主日礼拝

神は分け隔てをしない

「神は分け隔てをしない」 牧師 藤掛順一 

・ 旧約聖書:サムエル記下第12章1-12節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第2章1-11節
・ 讃美歌: 15、227、357

人を裁いてはならない?
「すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない」。パウロはローマの信 徒への手紙第2章1節でこのように語っています。私たちは普通この 言葉を、人を裁いてはならない、それは弁解の余地のない罪である、 というふうに読むのではないでしょうか。聖書の中にはそういう教え が語られています。主イエスはマタイによる福音書第7章1節で「人 を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたが たは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」と おっしゃいました。人を裁く時に私たちは大抵自分のことは棚に上げ ています。自分の罪や問題には目を塞いで、他人の罪や問題をあれこ れ言い立て、鬼の首でも取ったかのように責めたてる、聖書はそうい うことを厳しく戒めているのです。本日のところも、そういう聖書の 根本的な教えが土台となっていると言えるでしょう。 しかし、この2章1節は「人を裁いていると同じように自分も裁か れることになるのだから、人を裁いてはならない」ということを教え ているのではありません。1節全体を読めばそのことは明らかです 。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他 人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁い て、同じことをしているからです」。つまりこの1節は、「人を裁く のはやめなさい」という教えではなくて、「あなたは人を裁いている 。しかし裁きながら自分自身が同じ罪を犯しているではないか。だか らあなたが他人を裁いて罪に定めているその裁きは、実は自分自身を 罪に定めていることであって、あなたには弁解の余地がない、あなた こそ裁かれなければならない罪人なのだ」という告発なのです。「弁 解の余地はない」という言葉の意味を間違えてはなりません。これは 、人を裁くことは弁解の余地のない罪だということではなくて、人を 裁いて罪に定めながら自分も同じことをしているあなたには弁解の余 地がない、という意味なのです。

異邦人を裁いているユダヤ人たち
パウロがこのように激しく告発している相手、つまり人を裁いてい る者とは誰なのでしょうか。1章からのつながりの中でそれが見えて きます。1章の18節以下には、人間の罪に対して神が怒りを現され ることが語られていました。その人間の罪としてあげられていたのは 、神を神としてあがめることも感謝することもせず、神でないものを 拝む偶像礼拝であり、さらには男女の自然の関係を自然にもとるもの に変えてしまう同性愛などでした。これらのことが人間の罪の代表と されていたのです。これらの罪を指摘して人を裁いている者とは、ユ ダヤ人たちのことです。ユダヤ人にとって偶像を拝むことは、十戒の 第二の戒め、「刻んだ像を造ってはならない」に違反する重大な罪で した。また旧約聖書には同性愛を厳しく禁じる戒めがあります。偶像 礼拝と同性愛は、ユダヤ人の誰もが、最も明確な罪として意識してお り、決してしてはならないことと思っていたことなのです。ところが この当時、ユダヤ人たちをも含めた地中海周辺の世界を支配していた のはローマ帝国であり、文化的にはギリシャ・ローマの文化でした。 そのギリシャ・ローマの文化においては、神々の像を造って拝むこと は当たり前となっていました。またギリシャ・ローマの文化において は、同性愛は罪とされてはおらず、むしろより純粋な愛のあり方とし て受け入れられていました。ユダヤ人たちは、自分たちが大きな罪と して忌み嫌っていることを平気でしている異邦人たちに支配されてい たのです。そのためにユダヤ人たちは、異邦人を罪人としてますます 忌み嫌い、裁くようになっていました。パウロが第1章で人間の罪の 代表として偶像礼拝と同性愛を取り上げたことの背景には、ユダヤ人 と異邦人のそのような文化的対立があったのです。つまりそれらは、 ユダヤ人が異邦人の罪として厳しく断罪し、裁いていた事柄だったの です。パウロがそれらを人間の罪の代表としてあげたのは、それを読 んだユダヤ人たちが「そうだそうだ」と快哉を叫ぶことを予想しての ことです。「異邦人の連中は、偶像を拝んだり、同性愛をしたりして いるどうしようもない罪人だ。その点我々ユダヤ人は、神の民であり 、神から与えられた律法を守り、偶像礼拝も同性愛もしていない、だ から我々は神の前に正しい者なのだ」、という思いがユダヤ人たちに はあるのです。2章1節の「人を裁く者」とはこのように異邦人たち を裁いているユダヤ人たちのことなのです。

ユダヤ人の罪
ということはこの1節は、偶像礼拝や同性愛を批判して異邦人たち を裁いているユダヤ人たちに、あなたがたは人を裁きながら自分たち も同じことをしているではないか、だから弁解の余地がない、とユダ ヤ人たちを告発しているのです。パウロはここで劇的な効果をねらっ た語り方をしています。偶像礼拝と同性愛という、ユダヤ人が異邦人 の罪の代表として批判し、忌み嫌っている事柄を取り上げて、異邦人 を裁いている彼らの思いを刺激した上で、実はあなたがたも異邦人と 全く同じ罪を犯している、あなたがたも異邦人と同じ罪人なのだ、と 語ることによって、ユダヤ人たちに衝撃を与えようとしているのです  ユダヤ人たちも同じ罪を犯しているとはどういうことでしょうか。 偶像礼拝について言えば、ユダヤ人たちは確かに目に見える像を神と して拝むことはしていません。しかし偶像礼拝の根本は、1章23節 にあったように「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や 獣や這うものなどに似せた像と取り替えた」ということです。それは 、創造者である神と被造物である人間との正しい関係を逆転させてし まって、人間がコントロールできる、人間に都合のよい神を造り出し てしまうことです。目に見える像を拝んでいないユダヤ人たちも、自 分のために便宜をはかってくれる神を求める罪には陥っているのです 。また同性愛について言えば、これも神がお定めになった人間どうし の正しい関係、秩序をひっくり返してしまう倒錯です。いわゆる「性 的倒錯」はその一部であって、1章の29節から31節にあげられて いた、人間関係における様々な罪の全ては、人間どうしの本来あるべ き関係の逆転、倒錯なのです。つまりパウロは、あなたがたは同性愛 をしていないとしても、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、不和、欺き 、邪念などのあらゆる不義、悪に陥っており、陰口を言い、人をそし り、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事を企み、親に逆らい、 無知、不誠実、無情、無慈悲に生きている、そのような人間どうしの 正しい関係の喪失は、同性愛における性的倒錯と同じことなのだと指摘しているのです。このように2章1節は、異邦人を罪人として裁い ているユダヤ人たちに、あなたがたも全く同じ罪人だということを指 摘しています。ある人はこの箇所の解説において、パウロがここでし ていることは、本日共に読まれた旧約聖書、サムエル記下12章にお いて預言者ナタンがダビデ王に語った言葉と同じだと言っています。 ダビデ王は、部下であるウリヤの妻バト・シェバを自分のものとする ために、ウリヤを危険な戦場に送って戦死させました。その罪を預言 者ナタンが指摘し、ダビデを責めたのがこの12章です。ナタンはダ ビデに、こんなことがあった、と語りました。有り余る財産を持って いるある男が、貧しい男の唯一の財産であった小羊を奪ったのです。 ダビデがそれを聞いて激怒し、「そんなことをした男は死罪だ」と言 った時、ナタンは「その男はあなただ。あなたがウリヤを殺してバト ・シェバを奪ったのはこれと同じことではないか」とダビデの罪を指 摘したのです。パウロもここで同じ語り方をしています。異邦人の罪 をけしからんと裁いているユダヤ人たちに、あなたがたも同じ罪を犯 している、あなたがたこそ裁かれるべき罪人だ、と言っているのです 。

神の慈愛は悔い改めに導く
パウロが同胞であるユダヤ人たちをこのように厳しく告発し、その 罪を指摘しているのは、彼らのことを憎んでいるからではありません 。彼の思いは4節に語られています。「あるいは、神の憐れみがあな たを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐 とを軽んじるのですか」。パウロは同胞であるユダヤ人たちが悔い改 めることを願っているのです。ユダヤ人は、神に選ばれ、特別な顧み を受けてきた民です。神は彼らをエジプトの奴隷状態から解放して下 さり、契約を結んで彼らをご自分の民として下さいました。契約とは 、神がユダヤ人をご自分の民として下さり、ご自分がユダヤ人の神と なって下さる、そういう特別の関係を結んで下さることです。また神 は彼らが神の民として、神と正しい関係をもって生きるために、また 隣人と正しい、良い関係を築くために、十戒を中心とする律法を与え て下さったのです。ユダヤ人たちはその律法を繰り返し破り、神との 関係においても隣人との関係においても神に背く罪を犯してきました が、神は彼らを繰り返し赦して、見捨てることなく導き続けてきて下 さったのです。そのようにして神はユダヤ人たちに憐れみを示し、豊 かな慈愛と寛容と忍耐を与えて下さったのです。それは彼らを悔い改 めへと導くためでした。悔い改めるとは、自分が神との正しい関係を ひっくり返して、自分が主人となり、自分の欲望を神としてしまう偶 像礼拝の罪を犯していることを認めて、神を神としてあがめ、感謝し 、礼拝する正しい関係に立ち帰ることです。神がご自分の民であるユ ダヤ人たちを憐れみ、豊かな慈愛と寛容と忍耐とを示して下さったの は、彼らがそのように悔い改めて神との正しい関係に立ち帰ることを 期待し、待っておられるからなのです。ところがユダヤ人たちは、神 のそのみ心を受け止めて期待に応えるのでなく、自分たちに与えられ ている神の選び、憐れみ、恵みを、神の民としての特権を与えられて いると勘違いしてしまったのです。そして神の民であることを誇り、 他の民を「異邦人」と呼んで軽蔑し、あいつらは罪人だ、我々はあい つらとは違うんだ、と考えるようになってしまったのです。つまり神 の恵みの中で自らの罪を悔い改めて神の赦しを求めるのではなくて、 自分たちは神に選ばれた民であり神は自分たちの味方なのだ、という 間違った誇りに陥り、他の民を裁くようになったのです。パウロはそ のようなユダヤ人たちに、あなたがたは神の慈愛と寛容と忍耐を軽ん じている、それを無にしている、あなたがたは異邦人たちと同じ、い や神の慈愛を受け、神の民とされている分だけむしろより大きな罪に 陥っているのだ、と指摘しているのです。

神の怒りを蓄えている
そしてパウロは5節でこう告げています。「あなたは、かたくなで 心を改めようとせず、神の怒りを自分のために蓄えています。この怒 りは、神が正しい裁きを行われる怒りの日に現れるでしょう」。神の 恵みを軽んじて悔い改めようとしないあなたがたは、神の怒りを自分 のために蓄えている、つまり悔い改めようとしないあなたがたへの神 の怒りが日々積み上がっているのだ、と言っているのです。これもユ ダヤ人たちに衝撃を与える言葉です。彼らは、自分たちは神の民とし て日々律法を守って生きることで、天に、つまり神の前に、宝を蓄え ていると思っていました。自分たちの善い行いが神の前に次第に積み 上がっており、神はいつかそれに報いて恵みを与えて下さるはずだと 考えていたのです。ところがパウロは、あなたがたが神の前に蓄えて いるのは神の怒りだ、と言っているのです。「蓄えています」はその 蓄えがどんどん増えている様子を示しています。消費者金融からの借 金が日々利息でふくれ上がっていくように、悔い改めようとしない人 間への神の怒りは日々ふくれ上がっているのです。そしてその神の怒 りは、「神が正しい裁きを行われる怒りの日」に現され、あなたがた の上に下るのです。ここでパウロが見つめているのは、神がこの世の 終わりに全ての人間をお裁きになる、いわゆる最後の審判です。神の 怒りは今は蓄えられているだけであなたの上に下ってはいないが、そ の量は次第に増えており、世の終わりの裁きにおいてまとめてドカン と下るのだ、ということです。これもまた、当時のユダヤ人にとって 衝撃的な教えでした。なぜならユダヤ人たちは、神による最後の審判 を、神に選ばれた民である自分たちの敵を神が全て裁き滅ぼして救い を与えて下さることだと思っていたからです。つまり神の裁きにおい て神の民である自分たちユダヤ人は救われ、今自分たちを支配し苦し めているローマなどの異邦人が滅ぼされると考えていたのです。パウ ロはユダヤ人たちのそういう常識を覆して、あなたがたの上にも神の 怒りが下る、つまりユダヤ人も異邦人も神の同じ裁きを受けることに なると言っているのです。

神は分け隔てをしない
「神が正しい裁きを行われる」とはそういう意味です。その「正し い裁き」の内容が6節以下に語られています。「神はおのおのの行い に従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉 れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心に かられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになり ます。すべて悪を行うものには、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも 、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとより ギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます」。神は最後の審 判において、このような正しい裁きを行うのだ、とパウロは語ってい るのです。その正しい裁きのポイントは、「ユダヤ人はもとよりギリ シア人にも」という言葉に表されています。ギリシア人は異邦人の代 表です。つまり神の裁きは、ユダヤ人にも異邦人にも、同じように下 るのであって、神は裁きにおいてユダヤ人をえこひいきするようなこ とはないのです。それが11節の「神は人を分け隔てなさいません」 ということの意味です。神は裁きにおいてユダヤ人と異邦人とを分け 隔てなさらない、これこそが、パウロがここで語ろうとしていること の中心です。ユダヤ人たちは、自分たちは神の民であり、神の掟であ る律法を守っているから神の前に正しい者だ、それに対して異邦人た ちは罪人であり、神の怒りを受けるべき者だ。今この世においては神 の民である我々が異邦人たちに支配されてしまっているという現実が あるが、神が世の終わりの最後の審判において必ず彼らを裁いて下さ り、我々の勝利と救いを実現して下さる、と考えていますが、パウロ はそのユダヤ人たちに対して、「あなたがたは異邦人を罪人として裁 いているが、あなたがたも同じ罪を犯している。神と人間との正しい 関係をひっくり返してしまい、その結果人間どうしの正しい関係、交 わりをも失っているのは、あなたがたも異邦人も全く同じだ。あなた がたも罪人であり、神の怒りを蓄えているのだ。神は最後の審判にお いて、あなたがたをも異邦人をも分け隔てなくお裁きになる。最後の 審判において神が自分たちのことをひいきして下さるなどと考えては ならない」と語っているのです。

私たちへの警告
パウロがユダヤ人たちに対して語っているこの警告を、私たちは他 人事として聞くことはできません。この当時はユダヤ人が神の民でし た。しかし今は、キリスト教会が新しい神の民とされています。教会 に集い、こうして主なる神を礼拝している私たちこそ、今現在神の救 いの恵みをいただいている者であり、神の民とされているのです。本 日の箇所におけるパウロの言葉は、その私たちに対する警告です。私 たちがもしも、信仰者となったことによって自分が少しでも立派な、 上等な人間になったように思い、信仰を持っていない人を罪人として 裁き、上から目線で見るような思いを少しでも持っているとしたら、 それはここでのユダヤ人たちと同じ過ちに陥っていることになります 。そのような私たちにパウロはここで、私たちが神の恵みによって選 ばれ、信仰を与えられて救いにあずかり、神の民とされていることの 本当の意味と目的を教えてくれているのです。それは4節に語られて いたことです。「神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らな いで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」、このこ とを私たちもしっかりと受け止めなければなりません。神の救いの恵 みをいただき、信仰者として、神の民として生きるとは、神が自分を 悔い改めへと導こうとしておられることを覚え、その招きを軽んじる ことなく生きることです。つまりパウロが1章18節以下で語ってき た人間の罪、創造者である神と被造物である人間との正しい関係を逆 転させ、神を自分のための神とし、自分の利益や豊かさを神としてし まう偶像礼拝に自分自身が陥っていること、そしてその結果人間どう しの正しい関係をも失ってしまい、互いに愛し合うのでなくむしろ敵 対し合い、対立関係ばかりを作り出していること、それらの罪に自分 が陥っていることを先ず認めることです。他国との間に平和な良い関 係を築こうとするよりも、自国の安全や利益を守るために同盟国と協 力して敵と戦うことを第一に考えるような現政権の姿勢もそのような 私たちの罪から生じているのです。私たちは先ず自分自身がその罪に 陥っていることを認め、他の人を裁き批判するのではなく自分自身が 悔い改めて神の方に向きを変え、神との正しい関係を回復していかな ければなりません。それこそが、神の救いの恵みにあずかって神の民 として生きる信仰者に求められていることなのです。

主イエス・キリストによって与えられる救い
この2章の始めのところでパウロは、人間の罪に対する神の怒りは 全ての人に同じように下ること、神の裁きの前では、自分は神の民だ から裁かれることがないと安心していられるような者は一人もいない ことを語っています。そのことを忘れて、自分のことを棚に上げて人 を裁くのは愚かなことなのです。しかしそれでは私たちの救いはどこ にあるのでしょうか。7節に「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅 のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」とあり、10節に は「すべて善を行うものには、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、 栄光と誉れと平和が与えられます」とあります。だから私たちも忍耐 強く善を行なって、栄光と誉れと不滅のもの、つまり永遠の命を与え ていただけるように努力しよう、とパウロは教えているのでしょうか 。そうではないのです。パウロがここで指摘しているのは、ユダヤ人 も異邦人も共に罪に陥っており、神の怒りを自分のために蓄えている ということです。つまり、忍耐強く善を行なって栄光と誉れと不滅の もの、つまり永遠の命を得ることができる者は一人もいないのです。 異邦人にはそれが出来ないが自分たちにはできる、と思っているとこ ろにユダヤ人たちの大きな間違いがあったのです。ユダヤ人はもとよ り異邦人も、罪に対する神の怒りを蓄えることしかできていないので す。そういう私たち人間を神は憐れんで下さり、豊かな慈愛と寛容と 忍耐をもって、独り子主イエス・キリストを遣わして下さいました。 主イエスは私たちの罪を全てご自分の身に背負って十字架にかかって 死んで下さったのです。私たちが自分の上に蓄えており、最後の審判 において私たちの上に下るはずの神の怒りを、神の独り子主イエスが 代って引き受けて下さったのです。この救いの恵みによって、私たち は悔改めへと導かれるのです。そこに私たちの救いがあります。私た ちの救いは、私たちが忍耐強く善を行うことによって得られるのでは なくて、神の豊かな慈愛と寛容と忍耐とによって、具体的には独り子 主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられるのです。そし て私たちがその救いにあずかるために欠かすことのできないことは、 自分自身の罪をはっきりと知り、その罪に対する神の怒り、裁きを、 他人事としてではなく自分の問題として受け止めることです。自分の 罪に対する神の怒り、裁きを正面から見つめることによってこそ、主 イエス・キリストによる罪の赦し、救いが自分に与えられていること をもはっきりと見ることができるようになるのです。

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