主日礼拝

罪に対して死ぬ

「罪に対して死ぬ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書第53章1-12節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第6章1-11節
・ 讃美歌:299、355、430

パウロの最後の手紙
 ローマの信徒への手紙は、遺されているパウロ手紙の中で最後に書かれたものです。パウロはこれまでおよそ二十年にわたって、イエス・キリストの福音を宣べ伝えてきました。主イエスこそ、神が遣わして下さった独り子であり、救い主キリストであることを、命がけで語ってきたのです。またその福音を伝えるために彼は多くの人々と対話してきました。様々な疑問や質問に答えてもきたし、論争を挑んでくる人々とやり合ったことも何度もありました。そういうパウロの伝道者としての経験の集大成がこのローマの信徒への手紙だと言えます。この手紙は、パウロの伝道者としてのこれまでの経験を土台として書かれているのです。そのことが感じられるのは、この手紙の所々に、自分で問いを発し、それに自分で答えるという書き方がなされていることです。そういう語り方自体は彼の発明ではなくて当時よくなされていたことのようですが、その手法を用いて彼は、これまでの伝道の経験の中で受けた問いや、論争における相手の主張を問いとして語り、それに自分で答えているのです。つまりそこに、パウロのこれまでの伝道の経験が生きているのです。

福音への誤解
 本日からこの手紙の第6章に入りますが、その最初のところもまさにそのような箇所です。1節に「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」という問いがなされており、2節で「決してそうではない」というパウロの激しい答えが語られ、何故そうではないのかがその後に語られていくのです。ここに語られていることは、パウロがこれまでにしてきた論争を背景としています。パウロは、この1節に語られている「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」という問い、あるいは揚げ足取りの中傷をこれまで度々受けて来たのです。この問いは直接には5章20節後半の、「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」を受けています。私たちは先週まで三回にわたって5章の後半を読んできましたが、そこには、アダムの罪が全ての人に及んでおり、神の民であるユダヤ人も含めて全ての人間は罪の支配下に置かれていること、しかし主イエス・キリストによって神の救いの恵みが実現しており、キリストに結び合わされた全ての人が罪の赦しを与えられ、義とされ、無罪を宣告され、永遠の命へと導かれる、ということが語られていました。つまり罪の支配は一部の特別に罪深い人だけでなく、全ての人に生まれながらに及んでいるという、いわゆる原罪の事実と同時に、その罪の支配を打ち破って余りある、主イエス・キリストによる救い、神の恵みの賜物が見つめられていたのです。「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」という5章20節後半は、全ての人間を支配している罪の力の大きさを見つめつつ、しかしその罪の力も、イエス・キリストにおいて示された神の救いの恵みの力に打ち勝つことは決して出来ない、それほどに豊かな救いの恵みが主イエスによって実現しているのだ、ということを語っていたのです。しかしパウロが語るこのキリストの福音を受け入れずそれに反対する人々は、6章1節にあるように「それでは、恵みが増すようにむしろ罪の中に留まった方がいいということになるではないか」と受け止め、批判しているのです。パウロはこういう批判を繰り返し受けてきました。6章の15節にも同じような問いと答えが出てきます。「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない」。またこれまでに読んだ3章の8節にも同じようなことが語られていました。「それに、もしそうであれば、『善が生じるために悪をしよう』とも言えるのではないでしょうか。わたしたちがこう主張していると中傷する人々がいますが、こういう者たちが罰を受けるのは当然です」。パウロはその伝道の歩みの中で、このような批判ないし中傷といつも戦っていたのです。それは見方を変えれば、パウロが宣べ伝えている福音は、こういう誤解ないし曲解を常に生むものだ、ということでもあります。福音が語られる所にはそういう間違いもまた起りやすいのです。それゆえにパウロは、まだ会ったことのないローマの教会の人々に書き送ったこの手紙において、自分が体験した論争を生々しく再現して見せることによって、このような誤解や間違いに陥らないように注意を促しているのです。

罪の中に留まるべきだろうか
 「恵みが増すようにと、罪の中に留まるべきだろうか」とはどういうことでしょうか。パウロが宣べ伝えている福音、救いの知らせは、私たちは自分が善い行いや正しい業をして立派な人になることによって救われるのではなくて、全く罪人であり罪に支配されてしまっている私たちが、ただ主イエス・キリストの十字架と復活によって神が与えて下さった義、罪の赦しの恵みをいただくことによって救われる、ということです。そのキリストによる神の救いの恵みは、人間の罪がどんなに大きくなっても、それをはるかに超えて大きい、それがパウロが伝えているキリストの福音です。その福音に対して、それでは恵みが増すようにと罪の中に留まるべきだということになる、という批判が浴びせられているのです。罪が赦されることが恵みであるなら、より大きな恵みを受けるためにはより大きな罪を犯した方がよいということになるではないか、という批判です。これは明らかに悪意ある揚げ足取りです。しかしこの批判において語られていることは、なかなか重い問題でもあります。パウロをこのように批判していたのは主に、律法を厳格に守ることによって正しい者であろうと努力していたユダヤ人たちでした。彼らは、パウロの教えによれば、律法を守って、善い行いをしようと努力することが救いにあずかるために意味を持たないことになり、罪を犯していてもよいということになる。そうなると、むしろ罪の中に留まっている方が得だ、ということになって、誰も一生懸命に善いことをしようとは思わなくなる。つまり、倫理や道徳が崩壊する、と言っているのです。
 このことは私たちにとっても大きな問題です。私たちはさすがに、罪の赦しの恵みをより多く受けるためには罪の中に留まり、より多くの罪を犯した方がよい、などという屁理屈は言わないかもしれません。けれども、罪の中に留まり、罪を犯した方がよいとは思わないまでも、私たちも、キリストによる救いの恵みを受けた後も、結果的には同じように罪の中に留まり続けているということはあります。神がキリストの十字架によって罪を赦して下さっているという福音を信じることが、「このままでいいのだ」という思いを生み、罪の中に留まり続けてしまう、ということがあるのではないでしょうか。つまり、罪のない完全無欠な人間になることによって自分の力で救いを獲得するのではない、神が主イエス・キリストの十字架の死によって私たちを、罪人であるままで赦し、救いを与えて下さる、神によるその赦しの恵みをいただくことが信仰なのだ、というそれ自体は正しい福音の教えのために、私たちが自分の罪の上にあぐらをかいてしまっていることはないでしょうか。もしそういうことがあるなら、それは神の救いの恵みのゆえに罪の中に留まり続けているということですから、ユダヤ人たちが批判した通りのことが私たちに起っていることになります。主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みが、私たちをかえって罪の中に留まらせ、そこから一歩も外に出ることが出来なくしているなら、私たちはユダヤ人たちの批判を揚げ足取りだとは言えないのです。

罪に対して死ぬ
 しかしパウロはこの批判に対して「決してそうではない」と答えています。これは非常に強い否定の言葉です。主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みを受けることが、私たちを罪の中に留まらせるようなことは決してない、とパウロは断言しているのです。赦しの恵みの上にあぐらをかいて、罪の中に留まってしまうようなことはあり得ない、と言っているのです。そしてその理由として、「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」と言っているのです。主イエス・キリストの救いにあずかった私たちは、罪に対して死んだ者なのです。それゆえに、もはや罪の中で生きることは出来ないし、そんなことはあり得ないのです。「罪に対して死んだ」という言い方は本日の箇所の最後の11節にもあります。「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」。キリストの救いにあずかったあなたがたは、罪に対して死んでおり、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだ、とパウロは言っているのです。「罪に対して死ぬ」とはどういうことでしょうか。それは罪との関係において死ぬということでしょう。5章に語られていたように、最初の人間アダムの罪以来、私たちは罪に支配されてしまっています。支配されてしまっているがゆえに、罪との関係を断ち切ることができないのです。罪がいつも私たちにまつわりついているのです。その罪に対して死ぬ、それは罪の支配から解放されることです。7節に「死んだ者は罪から解放されています」とあります。罪が私たちを支配し、まつわりついているのは、私たちが生きている間です。しかし死んでしまえば、罪の支配から解放されるのです。ですから罪に対して死ぬことは罪との関係が断ち切られ、その支配から解放されることです。キリスト・イエスの救いにあずかり、キリストに結ばれているあなたがたは、罪に対して死んで、罪の支配から解放されているのだ、そのあなたがたが罪の中に留まり続けることなどあり得ないのだ、とパウロは言っているのです。

義認は聖化を生む
 この罪の支配からの解放ということが、第6章においてパウロが語っていくことの中心です。そしてそこに、第5章までとは違う新しい展開があります。第5章までのところには、罪に支配されている人間が、主イエス・キリストの十字架の死によって罪を赦され、義とされることが語られていました。第6章においては、そのキリストによって義とされた者は、罪の中に留まることなく、罪の支配から解放されて、神に従って新しく生きる者となることが語られていくのです。キリスト教的な用語を用いさせていただくなら、第5章に語られていた、キリストによって罪を赦されて義とされることを「義認」、義と認められること、と言います。そしてその救いにあずかった者が神に従って新しく生きる者となることを「聖化」、聖なる者へと変化していくこと、と言います。第6章は、第5章で語られた義認が、聖化を生むこと、聖化を伴わない義認はあり得ないことを語っているのです。私たちがもし、罪の赦しの恵みの上にあぐらをかいて、罪の中にいつまでも留まってしまうなら、つまり義認から聖化への道を歩んでいないなら、それはキリストによる義認を正しく受け止めていないということになるのです。

キリストと結び合わされることによって
 キリスト信者は、生まれつき自分を支配していた罪に対して死んだ者であり、罪から解放されて新しく生かされている、そのことをパウロは6節でこのように語っています。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。「わたしたちの古い自分」、それが罪に支配されてしまっている生まれつきの自分です。その古い自分が罪に対して死んだのは、キリストと共に十字架につけられたことによってだと語られています。キリストの救いにあずかった者は、キリストと共に十字架につけられて死んだ者なのです。ここに、「罪に対して死ぬ」ということを正しく受け止めるための鍵となることが示されています。私たちはともすれば、罪に対して死ぬということを、自分が頑張ってもう罪を犯さない者になること、自分の力で罪とは縁を切って生きること、と考えてしまいます。しかし既に見てきたように、私たちにはそんなことは出来ないのです。原罪を負っている私たちは、罪に支配されてしまっているのであって、自分で罪と縁を切ることはできないのです。私たちが罪と縁を切り、関係を断つためには、死ななければならないのです。そのことを、私たちのために、私たちに代ってして下さったのが、主イエス・キリストなのです。主イエスは神の独り子、まことの神であられましたが、私たちと同じ人間になり、そして私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。そのキリストと結び合わされることによって、罪に支配されている生まれつきの古い自分がキリストと共に十字架につけられて死んでしまい、罪に対して死んで、その支配から解放されるのです。ですから私たちが罪に対して死ぬことは、自分の努力によって罪の思いを殺すことによって起るのではなくて、主イエス・キリストを信じ、主イエス・キリストと結び合わされ一体となるところに恵みによって与えられるのです。

洗礼によって
 主イエス・キリストと結び合わされ一体となって、罪に支配された古い自分がキリストと共に十字架につけられて死ぬことはどのようにして私たちに実現するのでしょうか。それを語っているのが3、4節です。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しく生きるためなのです」。キリストと結び合わされ一体となり、古い自分がキリストと共に十字架につけられて死ぬことが私たちに起り、与えられるのは、洗礼を受けることにおいてなのです。この第6章に語られているもう一つの大事なテーマは洗礼です。義認には聖化が伴う、その聖化の歩みは、洗礼を受けて生きるところに与えられていくのです。

洗礼を受けることによって変わること
 洗礼の意味と恵みについては、次回の説教で改めて語りたいと思いますが、ここに語られていることを簡単にまとめるなら、洗礼を受けることによって、罪に支配されている生まれつきの私たちがキリストの十字架の死にあずかることによって罪に対して死に、その支配から解放され、また同時にキリストの復活にもあずかって新しい命を与えられ、神に対して生きる者とされるのです。本日のテーマとの関係で言えば、私たちは洗礼においてこそ罪に対して死に、その支配から解放されるのです。洗礼を受けることこそがキリストの救いにあずかることであり、洗礼を受けている者がキリスト信者、クリスチャンであり、罪から解放されている者なのです。そのように言うと、洗礼を受けている多くの方々は、自分は洗礼を受けたけれども罪の支配から解放されているとはとても言えない、相変わらず罪に支配されていて、洗礼を受ける前と大して変わっていない、自分はクリスチャンとして失格ではないか、と思うのではないでしょうか。また、まだ洗礼を受けていない、いわゆる求道中の方々は、洗礼を受けさえすれば罪から解放された善い人、立派な人になれるのかと期待するか、あるいは、洗礼を受けたらそうならなければならないとしたら自分はまだとても洗礼など受けられないなと思うかもしれません。しかしこれらの感想はどれも適切ではありません。洗礼を受けることによって、私たちがその日から突然別人のように罪を犯さない者になるなどということはありませんし、そうならなければいけない、ということではありません。洗礼を受けたからといって、罪が私たちにまつわりついている現実は変わらないし、私たちの弱さもそのままだし、置かれている現実が変わるわけではありません。私たちが自分について抱いている感覚においては、洗礼によって何かが変わるわけではないのです。しかし、洗礼を受けることによって、決定的に変わることがあります。それは、神が私たちをどのような者として見て下さっているかです。神は、洗礼を受けた私たちを、キリストの十字架の死にあずかって罪に対して死んだ者として、つまりキリストの十字架によって罪を赦され、その支配から解放された者として見つめて下さっているのです。つまり洗礼において罪に対して死に、罪の支配から解放されることは、私たちの感覚においてそのように感じられることではなくて、主イエスの父である神の目において起っていることであり、神がそのことを私たちに宣言して下さるのです。その神の宣言を「アーメン」、「その通りです」と言って受け入れることが私たちの信仰です。その信仰によって私たちは罪に対して死んだ者となり、新しく生き始めるのです。

信じ、認め、受け入れる
 11節に「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」とあります。「考えなさい」という言葉がとても重要です。ここは以前の口語訳聖書では「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」となっていました。「考えなさい」は「認めなさい」ということです。「信じて受け入れなさい」と言い換えてもよいでしょう。洗礼を受けることによって、キリストと結び合わされ、罪に対して死んで、罪の支配から解放されている、そのことは、私たちが自分の努力で実現していくことでもなければ、そのことを実感できるようになることが求められているのでもなくて、神が自分をそのようにして下さっていることを信じて受け入れることが求められているのです。そのことを本当に信じ、受け入れて生きるなら、私たちはもはや、「このままでいいのだ」と自分の罪の上にあぐらをかいていることは出来ません。新しく生き始めるのです。罪の中に座りこんでいた私たちが立ち上がって、聖化への道を歩み出すのです。主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しにあずかる洗礼を受けたことによって、自分が罪に対して既に死んでおり、罪の支配から解放されていることを信じ、キリストによる救いの恵みに感謝して、なおまつわりつく罪と戦っていくのです。私たちの目には、罪の力はなおどうしようもなく支配しており、それに打ち勝つことはとても出来ないように見えます。しかし神は、独り子主イエスを私たちのために遣わして下さり、その十字架の死によって罪の赦しを、第5章に語られていた義認を与えて下さいました。今や神は義とされた者として私たちを見つめておられるのです。第6章において私たちに求められているのは、神が見つめておられるこの義認を、私たちが、自分自身に本当に起こっている事実として信じ、認め、受け入れることです。そして神が宣言して下さっている罪の支配からの解放の恵みに希望を置いて、罪と戦っていくことです。それが、義認から聖化への道を歩むことです。その戦いを先頭に立って戦って下さっているのは主イエスです。主イエスは十字架の死と復活によって、罪との戦いにおいて既に勝利して下さっています。私たちはその主イエス・キリストと洗礼において結び合わされ、主イエスの勝利に支えられて、なお私たちに残されている罪との戦いを戦っていくのです。私たちはその戦いにおいて負けてしまったり、逃げ出してしまったりするかもしれません。たとえそういうことがあっても、洗礼において主イエスと一つにされているなら、最終的には主イエスの勝利にあずかることができるのです。なぜなら神は洗礼において私たちを、キリストとしっかりと結び合わせ、罪に対して死んでおり、その支配から解放されて神と共に生きる者として下さっているからです。

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