「元気をだしなさい」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:詩編第103編1-5節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第9章1-8節
・ 讃美歌:496、531
マタイの福音書9章の1節から9節、ここに書かれています話しは、小見出しにもあるように「中風の人の癒し 」と言われている箇所です。中風とは、脳出血などによって起こる、半身不随、手足のまひ、言語障害などの 症状のことを言います。すなわち、脳の疾患により体が思うように動かなくなった人、その中風の人がイエス 様によって癒されたという話です。しかしこの出来事の本当の指し示していることは、「中風の人が癒された」 というではなくて中風の人の「罪の赦し」です。この話はマタイだけではなくて、ほかの福音書にも出てきま す。そしてほかの福音書に書かれている方が、むしろ聖書に親しんでいる人には馴染みがあると思います。そ れは何かと言いますと、イエス様が話をしておられる、そこに人がいっぱい詰めかけていて、寝床のまま連れ て来られた中風の人が入ることができない。それで中風の人を連れてきた人々は、屋根を壊して上から釣り下 ろした、そういう話がほかの福音書には書いてあります。それでこのびっくりするような出来事のために、わ たしたちはこの話をよく覚えています。本の著者が、「印象に残る話を載せたい」と考えていたのならば、屋 根を壊して寝台ごと釣り下ろしたというようなことは、大変珍しいことですので、この出来事を記述したいと 普通は考えると思います。ところが、このマタイによる福音書9章に書かれております、この同じ出来事を見て みますと、どういうわけか屋根を壊して釣り下ろしたということをまったく書いていません。2節のところを見 ますとこうあります。『すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエス はその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。 こう書いてあります。マタイがこの屋根を壊したという話をまったく省略してしまったところに、この物語の 一番大事なポイントは何か、ということがよく示されています。それはこの物語の一番中心は罪の赦しだぞ、 ということを強調しているのです。
2節で、この中風の人にイエス様が『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われました。こ の部分を聞いて、わたしたちは、何か違和感を覚えます。人々が中風で動けない人をイエス様の所へ連れてきた 。その人たちが何のために連れて来たのかというと、それは中風を治してもらう目的で連れて来たのです。そ れなのにイエス様は中風を治さないで、あなたの罪は赦された、と言われた。何だか擦れ違いみたいな感じが します。これはどうしてでしょうか。なぜイエス様がこういわれたのか、それはイエス様がこの中風の人の本当 の救いということを考えておられるからです。この人にとって、この人が本当に救われて、本当の幸いに与る 、それは「中風の癒しではなくて、罪の赦しなのだ」、そういうことをイエス様はここでわたしたちに言ってお られるのです。
わたしたちはいろんな病気をすると、この病気がわたしの悩みだと思います、病気がなくなれば幸せになる、 わたしは救われる、そういうように思いがちです。そうしてその病気なら病気、失敗なら失敗、そういうもの がいつもわたしたちの前に立ちふさがっていて、それしか見えないし、それしか見ようとしない。そのために、 本当の自分の問題、不幸、それは何かということをわたしたちはなかなか容易に知ることができないのです。 わたしたちの本当の幸いは、罪が赦されるということから来ます。こういう話をしますと、すぐ罪とか罪の赦 しと言ってもねえ、罪がよく分からないと、よく言われます。罪というものは、言葉で説明することが、でき ないことはありません。しかし、そういう罪とはこういうものだぞと言って、一つの知識と言いますか、言葉 で説明されて理解した、それで罪は分かったと、そうは簡単にいかないのです。忘れようと思っても、どうして も忘れられない。あの事はいつも自分の心の底に沈んでいて、何かあるとその事に突き当たる、そういうもの を持っておられる方もいるかもしれません。この人にとっては罪というのは理屈じゃない。罪とは一体何か。 それは言葉で言えば神様を押しのけておいて自分を立てることです。神様を無視して、生きる。神様との関係 をないものにする。神様をないものにして「自分が自分が」となる。隣人よりも「自分が」となる。そのよう なものです。だけどそう言われたからといって、そんなら自分の罪が実感できるかというとそうはいかないの です。
この中風の人にイエス様が、あなたの罪は赦されたと言っているのですが、一体この中風の人はどういう気 持ちでイエス様の所へ来ただろうか、ということをこの箇所を読み黙想している時に、わたしは思いました。」 何か重大な罪を犯して、その罪に責められて来たのかなあ。どうも、そうではなさそうだ。そうだったらここ へ何か書いてあるはずだ」と思いました。何も書いてないということは、この人は、わたしたちのような、ご く平凡な普通の人間ではなかったかなあと思うのです。この人は、人殺しをしたり、強盗をしたり、そういう 人ではないだろうと思います。ただの人間、平凡な人間だろうと思います。しかし、当時のユダヤの社会には 一つの考え方がありました。それは、例えば中風だとか、重い皮膚病だとか、そういうような病にかかる者は 、人知れず罪を犯して、その罪に対して、神様が罰として、そういう病気を与えたんだ、という考え方が一般 的な考え方としてありました。ですから、そういう意味ではこの中風の人は、自分は罪深いからこの病気にな ったのだ、と思っていたかもしれません。そういう気持ちで生きている人というものは、具体的にあの事、こ の事、それはもう夜も寝られないほど、心を痛めるというようなことはなくても、何となく人生が憂鬱になり ます。この病気、それはこの自分の罪のためなのだろう、このように結論付けると、人生は、大変辛いものに なります。自分の罪のせいだったら、どうすることもできない。親の罪、先祖の罪のせいだったら、自分のせい ではないけど、どうしようもできない。恨むしかない。恨んでも、心が暗くなるばかり。そう感じていた人た ちが当時の世界にはいっぱいおりました。その人が今イエス様の前へ連れてこられているわけです。
そうして、イエス様が「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われました。このイエス様 の御言葉ですが、実はこの日本語では、イエス様の言われた意味が十分に、分かりやすく受け取られないと思 うんです。一番始めの「子よ」という言葉ですが、これは日本だったら普通、人に呼びかける時、「子よ」な んて言葉は使いません。「子よ」という言葉は、ユダヤでは預言者だとか、長老だとか、そういう指導的な人 が、自分の指導を受ける人に、呼びかける時に使う言葉であります。この、「子よ」という言葉の中にイエス様 は、非常な慈しみを込めて呼びかけておられるのです。子よ、という言葉は憎たらしいとか、軽蔑しているよ うな人には言わない。世間から「あの人は罪を犯したから病気になっている」「だから近づかないでおこう」と 言われているその人に、イエス様は、「子よ」、と言われる。イエス様のこの「子よ」という言葉は、指導する 相手として呼ぶ以上に、本当に親子のような関係性であること込めて深い慈しみをもって呼びかけておられま す。
そしてその次の「元気を出しなさい」という言葉ですが、これは口語訳では「しっかりしなさい」という言 葉でした。この「元気を出しなさい」「しっかりしなさい」と言う言葉を使う時、わたしたちのどういう気持ち を込めていうでしょうか。何か病気でもした相手に、「元気出して」とか言いますし、子どもが怪我などした 時に、「しっかりしなさい」とか言います。なんとなく「がんばりなさい」というような、意味で使っていると 思います。この「元気を出しなさい」と訳されている言葉は、新約聖書の中でそう多くは出てきません。他の 場所で使われている所見ますと、「頑張りなさいとか、気を張りなさい」とか、そういう意味で使われていま せん。他の場所では「恐れることはない」「安心しなさい」という意味で使われています。「何にも心配するこ とはありません。安心しなさい、何にも心配いりませんよ」というのは実にわたしたちに安堵を与えることにな ります。この中風の人は、心配していたのです。自分がなにかしてしまったから、病気になったのか、はたまた 親や先祖のせいか。この先、一生なおらなかったらどうしよう。明日には今より悪くなっているかもしれない 。そのように心配していた人に、「何にも心配はいりません。安心しなさい。」とイエス様は言われたのです 。
そして「あなたの罪は赦される」と言われました。この文章の言葉の時制を見ます、これから、赦されるとい うことではなく、現在の時点で赦されているということを示しています。つまり今の時点であなたの罪はもう 赦されていますよということです。あなたはそれに気がつかないで、悩んで、暗い人生を送っているけれども 、何も心配はいりません。あなたの罪はもう赦されています。そういう意味です。
どうでしょうか。このイエス様の御言葉を聞いてわたしたちはなにを感じるでしょうか。この言葉は、深い 慈しみと慰めの言葉であります。イエス様は、この中風の人の弱い気持というものを、よく知っておられます 。がんばれがんばれと言っているのではありません。先ほど、この中風の人というのは、わたしたちと同じよ うな平凡な人だったろうと言いました。大きな罪を犯していない、普通の人だからイエス様は、この人にあな たの罪は赦されていると言われたのでしょうか。わたしたちはつい、そういうふうに理解することがあります。 わたしたちは至らない人間だけれども、そう大してひどい罪を犯してるわけじゃない。人殺しをしたり、盗み をしたり、そんなことはしてない。そういうふうに思っているわたしたちは、罪を赦されたと言われても、大 きな罪を犯していないからか、ああ、そうか、と思ってしまいます。
しかし、もしこの言葉が殺人を犯した人や、強盗をした人に言われたとしたら、わたしたちはどう思うでし ょう。「そんな簡単に赦すとかいうのはおかしい!」というふうに思わないのではないかと思います。テレビ のニュースを見ていますと、とても残虐な犯罪が次々と出てきます。それを見るとわたしたちは胸を締めつけ られるような、どうしてこんな事をするだろうという憤りを感じます。これは当然のことだと思います。しか し、そういう人たちの罪の赦しというものを、わたしたちは考えたことがあるでしょうか。もうこんなひどい 人々は死刑だ、殺されてしまえ、そういうふうに思わないでしょうか。少しでも気の晴れるような厳しい刑を ほどこしたらいいというふうに思うでしょう。わたしもそう思ってしまいそうになることがあります。腹が立 つようなこともあります。しかし、そういう人たちに向かってイエス様が、あなたの罪は赦されていると言わ れるでしょうか、言われないでしょうか。日常茶飯事な小さな罪を犯している者には、イエス様があなたの罪 は赦されていると言われるけれども、テレビで取り上げられるようなひどい罪を犯している人にはイエス様は 罪は赦されているとは、言われないのでしょうか。これは非常に大事な点だと思います。わたしたちが日常的 な軽い罪を犯してるから、あなたの罪は赦されているとイエス様は言われるのではないのです。どんな罪であ れ、その人に向かってイエス様はあなたの罪は赦されていると言われます。
それではイエス様は罪なんてものは、どうでもいい、大したことはないというふうに、罪を軽視しておられ るからそう言われているのでしょうか。そうではありません。反対です。イエス様はその罪を御自分が負う、 一切を御自分の責任として、十字架の上で贖うことを心に決めておられるから、それであなたの罪は赦されて いる、とおっしゃることができたのです。その証拠に、あの十字架の上で、片側に十字架につけられた強盗、 その強盗に向かって「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」と言われました。それは 決して嘘ではなかった。強盗の罪で十字架につけられているその人に向かって、あなたは今日わたしと一緒に パラダイスにいる。この世はそういう罪を犯した人を赦すことはできません。死刑にしなければ、そうしなけ れば世の中の秩序が成り立たないということもあります。さらにわたしたちの気持ち、人間の気持ちでも、その 人を赦すことはできない。
けれども、この天地をお造りになった神様は、その人を赦しておられる。その人の罪をイエス様の上に負わ せ、イエス様の贖いによって、身代わりになってその罪を償うことによって、どんな人の罪も神様は赦すと言 われました。それがイエス様の生涯の最後に示されています。その事を成し遂げるためにイエス様は十字架に 向かって歩いていかれた。そうしてわたしたち一人一人に向かって、あなたの罪はわたしが負っているから、 あなたの罪は赦される。「子よ、安心しなさい。何にも心配はいらない。」そう言い続けておられるのです。イ エス様の一つ一つの御言葉の背後にはこの十字架の出来事があるのです。「子よ、安心しなさい。心配はいりま せん。わたしがあなたの事は引き受けているから、安心して行きなさい。全部わたしに任せなさい。何にも心 配はいりません。だから元気を出しなさい。」そう言い続けておられます。これが福音であります。
ある条件に叶う人だけが罪が赦されるのではなくて、すべての人に向かってイエス様は、あなたの罪はわた しが引き受ける。安心しなさい。大丈夫。わたしに任せなさい。どんな人にも、わたしたちが憎んで憎んで、 どうしてもあの人は赦せないと思うような、そんなひどい人に対しても、イエス様はそうはおっしゃらない。 あなたの罪は赦された。わたしはあなたの事を引き受けました。決して見捨てはしない。そう言われる。
わたしたちはそのイエス様の御言葉を聞いています。大事なことは一つだけです。そのイエス様の御言葉を 信じるか、信じないかです。信じた時に、わたしたちは自分がどんなに恵まれているかということに目が開か れます。自分を押しつけて、息もできないように押しつけていたその重みが取り去られ、神様の深い愛と恵み の中に自分が置かれているということを、知ることができます。自分の人生が光輝く人生である、ということ を発見することができます。しかし、このようにして語り告げられているイエス様の御言葉、イエス様が真心 を込めてわたしたちに言ってくださる御言葉を、もしわたしたちが信じないならば、そんなことはあるもんか と言ってはねつけてしまうならば、せっかく神様が罪を赦してくださり、イエス様がわたしたちの罪を負うて くださって、神様の恵みの中に置いてくださっているのに、わたしたちの心は真っ暗で望みがなく、喜びがな く、絶望となります。神様はわたしたちがそのように暗い人生を歩くことを望んではおられません。毎日毎日 わたしたちに向かって、「子よ、安心しなさい。あなたの罪は赦されています。わたしに委ねなさい。是非とも わたしに求めなさい。」そう言って呼びかけてくださっています。
今一度、今日この礼拝において、このイエス様の、「子よ、安心しなさい、あなたの罪は赦されている。だ から元気を出しなさい。」という御言葉を。もう一度、耳を澄まして受け止めたいと思います。 共に祈りましょう。