなくてもいいことだ。マリアのように私の足もとに座って話に聞き入ることの方が大事だ」と言っていることになる。これでは身も蓋もないではないか、と感じるのです。

み言葉に聞き入る
 しかし、主イエスのこのお言葉をそのように冷たい薄情な言葉と読むのは間違っていると思います。主イエスはここでマルタに、「あなたのしていることは意味がない」などと言っているのではないのです。そもそも、何度も繰り返し申していますように、マルタは主イエスを迎え入れ、奉仕するという信仰に生きている人です。彼女の奉仕つまりディアコニアは主イエスに従う者たちにとってとても大事なことなのです。意味がないとか必要ないなどということは絶対にないのです。主イエスがマルタに望んでおられるのは、彼女がそのディアコニアを、心乱れ、喜びを失った中で、人を非難するような思いを抱きながらするのではなくて、本当に喜んで、自発的にしていってほしい、ということです。そして、そうなるために必要なただ一つのことを主イエスは教えて下さっているのです。それが、マリアのように、主イエスの足もとに座って、そのみ言葉に聞き入ることです。主イエスはどのようなみ言葉を語っておられるのでしょうか。それは、主イエスご自身において、神の国が、つまり神様の恵みのご支配が、確立しようとしているということです。人間の力や努力によって神の国を築いていかなければならないのではなくて、神様が、その独り子をこの世に遣わし、その方によって神の国を実現し、そこに私たちを招いて下さるのです。その神の国の実現のために、主イエスは今エルサレムへと、つまり十字架の苦しみと死、そして復活と昇天へと歩んでおられます。神様の独り子である主イエスが、私たちと同じようにこの世を歩み、そして私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって、神の国、神様の恵みのご支配は実現するのです。主イエスを信じ、従っていくとは、この主イエスのもとに集い、その足もとに座って主イエスの語られるみ言葉に、神様の恵みのご支配の到来を告げる福音に聞き入ることです。そしてそのみ言葉を本当に聞いた者は、先週の「善いサマリア人」の話の最後のところにあったように、「行って、あなたも同じようにしなさい」という主イエスの励まし、勧めを受けるのです。主イエスの愛の業に倣う奉仕、ディアコニアは、この主イエスの励ましの中でこそなされていきます。主イエスによって実現する神の国、神様の恵みのご支配を告げるみ言葉に聞き入り、それを本当に受け止めることによってこそ、私たちは本当に喜んで、自発的に、奉仕に生きることができるのです。

本当に必要なこと
 この「主イエスのみ言葉に聞き入る」ことを失ってしまうと、私たちの奉仕は自己実現や自己主張のための業になります。そこには、自分の奉仕への評価や見返りを求める思いが生じます。そうなったらもはや本当に喜んで奉仕しているとは言えません。そして自分の奉仕を本当に喜んでいないところには、自分はこれだけしているのにあの人はなんだ、と人を非難する思いが生じるのです。そのような歪んだ思いから抜け出すことは、奉仕の仕方や内容をいくら工夫して合理化しても、そういう小手先のことによってはできません。立ち戻るべきところは、主イエスの足もとに座ってその恵みのみ言葉に聞き入ることなのです。「必要なことはただ一つだけである」という主イエスのお言葉は、そのことをマルタに、そして私たちに教えています。つまりマルタとマリアのこの姿は、先ほど申しましたように、信仰者のタイプの違いではないし、ある時はマリアに、ある時はマルタに徹する、などというものでもないのです。むしろ、マルタのしている奉仕、ディアコニアが本当に生かされ、喜びをもって自発的になされていくためには、マリアのあり方が必要なのです。主イエスはマルタの信仰の決断とそれによる奉仕が本当に生かされることを願っておられます。マルタを愛しておられるのです。それゆえに、「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」とおっしゃったのです。それはマリアを褒めるための言葉ではなくて、マルタが喜んで奉仕に生きるために本当に必要なことを教えようとするみ言葉なのです。そして、先週の箇所からのつながりで考えるならば、主イエスの足もとに座ってみ言葉に聞き入っているマリアには、「行って、あなたも同じようにしなさい」という励ましが、勧めが与えられていくのです。そのようにしてマルタもマリアも共に、主イエスのみ言葉によって養われつつ、自分に与えられている賜物を喜んで自発的に献げ、生活の中で具体的に主イエスに仕える者となっていくのです。

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