夕礼拝

仕えるために

「仕えるために」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第11編1-7節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第20章20-28節
・ 讃美歌:298、510、78

<そのとき>
 主イエスのご受難を覚えつつ受難節を歩んでまいりました。来週の日曜日には棕梠の主日を迎えます。教会の暦では主イエスがエルサレムへ入られた日を棕梠の主日と呼んできました。そしてこの棕梠の主日から始まる一週間が受難週です。マタイによる福音書は本日の聖書箇所に続いて主イエスがエルサレムへ入られることを語っています。ですから本日の聖書箇所は主イエスがエルサレムへ入るのを間近に控えて起こった出来事であると言えるでしょう。主の十字架への道を前にして、受難週を前にして主がお語りくださったことに聴きたいと思います。
 20節冒頭に「そのとき」とあります。うっかりすると見過ごしてしまいそうな短い言葉ですが、この言葉は20-28節で語られている出来事がいつ起こったことなのかを私たちに示しています。20-28節で記されている出来事の前になにが語られているかに目を向けますと、17-19節に次のようにあります。「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。』」ですから20節冒頭の「そのとき」とは、主イエスが弟子たちにご自分がエルサレムで十字架に架けられ死なれること、そして三日目に復活することを告げられたまさに「そのとき」なのです。主イエスが弟子たちにご自分の十字架の死と復活を告げられるのはこれが初めてではありません。マタイによる福音書では16:21以下と17:22以下ですでに二回告げられていますから、このときは三度目ということになります。
 主イエスはエルサレムへ入るのを間近にして、三度弟子たちにご自分の十字架の死と復活を告げられました。「そのとき」、20-28節で語られている出来事が起こったのです。

<母の願い>
 「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」とあります。ゼベダイの息子たちとはマタイによる福音書4:21を見ますと「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」と記されています。ヤコブとヨハネの兄弟は父ゼベダイと共に漁師をしていましたが、主イエスによって召され弟子となり10:2では十二使徒に名前を連ねています。本日の聖書箇所に戻りますと、ゼベダイの息子たちだけではなく彼らの母親が登場いたします。二人の息子たちは母親と一緒にイエスのところに来ましたが、20, 21節ではこの息子たちよりも主イエスと母親との対話に焦点が絞られています。
 21節で母親は主イエスに言います。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」母親は主イエスが王座に着くとき、自分の息子たちが名誉ある地位に着くことを求めたのです。私たちはこのことを聞きますとゼベダイの息子たちの母親を自分の子どものことしか見えていない人物として考えがちです。息子たちのことを考えるあまり主イエスにとんでもないことを言っているのではないか。そのように思うのです。しかしマタイによる福音書が描くこの母親の姿は主イエスに対して尊大に振る舞ったというものではありません。20節で語られていますように彼女は主イエスのところに来るとひれ伏しています。この彼女の姿は主イエスに対する服従の姿勢であり、さらに言えば礼拝の姿勢です。また彼女は主イエスに「何かを願おうとした」とありますが、彼女は自分の願いを先ず口にするのではなく主イエスのお言葉を待ちました。「待つ」というのは私たちの祈りにおいても大切なことです。私たちは祈りにおいて心の中にあるありとあらゆる思いと願いを神さまに訴える一方で、私たちは神さまが語りかけてくださるのを待つ必要もあるからです。主イエスは願いを持ちつつも言葉にしないでいる母親へ語りかけます。「何が望みか。」主イエスの問いかけに応じて彼女が答えたのが先ほどの言葉であり、彼女の願いでありました。
 もう一つマタイによる福音書からこの母親について語られていることに目を向けたいと思います。それは主イエスが十字架で死なれたときのことですが、27章55-56節には次のように記されています。「またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」つまりゼベダイの息子たちの母親はガリラヤから主イエスに従ってきた婦人たちの一人であり、弟子たちが皆イエスを見捨てて逃げてしまったのに対して、彼女は主イエスの十字架の死に立ち会ったのです。
 ですからこの母親は主イエスに身勝手な願いをしたというよりも、主イエスに従う中でへりくだりつつしかし自分の願いを、二人の息子たちについての願いを主イエスに訴えたのではないでしょうか。そうであるならこの母親の姿はなにか特別なものではなく、むしろ主イエスを信じる者のごく普通の姿ではないかと思うのです。これは、主イエスを信じ主イエスに従おうとする歩みの中で主イエスに自分の願いを叶えてほしいと訴え祈る私たちの姿なのではないでしょうか。

<杯を飲めるか>
 22節で主イエスはお答えになります。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。主イエスに願いを訴えたのは母親でした。しかし主イエスは「あなた」ではなく「あなたがた」と言われます。母親の願いは二人の息子たちの願いそのものであったので、むしろ主イエスは二人の息子たちに対して、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われたのです。そして主は「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」と問われます。
 主が言われる「杯」とはなにを意味しているのでしょうか。文字通りに杯やコップを意味しているのではありません。旧約聖書ではこの杯という言葉が神の裁きの比喩として用いられています。また運命の比喩として用いられている箇所もあります。本日の旧約聖書箇所の詩編11:6に「逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り/燃える硫黄をその杯に注がれる」とありますが、ここで言われている杯は神の裁きではなく逆らう者の運命を意味していると考えられるのです。このような旧約聖書の背景を踏まえると主イエスが言われた杯とは死を意味しているといえます。これからエルサレムへ入り十字架の死へと向かうというそのときに、主イエスはご自身の死をご自分が飲もうとしている杯と語り、ゼベダイの息子たちにもその杯を飲めるかと問われたのです。私と一緒に死ぬことができるかと問われたのです。
 他方で確かに主イエスが飲まれる杯は神の裁きであるともいえます。主イエスは神の裁きとしての杯を十字架の死によって飲み干してくださいました。私たちの罪に対する神の裁きとしての杯は、ゼベダイの息子たちもほかの弟子たちもそして私たちのだれも決して飲むことのできない杯です。ただ主イエスお一人が神の裁きとしての杯を完全に飲み干されたのです。
 主イエスはエルサレムへ上り十字架で死なれると告げていました。しかし母親は主が王座に着くとき息子たちに名誉ある地位を与えてほしいと願います。母親の願いは我が子のことを思う心からの願いであったかもしれません。しかし彼女には主がこれから歩まれる十字架の死への道が見えていません。もしかすると杯が死を意味することは分かっていたかもしれません。息子たちも勇ましく「飲めます」と答えています。死ぬ覚悟はできていますという思いだったのでしょうか。それでもこのとき彼らが考えていた主イエスの死は十字架の死ではありません。この世の王が王座に着くときのように高みに上る死。この世の栄誉を浴びる死。主イエスがそのような名誉ある死を迎えること、そして自分たちもその死に連なることで名誉ある地位が与えられると考えていたのです。けれども主イエスの死は高みに上るものではありません。この世の栄誉を浴びるものでもないのです。ですから主は言われます。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」

<主イエスが示される教会のあり方>
 ゼベダイの息子たちと主イエスの会話を聞いて、ほかの十人の弟子たちは怒りました。十人の弟子たちはなぜ怒ったのでしょうか。ゼベダイの息子たちの主イエスへの願いが身の程知らずだと腹を立てたのでしょうか。そうではないと思います。ほかの十人の弟子たちもゼベダイの息子たちと同じような願いを持っていたに違いないのです。だれもが主イエスが王座に着くとき自分を名誉ある地位に着けて欲しいと願っていたのです。ですから十人の弟子たちのゼベダイの息子たちに対する怒りは、先を越された、出し抜かれたという思いからくる憤りなのです。もしかすると自分のほうがこの二人よりも高い地位に着くはずだという思いすらあったかもしれません。弟子たちはだれもがこれから主イエスと共にエルサレムへ入り進んでいく歩みを、この世の王が王座に着く歩みのように考えていたのです。ですから弟子たちは主イエスがエルサレムに入り歩まれるその先で十字架の死を迎えるとは思ってもみなかったのです。
 ただ主イエスのみがご自身の十字架の死を見据えておられます。それどころか十字架の死の先にある復活をも見ておられるのです。ゼベダイの息子たちは主が飲もうとしている杯を自分たちも飲めると答えました。しかし彼らは主イエスの十字架を前にして主を見捨てて逃げてしまいます。それにもかかわらず主イエスは二人の弟子の勇ましい答えを否定することなく「確かに、あなたがたは私の杯を飲むことになる」と言われるのです。この主イエスの言葉が実現するのは主イエスの十字架と復活の後です。さらにいえば復活された主イエスが天に昇り聖霊が降ったその後です。主イエスはエルサレムへ入るのを前にして、すでにご自身の十字架と復活さらにその後の弟子たちの歩みまで見据えておられるのです。
 25節以下の主イエスのお言葉は、そのようにご自身の十字架と復活そして聖霊が降った後の弟子たちの歩みを見据えての言葉として受けとめる必要があります。またここで主イエスは弟子たちの一人あるいは何人かだけに言われたのではありません。「一同を呼び寄せて言われた」とありますから弟子たち皆に言われたのです。言い換えるならば十二人の弟子たちからなる小さな群れへ向けて言われた言葉です。確かに人数は多くありません。けれどもここに十字架と復活の先に主イエスがお建てになる教会のことが先取りされているのです。弟子たちは主が繰り返し告げられたにもかかわらず主イエスの十字架の死と復活が分かりませんでした。しかし主はこの弟子たちがご自身の十字架と復活の後に教会を担っていくことを知っておられたのです。ですから私たちは25節以下の主イエスの言葉を、私たちの教会に対する言葉として聴くことができるのです。
 主は言われます。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」異邦人の世界とは神を神としない世界です。神を神としない世界にあって人は上へ上へと目指します。そして一番上になる者が力を持ち支配します。しかし主イエスは、教会はそうであってはならないと言われます。神を神とする教会は、神を神としない世界と同じであってはならないのです。もちろんそれは、キリスト者は向上心を捨てるべきだなどということではありません。上を目指してはならないということでもありません。より成長したいという志は尊いものです。それでも人が上へ上へと目指すとき、その尊い志がいつのまにか知らずのうちに神を神とするのではなく自らを神とする誘惑に陥ることがあるのです。天まで届く塔を建設しようとしたバベルの塔の物語のように。そして繰り返し主がご自身の十字架の死を告げられたにもかかわらず、主イエスの死を高みに上るものとして、またこの世の栄誉を浴びるものとして考え、自分たちもその死に連なりこの世の名誉に与れるのだと思っていた弟子たちのようにです。いえ弟子たちだけではありません。私たちも「み心がなりますように」と心から祈っているはずなのにいつのまにか自分の願いが叶うことをなによりも望んでしまっているのではないでしょうか。
 上へ上へと高みへ上るのがこの世のあり方であり人の願いであるならば、下へ下へと低きに下るのが神の願いであり主イエスが示される教会のあり方です。仕える者になることまた僕になることが神の願いであり主イエスが示される教会のあり方なのです。主イエスは仕える者として僕として歩まれました。そして今エルサレムへと十字架の道へと進まれようとしているのです。

<主は命を献げて>
 主イエスは28節で「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われます。「身代金」という言葉はもともと奴隷の解放のために支払われるお金を意味します。しかしここでは社会的な身分としての奴隷について語られているのではなく、罪の奴隷となっている私たちについて語られているのです。私たちは罪の奴隷となっていますが自分自身で身代金を支払うことができません。それゆえ主イエスは私たちを罪の奴隷から解放するためにご自身の命を身代金として与えてくださったのです。「仕えられるためではなく仕えるために」とありますから、仕えることの極みとして主はご自身の命を献げられたのです。神の願いよりも自分の願いばかりに囚われてしまっている者たちを救うために主イエスは命を献げてくださったのです。
 ご自身の命を与えることによって主イエスは仕えるというあり方を教会に示されました。それは喜びの道です。いやいや仕えるのではありません。無理して僕となるのでもありません。主イエスに救われたことへの応答として歩む喜びの道なのです。この世で偉くなることを望む道でもなく一番になることを望む道でもありません。エルサレムへ入るのを目の前にしてなお主イエスが王座に着くとき名誉ある地位に着くことを願っていた弟子たちが、主イエスの十字架と復活の後に歩んだ道こそ主イエスによって示された仕えることにほかなりません。弟子たちは復活の主に出会い、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられ伝道を始めました。主イエス・キリストこそ救い主であると告げ知らせたのです。主イエスの十字架と死によって建てられた教会を弟子たちが担っていくのです。
 私たちが生きている社会は上昇志向、上昇圧力が強い社会です。そのような社会にあって、私たちの救いのために下へ下へと低きに下り、仕えるところの極みとして命を与えてくださったお方を知っているということは大きな恵みに違いありません。仕えることこそ主イエスが示してくださった教会のあり方であり、教会からこの世へと遣わされる者たちが示し続けている道にほかならいからです。
 主イエスは神と隣人とに仕えられました。そして主イエスが仕えることによって、命を与えてくださることによって私たちは救われたのです。私たちは仕える者となろうとするのではなく、仕えるために来てくださった主に救われたことに目を向けるとき、そのことを心から信じ確信するとき仕える者へと変えられていきます。喜びをもって変えられていくのです。教会は主イエスが教会に示された仕えることへと歩む道を救われた者の道として示し続けていくのです。

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