主日礼拝

気落ちした者を

「気落ちした者を」 伝道師 岩住賢 

・ 旧約聖書:イザヤ書第51章12-14節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二第7章5-7節
・ 讃美歌: 208、233、532

今日共に聞きました御言葉の中には、パウロがこの手紙を書いた当時、気落ちしていたということと、神様 は気落ちしているものを慰めて下さる方だということが書かれています。わたしたちはいろいろな事に遭って 、気落ちすること、落ち込むということがずいぶんあります。そしてそういう時に、こんなに落ち込んだりし ているようでは、自分の信仰は本物ではないのではないか、とそういう不安を感じます。ところが、ここで、 パウロが気落ちしていた、と言っていたということを聞くと、「ああ、パウロでも落ち込むがことがあったのか 」と、そういうふうにホッとするのですが、同時に、そんなこと思っていいのかな、信仰をもっていてそのよ うに気落ちしいているということは、ちゃんと信じていないのという証拠なんじゃないのと疑問に思うことも あります。
さて、なぜパウロが落ち込んでいたのかというと、それは次のような事情があったからです。パウロの伝道に よって生まれたコリントの教会とパウロとの関係が、数々の問題をきっかけにして大変こじれまして、パウロ はしばしば教会に対して手紙を送ったり、あるいは自分で出かけて行ったりして、彼らの誤りを正し、関係を 回復しようとしましたが、関係が回復したと思ったら、次々と別の問題が起こり、こじれる、そのようにパウ ロは、苦労していたのです。最後にパウロは非常に激しい手紙を書いて、これをテトスという同労者に託して 、コリントの教会に送りました。パウロは思いを尽くして、一生懸命手紙を書いたのですけれども、厳しいこ とを書いた手紙でしたので、この手紙のために、教会との関係がダメになってしまうのではないかと考えてい ました。コリントの教会との関係が完全に壊れてしまったのではないかと心配していました。ですから、コリ ントの教会が本当に悔い改めてくれるだろうか、本当に自分に対する誤解が解けるだろうか。そういうことが 、パウロにとっては非常に気がかりとなっていました。その不安のため、じっと待っていることができなくて 、テトスが帰って来る道を逆にたどって行って、一日でも早くテトスに会って、様子を聞きたいと思ったので あります。今日の7章5節のところに、その時の気持ちを書いております。「マケドニア州に着いたとき、わた したちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです 。」このような状況があったために、パウロは気落ちしていたのです。
「マケドニアでは、まわりの者から襲われる危険もあり、さらに内にはコリントの教会のことの不安がある」 そういう事情を考えますと、パウロが気落ちして元気をなくしていたということは、理解できます。しかし「パ ウロは、主に対する信仰を持っているのに、どうしてこの悩みや不安に打ち勝つことができないだろうか」、そ ういう疑問がやっぱりわたしたちの中で生まれてきます。
信仰を持って、信仰者になると、どんなことにも動ぜずに、しっかり生きていけるのではないかと、そういう 希望を抱いたことは誰もがあるのではないかと思います。しかし実際問題としてはどうでしょうか。信仰を持 っている人が、どんな時にも動揺しないで、どんな問題も解決していつも心を平安しているかと言えばそうで はありません。やっぱり思い悩み、気落ちする時がある、これが現実です。パウロもそうでした。信仰を持っ ていたけれども、苦難にあい、外に戦い、自分の内にはコリントとの関係がどうなってしまうのかという恐れ がある。その恐れを覚えて、信仰はあるけれども、気落ちしていたのです。
気落ちするような太刀打ちできないような困難な状況ということは、人生の歩みでしばしば起こってきます 。その時に、わたしたちは、一方で、自分の信仰の破れや弱さを感じます。なんで、わたしは、イエス様の「 恐れることはない」、「思い悩むな」の言葉を信じているのに、いつも不安になったり、明日のこと、家族の こと、心配してしまったり、そのように生きてしまっている。
しかし、同じように不安を覚え、自分の弱さをおぼえていたパウロは6節のところで、こう言っています。「 しかし、気落ちした者を力づけてくださる神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました」 気落ちしているパウロを慰めたものは何だったか。それは彼の強い神様を信じる力や努力ではなかった。慰めて くださったのは神様です。このことをわたしたちは、ここからしっかり学ばなければならないでしょう。パウ ロは自分の信仰の強さによって、心を取り直し、立ち直ったのではないのです。彼は完全に落ち込んで、気落ち して、無気力になったかもしれません。そのような自分の力ではどうすることもできないような不安と恐れの 中にありました。しかし、そのパウロを慰めて下さったのは、自分でなくて、神様でした。
そして7節には、どういうふうにして神様が慰めて下さったかが、書いてあります。そこには、パウロ自身 から出たものは、何もありません。これは非常に驚くべきことです。信仰生活をしているパウロが、悩みの中 から、何によって立ち直ったかというと、彼の信仰、彼の信じる力ではなかった。何だったかといえば、まず 、待ち望んでいたテトスに会ったということです。そしてそのテトスが、彼の予想もしなかったような、うれ しい便りを持って来てくれた。そうして、そういう便りを持って来ることができたのは、コリントの教会にお いて、パウロの思いを越えた、神様の大きな恵みを受けて、コリントの教会の様子が変わった。そのようにパ ウロが、気落ちしている、打ちひしがれている中から立ち直らせて下さったのです。パウロは動揺して平安を 失うような、苦難に合った時に、自分の弱さを痛感するような時にこそ、神様の業に気づかされました。ですか ら、わたしたちもまた、苦難や困難のために、自分の信仰が破れた時に、もう一度新しく、神様との関係を問 い直す、そういうことがおこるのです。
その神様の「恵み」を考えてみますと、一つ一つ、これはいわずもがな「神様」の業です。決して、パウロ が、「信仰者はこんなことじゃだめだ、わたしは信仰をもってこのようにして乗り越える」という強い思いをも って、困難に打ち勝ったのではないのです。すべては、神様がいつもパウロを見ていてくださって彼の心の中 の願い知っていてくださり、嘆きや不安を知っていてくださって、コリントの教会を立ち直らせ、テトスにその 嬉しい知らせをもたせ、パウロを慰めて下さったのです。この慰めの業がなったことには、一つもパウロの功 績はありません。すべては神様がなしてくださったことでした。
しかし、そこにいたるまで、パウロはまったくなにもしなかったのでしょうか。確かに外には戦い、内には恐 れがあり、気落ちしていて、パウロはその時、無気力になり何もしていなかった可能性はあるでしょう。わた したちは、外にもうちにも恐れやプレッシャーがあると、気が滅入って、無気力になり、鬱にもなります。力 もなくなり、何もすることもできなくなることもあります。パウロだってそうなっていた可能性はあります。 しかし何もできなくなるほど弱められたと言えど、パウロはあることをしていたと思います。それは、祈りです 。パウロは多くのパウロの書いた手紙の中で、教会の人々のために祈っているということが書かれています。 フィリピやエフェソの信徒へは「あなたがたのことを、思い起す度に、神に感謝しています。あなたがた一同 のために祈る時、いつも喜びを持って祈っています」と書いています。パウロは、コリントの信徒のことも、 神様に祈っていたでしょう。自分のことを嫌に思っている、勘違いしている、コリントの人々のことは、神様 に祈らないということは無かったでしょう。「神様、どうかコリントの教会を過ちから救って下さい」そうい うお祈りをしていなかったとは思えません。彼は毎日毎日、コリントの教会のために祈ったと思います。しか し、祈りながらも、彼は不安だった。そして、祈っていても恐れがあったのです。彼はいわば、祈りながらも 、どこか神様に完全に委ねきれない、神様の力を信じ切れない。そういう状態ではなかったかと思います。 これは、まさにわたしたちのいつもやっていることなのではないでしょか。お祈りをしているけれども、本当 に神様にゆだねきって祈っていない、神様のお力を本当に信じて祈れているか。こういうふうにして考えてき ますと、ここに現れているパウロの弱さは、そのままわたしたちの姿であります。そのパウロが、教会の人々 に向かって、わたしに倣う者になりなさい、と言っています。だから、これは、どんな時にも動揺しないで、 自分の強い信仰心で頑張りなさいということを言っているのではありません。彼自身、このように動揺したり 、気落ちしたり、お祈りをしながらも信じられないで不安になったり、そういうある意味では、弱さのある生 活をしながら信仰生活をしている。パウロは、「そのような弱さがあり、祈っているのに委ねきれないそのよう なわたしでも、主はお見捨てにならず、慰めて、力づけてくださる。」それを信じている。そのわたしの姿に倣 いなさいといっているのです。
実に、信仰とは、自分の信仰の力で立つということではなくて、自分は何もないということを知って、一切 は、神様の御業によって救われる、イエス様に赦され、聖霊なる神様に変えられながら生きる、そのようにし てくださる神様を信じるのが信仰であります。すべてを神様に委ねて生きるのが信仰生活です。これは、世の 一般の人が考えている信仰とは、大きく違いがあります。信じている人自身の中に、何か非常に強い信じる力 がある、その力によって、すべてを乗り越える、そういうものが、信仰と考えられているのではないかと思い ます。しかし、聖書が語っている信仰というものは、自分が空っぽであって、自分の力では何もできない。問 題にぶつかるとオロオロとしてしまう。お祈りをしながら、本当に信じられないで悩んでいる。そういうのが わたしたちのありのままの姿ですが、そういうわたしたちを、神の子として受け入れ、限りない恵みをもって 支えて下さる神様がおられる、そのことを信じているのが信仰であります。
ですから、信仰生活において一番大事なことは、本当に今も神様が生きておられ働いてくださるという真実で す。頭の中で神様という観念を持って、それでもって人生を生きているのではなくて、わたしたちがダメにな っても、神様はわたしたちと共にいて支えていて下さる、これはもう間違いない。その真実を信じ委ねる、それ が信仰の大事なことであります。ただわたしたちは、そういう大事なことが時々見えなくなります。神様が、 時々、わたしたちの頭の中の一つの観念になることがずいぶんあります。だからダメだということではなくて 、そういうわたしたちであることを、神様は百も承知で、わたしたちを神の子として下さる。神のものと呼ん で下さるのであります。そういうわたしたちに対して、神様とのつながりを新たにし、本当に強くして下さる ために、神様は一つの大きな道を備えて下さいました。それは何かと言いますと、御言葉であります。別の言 葉で言いますならば、聖霊の導きであります。わたしたちが動揺したり、行き詰まったりしております時に、 聖書を通して説教を通して、神様の御言葉を聞きます。今までは何気なく読み過ごしていた、その聖書の言葉 が、礼拝の中で、聖霊によって解き明かされていくとき、ハッと目を覚ましてくれるような、大きな力をもっ て語りかけてきます。これは、わたしたちが何か悟りを開いたというのではなくて、その言葉を通して、神様 御自身がわたしたちの心の扉を叩いて下さっている。わたしたちの不信仰によって、神様との関係、つながり が薄れていった時に、神様の方から、その御言葉によって、そのつながりを強めて下さる。これがわたしたち の信仰生活であります。
があります。しかしある時には、本当に自分はもうダメだと思っている時に「大丈夫だ、わたしはあなたを決 して捨てない」と慰めと励ましの言葉を下さる時があります。わたしたちは、そういう神様とわたしたちの関 わりを、イエス様と弟子たちの交わりの中に見ることができます。ある時は叱られ、ある時は励まされ慰めら れて、弟子たちはイエス様のあとをついて行きました。
パウロがエフェソの教会に送りました手紙の中に、彼が一つの祈りを書いています。「どうか、わたしたちの 主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ること ができるよう、……また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものである か、悟らせてくださるように。
これらはまだ「祈り求める」ていることですから、わたしたちがすでにそれを持っているわけではありません 。「神様の大きな御業、慰めの業を知ることができるようにして下さい」と言って、いつも神様に祈り求めてい くのです。その絶大な神様の恵みと力、それはどういうものであったかをパウロは言っています。「神は、この 力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ」と語っています。パウロは、生きて働いておられ る神様の大きな力を、主イエスの復活の中に見ています。わたしたちが主イエスの復活を信じるということは 、ただ、昔そういう事が起こったというのではなくて、その主イエスを死人の中から甦らせなさった神様の力 が、今、わたしたちの生活の中でも、つまりわたしたちの外でも、そして一人一人の心、魂、精神という内に も、働いていて下さる、そのことを信じているのです。
神様は、その絶大な力をもって、わたしたちの日々の生活をも、支えてくださっています。コリントの教会 とのこじれた関係を、神様が修復してくださって、その驚くべき出来事を、テトスを遣わしてパウロに伝え、パ ウロを不安や恐れから解き放ち、慰め、力を与えてくださったように、わたしたちも、神様はいつもわたした ちを見ていてくださり、パウロにしたように、あらゆる日常のつまずき、関係のこじれを修復してくださり、 そしてそのこじれによって不安になっていたわたしたちを救ってくださるのです。神様はわたしたちの思いや 考えを越えて、働いてくださるのです。安心しなさい、わたしにゆだねなさいと今、神様はわたしたちにいっ ておられます。 この語りかけてくださる生きた神様が、わたしたちと共にあって、信仰を支え導いて下さると いうことを、もう一度はっきりと心に留めて、自分の信仰が弱いということを嘆くのではなくて、その弱い者 を、いかに力強く支えていて下さるかということに、目を向けて、感謝して、今共に主に祈りましょう。

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