主日礼拝

愛の証拠を示して

「愛の証拠を示して」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書第63章8-9節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二第8章16-24節
・ 讃美歌:208、475、417

 あらゆるクリスチャンの心には、神様への愛がある。あらゆるキリスト者の魂には、イエス・キリストへの愛がある。そうでない場合、いかにしてその人がキリスト者であると、いえるだろうか。あらゆるキリスト者の胸には兄弟たちへの愛がある。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。」(ヨハネ一3:14)。キリスト者は二つ目の大切な戒め「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」を実践している。すべての律法がただの一語、すなわち「愛」で全うされるように、私たちの信仰の実りもまたその一語、「愛」そのものである。  

 今日、わたしたちは、コリントの信徒への手紙二の御言葉の最後に注目したい。「だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください 」。パウロは「あなたがたの愛の証し、見せてください」とコリントの教会の人々に言っています。パウロは、彼らに愛しているということを証明してください、愛の証拠を見せてくださいといっていました。
 本日の説教の題を「愛の証拠を示して」としました。それは、神様が「愛の証拠を示してください」と、この箇所を通して、わたしたちに言われているのではないかということを、わたしはここから聞いたからです。わたしたちが、「神様を愛していること証拠を示す。」「愛を証しする」とはなんなのだろうということをわたしたちは、聞いてまいりたいと思います。

 第一に、私たちが聞いていきたいのは「わたしたちのうちにある愛とはどこからきたのか?」ということです。 
そこで最初に思い起こすべきことは、キリスト者の心の中にある、神様と隣人に対する愛は、その起源が神様にあるということであります。私たちは、神様がまず私たちを愛されなかったとしたら、決して神様を愛することはできませんでした。また、聖霊なる神様が私たちの愛の流れを変えてくださらなかったとしたら、神様をも、神の民である兄弟姉妹をも愛することはなかったはずです。私たちは、生来、神様を憎み、また隣人を憎んでしまう傾向にあるとハイデルベルク信仰問答は告白しています。わたしたちは、自分の生まれながらの状態にあって、神様と敵対していたのです。ロマ書8章7節「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。」そもそも、わたしたちは神様に敵対しており、神様に従うことなどない。わたしたちが神様に対して愛を有するということは、そもそもありえないのです。そのことが証ししているのは、わたしたちのうちから愛は出てきていないということです。それゆえ、もし私たちが神様への愛を持っていたのならば、儚く消える火花のような神様への愛を、1つでも有しているとしたら、それは神様が私たちに与えてくださったものに違いありません。また兄弟姉妹を愛しているということがあるのならば、それも神様がわたしたちに与えてくださったものに違いありません。それゆえ、それは貴重なものです。なぜなら、その愛は神様から出ているからです。
 わたしたちの内にある愛、それは神様から与えられたものであるということを、まず覚えておきましょう。  

 第二に、この愛の「証し」「証拠」とは何だろうか?ということを考えていきたいと思います。今日の御言葉はわたしたちにこう言っています。「あなたがたの愛の証しを、・・・諸教会の前で彼らに見せてください 」。この愛の証しとは、愛の証拠とはなんなのでしょうか。そしてどのような証拠をわたしたちは示せばよいのでしょうか。
愛を証明する方法というのは、多くの形があります。わたしたちのイエス様への愛を証明する行動にも、あまりにも多くの形があり、到底そのすべてを逐一検討することはできません。各々一人ひとりが、異なる証拠を見せています。それぞれの信仰者には、(難しい言葉を使えば)特異性があります。信仰者はみな独特であり、その愛も、その愛が示す証拠において、人それぞれに固有のかたちを取っています。
 いくつかの愛の証拠は、神様とイエス様の方を向いています。もしわたしたちがイエス様を愛するなら、わたしたちは主の戒めを守るであろうし、その戒めは重荷とはならない。もしわたしたちが主を愛するなら、わたしたちは主に誉れを帰そうとするであろうし、栄光に富む御名の香りを広めようとする。もしわたしたちが神様を愛するなら、わたしたちは人々の心に及ぶ神様の支配を押し広げようとすることに熱心になるでありましょう。もしわたしたちが神様を愛するなら、わたしたちは神様との交わりを切望するでありましょう。神様と語り合うこともなく何日も暮らすことに満足できなくなる。もしわたしたちが神様を愛するなら、神様を悲しませるとき自分も悲しくなる。わたしたちが道を踏み外すと、わたしたちの心がわたしたちを懲らしめるでありましょう。もしわたしたちが神様を愛するなら、神様と似たものになることを切に願うでありましょう。もしわたしたちが神様を愛するなら、神様がわたしたちを支配することを望み、イエス様がわたしの《王》となることを望むでありましょう。そしてわたしたちの魂はキリストに従おうとし、わたしたちの考えはイエス様によって導かれることを望むでしょう。そして、わたしたちは全生活が、わたしたちのうちに宿っておられるキリストの御霊、聖霊なる神様によって導かれることをも望むでしょう。これらが、直接、神様に向かっている、愛の現れであり、証拠です。このようにわたしたちは、神様に対するわたしたちの愛の証拠を示すことのできる何百もの方法があることが見てとれるのではないでしょうか?
 しかし、わたしたちが、神様への愛の証拠を示すのは、神様だけではありません。神様の民であり、神様によって兄弟姉妹とされた隣人に対する事柄も、神様への愛の証拠となります。ではそれはどのようなことなのか?
 わたしたち、このことについて特に、真剣に、注意深く考えなくてはなりません。なぜなら、わたしたちは明らかにこのことを忘れていることが多いからです。神様との直接の交わり、神様を愛することに生きることは熱心でも、隣人を愛することが具体的になっていない。それが、ないのならば、神様を愛するということを、本当には示せていないのです。わたしたちは神様を愛している、そしてその子であるイエス様をもちろん愛している、そうであるならば、そのイエス様の兄弟姉妹である教会の兄弟姉妹を愛しているはずなのです。それらは、すべて結びついています。一つでもかけるのであれば、愛しているということにはならないのです。であるから、兄弟姉妹を愛することは、神様を愛することの証拠となるのです。
 わたしたちが教会の一枝となったそのときから、わたしたちは自分の愛を、兄弟姉妹たちに示す、そのような、心からの交わりに入ったのです。ほんとうに、具体的な交わりに生きるはずなのです。わたしたちは、その兄弟姉妹との、愛の交わりが少なかったり、交わりが何もなかったりするとすれば、そのことに悲しみを覚えはしないでしょうか。私たちは、新たに交わりに入った兄弟姉妹が、教会にきて木札をひっくり返して、どこかの会衆席の1つに座り、やって来ては去って行き、誰とも話をしないで帰るだけの人になるというということを、望んではいないはずです。教会にやってきてはだれとも話さず、家路に着くとは、なんと、悲しいことか。互いに愛し合いましょう、ここに愛がある、ここに愛の交わりを持つ共同体があると講壇から語られているのに、孤独に、無言で、家に帰っていく人がいるとは、なんと不幸なことでありましょうか。わたしは、今でさえこのようにいう人と会うことがあります。「私は指路教会に来て、何ヶ月と経ちましたが、誰も私に話すことができませんでした」。もしかしたら、誰からも話しかけられなかったその非はその人自身にあるかもしれない。もしかしたら、何か物凄いほどに威圧感を与えるような格好をしていて、教会員が怯えたのかもしれない。そういうこともありえる。しかし、わたしにそれを伝えた求道者の人はそうではなかったということを知っています。柔らかな方だった。ですから、わたしたち側にも、やはりなにかあるのではないでしょうか。わたしは、礼拝後、受付の前に立っていますが、わたしの前を歩いて玄関を出る人の背中に「私に近づくな。私に話しかけるな。私は何も聞かれたくないし話したくない」と、書いてあるような、実際にはもちろん書いていないのですが、そのように、固く自分を守っておられる方が多くいることを感じます。それが悪いというわけではないんです。特に、求道者の方であったり、初めての方であったりしたら、緊張して、そうなっているということもあるでしょう。このような「硬直してしまう」というのは、教会初めて来た人にもあるのですが、わたしたちの内にもある。わたしは、神の家族である兄弟姉妹の間では、この「硬直してしまう」ということはあってほしくないと思う。わたしは、日曜日に教会きて、だれとも話さないで帰ったということがなくなって欲しいと願っています。私は、礼拝開始前に神様のことについての敬虔な会話や、このような神様からの恵みがあったよという報告が、小さい声で交わされているのを聞くことは全然嫌ではありません。また、私は礼拝後に、玄関の階段の前や、この建物のうちでも、近辺でも、兄弟姉妹が語り合って、互いに交わりを持つこと、そのようになることを私は本当によいことであると思います。なぜなら、私たちはいくら頻繁に出会っても十分ではないからです。キリスト者である兄弟姉妹が、互いに恵みを分かち合うために語り合うのは、決して安息日や礼拝の場所を汚すことではありません。
 ここにいます求道者の方々、その求道者の方々が教会に結びついて神の家族となる時、是非緊張することなく、神のよって兄弟姉妹されたわたしたちと、会話を交わして欲しいと願います。わたしたちは、心からの熱心によって、語り合い、交わりをもつ。それが兄弟姉妹への愛の証拠でもあり、神様への愛の証拠でもあるのです。
 わたしたちはイエス様を愛しています。ですから、わたしたちはイエス様が愛された幼子たちも愛します。教会学校には、その幼子もこどもたちも、たくさん来ています。そこでわたしたちは、愛の証拠を示すことができます。教会学校に来て、このわざを助ける。イエス様のために、また、イエス様の教会のために、イエス様の愛するこどもたちのために、わたしたちが行なうことのできることが何か1つはあるはずです。まずはそこに来てみる、そこに愛の証拠を示すチャンスが有ります。
 わたしたちはイエス様を愛しています。ですから苦しんでいる兄弟姉妹を愛しています。その愛の証拠を示すために、わたしたちは、苦しみの中にある兄弟姉妹たちを慰めるのです。彼らに必要があるとき、わたしたちはできる限り彼らを助けるのがいい。彼らの評判が貶められるようなことを聞くときには、常に彼らのことを、愛をもって弁護するのがいい。わたしたちは、愛する兄弟姉妹が根も葉もない非難を受けているのを見過ごしてはなりません。近くにいて守り、擁護し、弁護するのです。
 隣人にわたしたちの愛の証拠を示すために、隣人の、兄弟姉妹の、色々な弱さを負う。教会は完璧ではありません。わたしたちは、自分自身にも欠けも弱さもがあります。だから他の兄弟姉妹の弱さも欠けも、辛抱強く忍耐するべきです。イエス様はわたしたちの弱さと欠けのために、十字架で死ぬ時も、そしてその後も、今も、忍耐してくださっています。もし隣の兄弟姉妹が、自分の望むような姿とはほど遠くても、彼らはイエス様にとって、愛おしい弟、愛おしい妹なのです。わたしたちの長兄であるイエス様は、彼らのうちに、美しさ、愛おしさを、見てとっておられる。わたしたちは、兄弟姉妹の過ちを見つけ出すことは得意なのに、兄弟姉妹の美しさ、良さ、愛おしさを見出すことがなんとも下手でありましょうか。もしわたしたちが、イエス様に少しでも似た者へと変えられれば、わたしたちは兄弟姉妹の過ちを見出すことと同じように、いやそれ以上に、彼らの性格的な美しさにも目を注ぐことができるようになる。隣の兄弟姉妹には、自分と同じように弱さや欠けがある、だから、それらの過ちをつついてえぐりだすのではなく、受け止める、負う。さらには、彼らの美しさ見出す。それらが、兄弟姉妹への愛の証拠となるし、それはさらに神様への愛の証拠となる。
 まだ神様を知らない人々に対しても、わたしたちは、愛の証拠を示すことができる。この368万人いる横浜という大都市に対してわたしたちは、愛を示すことができる。それぞれの場所で、忙しく働くこともいい。イエス様について仕事仲間に話をすることもいい。気のあった友人たちにイエス様の話をする。それもいい。イエス様という、強力な薬草、霊的な病に対する治療薬を広めるように努力する。印刷された福音を、説教を、あらゆる場所で配っても、もちろんいい。街角にたって、イエス様について、語りだしたっていい。その主イエスをいかなる知らせることが、この世を、この町を、この横浜を愛している、という証拠となります。わたしたちが、世界で一番横浜を愛する「浜っ子」ならば、世界で一番、横浜にイエス様を伝えなければなりません。
 わたしはここまで語って、わたしたちの愛の証拠がいかなるものでありえるかということを、鉛筆で下書きしたかのように示してきたにすぎません。ここにいるすべての兄弟姉妹がこの続きを描くのです。筆をとって色をつけてください。愛する兄弟姉妹。わたしたちは、どのようにしたら神様に、隣人に、この世に愛を示すことができるかを、今からそれぞれ考え、動きはじめるのです。
 まだ説教は終わりません。今、第三のことであるなぜわたしたちは、この証拠が要求されているのだろうか?というこの問が、心によぎった方がおられるかもしれません。なぜ私たちは自分の愛を証明するように求められているのでしょうか? このような疑問を、誰よりも先にイエス様にぶつけた者がいます。それはイエス様の弟子シモン・ペトロです。
 ペトロは、自分の主が三度、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」と云われたとき心を痛めました。ペトロは本当にイエス様を愛していたからです。それなのに、何度も愛しているかと聞かれたので、悲しんだ。イエス様は、「そうわたしに尋ねるのは、わたしの愛を疑っているからだろう」とペトロは思ったんです。だから、悲しくなったのです。しかし、イエス様は、ペトロの愛を疑っていたためにそう問われたのではありません。なぜなら、イエス様は、ペトロの愛も、思いも知っておられたからです。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」とペトロがこういうように、わたしたちの神様への愛は、わたしたちが言わずとも、行わずとも、知られている。それは確かです。しかし、それでもイエス様はわたしたちに、「愛しているか」と問われるのです。イエス様は、「わたしを愛している」ということを示して欲しいと望まれているのです。
 それは、なぜか。それは、「真の愛」は常に自らを自分がどれほど愛しているかということを、示すことを切望するからです。愛は、自分を示したいのです。愛しているということ、伝えたい。それは、わたしたちにおいても同じです。わたしたちはそのことを知っています。例をあげる必要はありません。自分の愛する者に愛を示すことは、嬉しいことですし、喜びです。それよりもはるかに高く、キリスト者にとってイエス様のために何かをすることはいかなる喜びでありましょうか!イエス様がわたしたちに愛の証拠が求められているのは、イエス様が疑っておられるからではなく、イエス様は私たちに私たちの愛を証明する機会を与えて、私たちを喜ばせたいからなのです。わたしたちが喜ぶ姿をイエス様はご覧になりたいのです。
 私たちが自分の愛を証明するよう求められているもう1つの理由は、しなければ他の人にとってつまずきとなるから、そして逆に、愛を示すことで他の人々にとって益となることがあるからです。コリントの人々が、彼らの愛を証明すべきであったのは、エルサレムにいる貧しい兄弟姉妹が飢えていたからでした。コリントの人々が神様の愛を感謝し、賛美歌を歌っている時、エルサレムにいる貧しい兄弟姉妹たちがパンを食べることもできなくなっている。それで良いのかとパウロはコリントの兄弟姉妹に問いました。コリントの人々は、自分たちの愛を証明しなくてはならない。それが他の教会にとってつまずきとならないためでもありました。なぜなら、パウロはこう云うからです。「もしあなたがたコリントの人々が、エルサレム教会を支える献金をするという自分で決めた約束を果たさなかったなら、今まで貧しいのに豊かに献げてきたマケドニアの教会の兄弟姉妹は、私に面と向かってその献金を投げつけ、何もしなくなるであろう。それゆえ、マケドニアの諸教会のために、あなたがたは、惜しまずエルサレムに献げるべきです」。そのようなことが、9章に語られていきます。わたしたち指路教会は、世界的に比べれば小さな教会です。しかし、日本では大きめの教会です。歴史的には、日本ではどの教会からもお兄さんと呼ばれてもおかしくない教会です。その指路教会が、恵みを沢山受けているが、自分の隣人を愛することも、貧しさに苦しむ隣りにいる兄弟姉妹を支えることも、貧しさに苦しんでいる教会をも支えないとすれば、弟にあたる教会たちは、愛することに匙を投げるでしょう。日本の教会の群れの中では、わたしたちは兄として愛を示さなければ、他の教会を失望させ、つまずかせてしまうのです。しかし、先程も言いましたが、世界ではわたしたち指路教会は、ほんとに小さな教会の群れであります。日本の全部のプロテスタント教会が一つになっても、世界の教会に比べればとても小さなものです。しかし、その小さな貧しいわたしたちが、本当に愛を示し、献げるものとなり、支えるものとなるならが、わたしたちがマケドニアに教会のようになり、他の世界の教会を、奮い立たせることができるのです。世界の教会が、口々に、「見よ、人口の1パーセントもない小さな群れの一つの小さな教会が、惜しまず献げている。惜しまず恵みを隣人と分かち合っている。なのに、わたしたちは。」というでありましょう。わたしたちによって励まされる人が、世界にいるのです。わたしたちに奮い立たせられた他の兄弟が、イエス様のため、隣人のためにわざを行なうようになる。小さいわたしたちだからこそ、愛を示すことが本当に世界の兄弟姉妹の益となる。だからこそ、わたしたちは愛を示すことが、求められているのです。
 神様はわたしたちを愛しておられることを、秘密にはされませんでした。神様はこうは言われないのです。「わたしの名は愛である。だが、わたしは何も行なうまい」。こうは言われない。神様はご自分のふところにおられた御子を、ご自分のひとり子をお与えになった。それも、死なせるためにその御子を与えられた。神様は言葉だけ、考えだけということではない。本当に実際的であられる。感ずることを行なわれる。語ることを行なわれる。わたしたちは言葉だけということが多いが、神様は、そのご意志とことばを、恵みの行ないとして実際に働かれる。実現される。それゆえ、わたしたちが自分の愛を、実際的に、言葉だけでなく、証拠を示すことというは正しくはないでしょうか。
 もしわたしたちが主を愛しているとしたら、創意工夫に富む者となるのがいい。これまで他の誰もイエス様のために行なったことのない新しいことを、考えがはじめるのがいい。まっさらな通り道を作り出せばいい。自分にあれこれ喜びを与えることをせず、聖霊なる神様が導き、わたしたちを助ける通りのしかたで、わたしたちの愛を証明していく。それがわたしたちの一番の喜びであります。わたしたちの愛の証しを求めてくださる主が、とこしえに讃えられますよう。
 祈りましょう。

関連記事

TOP