夕礼拝

私がその裁きを負う

「私がその裁きを負う」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書第14章12-17節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第11章20-24節
・ 讃美歌:496、522

 イエス様は、神様の御業を見ても、礼拝での御言葉を聞いても、神様の方に向き直らないわたしたちの姿を、心から嘆き悲しんでおられます。
 本日の箇所で、イエス様は、激しく厳しい言葉で、そのように悔い改めようとしない者たちには、神様の裁きとして厳しい罰が与えられるのだということを語っておられます。ここでのイエス様のお言葉は、私たちにとって、やさしい恵みの言葉と言うよりも、厳しく、わたしたちが震え上がってしまうような言葉であります。
 本日の箇所では、イエス様は悔い改めない「町々」をお叱りになった、と書かれております。20節以下には、6つの町の名前がでてきますが、これらを6つの町を、二つのグループに分けることができます。コラジン、ベトサイダ、カファルナウム、この三つの町は、イエス様がもっぱら伝道をなさったガリラヤ地方の町です。これがひとつ目のグループです。ティルス、シドン、ソドムこの三つの町が、ふたつ目のグループです。これらは異教の神を信じる人が多く住む町の代表格です。ユダヤの人々からは、神ではない神を信じる連中が住んでいる町だと見なされ、何度も滅びるという預言を聞かされ、実際にソドムのように滅んでしまった町もありました。彼らは神ではないものを信じるというだけではなく、不品行であったり、悪徳、また主の目に悪とされることを、し続けていました。ふたつ目のグループはそのような町々です。
 二つのグループを紹介しましたが、どちらがイエス様に叱られたのかと言うと、それは、ひとつ目のグループの町々でした。なぜ、イエス様はひとつ目のグループの町々を叱ったのか、それは、ひとつの目のグループの町々は、イエス様が「数多くの奇跡を行われた」のに「悔い改めなかった」からです。ふたつ目のグループも、主なる神様の言葉を、御使いや預言者を通して立ち帰れと言われており、そのよう立ち帰ったり、「悔い改め」たりしたかと言えば、立ち帰りも悔い改めてもいなかった。「悔い改めなかった」という点では、この二つのグループの町々は一緒です。しかし、なぜ、ひとつ目のグループだけが、イエス様に嘆かれているのかといえば、それはイエス様の「数多くの奇跡」が行われていたのに悔い改めなかったからです。ここには、「奇跡」と書かれています。この奇跡は、マタイによる福音書の8~9章で実際にイエス様が病人の病気を癒やしたり、悪霊を追い出したり、死人を生き返らせたりしたあの奇跡のことが意識されています。しかし、実は、ここで「奇跡」と訳されている言葉は、その奇跡だけのことを指してはいません。実は、口語訳聖書では、この「奇跡」という言葉は「力あるわざ」となっています。またここには、日本語に訳されていない「彼の」という言葉が原文にはあります。直訳すれば「彼の力あるわざ」です。彼というのは勿論イエス様のことです。奇跡と訳されると、わたしたちは、8~9章でのイエス様の御業しか、意識しません。イエス様の「力あるわざ」と訳されると、イエス様が奇跡を行ったという業だけでなく、教えを力強く語ったということも、一つの業であると見ることができます。そうなると「力あるわざ」は、8~9章で示された、イエス様のあらゆる奇跡的な行いだけでなく、5~7章で山上の説教という形でイエス様が教えを語られたことも、入ると言えるでしょう。
 つまり、「イエス様の力あるわざ」とは、イエス様が病気を癒したり、悪霊を追い出したり、死んでしまった人を生き返らせたりした奇跡、そしてさらに山上で数々の福音を語られたこと、その両方なのです。コラジン、ベトサイダ、そしてカファルナウムというガリラヤの町々では、イエス様によってその奇跡が行われ、そして福音が語られていたのです。しかしその町々の人々は、そのイエス様のみ言葉とみ業とを、しっかり受け止めなかったのです。彼らは、イエス様の奇跡に驚きはしました。またそのみ言葉を聞くために大勢の人々が集まっても来ました。ですから、全然反応がなかったというわけではありません。興味があって集まって、聞いたり、見たりして驚いた。しかし、彼らは、悔い改めはしなかった。奇跡を見て驚いたりしても、また御言葉を聞いてその言葉を理解したとしても、それらは「悔い改め」ことになってなかったのです。神様の方にしっかりと向き直り、自分の罪を認め、神様に赦しを乞う、そのようにはなっていなかった。そのような彼らの様子は、わたしたちにも見に覚えのあることです。
 私たちは、イエス様を実際に目にすることができませんし、直接イエス様の奇跡の業を見てはいません。しかし、実は、わたしたちは、いつも神様の御業を目撃しています。わたしたちは、神様に命を与えられ、糧を与えられ、生かされている。自分がいま生かされていること、存在していることが、実はひとつの神様の御業の現れです。しかし、それだけではありません。絶望しか目の前になく死のうと思っていたある人が、神様と出会い、本当に主の恵みに支えられ、希望を持ち、いきいきと、生きる者となっていることもある。実は、神様はわたしたちといつも共におり、わたしたちの日常で、その御業を行ってくださっているのです。そして、数多くのキリスト者を、死んでいた者から生きる者へと変え、死者が生きる者となったという奇跡をわたしたちに証ししてくださっています。しかし、わたしたちは自分に起きている数々の神様の御業、そして隣人に起きている数々の奇跡を、神様がしてくださったこととも思わず、単なる偶然とか、運命とかで片付けてしまう。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムも、そのようにイエス様の御業や言葉を受け止めていたのでしょう。いや受け止めてもいなかったんです。へんやつだ、悪霊にとり憑かれて変なこといっているんだ。あいつは悪霊の親玉だから、悪霊を追い払えるんだ。そういって、イエス様の奇跡の御業を、神様の御業として、そのまま受け止めはしなかった。洗礼者ヨハネの「悔い改めなさい」という神様からの言葉も、あいつは悪霊にとり憑かれている変な奴の戯れ言だといって、受け止めようともしない。わたしたちも、わたしたちの身にまわりに起きていることを、キリスト者に起きている数々の恵みの出来事を単なる偶然だといって、受け止めない。そして、イエス様がこの礼拝の説教を通して語ってくださっていても、まずそれを信用せず、色々な理由をつけて、その言葉を受けとめない。どこか自分の聴きたいことしか受け止めない自分がいる。そのような、現実はわたしたちにはないでしょうか。
 神様が、その数多くの御業をわたしたちの近くで起こし、「わたしはあなたを愛している。今もあなたの命を支えている、糧を与えている。絶望の内に死んで滅びるしかないあなたを、わたしは、今希望の内に永遠に生かすことができる。だからわたしの方を向きなさい。」と、そう伝えてくださっているのに、その招きをわたしたちは無視する。さらにそれらのことを、直接、毎週、説教を通して、わたしたちに語られている。しかし、わたしたちは、そのみ言葉を聞いても、悔い改めて、本当に、自分の罪を嘆き、神様の方に向き直って、「神様にしか頼るしかない、そこにしか救いがない」と、すがりつこうとはしない。どこか自分の力で、「今週一週間がんばろう。神様助けてくださったらいいな」くらいにしか思っていない。悔い改めるというのは、そういうことではない。神様の方に向きなおって悔い改めるというのは、「もうあなたしかいない。神様、あなたしかわたしを本当に、平安の内に生かすことができない。」「だから、わたしをゆるしてください、すくってください、支えてください、わたしはそこにしか、生きられないのです。」それが悔い改めるものの、神様に対する絶対的な信頼です。あなたしかいない。そのような願いの裏には、あなたこそが、わたしを本当に、活かしてくださる。あなただけが、わたしを、本当の喜びと平安の内を歩ませてくださるという信頼があるのです。悔い改めるということには、神様を本当に信頼するということがあります。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムも私たち一人一人も、本当に、そこにいきることができていない、だからイエス様はこころを痛めて嘆かれているのです。
 21節「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」とイエス様は言われました。この「不幸だ」とはどういうことでしょうか。それは神様をお前は信頼しなかった、だから裁きが訪れる、それが不幸だということでしょうか。確かに、この後イエス様が裁きの日に彼らは罰を受けるということを語っています。そこでは、あの第二のグループの悪徳の町ソドムや、異邦人の町ティルスやシドンへの罰よりも重いものになると言われています。そういう不幸がお前を襲うのだというのが「お前は不幸だ」の意味なのでしょうか。実は、この「不幸だ」と訳されている言葉には、「不幸」という意味はありません。ここで「不幸」と訳されているギリシャ語は、「ウーアイ」というこの言葉ですが、これは実は、「ああ」とか「うう」とかいうただの呻きの言葉です。痛みを覚える時に、「うう」といってしまうでしょう。それと同じです。
 従って、21節のイエス様は「ああコラジン、うう、ベトサイダ」と言われたということです。そこにはイエス様が、これらの町々のことを心から嘆き悲しんでおられる姿が見えてきます。さらに、そこには、心の中だけの悲しみではなく、本当に自分の身体が傷つけられるような、身を切られるような、痛みを覚えておられる姿も浮かんできます。イエス様は本当に、この町を、この町の人々を愛しておられた、だから痛かったんです。この町を本当に愛して、滅びから救うから守ろうとしたのに、人々はそれに応じなかった。だからイエス様は苦しかったんです。例えるならば、崖から落ちそうになっている愛する者に、「そっちにいくなとこっちだ」と呼びかけたけど、その言葉を信じてもらえず、それでもだめだから近づいて、手をのばしたのに、その手も弾かれてしまった、そのような状況です。それがこの時の、イエス様の状況なのです。愛する人を失いそうになっている、だから、嘆いておられるのです。自分は救うことができるのに、愛する者がその救いを拒む。これほど、つらいことがありましょうか。目の前で、愛する人が、自分を拒絶して、死のうとしている。これを見ることほど、苦しいことが他にありえましょうか。これを実際に味わうことほど、つらいことがありましょうか。
 23節には、カファルナウムのことが語られています。カファルナウム、この町は、イエス様がガリラヤ伝道の本拠地としていた町です。8、9章に語られている奇跡の多くも、カファルナウムでなされています。カファルナウムの人々は、イエス様とふれあうことが最も多かったのでありました。つまり、この町の人々は、イエス様ともっとも長く時を過ごしていたし、関係も深かった。だからこそ、イエス様の嘆きや苦しみは他にもまして、大きかった。本当に、悔い改めて欲しかった、救いに預かって欲しかった、だからこそこのカファルナウムの町で多くの奇跡をなしてきたし、御言葉も語ってきた。イエス様の愛が、一番に向けられていた町、それがカファルナウムでした。そのカファルナウムが、悔い改めようとしなかったんです。愛が大きいほど、イエス様の痛みが大きい。わたしたちは、このカファルナウムろ同じ愛を向けられています。わたしたちが、悔い改めないとき、イエス様は、その愛の深さゆえに、言い換えればわたしたちの故に、わたしたちのせいで苦しんでおられるのです。21節の後半で「お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない」、23節の後半で「お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない」とイエス様はいっておられます。これはわたしたちに向けられている言葉です。ティルスやシドンは最初に申し上げたように異邦人の町で、旧約聖書においてしばしばおごり高ぶりの代表として言及される町です。ソドムは勿論創世記19章で罪のために神に滅ぼされた悪徳の町です。イエス様は、「お前たちのところで行われた奇跡」つまりイエス様の力あるみ言葉とみわざが、もしそれらの町で行われたなら、彼らは悔い改め、救いにあずかったに違いないと言われています。ティルスやシドン、それはイスラエルの町ではない、異邦人の町、主なる神様への信仰とは無縁な町です。つまり主なる神様のもとへと悔い改めることから最も遠いはずの町です。ソドムも、史上最悪の悪徳の町、腐敗、堕落の象徴として今も語り継がれる町です。イエス様は、そのような町の人々が、わたしの力ある言葉とわざを見聞きしたならば、悔い改めるのだと言われたのです。それは、これらの町の人々の方が今のガリラヤの人々よりもまだマシだったということでありません。その悔い改めを引き起こすのは、イエス様の力あるみ言葉とみ業なのです。イエス様のみ言葉とみ業とは、それだけの力をもったものなのだ、とうてい悔い改めることなどあり得ないような者たちをも、悔い改めさせ、神様の前に行かせ、罪を認めて、赦してくださいと願わせるような力をそれは持っているのだ、ということが語られているのです。わたしたちが今見聞きしているイエス様のみ言葉とみ業とは、そのように人々を悔い改めさせ、新しくする力を持っている。「この世界の歴史の中で、もっともひどいとされている人々でさえ、悔い改めることができるようになる。そのような力をもった言葉と業とを、今あなたたちに与えているのだよ」とイエス様は、今日の箇所を通じてわたしたちに伝えてくださっています。「悔い改めて欲しい、救われて欲しい、希望に満ちて、生きて欲しい、喜びに満たされて、生きて欲しい」とイエス様は願っておられる、それをこの愛する町々、人々に語ったのです。それは、厳しい口調であったのですが、その裏には、本当に悔い改めを願っている、深いイエス様の愛があったのです。イエス様は、同じ御言葉、わたしたちに、今、語りかけてくださっています。イエス様のみ言葉とみ業は、どんな罪の中に、どんな弱さの中に、どんな事情の中にある者をも、悔い改めさせ、救いに与らせ、新しくする力がある。イエス様のみ言葉とみわざ、それは山上の説教と8、9章に語られているイエス様の奇跡のことのみではありません。この福音書全体がその力あるみ言葉とみわざを私たちに証ししているのです。その全体を通して示されていることは、イエス様が、ただ教えを語り、ただ奇跡を行われただけではなくて、私たちの全ての罪を背負って、ご自分は何の罪もないのに、十字架の死刑の苦しみを受けて下さったということです。あの「ああコラジン、ああベトサイダ」この「ああ、うう」という呻きは、あの十字架上での呻きにつながります。悔い改めをもしなかった、わたしたちのために、その裁きによって滅ぼされるしかなかった、わたしたちの代わりに、わたしたちが負うべき痛み、苦しみ、裁きをかわりに負われ、十字架上で、イエス様は呻き続けられた。そして、叫びながら、死なれた。それは、わたしたちが受けなければならない、厳しい裁きだったんです。それをイエス様は私たちの代わりに受けくださった。イエス様は、私たちの罪がもたらした痛みを自分だけで耐え、その罪を一方的に引き受けて下さった。それこそが、イエス様の最大のみ言葉とみわざです。イエス様のこの力ある恵みのみわざによって、私たちは悔い改めることができる。イエス様は、私たちが悔い改めて、罪を認めて、赦しを願い、絶望の内に死んで滅びるのではなくて、今希望の内に永遠に生きることを待っておられます。悔い改めて、父なる神様を本当に信頼し、神様の与えて下さる恵みを自覚し、平安と喜びと希望に生きることをイエス様は望んでおられます。すでに洗礼を受け信仰者となった人も、今一度主の前で、悔い改めましょう。求道者の方々、この救いの道はまだ閉じられていない。まだイエス様が待っていてくださっています。悔い改めから始まるこの道を共に、歩みたい。待っています。イエス様が待っておられます。

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